2005.09.01

垣の内に関する布引説への批判

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 1.垣の内に関する布引説への批判



少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

『部落学序説』で、筆者が繰り返し取り上げる、近世幕藩体制下の「穢多村」の原像です。この歌の最初の一節に、「少岡ハ垣ノ内」とあります。

「垣の内」に関する研究としては、山口県立文書館の元研究員をしていた布引敏雄の《長州藩被差別部落成立の一形態 「垣之内」地名を手がかりにして》があります。

この論文の材料となった史料は、『地下上申』・『防長風土注進案』・『山口県風土史』の3冊です。布引が「垣の内地名一覧表」「垣の内」として取り上げるのは8カ所です。布引は、『地下上申』の「小名垣之内と申ハ、穢多之者罷居申ニ付垣之内と名付申」という文言から、玖珂郡・熊毛郡・吉敷郡の3大穢多村については、「「垣ノ内」とは部落に固有の地域名であるという推測が可能である」としています。

しかし、上記の「高佐郷の歌」を歌った穢多たちは、自らの居住地の一部「少岡」を「垣の内」と呼んでいますが、布引の垣の内に関する研究の対象外になっています。

高佐郷だけではありません。

長州藩の「垣の内」を知る上で、藩の重要な史料は、長州藩本藩だけでなく、長州藩の枝藩である徳山藩や岩国藩の史料にも「垣の内」に関する記述は多数存在しています。布引は、「垣の内」考察に際して、その根拠となる史料を『地下上申』・『防長風土注進案』・『山口県風土史』の3冊に限定したことで、長州藩の「垣の内」の全体像を把握できなくなっています。

布引は、「「垣ノ内」に隣接し、両者で一つの小台地を形成する地域名に「岡」がある。これは、地名より考えて「岡垣内」という地名であったことが考えられる。それが明治期には「岡」と「垣内」に分離したのではなかろうか」と推測しています。しかし、彼の説は、何か言葉の遊びをしているようなところがあります。

「高佐郷の歌」では、文字通り「岡」・「垣ノ内」はセットでてきます。

この場合、「岡」は、「垣ノ内」のあった地理的表象、「垣ノ内」は、「岡」に配置された政治・行政上の表象であると考えればすむことで、布引の言語操作は必要ないと思われます。

のびしょうじは、《囲われたムラ》(『部落史の再発見』(解放出版社))で、1695年(元禄8)河内国更池皮田村に出された「皮田村全体を竹垣で囲い、出入口三つ、夜は本村に通じる北口一つとし番人を置く」という「法度」を紹介した上で、のびは、「皮田村を取り巻く環境・景観がどのようなものであったか、と問えば、ほとんど具体的なイメージをもてないのではないか」と言っています。更に「文字史料では景観のありようは推定に推測を重ねてみるしかないし、それでもイメージを得るのは困難であろう」としています。

しかし、布引は、長州藩の極わずかな史料から、「えたの居住地を「垣ノ内」と呼んだ理由は、その集落が垣根によって囲まれている景観を有していたからであると考えられる。」とし、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味したのである」と断定していきます。

のびは、布引の説を、「先駆的な社会史の観点からの考察」と評価していますが、その「推定に推測を重ねてみる」姿勢に少しく疑問を感じておられるのかもしれません。

布引敏雄の部落史に関する研究論文を精読していて思うのですが、この「推定に推測を重ねてみる」姿勢は、いたるところで、しかも、重要なテーマのところで確認することができます。布引は、推定や推測の根拠を明確にしないで、「・・・と考えられる」と、論文の読者に論理の飛躍を要求します。

布引の推定や推測の指導理念は、歴史学上の差別思想である「賤民史観」です。被差別部落の人々の近世幕藩体制下の先祖たちが、「如何に差別され、如何にみじめで、あわれで、気の毒であったのか」を証明するための素材を、長州の地から全国へと発信していきます。のびのように批判的に見ている人はまれで、多くの場合は、布引がつくりあげた垣の内に関する像、「「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味したのである」という、現代的な差別・被差別に色濃く染められた像が無条件に受け入れられて行きます。

布引の「垣の内」説のプロトタイプは、彼の「賤民史観」であり「愚民論」であり「差別意識」であると思われるのです。

布引と同じ過ちを犯さないために、筆者の中にある「垣」について自己検証をしてみます。

こども心に「垣」の存在を実感させられたのは、小学校にあがる前の年の夏のことです。朝目を覚ますと、隣近所のおじさんやおばさんの大きな話声が聞こえてきました。なんでも、歩いて5~6分のところにある入り江で、若い女性の水死体があがったという話です。「いま、警察が取り調べている。見に行こう・・・」と言って、若い女性が入水自殺した入り江へ走って行きました。私も他のこどもたちと一緒に大人のあとを追いました。

若い女性が自殺した入り江には、私が生まれた町でも比較的に大きな紡績工場がありました。

若い女性が死んだ場所は、ちょうどその大きな紡績工場の正門の前でした。紡績工場の前の道にたくさんの人が集まって、潮の引いた浜辺に横たわり、掛けられたむしろからはみ出した青白い足を見ていました。

若い女性というのは、その紡績工場に、働きに来ていた18歳の「むすめさん」でした。

岸壁から、その下にある「むすめさん」のなきがらをみながら、大人たちは、「本当にかわいそうだね。十七や八で、命を捨てるなんて・・・」。

その「むすめさん」のなきがらの回りには、たくさんの剃刀が散らばっていました。自殺した娘さん、大人たちの話では、その紡績工場で労働争議があって、女工さんの立場から、その労働組合の委員長をしていたそうです。「中学校を出ると十五、六で故郷を離れて、集団就職で働きにきて、朝早くから夜遅くまで働かされる、労働がきつくて中には身体を壊すひともでてくる。するとすぐに親元へと返される。それでは、家が困るからといって、女工さんたちは、少々の無理を押してかんばる。でも、それにも限界がある。少しは、女工の置かれた厳しさを緩和してくださいと会社に訴えると、会社は、いろいろな嫌がらせをする。ストに入ると、暴力団を雇って、女工さんたちに、人間の糞尿をぶっかけたそうだ。たくさんの剃刀は、警察が数えると、紡績工場の組合員の人数分あったとさ・・・」。大人たちの話声が、こどもの心に深く入ってきました。

