2005.09.01

百姓の目から見た長州藩青田伝説

【第2章】部落学固有の研究方法
【第4節】長州藩青田伝説にみる賤民史観と穢れ
【第1項】百姓の目から見た長州藩青田伝説



長州藩青田伝説・・・。

近世幕藩体制下の周防・長門両国に流布されていたという長州藩青田伝説を、部落史の世界に全国デビューさせたのは 、当時、山口県立文書館の研究員をされていた布引敏雄でした。布引が、長州藩青田伝説をどのように受け止めていたのか、彼の主著である『長州藩部落解放史研究』の《長州藩天保二年一揆の一断面-エタ騒動にみる民衆の意識情況-》を読めば大概のことはわかります。

しかし、ここでは、私が調べた長州藩青田伝説をご紹介します。

布引の説だけでなく、他の研究者の説もあわせて検証した結果、私は、長州藩青田伝説を次のように解釈します。

長州藩青田伝説も、ひとつの「伝承」である以上、その中には、歴史的な核(歴史上のなんらかの意味)が存在します。 私は、長州藩青田伝説生成のメカニズムを次のように考えています。

長州藩は、「稲の穂はらみ」の頃、その年の「冷害」・「干害」の可能性を考慮しながら、藩財政安定化のための様々な施策を検討していたと思います。「冷害」にしろ、「干害」にしろ、長州藩に入る税収は、減少してしまいます。長州藩は、最大限に拡大した毛利六カ国といわれた時代から比べると、幕藩体制下では、反徳川に加担したということで、 防長2カ国(周防国と長門国)に、事実上封印されてしまいます。毛利は多くの家臣団を抱え、防長2カ国で毛利存続の方策を立てていきますが、藩財政は慢性的に緊迫したものがありました。

長州藩は、藩をあげて、財政の健全化に尽力しました。

「冷害」・「干害」の被害、米の収穫高の減少ないし激減が想定されるときには、米の収穫高の減少を穴埋めすべく、藩の独占品である、「四白」のうち、米をのぞく三白(塩・紙・蝋)の生産高をあげる努力をしました。藩の独占品は、それだけでなく、「皮革」もありました。長州藩が、「冷害」・「干害」で米の収穫が少ないと判断したときは、塩・紙・蝋・皮で藩収入を増やし、藩財政を潤すための様々な施策がとられました。

つまり、百姓は、藩の独占品の動向をみることで、その年の米の収穫についてある程度予想することができたのです。

米・塩・紙・蝋・皮は、それぞれ藩の「番所」によって監視されていましたが、「皮」ないし「革」を扱う権利を得ていたのは、長州藩の近世警察である「穢多」でした。近世警察である「穢多」自ら「穢多」の家職を監視することは、内部の所業に対してあまい対応になりますので、藩は、その取り締まりを百姓の側の村役人たちに命じたのです。村役人は、「皮街道」に「皮番所」をおいて、近世警察である穢多がその家職である皮革について、法令に背いた出荷をしたり、抜け荷をしたりすることがないように監視していました。

この藩の措置を、「穢多と百姓がお互いに差別し合っている」「差別させられている」と解釈する研究者が多いのですが、藩の措置は極めて合理的です。藩の武士は、ほとんどが萩城下にいて、地方の村々には、穢多と百姓しかいない村も少なくないのですから。

そのような藩のシステムが、やがて、百姓側にひとつの教訓を引き起こします。

「藩が、法令に禁止されている時期に皮の輸送をしているところをみたら、その年の稲作は不作と思え」。それが、やがて、布引がいう「迷信」、「稲の収穫期などに皮革などの「穢」れたものを持ち運ぶと、海が荒れ暴風雨となり、稲の収穫が悪くなるという「迷信」」に発展したのです。

百姓の間には、「原因」と「結果」を逆転した「迷信」が流布していきました。

本当は、「不作になる可能性があるから(原因)、皮を出荷する(結果)」のですが、百姓たちは、「皮を出荷すると(原因)」、稲が不作になる(結果)」と受け止めるようになったのです。百姓たちだけでなく、藩の武士や御用商人たちも同じ「迷信」を共有していきます。

