2005.09.01

穢多という身分

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第3項】穢多という身分



歴史学上の差別思想である「賤民史観」によると、近世幕藩体制下の身分制度は、「士農工商穢多非人」という図式で 表現されます。

旧聞に属しますが、1988年8月16日の朝日新聞に「差別紙芝居」事件の記事が掲載されていました。

kamisibai1 山口県教育委員会が婦人団体向けに実施した「同和教育婦人リーダー交流研修会」の席上、その研修会の講師をされていた、山口県教育委員会同和教育課指導主事が、小学校の教師をしていたときの同和教育の実践事例として紹介された児童作成による「紙芝居」の中に、「江戸時代の被差別階層をことさら辱めるような表現の絵があった」として、その集会に被差別部落側から出席していたひとりの女性によって、差別事件として、県教委が抗議を受けたという報道でした。その記事の中で、このような説明がなされています。

「紙芝居は指導主事が同県豊浦郡内の小学校教諭をしていた五十六年に、社会科の授業で当時の六年生に描かせた。テーマは「士農工商から四民平等へ」で、検地、刀狩り、農民一揆、大政奉還など農民側からみた歴史的出来事をクレヨンや水彩絵の具で十一枚の絵にまとめている。問題になったのは士農工商と「その他」の五つの階層を表す人の絵が描かれた一枚。「その他」の人は、頭の真ん中をそりあげてまげも結わず、全身裸にはだしで腰みのだけをつけ、手には棒という異様な姿。」

研修会に参加した被差別部落の女性から、「差別を助長する」表現であると指摘され、差別事件としてクローズアップされたものです。

その2年後日本放送出版協会から出された『部落史をどう教えるか』という本の中で、NHKのディレクター・福田雅子による「差別紙芝居事件」の取材記事が掲載されていました。そこにはこのように記されていました。

「紙芝居は、小学六年生の授業で「士農工商」について学んだ児童たちに、身分制度の姿を浮きぼりにすることを目標にして描かせた六枚の絵から成っていた。問題を提起されたのはこのうちの一枚で、士農工商と〃その他〃を、階段状に図示し、身分制度の最下層に〃その他〃を位置づけ、そこには「裸で蓑を腰に巻き、右手に槍を持った姿」が書き添えてあった」。

福田はさらに、研修会で、その紙芝居を見たとき「ひどい」と声を発した被差別部落の女性の言葉を載せています。

「この紙芝居の絵を見た部落の子供たちが、上半身裸で腰に蓑を着け、槍を持った姿の自分たちの先祖を見て落胆しないだろうか。自分たちの誇りを傷つけられ、生きる力をくじかれるかも知れない。そしてかっての私と同じように卑屈になって、自分が部落出身であることを隠そうとするだろうと。」

私は、この二つの記事をよみながら、あることに気がつきました。それは、近世幕藩体制下の身分制度として学校の教育現場で教えられている「士農工商その他」という図式の「その他」の人物が手に持っているものが、「棒」から「槍」に変化していることです。「差別紙芝居」事件発生から2年が経過すると、記憶に変化が生ずるのは止むを得ないけれども、「棒」から「槍」に変化しているのは、何故なのでしょうか。

いつか、当の本人に尋ねてみようと思いつつ、今日まで、その機会を得ることはできませんでした。その女性が、「棒」から「槍」に変えたのは、何故なのか・・・。事件発生の次の年、読売新聞の取材では、「棒」は、「棒切れ」になっていました。

その女性が住んでいる場所は、旧徳山藩の北穢多村があった場所です。

江戸時代の身分は「穢多」です。「穢多」は徳山城下に至る山陽道沿いにあって、街道の警備のために設置されていました。彼らが身につけていた捕亡具のひとつに六尺棒があります。時代劇でよく見受ける六尺棒です。それが、1年後の読売新聞取材の記事では、単なる「棒切れ」に。

kamisibai2 被差別部落の女性は、自分たちの子供に、先祖は、「棒切れ」ではなく、「槍」を持つことが許された身分であるということを教えたかったのか・・・、私は勝手な推測をしていました。その女性はいつ、そのような発想の変更をなしとげたのでしょうか・・・。

差別紙芝居事件が発生した年の秋、山口県同和教育研究協議会主催の研修会で、講師によって、この事件のことが取り上げられました。そのとき、講師のひとりであった大阪市教育セミナー教育研究室の稲垣有一は、《部落問題学習をどうすすめていくか》という主題で講演をされました。

稲垣は、国立大学の同和教育論で習った「士農工商その他」という身分制度の図式は、「その当時は、正しいと思っていた。しかし、今では間違っていると思っている」と話していました。そのあと、彼は、「士農工商その他」という図式に代えて、「まだ誰にも認められていないが・・・」と言いながら、「部落民裏貼説」の図式を披露されました。

しばらくしてから、山口県同和教育研究協議会の先生方から電話で、稲垣が「士農工商その他」という図式に代えて、黒板に書いた図式をメモしているかどうかという問い合わせがありました。どういう図式を書いたのか、参加された先生方で記憶をたどっているうちに、正確に記憶している教師は誰もいないことがわかった。参加者のうちで、正確にメモをしている人はいないか探していたら、私の名前が浮上してきた・・・というのです。