その紡績工場は、周囲を塀で囲まれています。

そして、その塀の上に、鉄条網が張られています。大人たちは、それを見ながら、「鉄条網が内側に傾いて張られてるだろう。あれは、紡績工場やその中にある女工さんのための寮に外部から不審な人が侵入してくるのを防ぐためではなく、中の女工さんに、夜、脱走させないためなんだよ」と話をしていました。

そんな事件のあった夏の朝は、青色の朝顔の花がいっぱい咲いていました。

朝の空の色は、彼女の死を悼んでいるようでとても悲しそうに見えました。

「垣」という言葉から、思い起こすことは、この悲しいできごとです。この年になって考えると「紡績工場のお姉さんが死んだんだって・・・」とこどもたちの間で話し合っていた「お姉さん」は、まだまだ、こどもでしかなかったということです。戦後の日本の高度経済成長の陰に、こんな話がいっぱい秘められていると思うと、自らの豊かさを追求する余り、多くの民衆を犠牲にしていった人々が恨めしくなります。

お隣の国、韓国においても、民主化が進行する前は、紡績工場の女工さんに対する激しい弾圧が行われました。日本のテレビでも、ニュースとして、韓国の暴力団によって、韓国の紡績工場で働く、韓国の女工さんが、人間の糞尿を浴びせられている光景をみましたが、戦後の高度経済成長の豊かさを謳歌していた日本人の多くは、「韓国は遅れている。いまだに、こんな非人間的なことをしている」と話していました。しかし、私の記憶の中では、「日本」と「韓国」の時間的な差はそんなに大きなものではありませんでした。

組合員の数だけ剃刀を持って、手首を切って、満潮の海に身を投げたひとりの「お姉さん」の砂の上に横たわる姿を思い出すごとに、いまだに涙がでてきます。

日本の社会は、至るところに「垣」があります。

垣の内から、外に出ていけないようにしている垣に、刑務所や警察、自衛隊、軍需工場、原発、自衛隊や米軍の基地・・・があります。「垣」は、一見、外部から不法侵入することを防ぐために設けられているように見えますが、逆に、垣の内側にいる人を外へ出さないようにする機能をあわせて持っているのです。

「垣」について、もうひとつのイメージがあります。

それは、青年の頃、岡山県の虫明の沖合にある長島愛生園を尋ねたことがあります。その島には、重度の「癩病」(ハンセン氏病)患者が「収容」される光明園と、比較的症状の軽い愛生園があります。尋ねたのは、愛生園の方でした。

青年会で、車に便乗して、でかけたのですが、梅雨の集中豪雨と重なってしまいました。

淋しい雨がふりそそぐ人里離れた山深い街道を通って、虫明の港にたどりついたのですが、連絡船で渡る海は、黄土色の海でした。昔、「癩病」(ハンセン氏病)だと診断された人々は、家族や親類から引き離され、まるで、地の果てに捨てられるような思いで、この道をたどったのかと思うと胸つぶれる思いでした。

その頃、私は、ある病院で、「臨床病理検査」の仕事をしていました。

あるとき、細菌検査をしていて、結核菌の検出した数を「無数」と報告したことがあります。医者は、「無数というのは、科学的な表現ではない。きちんと数え直せ」というのです。私は、「できません。多すぎて・・・」というと、医者は、「もしかして・・・」と検査室にきて顕微鏡で確認しました。「あの検体でよく検出できたなあ。これは、結核菌ではなくて、癩菌だよ」。

「癩菌」が検出された若い女性は、長島愛生園に送られることなく、通院治療になりました。

当時の岡山県、35年前の岡山県では、保健所が癩病の通院治療を認めていたのです。今住んでいる山口県では、本当につい最近まで、「癩病」(ハンセン氏病)患者は、岡山の愛生園に隔離措置がとられていたのです。

結核菌と頼菌は、「抗酸菌」という同じ種類の菌です。

日本で、戦後、「癩病」(ハンセン氏病)の発生率が極減したのは、戦後、結核予防を徹底したからです。結核を予防することで、自動的に、同種の菌に対する感染を防止することができたのです。決して、「癩病」(ハンセン氏病)患者を隔離したためではありません。私が勤務していた病院の医者は、「身体の中が癩になったのを結核といい、身体の外が結核になったのを癩といっても過言ではない。それほど、結核菌と癩菌は近い存在」と話していましたが、山口県では、いまだに、「癩病」(ハンセン氏病)の隔離施設を作った光田健輔(愛生園園長)は、近代山口が生んだ偉人の一人に数えられています。

少し話が脱線しましたが、長島愛生園の中の宗教施設で、園生と交流したとき、私たちは前の入り口から、園生は、後ろの入り口から入りました。中には畳が敷かれてあったのですが、ちょうど部屋の真ん中あたりに、高さが、30センチ程の仕切りがありました。それは、「癩病」(ハンセン氏病)患者とそうでない人を区別するための垣でした。その垣は、越えようと思うとすぐ越えることができる垣でしたが、誰一人、その垣を越えようとはしませんでした。私も・・・。私は、その背丈の低い、形だけの「垣」は、心の中に作られた「越えるに越えられぬキリシタン屋敷の垣」と同じ、人と人とを隔てる高い闇の「垣」であることを知らされました。

私の「垣」に対する予見は、上記の三つの「垣」にあります。

しかし、私は、私の中にある予見でもって、「高佐郷の歌」に出てくる「垣ノ内」に感情移入することはできません。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

この「垣ノ内」をイメージするためには、何らかのプロトタイプが必要です。次回は、「垣ノ内」の本質を把握するために、近世幕藩体制下の史料から、そのプロトタイプを模索します。


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※「癩病」(ハンセン氏病)と表現していることについてひとこと。ハンセン氏病患者の中には、「ハンセン氏病と言われると、ことがらの本質が分からなくなってしまいます。癩病という言葉はそのまま使ってください。大切なのは、差別しないことですから・・・」と主張された方がいます。「癩病」は病名です。病名をもって、ハンセン氏病患者あるいは元患者の人間性全体を表現するときは差別語になります。差別語を退けるだけでは、差別から自由になることはできません。

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新井白石と垣の内

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 2.新井白石と垣の内



前節でとりあげたように、山口県立文書館の元研究員・布引敏雄は、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味した」といいま す。