しかし、それが迷信であることは、武士も百姓も知っている人はたくさんいました。

布引は、上記の引用文では「皮革など」を「穢れたもの」と受け止めているようですが、近世幕藩体制下を通じて、「皮」も「革」も「穢れたもの」(犯罪に直接関係したもの)ではありません。皮革そのものが穢れているのではなく、藩の法令に違反して、違法に皮革の出荷や抜け荷をすることが「穢れ」(法的逸脱)なのです。

「賤民史観」にどっぷりと身をつけている布引は、長州藩青田伝説の中に、「部落民と百姓の対立」、「藩権力による百姓・エタ間の差別の利用」を唱え、「差別と迷信は相互に作用し合って拡大してゆく」と主張します。布引の説は、青田伝説の担い手は、無知蒙昧な百姓の間で流布していた「迷信」であることを強調しますが、布引の説は、そのことで、藩の支配者である物産方の武士の側については不問に付していくのです。

布引の説は、「百姓」や「穢多」を蔑視して成り立つ「愚民論」に立っているのです。

布引にとっては、「百姓」や「穢多」なる存在は限りなく愚かに見えるのでしょうか。布引は、民衆を限りなく貶める解釈の方を採用します。

長州藩青田伝説は、もうひとつの伝承と融合することになります。

それは、竜神伝説です。長州藩の瀬戸内海沿岸地域には、いくつかの竜神伝説が伝えられています。その竜神伝説は、2種類あります。ひとつは、「般若姫伝説」にみられるような、荒れた海を静めるために、海の竜神に、人身御供をささげて、船の難破・破船を免れるという話です。もうひとつは、長州藩青田伝説と直接関係のある竜神伝説です。

それは、竜神の住む海に「汚れたもの」、牛馬、牛馬の皮、牛馬の骨、蛇、藁や紙で作った牛や蛇・・・を投げ込むと、竜神が怒って、台風を来らせるという伝説です。現代社会においても、この伝説は意味を持っているように思います。竜神の住む海に、「汚れたもの」、産業廃棄物や生活廃棄物を投与して汚染すると、やがて、竜神が怒って、激しい暴風雨を呼び寄せ、その汚れをどこかに運びさってしまうのです。ついでに、米の豊作も奪いさってしまいます。伝説は、あるいは、伝承を研究するに際して、民俗学者の柳田国男の「事実を基にして考てみる学問、どんな小さな事実でも粗末にせぬ態度、少し意外な事実に出会うと、すぐに人民は無知だからだの、誤っているのだのと言ってしまわずに、はたしてたしかにそのようなことがあるのか。あるならどういう原因からであろうかと、覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法の、国の将来の計画のためにも入用な時代は来ているのである」・・・、という指摘を無視することはできません。しかし、布引は、百姓の言葉には耳を貸したくないかのごとく、百姓の言い分を、史料で確認していながら、ばっさりと切り捨ててしまいます。

もうひとつの竜神伝説は、長州藩の中関周辺に伝わった特異な伝承です。

長州藩は、下関・上関という天然の良港を持っていましたが、幕藩体制下において、幕府から瀬戸内の海上交通の整備のため(長崎江戸間の交通安全を確保するため)、下関と上関の間に港を造ることを命じられます。それで作られた港が丸尾崎港、中関でした。丸尾崎、昔から海路に立ちふさがる難所のひとつでした。

丸尾崎沖の台風の凄さを記録した人に、『幕末日本探訪記』の著者・ロバート・フォーチュンがいます。

彼は、イギリスの蒸気船・イングランド号に乗って、瀬戸内海を東から西へ船旅をしますが、三田尻(中関)に寄港して次の日出港しますが、周防灘で暴風にあいます。その年でいちばん遅くやってきた台風だったのでしょう。彼はこのように記しています。

