2005.09.01

『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 1. 『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像



他任妖気起満空
誠心一片不忘公
丈夫志決何関係
身落屠人桎梏中

徳山藩士・河田佳蔵が、徳山藩の浜崎の牢屋に繋がれたときに歌った詩です。

河田佳蔵が牢屋に繋がれたのは、元治元年(1864年)8月19日のことです。

佳蔵は、8月9日、児玉次郎彦・江村彦之進・井上唯一・浅見安之丞・本城清・信田作太夫の6名の藩士と共に、幕府 による第一次長州征伐を前に、幕府に恭順を誓い、哀願した当時の徳山藩の要職である富山源次郎宅を襲撃、源次郎を 刺殺しようとしましたが、源次郎の右肩に傷を負わせただけでその命を奪うにいたらず、その暗殺計画は失敗に帰して しまいます。

河田佳蔵は、徳山藩の追捕を畏れて逃亡します。

その逃亡の様子は、『河田佳蔵獄中日記』に克明に記されています。彼は、徳山藩領の来巻村の林杏庵を訪ね、そこで一夜を過ごします。その間に、刀・袴を捨て、「百姓ノ風」になって、翌日、山越えをして、本藩領・室積の港にたどりつきます。佳蔵は、船を雇って、上関・室津の小方謙吉を訪ねます。次の日、謙吉の船で、本藩領・伊保庄の知人を訪ね、長州征伐に関する情報を収集します。

翌12日、その情報を携え、徳山藩に戻るのですが、城下の至るところで厳しい「固メ」が行われていることを知って、再び徳山領を離れて、上関に向かいます。しかし、船は既に手配されていて、海路で上関に行くことを断念、陸路、岩国へ行こうとするのですが、追手の厳しい捜査に、佳蔵は山中に身を隠して夜、徳山藩領の来巻村を訪ね、夕食を馳走になったあと、夜を徹して、岩国城下を目指します。

欽明峠に夜明け頃ついた佳蔵は、知人から身を匿うことを拒絶され、行くあてを無くした佳蔵は再び、徳山藩を目指します。しかし、欽明寺峠手前で、岩国藩士十人の検問にあって、逮捕されてしまいます。二十三歳の佳蔵は、暗殺失敗後、パニックになったのか、迷走の旅を続けたのです。

18日、佳蔵は、徳山藩に引き渡されます。佳蔵を引き取りにきたのは、奉行処1人・下目付1人・検断1人・目明1人・平警固足軽4人の計9人でした。19日、徳山藩領内に入ると、その一行に穢多5人が加わります。そして、佳蔵は両手両足を縛られたまま籠に乗せられ浜崎の牢屋、源次郎刺殺未遂事件を起こした他の藩士と共に浜崎の牢屋に繋がれる身となったのですが、その時詠んだのが上の詩です。

河田佳蔵は、10月24日処刑されてしまいます。

8月19日から10月24日までの、約2カ月間、河田佳蔵は、浜崎の牢屋で牢暮らしを強いられることになったのですが、その間、佳蔵は、紙片に日記を記します。普通ですと、犯罪者の日記は、獄中の外へ持ち出されることはあり得ないのですが、それを看視する獄吏が見て見ぬ振りをしたのでしょう。今日、徳山市立図書館の郷土史料室で『河田佳蔵獄中日記』として読むことができるのです。

この『河田佳蔵獄中日記』を取り上げた歴史研究家は多いのですが、どの歴史研究家にも共通しているところが一点あります。それは、どの歴史研究家も『河田佳蔵獄中日記』の中に記されている徳山藩の穢多に関する記述には触れないという点です。

長州藩や4支藩において、穢多がどういう存在であったのか、「受刑者」の目から見た穢多の姿を認識することができるのですが、ほとんどの歴史研究家は、「穢多」に関する記述を黙殺してしまうのです。

河田佳蔵は、上司刺殺未遂事件後の逃亡生活中においても、徳山藩の「穢多」と出会います。

百姓に変装して逃亡している佳蔵のあと追ってきた「町人体之者」。「~体」というのは、「~」のように見えるが「~」ではないということを意味しています。それから、徳山藩から佳蔵の身柄を引き取りにきた「目明三郎」。彼は、佳蔵に縄を打つときに登場してきます。それから、佳蔵の護送に加わった「穢多」たち。浜崎の牢屋に身を置くことになった佳蔵は、その獄屋にいる「穢多」のことを、その詩の中では、「屠人」と呼んでいます。
徳山藩士は、浜崎の牢屋にいる「穢多」のことをどのように受け止めていたのでしょうか。

『河田佳蔵獄中日記』を通して、私たちは、近世幕藩体制下の「穢多」の本当の姿を見ることができるのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を訪ねたあと、私は、徳山市立図書館郷土史料室を訪ねて、長州藩や徳山藩の「穢多」について調査をはじめました。今から十四、五年前のことです。私は、初期の段階で、この『河田佳蔵獄中日記』に遭遇しました。

そして、徳山藩北穢多村があった、現在のある被差別部落の集会で、『河田佳蔵獄中日記』の中に出てくる徳山藩の「穢多」について話をさせていただいたことがありますが、徳山藩北穢多村の末裔は、幕末期を生きた先祖が、どのような生き方をしていたのか、ほとんど知りませんでした。被差別部落の人々にとっても、徳山藩の「穢多」の具体的な姿を記した史料があったことは驚きでした。なぜ、それまでの歴史学者は、この史料に出てくる「穢多」について触れないのだろうか、どうして、「賤民史観」がいうところの「人の嫌がる仕事を強制された穢多」についてのみとりあげ、「穢多」の先祖が「みじめで、あわれで、気の毒な」存在であったことのみ強調して、「穢多」の職務に忠実に生きた、その役務に責任と自負心を持って生きてきた「穢多」について言及しないのか、私も、被差別部落の人々も同じ感想を持ちました。

『河田佳蔵獄中日記』と、あとで紹介する『浅見安之丞獄中日記』、関連史料『有志詰問録』、『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』が与えたインパクトは大きなものがありました。近世幕藩体制下の徳山藩の穢多の「役務」について、これほど如実に物語ってくれる史料は他にありません。

しかも、「穢多」自らが語った文章ではなくて、「穢多」によって看視され、やがて、処刑されることになる「犯罪者」の立場から、しかも武士の身分から書かれた文章であるということは、この史料の「穢多」に関する記述は、信憑性が非常に高いということになります。