布引がそう断定する根拠になった史料は、近藤清石編『山口県風土史』(昭和18年原稿完成)に吉敷郡「垣の内」に関する以下の文章です。

「旧賤民の在所にて、垣ノ内の称は、尋常の人家の垣は杭を内にし縁竹を三段す、是れは杭を外にして縁竹を四段せり」

これに対して、布引は、「杭を外にしたという事実から、垣根がえた部落の側から自らの周囲を囲う意図のものではなくて、一般地域の側からえた部落を隔離・隠蔽する意味合いで囲ったものだということが知られよう」と推測します。

布引が、使用している文献は、幕末から遠く隔たった昭和の、しかも、戦前の時代です。その時代の文章が、どれだけ、幕藩体制下の「垣の内」について、正確な情報を伝えているか、検証が必要になります。今井登志喜著『歴史學研究法』には、「逸話、噂話」については、「これらは本来無責任な捏造が甚だ多い性質のものである。個人の逸話と言われるものの如き、真実を伝えている場合は寧ろ少ない。これらと同じ様な口伝的性質をもっている伝説はさらに芸術的要素が多く、小説であって容易に信用し難い。」とあります。

「賤民史観」にどっぷりと漬けられた「垣の内」に関する『山口県風土史』に収録された史料を無批判に使用することが、歴史学者として、正当な所作であるのかどうか・・・。

文献だけでなく、伝承を、歴史研究に組み込むときは、それなりの検証が必要です。

「社会史」という学問は、少なくとも、その研究に際して取り扱う個別の伝承については何らかの検証をしていると思われます。歴史学者の恣意的な解釈をそのままに「社会史」的研究と呼ぶことは許されないと思うのですが・・・。

布引が、あえて、このようなあいまいな伝承を持ち出したのは、「垣の内」に関する資料が少ないためでしょう。近世の文献だけでなく、現在の被差別部落に伝えられている伝承の中にも「垣の内」に関するものは極めて少ないという現実もあるのでしょう。

歴史学者のいう「賤民史観」を全面的に受け入れて、「これでもか、これでもか・・・」と、被差別部落の「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別の現実を訴えてやまない、『怒りの砂』の著者・村崎義正は、「垣の内」については、ひとことも言及していません。

部落史を研究する専門家や被差別部落の当事者ですら、このような状況にあるのですから、学歴も資格も持ち合わせていないただの無学な筆者が、しかも由緒正しき百姓の末裔でしかない筆者が、「垣の内」について言及することは自ずと限界があることは否めません。

私は、ただ、徳山市立図書館の郷土史料室にある文献と、近くの書店で買い求めた若干の関連書籍を散策するのみですが、あるとき、岩波書店の『日本古典文學大系』の『載恩記・折りたく柴の記・蘭東事始』を読んでいて、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という言葉に遭遇しました。

この『部落学序説』で、明示した命題のうち、「穢多は非常民である」という命題に立てば、当然、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という表現を、近世幕藩体制下の警察である穢多・非人だけでなく、同じ「非常民」の職務にあった武士に関する史料の中から、参考史料を探し出そうとするのは自然の成り行きです。

「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という言葉は、江戸時代の代表的な漢学者である新井白石の『折りたく柴の記』に出てきます。

新井白石の父は、上総国久留里の領主・土屋家に仕えていた人で、白石によると、当時の「警察」業務に長けた人であったようです。予想される事件はあらかじめ未然に防ぎ、犯人の逮捕・監禁・取調に際しては極力冤罪事件に至らぬよう配慮をしています。

正保2年の秋、土屋家は、幕府から、徳川将軍家の旧城・駿府城の番を命じられます。

そのとき、新井白石の父は国元に残り執務にあたっていましたが、次の年の春、藩主によって、上総から駿府に呼び出されます。

白石の父は、藩主からこのように聞かされます。
その頃、「府城の陣屋」(駿府城勤務の士の居所)「なども、四面みなみな竹垣ゆひ廻せしまま也しかば、わが侍ども、夜毎に垣をこえて出あそぶもの多くして、供にさぶらひしおとなしきものども、「制止すべきやうなし」と申しければ、召ける也」と言われます。

藩主が心配していたのは、駿府城勤番に同行させた藩士たちの中に、夜な夜な、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」陣屋を抜け出して、城下に、夜遊びにいくものが多いことです。もし、藩主が若い藩士たちの行動を黙認したことで、誰か一人でも犯罪を犯すものがあれば、駿府城勤番の武士(近世警察)に対する信頼が著しく損なわれる。それは何とかして未然に防がなければならないが、藩主に同伴した家老たちは若い藩士たちを制しきれない。正済(白石の父の名)ならば、何かよい解決策を知っているかもしれない、藩主は、そう思って、白石の父を、上総から駿府へと呼び出したというのです。

白石の父がしたことは、まず、「陣屋の邊打ちめぐり見て」、藩士の居所である陣屋とその周辺を観察することでした。そして、若い藩士が、竹垣を越えて「脱走」する箇所を確定して、「しかるべき所々に番兵」を置いたというのです。当時の言葉では、垣の外を守る番人ですから、「番兵」は「垣外番」(かいとばん)であると言えます。一晩中、藩士の竹垣越えを監視する番所、「守らすべき小屋」「四つ五つ」造ります。番所毎に、「足軽の兵二人づゝをもて、そこを守らせた」とあります。

白石の父は、「夜ごとに日暮ぬれば、夜明くるまで、みずから巡視して、守り怠らざるものをばすゝめ、懈れるものをばいましめて、交代の時に至るまで、ひと夜もうちふす事なくしてありし」といいます。白石の父は、若い藩士の竹垣越えを監視する、「垣外番」の足軽をさらに監視することで、「おのづから夜を犯して出あそぶものもなくして、事終わりにき」とあります。

白石の父に対する藩主の信頼は絶大なものがあったようです。

新井白石の父は、「雪踏」を愛好していたといいます。
「雪踏として、革を底にしたるものをめして、いかにも足おとの高らかに聞こゆるやうに、すぎゆき給ひしかば、我父の來り給ふをば、皆人の聞しりしほどに、おさなき子も、その啼くをとゞめたりき。」とあります。白石の父の雪踏の足音は、駿府勤番の藩士や足軽の耳にも達していたと思われます。