稲垣がいう「部落民裏貼説」というのは、近世幕藩体制下の穢多・非人は、「士農工商」の下にいたのではなく、士農工商の「中」にいたという説です。武士の中にも「穢多」はいたし、百姓の中にも「穢多」は存在していたというのです。「農」の中にも、「工」の中にも、「商」の中にも、「穢多」は存在していたというのです。

「賤民史観」の中にどっぷりと身を浸けている山口県の学校の教師たちは、稲垣の「部落民裏貼説」を、一度講演を聞いただけでは理解することができなかったのでしょう。「穢多・非人」は、「士農工商」の下にいたのではなく、「士農工商」の中にいた・・・、という稲垣の説は、既に「賤民史観」の見直しがはじまっていることを示していました。

稲垣の「新説」が、その後どのように展開されていったのか、私は寡聞にして何も知りませんが、稲垣の身分制度の通説に対する批判的な視座は、身分制度見直しに対する私の関心をかき立てました。

まだ、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いを経験する以前の話ですから、私の理解は、まだまだ、「賤民史観」の真っ只中にありました。忠実に、「士農工商穢多非人」という差別的な図式を信じていました。ですから、稲垣の、「士農工商穢多非人」という図式を退けて、その代わりに提案された「部落民裏貼説」は、驚きの思いを持って受けとめました。

「棒切れ」から「槍」への変化は、大きな意味を持っていました。なぜなら、「士農工商その他」の「その他(穢多・茶筅・宮番等)」身分が手に持ってるものは、単なる「棒切れ」ではありませんでした。

あとで分かったことですが、「士農工商その他」の「その他(穢多・茶筅・宮番等)」が手に持っている「棒(六尺棒)」と「槍」は、共に、近世幕藩体制下にある非常民必須のアイテムでした。ある被差別部落の女性が住む、徳山藩北穢多村は、徳山藩が飢饉のおり、百姓救済のために米俵を差し出した「穢多」に対して藩が与えた報奨は、従来「六尺棒」しか持っていない穢多に「槍」を携帯する許可を与えたことでした。「六尺棒」と「槍」、いずれも、「非常民」の道具した。

kamisibai3もしかしたら、被差別部落の女性によって、「誇りを傷つけられ、生きる力をくじかれる」と言われた、あの「差別紙芝居」は、被差別部落の人々に、誇りと、生きる力を与える別な要素を内蔵していたのかも知れません。天保2年の一揆のとき、その「穢多村」は、百姓から、襲撃を受けます。そのとき、穢多は槍を持って、その百姓に対峙します。穢多村を襲って、その家々に火をはなち、穢多の諸道具を焼き捨てた一揆に参加した百姓たちに、穢多が槍をつきつける・・・

それが何を意味したのか、それに直接触れる研究者はひとりもいません。徳山藩の記録によると、近世警察官たる穢多たちは、自分たちの村を、一揆を起こした百姓たちによって焼き払われたにもかかわらず、警察官たるものの職務に忠実に、冷静に対処したとのことで、藩からおほめの言葉を頂戴しているのです。「六尺棒」と「槍」とは、近世警察官たる「穢多」の象徴でもありました。それは、怒りにまかせて他者を傷つけるためのものではなく、近世警察官の職務を執行するために、他者と自分とを守る道具でした。

被差別部落の女性が、「棒」から「槍」に表現を代えたのは、「棒(六尺棒)」を「棒切れ」としか表現しなかった読売新聞の記者に対する、徳山藩穢多村に先祖を持つ彼女の無意識の反論だったのかもしれません。

徳山藩の「穢多」身分は、包括概念です。

徳山藩は、天保2年の頃、「穢多」という概念で、「穢多・非人」を表していました。長州藩本藩で、「非人」に課せられた職務も「穢多」が担っていました。徳山藩の「穢多」という概念は、さらに、長州藩本藩の「穢多・茶筅・宮番」をすべて内包する概念でした。徳山藩では、「穢多・非人」という近世警察・非常民のすべてが「穢多」という概念に集約されていたのです。

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※この写真の撮影日付は、88.8.8です。部落解放同盟山口県連による山口県教育委員会に対する糾弾会のとき撮影されたものですが、その時から、18年が経過しています。この糾弾会が成功したのかどうか、その後の報道がありませんので、筆者は知る術もありません。風の噂では、差別事件の代償として同和対策事業を獲得して終わったとか・・・。この「差別事件」が、同和教育に対してあまり効果を発揮しなかったのは、「被差別部落」の側が、自分たちの歴史について確固たるものを持っていなかった点にあります。「被差別部落」の歴史を、学者・研究者・教育者にゆだねて、みずから探求の努力をしなかったことが大きな一因をなしていると思います。「差別紙芝居事件」から18年、決して短いと言えない歳月、山口県の「被差別部落」の人々は、自分たちの歴史を、どのように掘り下げていったのでしょうか・・・。(下図:名和弓雄著『十手・捕縛事典』雄山閣)

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