これらの史料を読むと、当時の軍人である「武士」の冷たさ・残忍さに驚かされると同時に、当時の司法・警察である「穢多」のやさしさやあたたかさを認めざるを得なくなります。徳山藩の穢多の中にみる「やさしさやあたたかさ」というのは、どこから出てくるのか。私は、徳山藩の「穢多」の役務に対する責任と自負心、「穢多」の職務をまっとうしようとする姿勢から滲み出てくるのではないかと思います。

今回、前回に引き続いて、「死刑執行人の今と昔」(その2)を書く予定でしたが、坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を読み返してみて、これは、『部落学序説』の史料・資料にはならないと気づきました。

坂元の文章は、どちらかいうと、「暴露本」的なところがあるからです。

彼の文章には、何か、欠けているものがあります。それは、人としての「やさしさやあたたかさ」です。死刑執行に携わった刑務官の職務の厳しさがそうさせたのかも知れないのですが、彼の文章を読んで思うことは、近世幕藩体制下の「看守」(穢多・非人)と、現代の「看守(刑務官)」の置かれた状況は、ほとんど何も変わらないということです。坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を読み終わって思ったのは、この本に書かれていることは、本当のことなのだろうか、ということです。

それは、近世の「看守」と現代の「看守」は、大きく異なったものであってほしいという、私の内側にある潜在的な願望がわざわいをしているのかもしれません。現代の「看守」よりも、近世の「看守」の方が、より人間的なのを見て、また、受刑者に対して、「やさしさやあたたかさ」を持っていることを目の前にして、大いなる戸惑いを覚えるからです。

現代の「看視」・「死刑執行人」はともかく、徳山藩の『河田佳蔵獄中日記』・『浅見安之丞獄中日記』・『有志詰問録』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』に記録された徳山藩の「穢多」の姿、「穢多」の役務について考察してみましょう。

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徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 2.徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)



私には人間が、
足の長いバッタのように思えるんです。
年じゅう飛んだり跳ねたりして、
すぐ草の中にもぐって昔変わらぬ小歌を歌うバッタのようにね。
草の中に年じゅうねていればまだしもですが!
どんなごみの中にも鼻をつっこむんですからね。

ゲーテの『ファウスト』(高橋健二・手塚富雄訳 河出書房)の「天上の序曲」に出てくる、悪魔・メフィストーフェレ スの言葉です。

悪魔は、人間が「理性」の使い方を知らないと指摘して、上記のような言葉を神に返すのです。

私は、「賤民史観」に囚われて、歴史資料のここかしこに出てくる「穢多・非人」に関する資料を駆使して、「あわれで、みじめで、気の毒な」・「賤民」として描こうとする歴史学者や研究者、教育者の姿を、『ファウスト』に出てくる「足の長いバッタ」に例えることができると思うのです。

日本の歴史資料の中にある、支配者の目から見た被支配者の姿を、身分制度の「貴」の立場から見た「賤」の姿を描くために、歴史学者・歴史研究者・教育者は、こともあろうに被差別部落の人自身も、「どんなごみの中にも鼻をつっこむ」ような形で、「穢多・非人」を「あわれで、みじめで、気の毒な」存在として描きます。「ごみの中」(資料価値の少ない史料)から負のイメージを伝える言説を抽出し、「人に非ず」「穢れ多し」という烙印を押し続け、彼らの歴史を「まさしく不条理と悲惨の歴史であったことはまぎれもない事実である」と断定するのです。

『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る-』の著者・沖浦和光は、さらにこのように続けます。

「しかし、そのような光のさしこまぬ暗い歴史のなかでも、彼らは伝統的技能と新しい創意でもって仕事にはげみ、古くから伝承されてきた民俗と文化の一端を担ってきたのだ。様々の苦しみと悲しみがあったが、差別と闘いながら人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。・・・この世を生き抜くためには、自由を希求する人間のひとりとして、その夢と希望を最後まで失うことはできなかった」。

しかし、沖浦は、次の瞬間、その「民俗と文化」を「賤民文化」と呼ぶのです。

歴史学者・社会学者を自負する沖浦は、身も心も「賤民史観」の中にどっぷりと浸かっているのでしょう。「自由を希求する人間のひとりとして、その夢と希望を最後まで失うことはできなかった」と、「穢多・非人」の生きざまを取り上げた、すぐそのあとで、彼らがつくりあげてきたのは所詮「賤民文化」であると、足の長いバッタが、天に向かって飛び立つことをすすめながら、またぞろ、泥沼の中にその鼻っ柱を突っ込んでしまわせるようなところがあります。

『賤民史観』という歴史学上の差別思想に身をゆだねる限り、「穢多・非人」と言われた人々の末裔は、永遠に差別の泥沼から飛び立つことはできないでしょう。差別から自由になりたいと思うなら、被差別部落の人々は、政治家・歴史学者・教育者が、明治以降よってたかって構築してきた「共同幻想」としての「賤民史観」を放棄しなければなりません。

「賤民史観」を放棄して、部落差別を語ることができるのか・・・とお考えになるかもしれませんが、この『部落学序説』は、これまで、「賤民史観」とは、別の視点、「実証史学」の立場から批判・検証を繰り返してきました。「賤民史観」を離れても、「穢多・非人」の論述は可能ですし、また、33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけたにもかかわらず、いまだに解消していない差別の撤廃のために、闘う側の主体を構築することは可能なのです。

現在の部落解放運動の理念は、「賤民史観」を前提とする限り、部落差別完全解消にはつながりません。できることとしたら、「被差別」概念の外延を拡大し、これまで部落差別とは関係のなかった一般民衆まで巻き込んで被差別の悲しみや苦しみを他のひとに味わわせるような、絶望的な提案しかありません。野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』に目を通せばすぐに分かります。

「穢多・非人」という言葉は、近世幕藩体制下の史料に即して受け止めるときは、沖浦をはじめとする「賤民史観」に乗っかって歴史研究をしている多くの研究者や教育者が指摘するような「人に非ず」「穢れ多し」というような意味合いを持った言葉とはなりません。「穢多・非人」という言葉は、彼らの役務、近世幕藩体制下の役人の職務をさす言葉です。「穢多・非人」という言葉は、「穢多役・非人役」と理解されるときに、歴史上の本当の姿と輝きを取り戻すことができるのです。