白石の父は、藩主から与えられた「司察」(司法警察)の職務を忠実に果たしたのでありましょう。その方針は、犯罪を未然に防ぎ、藩の品位を保つということにつきたと思われます。

白石の父が、犯罪を未然に防ぐことに終始したのは、苦い経験が背後にあります。

ある若い藩士が、あるとき、重罪を犯した。そのことが露顕することをおそれて、偽装工作をして、幼いこどもを惨殺して逃亡するということがありました。藩主は、若い藩士に自首を迫るため、彼の母親を牢につなぎます。しかし、藩士は自首してこない。そのうち、その母親は獄中で死んでしまいます。白石の父は、犯罪を未然に防ぐことこそ肝要と観念したのでしょう。

白石の父は、生涯、刀を抜かなかったと言われます。刀を抜いて処罰する前に、刀を抜かないでいいような社会を作る、犯罪防止と社会の治安維持に努める、武士身分の「非常民」としての心意気が伝わってきます。

犯罪を引き起こす政治や経済の歪みを是正すること遅く、ただ犯罪者を裁き極刑に処することのみ速やかである現代の司法・警察行政の現実と比較するとき、近世の司法・警察行政のあり方を、時代遅れのものとして切り捨ててしまうのはどうかと思います。

幕末期、諸外国から日本に派遣されてきた人々は、当時の日本の警察が極めて優秀であることを認めています。犯罪者を生きたままとらえること速やかにして的確であるとの評です。諸外国が日本に治外法権をつきつけたのは、近世警察の取調の手法の中に、「拷問」制度があったことです。幕府も明治政府も、日本は古来からこの「拷問」制度を採用してきたので、この「拷問」制度を廃止すると、日本の社会の治安が揺らぐといって、それを廃止しようとはしませんでした。

諸外国から評価されていた、近世警察の本体であった総称としての「穢多」を廃止し、諸外国から廃止を求められていた「拷問」制度を継続していった明治政府の姿勢は、今日にも引き継がれ、ときどき、「自白の強制」として、「冤罪事件」として、明治政府の失策の悪しき遺物がその顔を顕すのではないかと思います。

白石は、「府城の陣屋なども」と語りますが、近世警察である穢多の在所としての「垣の内」も同じ構造にあったのではないかと推測できます。白石の父が、「司察」の職務を担うにあたって、その知識や技術をどこから入手したか、筆者はまだ検証と考察の対象にしていませんが、久留里藩3万石の近世警察制度には興味があります。

筆者は、「垣の内」のプロトタイプとして、新井白石の『折たく柴の木』に出てくる、駿府勤番の「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」城番の居所をとりあげたいと思います。近世警察を担った「非常民」としての「武士」と「穢多」の居所を同一の構造とみなすことは、あながち、間違いではないと思います。

つまり、「垣の内」という地名や、その構造をもってしては、布引が指摘するような、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味した」というような断定はできないということです。武士の居所を垣根で囲うことは差別ではないが、穢多の居所を垣根で囲むことは差別であるという反論があるかもしれませんが、それだと、布引説は、ますます、「賤民史観」と「愚民論」という、歴史学上の差別思想に身をゆだねることになります。

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山口県部落史研究の良心

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 3.山口県部落史研究の良心



喜田川守貞という人がいました。

彼は、『近世風俗志』(岩波文庫)の著者です。本当の書名は『守貞漫稿』というらしいのですが、彼の素性については ほとんど分からないと言われています。

喜田川は、その冒頭で、「一書を著さんと思ひ、筆を採りて几に対すれども、無学短才、云ふべき所なし」といいます。「無学短才」という言葉は、彼が、近世幕藩体制下にあっては、「学歴も資格も持っていない」ということを意味しているのでしょうか。

喜田川は、「ここにおいて、専ら民間の雑事を録して子孫に残す」としています。彼は、大阪での三十年間の暮らし、江戸での十四年間の暮らしの間に、「俗」(風俗)について、種々雑多な聞き取りをしたようです。彼は、「見聞に従ひ、これを散紙に筆し、後に大略諸類を分かちて数冊・・・」にまとめました。それが、『守貞漫稿』、『近世風俗志』(岩波文庫)の原書名です。

大阪在住のときにはじめた「聞き取り」は、江戸に住居を移してのち、江戸での「聞き取り」の結果、両者を比較することで、彼の「俗」(風俗)についての研究は、大きく進展します。

喜田川は、彼の記す文章は、「毎時はなはだ粗密あり」といいます。

その理由は、「ただ見聞の多寡による」とありますが、それは、彼が、当時の正規の学者や研究者ではなかったことを物語っているのではないかと思います。

日毎に見聞きすることがらを、丁寧に書き留めていって、資料を収集。それが、いつのまにか、彼固有の資料集になっていって、執筆するに至ったのではないかと思います。

喜田川守貞著『近世風俗志』を読んだ、最初の感想は、『近世風俗志』は、近世幕藩体制下において執筆された名もなき人の「民俗学的研究」ではないかということです。近代において、近代的な学問のひとつとして民俗学を提唱したのは民俗学の祖・柳田国男ですが、柳田に先立つ、近世の時代に、民俗学を実践して、貴重な資料を残した喜田川守貞は、「民俗学の父」の名に値するのではないかと思います。

喜田川の書いた文章の中には、日本の封建的身分制度の上位を占める武士階級の自負心のようなもの、自分の属する階級に対する奢り高ぶりと、武士階級より下の階級に属する「士」階級(下の身分の武士や中間・足軽・穢多・非人)や百姓(農工商)に対する限りなき蔑視と差別のまなざしのようなものはありません。

近世の武士階級が持っていた、「賤しい身分」に対する蔑視と差別のまなざしは、武士階級の末裔である現在の知的中産階級にも受け継がれています。知的階級・中産階級に属する人々は、自らの社会的地位を誇り、彼らより、より低い社会層に属する人々に対して、意識的にも無意識的にも「蔑視と賤視のまなざし」を向けます。歴史学者や研究者、その教育者の中にある「賤民史観」や「愚民論」は、まさにそのしるしです。繰り返し言いますが、「賤民史観」は、歴史学上の「差別思想」です。

その差別思想は、「皇国史観」の信奉者にも、「唯物史観」の信奉者にも、精神構造の奥深くに巣くっています。明治以降の近代歴史学の負の遺産を、歴史学上の「右」の立場の人も、「左」の立場の人も払拭できないでいる歴史学の今日の状況は、「歴史学は死んだ」という言葉がいちばん似合っていると思います。