「多くを穢す」役、「人を非す」役・・・。

どちらの言葉も、近世幕藩体制下において、全国津々浦々に配置された近世の司法・警察の本体以外の何ものでもないのです。すべての藩には、この司法・警察機構が設置されました。藩によっては、穢多・非人の役を、「士雇」(藩士ではなく、中間・足軽等)身分にその処務を割り振っているため、穢多・非人が存在していないように見える場合もありますが、本質的に、穢多・非人が近世司法警察の「本体」であったことは否定できません。明治以降、ささやかれたような「警察の手下」ではなく、当時の警察の「本体」であったのです。

穢多・非人の歴史上の実像は、私たちが、自らのうちにある「賤民史観」を放棄すれば、すぐに見えてきます。

ゲーテがその『ファウスト』の中でいうように、「原本をひらいて、すなおな心でひとつ・・・」被差別部落の歴史を見直せば、「賤民史観」を脱却する道はおのづと開かれてくると思います。

『河田佳蔵獄中日記』や『浅見安之丞獄中日記』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』が、部落史を研究するときの史料として用いられてこなかったのは、そこに書かれている「穢多」の実像が、「賤民史観」に著しく抵触する内容が含まれていたからであると思います。

元治元年8月19日幕府に恭順の意を示す徳山藩の要職を襲撃して逮捕され、徳山藩の浜崎の牢屋に幽閉の身となった河田佳蔵は、同士の児玉次郎彦・江村彦之進が、幕府に恭順の意を示す「俗論派」の藩士によって襲撃され殺害されたことを知らされます。

河田佳蔵は、浜崎の牢屋に入牢して3日目、このように記します。

「夜冷番屠一倍九人牢屋外四五度回番也」。牢屋に入ってから三日目の夜は、冷えたのでしょう。河田佳蔵は、浜崎牢の牢屋の板場に座りながら、同じく牢屋に入れられている他の藩士と話をしたのでありましょう。しかし、四六時中話をしているわけではありません。夜が更けてくると、誰からともなく、会話をやめて、牢屋の板場に横になり、うつらうつらとします。そんな中、牢番の見回る足音がします。河田佳蔵にとって、牢番は、「番屠」でもあります。いつか、裁判が下って、その「番屠」たちによって自分が処刑される日がくるかもしれない・・・、そんな思いが、河田佳蔵をして、「番屠」という言葉を使わしめたのではないかと思います。彼は、牢屋を見回る穢多に対して思いをはせ、「牢の中にいる自分も冷えが堪えているが、牢屋を見回る牢番(徳山藩では穢多のこと)はもっと夜冷に耐えているのかもしれない」と、こころのゆとりをみせます。

幕府に恭順の意を示す「俗論派」は、倒幕を叫ぶ「正義派」の政治的弾圧に走ります。

そのとき、徳山藩の穢多たちは、「固メ」と称する「警固」役として、「士分足軽」と共に、1箇所に4~6人ずつ配置されます。

河田佳蔵の耳に、巷の噂が、同じく浜崎牢に入牢している本城清からつげられます。

「此度ノ暴挙ノ発端ハ、奸物共我同士中徒党ヲ結ヒ廃立ヲ企、遂ニ老臣ニ迫リ爆発致し、遂ニハ御城山へ火ヲ放御城ヲ攻落抔ト申虚喝ヲ以国中布告・・・」。河田佳蔵は、これを聞いて、「俗論派」の虚言に、「可憎々々」と激怒します。虚言を流したのは、実秋堂と春瀬の策であろうといいます。その理由は「穢多を呼ヒ警固」させているのが証拠といいます。「己か黒み有之故尻明ケ候、可笑可、憎々々・・・」と悔しさをにじませます。この虚言によって、「割腹」(切腹)させられたという噂も伝わってきます。

河田佳蔵は入牢して十日目、白州に引き出されます。

白州(「客屋」)に関わるものは、「穢多控之場」に待機します。白州の警固のために、穢多四人も動員されています。裁判に当たる奉行・御目付・徒目付・筆者・調下役・御番屋は座敷に、検断と穢多は縁下床几へ控えます。河田佳蔵は「穢多拙者綱ヲ後ヨリ取居候」といいます。不当な取調が続けられ、河田佳蔵は、9月6日に至って、9月2日に河田家の「家柄断絶」が言い渡され、「家内両親ハ富山門東ノ東へ偶居」となったと知らされます。

彼は、妻やその両親を御家断絶の悲しみに追い込んだことに衝撃を受けたのでしょう。彼が日記を再開したのは、9月14日になってからのことでした。

河田佳蔵は、穢多の上番・泉助、増番・鶴二郎から、「此度之騒動ニ付而之皆様御罪状、大殿様ヨリ之御思召ニ而一歩ツツ軽く御宥免相成候様被仰進候之由噂承候ニ付、御安心之為真御内々申上候」と聞きます。近世の司法警察である穢多のことばとふるまいは、極めて真摯なものがあります。

9月22日、山口より「奇兵隊体之者百五十人」が徳山藩領にやってきたことを知らされます。あわせて、幕府による第一次長州征伐が差し迫っていることの緊迫感が伝えられます。

10月7日、河田佳蔵は、晴天の日が続き、秋の豊作が見込めるとあって、「毎夜春挽之声聞へ夥敷候得共、我心中之憂止時無之悲哉」と記します。

10月11日、一度御役御免になった、宿敵・富山源次郎が「復役」したことを知らされます。河田佳蔵は、自分の置かれた立場が急激に悪くなっていくことを実感させられます。

10月14日、河田佳蔵は、穢多・泉助より、彼の兄から依頼された伝言を聞かされます。次第に気を弱くしていった河田佳蔵は、「有り難きかな、有り難きかな」と涙にむせびます。

宿敵・富山源次郎が「復役」した頃から、河田佳蔵の日記には、穢多に関する記録が増えていきます。穢多の添番・藤二郎から茹で芋を馳走されたこと。穢多・滝二郎より、こうせんを馳走されたこと。穢多・久二郎から新酒を馳走されたこと。穢多・泉助より汁一杯馳走になったこと。穢多・兵吉より芋粥馳走。河田佳蔵の身の振り方についての情報も、穢多を通じてしか入らなくなってしまいます。穢多・小吉、弥四郎、兵吉、彼らが語るひとことひとことに祈りに満ちた思いを持ちます。