歴史学は、歴史の事実、その事実の背後にある真実を追求する学問です。

もし、その歴史学が、個別科学研究としての歴史学の本質を忘れて、国家の権力に身をすり寄せていき、国家の支配・統治、教育行政の啓発・啓蒙機関としてのおのれに甘んじているのであれば、「歴史学は死んだ」という言葉は、歴史学にいちばん相応しい言葉になります。

河村芳信は、《同和教育と部落史研究》という論文の中で、山口県の部落史の研究家や同和教育担当の教師に向けてこのように述べています。

「県内の部落史に関心を寄せてきたが、現実には、資料が乏しく手がかりがつかめないのが実情である。藩政時代の部落は、身分上人間外の人間におかれたため、歴史の帳にのぼらなかったのかと、時にこんな思いさえ浮かぶ。部落史は僅かの頁を与えられた庶民の片隅にひっそりとその姿を隠しているように思える。従って、部落の歴史は、直接資料を求めて、その一本道をたどろうとしても、非常に困難である。

そこで、部落の直接資料のみに固執するのではなく、広く一般史の中からも、部落史とは何かを問いつづけ、一片の関係史料でも目ざとく見付け出し、一片、一片を関連づけて、そこから、部落史、厳密に言えば、部落の歴史的背景を構成する、といった手法の特に必要なことを痛感する。

筆者が、この拙い研究をあえて記事として載せたのも、これが契機となって、誰かの手によって、さらに実証的な研究がなされ、部落史の間隙が満たされることを願ったからである。今後、少しでも部落史に関連のありそうな記録や事象が発見された際は、互いに大らかな気持ちで提供し、仮説も実証しあって、結果として、本県の部落史が次々と解明されていくことを望みたい。

次に、部落史研究は、たとえ断片的な史料や情報にしろ、部落関係者の協力を得ることなくすすめることは難しい。しかし、協力を依頼するにあたって、関係者が果たして喜んで協力の気持ちになれるものかの点も、立場をかえて考えてみる必要がある。部落の歴史は決して栄光に満ちた先祖の歴史ではない。できれば表沙汰にして欲しくない、余計なおせっかいはして欲しくない、と思うのが自然の情ではあるまいか。こうした気持ちを越えて、史料や情報を提供される場合、それは、部落差別を一日でも早く払拭して、子どもたちに、こうしたみじめな思いを二度とさせたくないとの一途の念願からにほかならぬといえよう。

研究にあたっては、それが〃行きずり〃の研究ではなく、部落に対する心からの理解を持ち、理解を深めながらの研究でありたい。真の理解なしには、豐富な史料や情報に出会ったとしても、部落の歴史的背景を正しく把握することはできないからである。そして、局外者あるいは同情者としての位置からではなく、共に部落差別の解消を願う実践者として研究をすすめたいものである」。

私は、この河村芳信についても、一度も面識はありません。

しかし、彼の言葉は、当初から座右の銘です。その理由は、歴史学者、教育者としての彼の真摯さにあります。引用した文章は、彼の論文の「おわりに」と題された文章全文です。もちろん、上記の文章の中にも、「賤民史観」の影響を受けていることは無視できません。

しかし、彼は、それを打破すべく、実証的研究の大切さを説いています。部落解放研究所だろうと、部落問題研究所だろうと、要するに大切なのは、どこまで、実証的研究に徹底しているかということです。

河村は、「行きずり」の研究を否定しています。

しかし、山口県の部落史研究家や教育者は、どれだけ、彼の意を汲んで、研究や教育に従事してきたのでしょうか。すべての同和対策事業の終了したとき、同和対策事業だけでなく、同和教育まで終了してしまったのではないでしょうか。

ここ、数年間、山口県立高校十数校で仕事をする機会が与えられました。同和教育担当の先生方からいろいろな話を聞く機会もありましたが、どの高校も、同和教育からの後退を感じざるを得ませんでした。

ある高校の校長は、同和対策事業終了と共に、同和教育も後退していく状況を嘆いておられました。「同和教育のための予算がつかなくなると、みんな同和教育から手を引いていってしまう。費用がでなくても、あなた(筆者)のように手弁当で関わるようでないと・・・」。

今日の山口県の学校の同和教育に関する様相を見聞するにつけ、33年間の同和教育の積み重ねは、それに賭けた時間と費用の膨大さにもかかわらず、結局、「行きずり」の研究、「行きずり」の教育に終わってしまったのではないかと思わざるを得ないのです。

私は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を尋ねたとき、既に、河村芳信の《同和教育と部落史研究》という論文を繰り返し読んでいました。

私が聞き取り調査に同行した「研究者」は、四境戦争に参加して戦死した茶筅の墓の「差別墓標」を調査に行ったのが本来の目的で、その村の浄土真宗の寺や、幕藩体制下、長州藩の牢屋があった場所の古老を訪ねたのは、そのときの「思いつき」であったといいます。最初から「聞き取り調査」を目的としていたのではない・・・といいますが、たとえ、それが、「行きずり」の出会いであったとしても、「賤民史観」という色眼鏡のために、住職や古老の語る言葉に含まれている真実な響きを見逃してしまったのは残念です。

河村がいう、「部落の直接資料のみに固執するのではなく、広く一般史の中からも、部落史とは何かを問いつづけ、一片の関係史料でも目ざとく見付け出し、一片、一片を関連づけて、そこから、部落史、厳密に言えば、部落の歴史的背景を構成する、といった手法・・・」、私は、歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学的資料も駆使して、「部落学」として構築しようとしているのですが、「部落学」構築を指向しはじめたのは、「研究者」との十四、五年に及ぶ無意味な会話・論争が背景にあります。

「賤民史観」という色眼鏡を外して、部落研究・部落問題研究・部落史研究に関わると、穢多や非人の本当の姿が見えるようになって、「楽しい」ですよ。日本の近代の歴史がどのように「捏造」されていったのか、その経過が手にとるように分かるようになると、ますます歴史研究にのめり込んでしまいます。

「部落学」構築の基礎資料・必須資料として、岩波書店の『日本近代思想大系』(全24巻)を挙げることができると思います。幕末から明治の中期(大日本帝国憲法制定)までの史料が集大成されています。それと、岩波文庫や講談社学術文庫をはじめ、文庫本の形で、幕末から明治初期にかけての内外の史料や資料が公開されていますので、河村がいう「部落の直接資料のみに固執するのではなく、広く一般史の中からも、部落史とは何かを問いつづけ、一片の関係史料でも目ざとく見付け出し、一片、一片を関連づけて、そこから、部落史、厳密に言えば、部落の歴史的背景を構成する、といった手法」を自分のものにすることは決してむずかしくありません。

それに、現代では、河村芳信の時代とくらべて、著しい研究環境の変化があります。

インターネットです。いろいろな情報を簡単な検索で豐富に入手することができます。沖縄に、近世幕藩体制下の非常民(穢多・非人)と同じ役務を担った人々が存在していたということを知ったのもインターネットを通じてでした。「沖縄に被差別部落はない」という説は、非常民(穢多・非人)に対する誤解に根ざすもので、沖縄にもきちんと穢多・非人相当身分があったということを知りました。

しかし、インターネット上の知識は、まだまだ、学士論文や修士論文、博士論文を書くための史料や資料は提供してくれません。「研究」と名前がつくものを執筆する人は、やはり、先達の研究の成果である論文や書籍を丁寧に読破していく必要があります。

一昨年、徳山藩北穢多村の系譜をひく被差別部落の集会で、『部落学序説』の概要について話をさせていただきました。その時、謝礼の代わりに、貴重な資料をいただきました。『城下町警察日記』(紀州藩牢番頭家文書編集会編・清文堂・15,000円)と『大阪の部落史第四巻史料編近代Ⅰ』(大阪の部落史委員会編・部落解放人権研究所発行・12,000円)。『部落学序説』を書き上げたら読ませていただこうと思っています。論文は、同種の長州藩の史料を使用します。

喜田川守貞著『近世風俗志』(岩波文庫)に出てくる近世の穢多・非人の姿を紹介しようとして脱線してしまいました。次回、「垣の内」は「封じ込める仕掛け」(のびしょうじ)ではないことを検証します。

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喜田川守貞の見た垣の内

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 4.喜田川守貞の見た垣の内



「垣の内」・・・。

それは、穢多の在所の特徴のひとつに数えられます。しかし、この「垣の内」の内部がどのようになっているのかは、 江戸や大阪の、一般の町の人々にとっては、ほとんど知り得なかったことがらではないでしょうか。

今日の警察と同じく、近世警察である穢多村のシステムについて、誰にでも分かる形で公表されていたとは思得ません 。

通常、「垣の内」の中には、牢屋が設置されていました。

そして、その牢屋を警固するために、番人小屋も併置されていました。つまり、近世の穢多村の代表的な仕組みである 「垣の内」には、当時の「警察官」と、彼らによって捕らえられ、白州で判決が出るまで牢屋に幽閉されていた「犯罪者」が同居していたのです。

歴史学の差別思想である「賤民史観」は、意図的に、この「警察官」と「犯罪者」を同一視してしまいます。

『近代の奈落』の著者・宮崎学は、その本を書くための取材がてら、自分探しの旅をします。

そして、「部落出身と違うやろか」という問いに対する答えを模索していたとき、亡くなった父親の知人からその真相を聞かされるのです。「学ちゃん、オヤジさんは、たしかに部落のもんや。そして、スリの頭目やったんよ」。

「衝撃的な事実」をつきつけられた宮崎は、「もし、オヤジがそのことを私に語ってくれていれば、俺の生き方は変わっていたかも知れない・・・。そう思った。そうとわかっておれば、こんな中途半端な生き方はしなかっただろう。それが残念だった・・・」といいます。

そして、「もう、遅いのか、中途半端でない生き方をするのは。いや、いまからでも遅くはない。おれは、これから、部落民として生きていく。ここで、そう宣言することによって、この終章は私の序章になるであろう」と。部落差別について、それまでの第三者の立場での関わりではなく、当事者としての関わりで生きていくことを決心するのです。

そして宮崎は、自己の体験から、部落解放運動は、差別・被差別とを問わず、近世警察官と犯罪者まで包み込んで種々雑多な人間によって構成された「猥雑な運動」であるといいます。宮崎は、精神的に相当無理をして、自らを「部落民」として再形成していこうとします。そして、たどりついた結論は、「水平社の原点に帰れ」ということでした。宮崎は、「部落民」には戻れても、近世幕藩体制下の「穢多」には戻ることができないのです。「穢多」は近世警察官・・・。「スリの頭目」は彼らによって取り締まられる犯罪者・・・。そのギャップに気づいた宮崎は、「クリーンな運動」の担い手ではなく、清濁併せ呑む運動の担い手足らんとするのです。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」は、近世の警察官と犯罪者をごちゃまぜにするのです。山口県光市浅江の被差別部落出身の村崎義正は、当時の光市長・松岡三雄の言葉をそのまま引用して、彼の先祖の在所・被差別部落を「格子なき牢獄」といいます。

近世警察官たる穢多は、「穢多村」や「垣の内」を決してそのようには表現しなかったでありましょう。「穢多」には、警察・司法に関わる非常民としての明確な自覚と責任がありましたし、他の武士や百姓以上に、「法」に仕えるものとして、当時の様々な「法」に対する遵守の精神に富んでいたので、決して、自らを犯罪者と同一視することはなかったでありましょう。

『近世風俗志』の著者・喜田川守貞は、その当時の「常民」の立場から、「非常民」である穢多・非人について、現象的な側面でしかありませんが、淡々と記述していきます。現在の警察官と一般市民の間にある意識の格差と同じ程度の意識の格差が「常民」と「非常民」の間にありました。

喜田川にとって、穢多の在所は、布引が指摘しているような差別された場所ではありませんでした。のびがいうような「封じ込める仕掛け」でもありませんでした。「穢多村」や「垣の内」を外から観察すると、そこは、許可されたものが、自由に出入りすることができる場所でありました。

「常民」が入ることが許される場合は、彼らが何らかの法を犯して逮捕された場合でした。犯罪者は自分の意志に関わりなく、この穢多の在所に連れていかれ、取調をうけなければなりませんでした。多くの「常民」にとって、穢多の在所は、できれば関係を持ちたくない場所であったのです。