10月22日、牢番から筆と紙を手渡されます。

10月23日、穢多の庄左衞門から柿三つ、穢多・利吉から餅ひとつを馳走されたといいます。
河田佳蔵は、そのときの心中をこのように綴ります。「可漸斯落泊スレハ所詮心鄙劣飲食へ案思外無之、可嘆々々」。この文章の主語は、河田佳蔵自身ともとれるし、河田佳蔵が獄中で知り合った数多くの穢多であるともとれます。河田佳蔵は、穢多・庄左衛門より、酒と豆腐の馳走に預かります。

10月24日河田佳蔵は、井上唯一と共に浜崎の刑場で検断によって処刑されます。

明治になって、元毛利藩主のたっての願いとあってか、河田佳蔵を含む、尊皇倒幕をかかげて生きた徳山藩の七人のさむらいは、天皇の命によって、例外的に、靖国神社に合祀されます。

牢番の穢多たちの配慮によって、『河田佳蔵獄中日記』は後世に伝えられていくことになります。河田佳蔵は、その漢詩の中で、穢多たちを「屠人」と呼びます。徳山藩の穢多は、「穢多役」だけでなく「非人役」をも兼ねていたからでありましょう。「屠人」の差し出すものを、感謝して受け取った河田佳蔵の中に、穢多に対する差別意識というものはあったのでしょうか。河田佳蔵は、獄吏を表現するのに、「穢多」という抽象概念を用いたのではありません。獄吏が所属していた穢多村と彼らの役職名とその名前まできちんと記しています。河田佳蔵の言葉を通して、徳山藩の「穢多」が何であったのかということを推測することができます。徳山藩の浜崎牢屋で、河田佳蔵が出会った「穢多」たちは、今日の「刑務所」の中で犯罪者が出会うことになる刑務官とまったく同じ存在です。

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徳山藩穢多による死刑執行

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 3.徳山藩穢多による死刑執行



幕府の第一次長州征伐を前に、徳山藩は、藩の進路をめぐって大きく揺り動きます。

幕府に恭順の意を示す「俗論派」は、倒幕を唱える「正義派」の若い藩士の暴発を機会に、倒幕を唱える藩士たちに対 して、徹底的な排除を目論みます。

七人の藩士のうち、児玉次郎彦と江村彦之進は、元治元年8月12日に、「俗論派」の藩士によって惨殺されます。

同年10月24日は、井上唯一と河田佳蔵は、取調を受けたのち浜崎の牢屋にある刑場で処刑されます。

そして、残る3人の藩士、浅見安之丞・本城清・信田作太夫は、翌年の慶応元年1月14日に海の上で処刑されます。このとき、処刑された徳山藩士・浅見安之丞は、『浅見安之丞獄中日記』を遺しています。また、浅見安之丞他2名の処刑については、4つの支藩を含む長州藩全体が、幕府に恭順を誓う「俗論派」を排除、倒幕を唱える「正義派」によって藩の対幕府の方針が集約されていく中で、「暗殺事件」として慶応元年の夏に、裁判が行われ、「暗殺事件」の真相が明らかになっていきます。

「暗殺事件」に触れる前に、『浅見安之丞獄中日記』に出てくる、徳山藩の「穢多」の姿を追ってみましょう。

徳山藩の穢多は、①犯罪者の探索(その対象は身分を選ばない)、②犯罪者の捕縛、③犯罪者の護送、④白州での犯罪者の確保(捕縛の縄をもって犯罪者の傍らに立つ)、⑤被害者の警固、⑥牢番、⑦入牢者の身体検査、⑧牢屋の外の見回り、⑨死刑執行・・・、近世司法警察の多様な職務に従事しています。

徳山藩は、「非人」役を置きませんでしたので、「穢多」が非人の役も兼務していました。

浅見安之丞は、穢多の名前を列挙しています。「上番」役は、滝蔵・兼五郎・兵吉・泉助・弥四郎・修次郎の6名。「添番」役は、徳山藩東穢多村から「交代出勤」(徳山藩の御法制では4名)。「小番」は、徳山藩の穢多村3箇所と本藩領穢多村3箇所より10日毎の替り出勤。近世の牢屋は、現代の刑務所と違って、「穢多」も「犯罪者」も顏と名前が明らかにされています。現代の刑務所では、「穢多」も「犯罪者」も、匿名という仮面で隠されていると思われます(刑務所に入ったことがないので推測に過ぎませんが・・・)。

浅見安之丞・本城清・信田作太夫の3名に対する処刑の子細は、『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』に、克明に描かれています。

当時43歳であった徳山検断・国光利兵衞は、「獄中暗殺之始末」についてこのように証言しています。

国光利兵衞は、事件のあった次の年の正月7日、8日頃、御役頭・中川修人宅に呼び出され、本城清・信田作太夫・浅見安之丞3名を「毒殺」せよとの命令を受けます。

国光は、上司の指示に従って、町医者をしている牢医(徳山藩の代々の牢医=穢多医)のところに行って、「毒味調合」を求めるのですが、牢医は、「医業ニ於て制禁之儀、医法ニ無之ニ付御断申上候」といって、毒殺のための毒薬を提供しようとはしませんでした。

検断の報告を聞いた「御役頭」は、「○○儀牢医の業家として奉行の差図不相用段不届之儀」と烈しく立腹したといいます。

9日、再度、牢医に、「薬味2品」の提出を求めます。

牢医は、不承不承、検断に、藩士毒殺用の薬品を差し出すことになります。検断が、その毒殺用の薬品を「御役頭」に届けると、このような指示を受けます。「この薬を牢屋番へ渡し、酒に入れて3名の者に飲ませるように」、命令を受けます。

検断は、「これまで、このようなことはありませんでした。番人共に命令しても、藩士3人を毒殺するようなことを引き受ける番人は誰もいないでしょう。この度の件は、幾重にもお断りいたします。」と、「御役頭」に3人の藩士毒殺を辞退するのですが、「御役頭」から、「検断の職分」であることを攻められ、その毒薬を牢屋に持って帰り、牢番である穢多の手に渡します。検断が、番人をしている穢多に、ことの子細を告げますと、穢多たちは、「どうしたらいいものか」と大いに戸惑ったといいます。

検断から押しつけられた、藩士3人の毒殺がどのように実施されたのか・・・。

あとで検断が穢多に報告を求めたところ、穢多はこのようにいうのです。「穢多の間で検討しましたが、与えられた毒薬の内、極少量だけを酒に混ぜて3人の藩士に飲ませました。残りは捨ててしまいました・・・」。徳山藩の「穢多」は、自分たちの職務については、徳山藩の「御法」に忠実で、それに違う藩の上司からの命令には容易に服従しようとはしませんでした。

しかし、「俗論派」の「正義派」を排除しようとする姿勢は強く、「穢多」はとうとう押し切られてしまいます。藩の命令に背く穢多は、厳しい処罰がまっていますので、「穢多」は止むなく、3人の藩士を処刑してしまいます。

3人の藩士に対する処刑は、「毒を用いて苦しませて殺す」という、徳山藩の「御役頭」の要求とはまったく違った、できる限り苦しませないで一瞬にして殺害する方法が採用されました。8人の穢多によって、3人の藩士が、その方法で処刑されたのです。処刑方法は、詳しく説明することは避けますが、本城清・信田作太夫・浅見安之丞の3人の藩士の死は、牢屋に於ける病死として藩主や本藩に報告されます。

19日には、「御役頭」より、処刑の特別手当として金4両1歩が支給されます。

毒殺用の薬を提供した藩の牢医(穢多医=警察医)は薬代として3歩2朱、実際に死刑執行にあたった8人の穢多に対しては、3両1歩2朱、その他棺桶代として3歩2朱が支給されます。当時、穢多ひとりにつき年間3両(2.4石相当)の役務の手当てが出ていましたから、ひとりあたり1.5カ月分の特別手当が出たことになります。

死刑執行は、近世幕藩体制下にあっても、常に「御法」に忠実に執行されるべきものでした。お仕置きの法を破ったものは、あとでそのことが発覚したときは、それ相応の処罰をうけなければなりませんでした。

徳山藩においても、検断・穢多は、奉行の家臣ではなく、藩の役人でした。

藩の役人は、藩の「御法」に仕えるのが本旨でした。幕府の第一次長州征伐を前にして、長州藩本藩や枝藩において、幕府に恭順を示すか、幕府を倒すことを目指すか、藩論が2分する中生じた悲しい出来事でした。幕府に恭順を示そうとする「俗論派」は、若き7人の藩士の惨殺を持って、その証しのひとつとしたのでした。

7人のさむらいの暗殺に関わった徳山藩の藩士たちは、身分の上下を問わず、やがて、倒幕を唱える「正義派」によって、犯罪として糾弾を受けます。そして、それぞれ重い刑を課せられるのですが、この事件に関わった穢多については、言及がありません。おそらく不問に付されたのであろうと思われます。

徳山藩の穢多の職務は、この点においても、現代の刑務官と酷似しています。

現代の刑務所において、検察庁長官から死刑の命令が下ると、ある日、ある時、突然、刑務官に、死刑執行人の仕事が課せられます。精神的なゆとりもなく、心の備えもなく、突然と、死刑執行人になることが要求されます。死刑執行人になるほとんどの人は、学歴を持たない「高卒」の刑務官であると言われます。明治初期に導入された絞首刑の方法が、何ら見直されることなく、今日まで延々と続けられているのです。

近世幕藩体制下の穢多は、明治に入って、司法・検察・警察へと受け継がれていきます。

現代の被差別部落の人々へと繋がっていくわけではありません。

先祖代々「百姓」の末裔でしかない、単なる「常・民」でしかない私にとって、「非常・民」の世界を描写することは、本当に、精神的な負担になります。しかし、このことを直視しないと、「穢多」の役務を理解することはできないと思って考察を続けているのです。

最後に第6の命題を加えましょう。

命題6:穢多の役務の目的は、法の執行である。

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2005.09.02

「穢多」に関する6つの命題

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 4.穢多に関する6つの命題



「穢多」概念を定義するには、その内包と外延を明らかにする必要があります。

最初、仮説として、内包を明確にします。次に、明らかになった内包を基準にして、それに相応しい外延を確定してい きます。しかし、現実に存在する政治や社会は、複雑な要素が絡み合って動いています。単純に定義できる事象はほとんど皆無であると思われます。そこで、複雑さを縮減しながら、内包と外延を交互に確定していきます。内包を決めたら外延の確定を、外延を確定したら内包を再度検証します。内包に問題や矛盾が発生したら、再度、仮説を立てて内包を決め、また同じような手続きを繰り返していきます。多くの時間と労力を費やして、「穢多」概念定義するときに、筆者が仮説としてたてた命題が、「穢多は非常民である」という命題でした。

この『部落学序説』は、その命題から出発しているといってもいいのですが、その命題が真実らしいというのは、これまで筆者が出会った歴史資料や論文の分析の結果です。それらの史料や資料は、多くの情報を提供してくれました。その情報がなければ、私は、この『部落学序説』を書くことはできなかったでしょう。どの史料や資料も、何らかの価値があります。部落研究・部落問題研究・部落史研究に関与している研究者や教育者、理論家や運動家の説く様々な論説を集め、比較検証し、その論説の淵源と理念を明らかにして、研究対象に対する視角や視座を増やしていくことは、『部落学序説』を執筆するときの筆者の視野を広げてくれます。

これまで文章化してきた『部落学序説』のどの内容についても、その背後には、これまでの部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事してきた研究者や教育者、理論家や運動家の見解の比較検証という作業があります。私は、学歴も資格も持ち合わせていませんので、どの学閥や学派にも所属していません。また、国家による高等教育の枠組みという足枷もありません。皇国史観や唯物史観に拘束されることもありません。

当初この論文を書くときに想定していたのは、おそらく、すぐに批判や中傷の嵐にまきこまれるのではないかという危惧でした。しかし、実際は、筆者の想定と違って、ほとんど、『部落学序説』に対して、批判・中傷の類はありませんでした。ときどき、何故なのかと考えさせられましたが、結論は、批判や中傷があろうとなかろうと、部落差別の完全解消を願って、この『部落学序説』を完成させようとした初心を全うするということでした。

最近、この『部落学序説』を読まれた方のために、この論文で、すでに取り上げた命題について要約しておきます。

【命題2】は、「部落学」についての定義です。

部落学は、<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究であり、そのことによって部落学固有の研究対象である「部落」の歴史と本質を明らかにし、差別・被差別の立場を問わず、すべての人を<賤民史観>から解放し、日本社会の病巣である部落差別の完全解消に資することを学的課題とする。