幕府や諸藩はお触れを出して、近世警察官たる穢多と百姓が、親しく交わることを禁止していました。近世警察官に相応しい「家職」に徹すること、また、百姓に接するときの姿勢や態度が近世警察官の服務規定として守ることを要求されました。結婚も、長吏頭の承諾が必要でした。穢多や非人が百姓と結婚することは、被支配者の側に、一揆鎮圧や強盗捕亡に関する情報が流れることは極度に忌み嫌っていました。歴史学上の差別思想である「賤民思想」に身を浸した歴史学者は、これを「差別」と呼びました。しかし、彼らがいう「差別」が「差別」だとしたら、明治4年以降の近代警察官はすべて「差別」を受けていることになります。明治初期の警察官は、近世警察官と同じ身分規制を受けていたからです。

警察官の結婚に際しては、その上司の許可が必要だったのです。

それは、今の時代にあっても同じではないかと思います。

喜田川の目に、近世警察である穢多の在所はどのように映ったのか・・・。
大阪には、天満山・千日寺・天王寺・鳶田の四カ所にその詰め所があったといいます。四カ所は、「四ヶあるひは塀の内とも称す」とありますが、「四ヶ」というのは、現代語では、「四つ」という言葉になりますが、それは、現代社会では「四つ足」・「畜生」指す差別語であると言われていますが、元の語源がこの「四カ所」の、近世警察内部の隠語「四ヶ」ではないかと思います。また「塀の内」というのは、「垣の内」の別称ではないかと思います。

この穢多の在所から、出ていく穢多(この場合は長吏・非人)の姿は、「新しき綿服に帯は博多おり。老者は羽織を着し、若年はこれを着さず。黄鞘の脇差しをおび、右腰に鉄刀を帯ぶ。鉄刀は十手の形に似て、黒緒を巻きて柄とし、黒総を垂る。十手は官吏これを帯ぶ。」と表現されています。彼らは、罪人の市中引き回しのときに任にあたると共に、「罪人を捕ふること、専らこの徒の任とす」とあります。

「四カ所」は、現代的には「警察署」であり、「警察署」の下には、そこから配置された「辻番」(現代の駐在所のお巡りさん)が大阪の町を犯罪から衞っていました。

「四カ所」に出入りする穢多(ここでは長吏・非人)は、近世警察官の制服を身にまとって、市中へとでかけていました。

しかし、中には、「密に官吏の命を奉じて、諸人の禁を破り法を犯す者を探るあり」とあり、これを当時は「猿」と言っていたといいます(猿回しも密偵の役)。穢多(ここでは長吏・非人)は、「私服刑事」のように、百姓の身なり(農・工・商)で、その在所を出ていったとあります。大阪の城下を遠く離れた「鄙にては、この徒を称して犬と云ふ」とあります。「犬」というのは、拷問を受けた経験がある百姓たちによって作られた近世警察官に対する蔑称なのでしょう。現代的に言えば、酔っ払いが警察官に対して使う「ポリ公」なんていう言葉が該当するかも知れません。

「四カ所」に出入りするのは、男性だけではありませんでした。女性もいます。「おさめ」(「長女」。女性の長吏のことか・・・)。いわゆる、近世警察の婦人警察官(女性警察官)であると言っても過言ではありません。長女は、道路から異物を取り除き往来の安全確保の仕事をしていました。江戸時代にあっては、女性の穢多(ここでは長吏・非人)は、司法・警察上重要な役を担っていました。女囚の世話・監督をするのも女性の穢多(ここでは長吏・非人)ですし、取調をするのも女性の穢多(ここでは長吏・非人)が大きく関わっていたようです。明治以降は、女性は被差別の立場に置かれて行きますが、近世幕藩体制下の女性の位置は、明治以降の近代教育の中で教えられてきた像とは相当大きくかけ離れています。

穢多の在所のひとつに「市南の渡辺邑」があります。

大阪の商人として長者番付に名前が上るような富豪が二人いたといいます。喜田川の目からみると「家宅壮麗にして巨万の金を蓄へ、皮革の類を諸国に漕してすこぶる大賈に比す」と映ります。

司法・警察の職務に向いていない穢多は、他の家職に従事しています。

「穢多町より出て市中を巡り行く」穢多は、「穢多中の貧夫これを職す」とある「雪踏直し」にでかけます。大阪は、「雪踏直し」は穢多(狭義の穢多)の仕事ですが、江戸にあっては非人の仕事になります。

広義の穢多は、その家職として、「雪踏」や竹を素材にした高級草履を作成していましたが、喜田川は、「藁草履等、武家中間内職にこれを製し売り巡る」といいます。幕藩体制化の大阪で、生活苦から藁草履を売り歩いていたのは、穢多ではなくて、武家・中間だったのか・・・、驚かされます。

渡辺村に出入りする穢多について、喜田川は、このようにも述べています。

「大阪火災の時は、大阪の南、渡辺と云ふ穢多村よりも火消人足を出す。しかれども町奉行より命ぜざれば、近所に屯して消防することを得ず、命を得て後消防はなはだ烈し。年々その功あるにより、従来無纏なりしを、文政中町奉行これを賞して纏を給ふ。以来これを用ふことを得たり。」

「常民」の立場から、喜田川が見た、「非常民」の姿はこのようなものであったのでしょう。

しかし、歴史学上の差別思想である「賤民史観」から見ると、なぜか、「人の嫌がる仕事を強制された」「みじめで、あわれで、気の毒な」、衣服と住居を制限された被差別民としてその目に映るのです。「はじめに賤民史観ありき」という歴史学者の予見と偏見に満ちた部落史研究は、最初から、差別解消にはつながっていません。

現代の大阪の穢多・非人の末裔(?)も、この「賤民史観」をもって、自己理解にかえています。

「賤民史観」は、明治以降の融和事業・同和事業対策の根拠となりました。そして戦後の同和対策審議会答申によって、33年間15兆円という巨額な施策が実施されました。しかし、依然として部落差別は解消していません。野口道彦・宮崎学等は、部落解放同盟と一緒になって、事業継続と、あらたな新規事業獲得を目指すために、「賤民史観」を継承し、新たな差別理論(部落拡大論)を打ち出しています。差別・被差別の関係をあいまいにし、あらたな「被差別」像を捏造しようとしています。