【命題1】穢多は非常民である。

『部落学序説』は、近世の人々を「常・民」と「非常・民」の二つに分類します。近世の人々を「常」と「非常」を識別子として使用します。「非常」は「軍事・警察」に関係した世界ととらえ、「非常・民」を、軍事に従事した非常民と、司法・警察に従事した非常民に分類します。後者の司法・警察に従事した非常民の本体として、古代・中世・近世に存在していた司法・警察たる「衛手」(衛り手=エタ)を想定します。

【命題3】「けがれ」は、二重定義された概念である。

「けがれ」は、「常」の時には「気枯れ」として、「非常」の時には「穢れ」として定義される。
「非常民」である「穢多」が、その職務上関与するのは、「気枯れ」ではなく「穢れ」であると考えられます。この場合の「穢れ」は、法的逸脱を意味します。歴史資料の中には、この「気枯れ」と「穢れ」が恣意的に使用されているので、歴史資料を分析する際には随時検証が必要になります。

【命題4】穢多の身分は、役務と家職によって構成される。

『部落学序説』は、幕藩体制下の武士身分が「役務と家職」によって構成されていたのと同じく、武士身分と同じ「非常民」に属する穢多・非人の身分も「役務と家職」によってのみ構成されていたと推定します。「穢多」が何であるのかは、穢多の「役務と家職」を解明することで知りうることができます。

【命題5】穢多の在所によって、穢多を規定することはできない。

「非常民」である「穢多」の在所は、近世幕藩体制下の権力によって配置されたもので、どのような場所に配置されたのかは、幕府や藩の司法・警察行政上の合理的な判断に基づいています。「穢多」の在所は、「穢多」の派遣先のことで、そのことは「穢多」の身分を規定するものではありません。

【命題6】穢多の役務の目的は、法の執行である。

「非常民」である「穢多」は、幕藩体制下の司法・警察の直接機関であって、当時の「御法」・「御法度」に従って、その職務内容が規定されています。「穢多」は、当時の法の執行官であって、法的逸脱である犯罪者を違背処理(キヨメ)によって、社会復帰させることを目的とします。

長州藩の歴史資料によると、幕末期の「穢多」は、「非常民」としての職務、近世幕藩体制下の近世司法・警察としての職務の遂行を専らとしています。「穢多」(穢多・茶筅・宮番・非人)は、幕府開府から幕末に至るまでの全期間、古代・中世の司法警察制度の継承者として、その職務に責任と自覚とを以て従事していったと思われます。

「穢多・非人」は、その職務上、「人を屠す」役を課せられましたが、「穢多・非人」全体から考えますと、そのような職務に従事した「穢多・非人」は、極少数であったと思われます。ほとんどの「穢多・非人」は、「人を屠す」職務からはほど遠く、多くの場合は、犯罪者を生きたまま捕亡し、藩の司法機関での裁判を経たのち、法的違背処理である「キヨメ」によって、犯罪者を社会復帰させるべく行為していたのが、近世の「非常民」であり、近世の司法警察である「穢多・非人」の本当の姿であったと確信しています。

それは、幕末期、「穢多」の軍事的部隊として、四境戦争に参加した「維新団」についても同じことが言えます。「維新団」は、穢多によって単独で構成された部隊ではなく、穢多・茶筅・宮番・非人・村方役人・・・等の司法・警察官によって組織化された混成部隊で、彼らは、「維新団」として活躍するときも、彼らの本来の職務を決して忘れることはありませんでした。

幕末期の残虐非道な行為は、藩士によって構成された部隊や、百姓によって構成された「屠勇隊」にあてはまることであって、近世司法・警察である「穢多」の部隊の関与するところではありませんでした。彼らは、四境戦争のあと、「士分取立」の機会を惜しむことなく放棄して省みないことがそのことを示しています。幕末期の長州藩の「穢多」は、毛利藩主が誇る優秀な司法・警察官でした。

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維新団と上関茶筅隊

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第3項】幕末を生き抜いた穢多の群像 5.維新団と上関茶筅隊



この項を閉じるにあたって、避けて通ることができないことがひとつあります。

それは、言うまでもなく、幕府の第二次長州征伐、長州藩の側では「四境戦争」と呼んでいましたが、長州征伐に際し て、藩命によって、徴兵された「維新団」・「茶筅隊」等の部隊のことです。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」に依拠した、山口の部落史研究家の手によって、発信された情報に基づいて、原田伴彦は、その著『被差別部落の歴史』の中で、「諸隊」に触れて次のように記しています。

「部落民は・・・長年の願いである身分解放を求めて立ち上がったのでした。それは長州藩権力という封建制に奉仕するためではありませんでした。・・・しかしながら、これらの諸隊の活動にもかかわらず、部落民が期待するような解放は約束されませんでした。この戦争が長州の勝利、幕府の敗北によって終了すると、一部の隊員の解放にとどまり、部落民隊は解散を命じられ、再び圧迫を受けるようになりました。・・・このことは、藩が非常のときにだけ、部落民を利用しようとしたものであることをはっきり示しています」。

原田が参考にした、長州藩の「諸隊」に関する資料は、田中彰・布引敏雄・小林茂・北川健・安達五男・利岡俊昭・前田朋章等の部落史研究者の論文であろうと思います。この研究者の名列は、《幕末の部落民軍隊の実像と核心-兵農分離の原則と農町穢非登用の形式-》を書いた北川健によるものです。

北川は、自分を含む、それまでの研究成果として公表されている論文の内容、「部落民軍隊」についての「歴史像は、とんでもない幻想であり虚構である」と断定します。彼の文章を少しく引用してみましょう。

「何よりも部落民軍隊を指して「身分『解放』によって」(田中氏)のもの、「解放を約束した」(利岡氏)ものととらえきているところに大いなる錯誤がある。「名目のみの解放」(布引氏)「解放は幻想にすぎなかった」(利岡氏)と云い添えられてもいること自体、研究者自身が「解放」を幻想してのウラガエシ、ウワヌリである。ために、この「幻想」の二重像のもとで、部落民軍隊についての議論と評価がどれほどゆがめられ、どれほど妄想の堂々めぐりを余儀なくされてきたことか!これでは部落民軍隊はもとより、現代の市民一般もまた浮かばれはしない。」

北川と田中・布引・小林・安達・利岡・前田の、歴史学者としての違いは、歴史を記述するときの歴史学者の視座の違いでもあります。長州藩の部落史の研究家の多くは、その歴史を「権力者」の立場から記述します。その解釈原理は、「賤民史観」と「愚民論」です。