大切なのは、日本の社会から部落差別を取り除くことであって、各種運動団体の利益の追求と存続のためにありもしない「賤民史観」を強化・捏造していくことではありません。

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穢多の在所は穢多が何であるかを規定できない

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 5.穢多の在所は穢多が何であるかを規定できない



「穢多の在所」について、もう一度考察してみましょう。

「穢多の在所」は、いろいろな場所が想定されます。

長州藩の「穢多」・「茶筅」・「宮番」という近世警察の場合、「穢多」の在所の主要なものは、穢多村であると言え ます。長州藩の枝藩である徳山藩の場合、城下に近いところに四カ所、穢多村が配置されました。

しかし、どの穢多村にも牢屋は設置されませんでした。徳山藩の牢屋は、穢多村から離れた場所にある海岸沿いに設置されました。

徳山藩の穢多たちは、その牢屋の牢番を命じられたとき、在所の穢多村から、勤務場所の牢屋へ通わなければなりませんでした。しかも、徳山藩の牢番や固護の役は、その四カ所から、交代で勤務する習わしがありました。

「穢多」という概念は、徳山藩では、包括概念であって、大概念としての「穢多」の中には、他藩でいう穢多・茶筅・宮番・非人など、幕藩体制下の近世警察に関わるすべての人を含んでいました。

徳山藩の「穢多」が何であるのかを考察するときに、「穢多」の在所がどのようなところであるのか、いくら検証しても、「穢多」そのものの理解にたどりつくことはできません。徳山藩の「穢多」が何であるのかを確定するためには、「穢多」の在所ではなく、「穢多」の身分、「役務と家職」を明らかにする必要があります。

「穢多」の在所は、「穢多」が何であるのかを規定することはできないのです。

岩国藩では、集団で存在する「非常民」を「久保の者」と呼びました。そして、どちらかいうと少数点在で存在する「非常民」を「道の者」と呼びました。「久保の者」は、穢多のことで、「道の者」は茶筅のことでした。

茶筅の場合は、半島や島、山間部の街道沿いの警察業務上の重要な拠点に配置されました。

しかし、それぞれの茶筅が配置された具体的な場所をいくら調べても、茶筅が何であるのかを規定する要因は出てきません。

宮番についても同じことが言えます。

穢多・茶筅・宮番という、近世幕藩体制下の警察であった彼らが、居住していた場所をいくら調べても、彼らの本質につながるものは何も出てこないのです。長州藩に限りません。諸藩においても同じことが言えます。

日本歴史学の差別思想である「賤民史観」によって、意図的に、穢多・茶筅・宮番に負のイメージを植えつけるなら別ですが、彼らの在所は、彼らが「穢多」であることを何ら証明するものではないのです。

山口県立文書館の元研究員・布引敏雄は、「外部世界から隔離」されていたのは、垣の内に「居住せしめられた人々」であると言いますが、前項で既に記述した通り、そのように断定するのは少し無理があります。

彼の論文に出てくる「吉敷郡下宇野令羽坂」の「垣ノ内」には、穢多は穢多でも実に多種多様な人々が居住していたことが想定されます。この「垣の内」の場合、その内部に牢屋を設置していました。そして、この牢屋の固護のために番所が併設されていました。

この「垣の内」の中では、軍需品が製造されていました。鎧・鞍・太鼓・鉄砲・弓矢などの武器や武具を生産していました。現代的に言えば、「軍需工場」的色彩を持っていました。しかし、それらによって得ることができる収入は、「垣の内」全体の収入の25%に過ぎませんでした。75%は、雪踏表・竹皮草履等の作成、農地から収穫した米・麦・大豆・蕎麦・栗・黍・里芋・大根・綿等に、穢多の家職によるものでした。

沖浦和光は、『ケガレ差別思想の深層』(解放出版社)の中で、大阪の南河内の更池村に触れて「その居住区を竹垣で囲んで出入りを統制する・・・この掟に定められた竹垣は、皮多の身にまつわるケガレを閉じ込めておくという意味があったのではないでしょうか。」と述べています。「垣の内」に閉じ込められていたのは、具体的な、その住人である「穢多」ではなくて、極めて抽象的な「ケガレ」だというのです。沖浦は、「垣の内」に閉じ込められたものを抽象化していくことで、「垣の内」を神秘化・神話化していきます。「垣の内」に閉じ込められた「ケガレ」というのは一体何なのでしょう。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」は、「垣の内」の内部を、神秘化・神話化して、穢多に対する差別の根拠にしようとします。しかし、「垣の内」からは、穢多が差別の対象となるような理由は見いだすことはできないのです。

ここで、『部落学序説』5番目の命題を設定します。

命題1:穢多は非常民である。命題4:穢多の身分は役務と家職によって構成される。この二つの命題に加えて、新しい命題を次のように設定します。

命題5:穢多の在所によって、穢多を規定することはできない。

『部落学序説』の筆者が、「穢多の在所によって、穢多を規定することはできない」という命題を設定することについて、不思議に思う必要はありません。『近世身分と被差別民の諸相<部落史の見直し>途上から』(解放出版社)の著者・寺木伸明は、穢多の居住区を幅広く検証することで、穢多の在所は、穢多を規制することが少ないことを示しています。穢多身分のより本質的な規定は、在所(「居住地」)ではなく、「職業と役負担」であると主張します。

「穢多」の居住地が、現代的な意味での差別の対象になっていくのは、明治以降です。

その居住地が再定義されることで、「部落民」概念も再編成されていきました。明治以降、「旧穢多村」、「特殊部落」、「被差別部落」と、三次に渡って、「部落民」の居住地が再定義され、その都度、「部落民」の外延も再定義されていきました。そして現在では、第4次の再定義の段階に入ろうとしています。

「部落民」の在所が、再定義されればされるほど、「部落民」概念の外延が増大していきます。

部落差別問題は、歴史学上の差別思想である「賤民史観」を破棄しないと達成できないと思われますが、その中には、部落差別の原因を部落民の居住地に求める視座の破棄が含まれます。

部落差別の真の解消は、明治以降の歴史が物語るように部落民の拡大路線によっては解決できないのです。部落差別の真の解消は、「部落民」概念の縮減によって、「部落民」の本質を明らかにして、根源的に問題を解明していく以外に道はないと思われます。

次回は、第3章1節の穢多身分に関する考察を終えて、2節の穢多の役務に関する考察に入ります。

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