歴史学者、田中・布引・小林・安達・利岡・前田が記述する歴史は、「賤民史観」と「愚民論」によって通底されています。彼らによって記述される「部落民軍隊」の姿は、参戦すれば賤民身分から解放するという権力の口約束を信じて、長州藩という「国」を守るために命をかけて戦ったけれども、約束の身分解放は反故にされ、痕には、権力によって利用されただけという空しさのみが残った、愚かな民衆の姿なのです。こういうものの見方や考え方を「愚民論」と言わないで何を「愚民論」というのでしょう。

北川は、彼らがこのような歴史の事実とは異なる見解を持つに至った背景に、「史料」の読み間違いがあるというのです。北川は、田中・布引・小林・安達・利岡・前田の論文は、歴史学者としての基本的な史料の読み方に瑕疵があると指摘するのです。史料の読み間違いが、「とんでもない幻想と虚構」を作り出しているというのです。北川は、「幕末長州藩の部落民軍隊について、これまでの定説・通説を虚像として根底からくつがえすものである」と、彼らに挑戦状を叩きつけます。

北川門下生である筆者は、当然、師である北川健先生の説を支持します。

しかし、北川先生が先生であるから、無条件に支持するというのではありません。既存の個別科学研究では行き詰まり状態にある部落差別の完全解消を目的とした、新しい学問『部落学』を提唱する筆者の論理と著しく一致するという理由で、北川先生の説をよしとするのです。

『部落学序説』で、これまで述べてきたように、近世幕藩体制下の人間は、二つに分類されます。「常・民」と「非常・民」。これは、嵯峨天皇によって警察制度が設置されて以降、支配の基本理念でした。「常・民」は、軍事・警察のシステムから分離され、軍事・警察のシンボルである武器を手に持たない「常の民」、「常・民」、「常民」と、それ以外の「非常の民」、「非常・民」、「非常民」でした。

近世幕藩体制下の三百年間のほぼ全期間に渡って、「常・民」と「非常・民」の区別は守られていました。北川が言う「兵農分離の原則」は、近世幕藩体制下の全期間に渡って遵守されていたと思われます。

しかし、防長二カ国で、幕府による第二次長州征伐に直面しなければならなかった長州藩は、高杉晋作を中心に、長州藩全体に「国家総動員令」を布告します。それは、第二次長州征伐のために、長州に攻めてくる幕府側の「近世的武士集団」に対して、長州藩の総力(常民と非常民のすべて)としての「近代的兵士集団」を対峙させるためでありました。

高杉晋作は、長州藩の聡明な指導者でした。

奇兵隊という、近代的武器によって装備された機甲部隊を前線に送ると同時に、奇兵隊が、周防国・長門国の東西南北の四つの藩境を越えて出兵するときに、「攻め」の側面だけでなく、「守」の側面についても十分な備えをしていました。もちろん「国境守備隊」のような部隊も配置したでしょうが、西と南北に長い海岸線を抱えている長州藩は、「海防警固」の大切さは十分認識していました。そして、すべての村々に、情報網を張りめぐらしていました。幕府側の奇襲や密偵の潜入があれば、即座に察知して高杉晋作のところにその情報が届くような体制を作っていました。

長い海岸線の村々で、「海防警固」にあたっていたのは、穢多・茶筅・宮番と村方役人でした。海防にあたるものは、常時帯刀を許されていたといいます。「穢多」は、「久保の者」とも言われ、集団で駐屯する機動隊のような存在でしたが、特に、主要な街道沿いに配置されました。一方、海防のために配置されたのは、「茶筅」「宮番」でした。長門の国は「宮番」が、周防の国は「茶筅」が配属されました。

迫りくる四境戦争を前に、「攻め」と「守り」の両面から着々と準備が進められていました。高杉晋作は、長州藩の存亡を賭けた戦いに必勝を期すため、藩の方針に違う行為をする人々を厳しく罰しました。

高杉晋作にとって、穢多・茶筅・宮番・非人の役務は、近世幕藩体制下の司法・警察としての職務の全うでした。百姓の庄屋の次男、三男(父親は非常民)を対象に集められた「屠勇隊」は、「非常民」の予備軍として徴兵されました。百姓を中心とした「屠勇隊」は、長州藩の正規部隊になりました。

四境戦争の危機が差し迫る中、中には、藩の命令から逸脱するものも出てきます。

高杉晋作は、特に、「海防警固」や「銃後のまもり」をする、近世警察官である穢多・茶筅・宮番については、それぞれの持ち場をきちんと守ることを要求しました。高杉は、藩の方針に反して、それぞれの持ち場を離れて、藩の許可なく四境戦争に参加しようとした宮番は死刑、長州藩の重要な「海防」の拠点である上関の「警固」を打っちゃって自主的に結成された「上関茶筅隊」に対しては、藩命に背いたという理由で問答無用的にその部隊を解体しています。そして、「上関茶筅隊」に参加しようとした茶筅をそれぞれの持ち場に再配置したのです。

高杉は、「暫く機兆(穢多)之者を除く」と命令したのは、「穢多」には、近世司法警察官として担わなければならない重要な役務があったためで、しかし、戦争遂行上、「穢多」が持っている、敵を生きたまま捕まえて、拷問して、敵の情報を得るという点では、戦争遂行上、「穢多」の専門技術は欠かすことのできないものでした。高杉は、やがて、「穢多」が、近世警察としての職務遂行に支障を来さない範囲で、「穢多」(穢多・茶筅・宮番)を徴兵し、「維新団」・「山代茶筅隊」・「一心隊」結成させたのです。

「穢多」をして四境戦争に参加せしめたものは、「穢多」の「非常民」としての職務に対する責任と規律の精神だったと思います。「穢多」は、従軍するに当たって、交換条件としての「身分解放」を求めるような逸脱行為はしなかったでありましょうし、藩も、そのような約束をすることはなかったでしょう。その証拠に、四境戦争から帰った「維新団」に対して、井上馨から「士分取立」が提案されたとき、「維新団」に参加した穢多たちのほとんどは、その「士分取立」を辞退しました。彼らにとって、士分になって、函館まで至る戦争の旅に出ること、そして近代兵器を手にして、今は無力となった近世武士集団の殺戮の旅に出ることはよしとしなかったでありましょう。彼らにとって大切なのは、司法警察官として、通常の業務を全うすることでした。

北川が言うとおり、「すなわち「解放」もなければ、「解放の約束」なぞもありはしない」のです。

原田伴彦がいう、
①部落民は・・・長年の願いである身分解放を求めて立ち上がったのでした。
②それは長州藩権力という封建制に奉仕するためではありませんでした。
③・・・しかしながら、これらの諸隊の活動にもかかわらず、部落民が期待するような解放は約束されませんでした。
④この戦争が長州の勝利、幕府の敗北によって終了すると、一部の隊員の解放にとどまり、部落民隊は解散を命じられ、再び圧迫を受けるようになりました。
⑤・・・このことは、藩が非常のときにだけ、部落民を利用しようとしたものであることをはっきり示しています。

すべての項目は、歴史の事実に著しく反した、今日の歴史学者や研究者が捏造した「幻想」・「虚構」以外の何ものでもないのです。

私の歴史研究の師である北川は、このように云います。

「こんな部落民軍隊の歴史像でいったい何がどうなると云うのか。これでは部落民兵士は、「身分取立をエサにされて・・・」、「おのれ一身だけの成りアガリをユメ見て・・・」、はては「釣られた・・・」の、「だまされた・・・」の、「ケシカラぬ・・・」などということになる。部落民はそんな「バカだった」「アホだった」のだろうか。仮にも「身分取立」でもされていたら、「メデタシ、メデタシ・・・」とでも云うのだろうか。そんな部落民軍隊像で、どうして部落解放の歴史足りうるだろうか。」

布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』は、日本史学に内在する差別思想である「賤民史観」と「愚民論」によって構成された布引自身の「妄想」以外の何ものでもないのです。

歴史研究家の布引だけではない。こともあろうに、被差別部落の当事者も同じことを考えているのです。『怒りの砂』の著者、被差別部落出身の村崎義正は、その書の中でこのように語るのです。

「しかし、なによりも、この機をいっして真の解放はあり得ないという決意が勇猛をもってなる榊原軍を圧倒したのではあるまいか。ところが維新団は、意気揚々と郷土に錦をかざったとたんにお払い箱になってしましった。退職金として山林五ヘクタールと米一俵が藩から支給されているが、維新団百七十名の華やかな軍功に対する褒章としては、余りにも微々たるものであり、開いた口が閉まらない。おまけに穢多身分から解放してやるという約束もほごにされてしまった・・・」

村崎義正の維新団についての証言の中には、歴史の事実に立脚したものは何もないのです。布引と同じ「妄想」の上に乗っかって言葉を綴っています。村崎の文章の中には、近世幕藩体制下の司法・警察としての責任と規律に対して「穢多」たちが抱いていた熱き思いは、一片のカケラさえ見いだすことはできないのです。

そして、私はこのように思うのです。

村崎は、被差別部落民を名乗っているけれど、本当は、「穢多」の末裔ではないのではないか。「穢多」の末裔なら、先祖を辱め、貶めるような発言は決してしないと思うのだが・・・。もし、村崎の故郷の住人が、村崎と同じような考えしか持っていない人々であるとしたら、彼らは、その在所の「穢多」の末裔ではなくなる・・・。明治四年の太政官布告と共に、その在所の「穢多」は、そこから離れて行った、そのあとの、空いた土地に何らかの事情で滑り込んできた、「穢多」の歴史を知らない、身を持ち崩した武士や百姓の末裔ではないのか・・・。「特殊部落民」ではあっても、「穢多」の末裔ではないのではないか・・・。

非常民の学としての部落学、それは、部落差別の完全解消に向けて、多くの情報を私たちに提供してくれます。「賤民史観」は、日本の歴史学の差別思想であり、日本社会を蝕む病根なのです。「穢多」の末裔から、本当の歴史を奪い、「賤民史観」を背景に捏造された、みじめで、あわれで、気の毒な部落史を強要する病巣なのです。

癌(部落差別)の苦しみを和らげるために麻薬(同和対策事業)を求め続けるのではなく、勇気(歴史の真実を追い求める勇気)を持って、病巣(「賤民史観」)を取り除くことによって、健康な身体(差別から解放された精神)を取り戻すことが大切なのではないでしょうか。癌から全快したら、兄弟みんな(差別・被差別を問わず)喜びを共にすることができるのではないでしょうか。

昔、病院に勤めていたときに読んだ精神医学の本に、アメリカの精神衛生運動についての話がありました。アメリカに、スミス兄弟がいたそうです。その兄の方は、精神分裂病を患って、精神病院に強制入院させられていたそうですが、弟は、そのことがいつも心配でした。精神病は遺伝的なものであると信じ込んでいた弟は、いつ、兄と同じ、精神分裂病が発症するのか不安な毎日を過ごしていたといいます。そして、そのことを意識すればするほど、弟は、精神分裂病の兄と同じような行動をとりはじめたといいます。そして、誰が見ても精神病の患者になってしまい、やがて精神病院に入院させられることになります。弟は、当時の精神病院で、医者や看護師から、非人間的な扱いを受けます。拘束され自由を奪われ、薬漬けにされ、日常的に暴行を受け、精神的にも非常に苦しみの深みに置かれます。しかし、そんなある日、医者から、本当のことを知らされるのです。「あなたのお兄さんは精神病ではありません。脳腫瘍だったのです。脳腫瘍が原因で精神分裂病と同じ症状が出ていたのです・・・」。弟のスミスは、突然と正気に戻って考えるのです。「自分の精神分裂症状は何だったのか?!」。そして、彼は考えるのです。自分の心が自分を精神病にしてしまったと。彼は、「心の病気は心で直すことができる」、そう信じて、アメリカで、精神衛生運動を展開していくのです。監獄と同じ鉄格子付の病室ではなく、精神病患者が鉄鎖から解放され、医者と心と心で触れ合うことで精神病を克服していく環境を作っていくのです。その本を読んだのは、35年前のことです。記憶にずれが生じている場合もありますが、日本にも「森田療法」というのが同じ治療を指向しています。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」も、人間を、「あわれで、みじめで、気の毒な」状況に鉄鎖で拘束する偽りの病巣です。賤民史観を脱却すれば、スミスと同じように、突然正気に戻り、差別に拘束されない自由な精神を自分の手にすることができるのです。一端、差別・被差別からの自由を感じると、再び賤民史観という鉄鎖に繋がれることはなくなるでしょう。

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