「特に周防灘は猛烈な強風で知られている。・・・朝から始まった暴風は、午後にはますます激しくなった。風は持続的ではなかったが、恐ろしい突風を起こした。危険を冒して甲板に出ている者を、海中に吹き飛ばすほど烈しいものだった。装置したトライスルは、帆が引き裂かれ、恐ろしい暴力で振り回されて、海に投げ込まれた。まるでブルドッグが猫を引き裂いて振りまわし、怒って投げつけて殺したような光景を想起させた」。

彼の乗った蒸気船・イングランド号は、進路を逆にとり、いのちからがら、「天然の良港」である上関に避難するのです(この天然の良港であり、自然の恵み豊かな海域に、日本政府は原子力発電所を建設しようとしています)。

「正保二年七月、幕府の正使として長崎に下る目付新見七右衛門正信(備中守)の乗船が、台風のため丸尾崎の沖合で難破」することもありました。

この丸尾崎の竜神伝説の信奉者は、「百姓」ではなくて、長州藩の物産方の役人(藩士)と、長州藩の御用商人たちでした。米が豊作であったときは、百姓はこぞって喜びます。しかし、全国的な豊作が予見されたときは、藩の物産方の役人にとっては、不安な日々が続きます。大豊作のときには、米値が下がり、最終的には、藩収入が激減してしまうからです。当然、米を商う御用商人の収入も減ってしまいます。そこで登場するのが、藩と御用商人の収入を増加させるための宗教的儀式・祈願でした。

彼らは、竜神の住む丸尾崎で、ひとつの宗教的儀式をおこないました。

それは、竜神が嫌う「汚れ」を海の中に投げ込んで、竜神を意図的に怒らせ、その結果として、台風の襲来を呼び寄せるというものでした。布引も、当時の民間の史料を使いながら、「産物役所や勝手方等が米価を高騰させるために凶作を祈って・・・蛇と牛の生皮を投げ入れたという風評」を伝えています。また『有武日記』にも、「相場師らが暴風雨を祈った」ことをとりあげています。「藩役人・米商人・相場師らによって米価の騰貴を狙った皮革の海中投入」等は、武士を中心に一般的におこなわれていたのは事実のようです。

布引によって、長州藩青田伝説が引用される場面は、長州藩の天保二年に発生した一揆でした。

藩主の奢侈と、藩の経済政策失敗による藩財政の悪化、増大する赤字を何とか解消しようとして、強引になされる藩の税収拡大策、「お上の命令には下々は従わざるを得ない」という漠然とした期待感のもと、藩は、信じ難い奇策さえ採用するのです。一揆のとき、長州藩を旅していた人は、百姓の立場からこのような記録を残しています。「銘々寒暑の厭いなく農業出精し候も、何卒豊作致し、年貢上納滞りなく仕候て、其余を以て親・妻子を養ひ申すべしと存候処、凶年を祈り斯様の事を仕出だし候事、天理・人事に相背き申候。」(『浮世の有様』)

長州藩青田伝説という伝説を「迷信」として信じていたのは、実は、百姓の側ではなくて、藩の支配者の側であったわけです。百姓が、暑さ寒さに精を出し、米を作ってきた。藩にささげる年貢は百姓一同、滞納することなく納入してきた。今年は、豊作で、少しは家族に贅沢をさせてやれると思っていたとき、藩の役人が、百姓の豊作祈願を台無しにするように、丸尾崎に汚れたものを投げ捨てて竜神を怒らせ台風を呼び寄せる「風招き」の所作をしたという、藩の財政さえ潤えばいいという、百姓のささなかな生活を犠牲にして省みない藩に対する百姓側の怒りを伝えたものです。「天理・人事に相背き申候」という訴えは、「迷信」にとらえられて、政道のあるべき姿を忘れた藩権力に対する百姓の直訴の内容を伝えています。

布引は、百姓の、この「凶年を祈り斯様の事を仕出だし候事、天理・人事に相背き申候。」という一文は紹介しないで、闇の中に葬り去ってしまいます。そして、天保一揆は、百姓の間に伝えられていた「「迷信」に端を発していた」と主張するのです。布引は、「「迷信」に百姓らは完全に束縛されていた」と断定するのです。

「賤民史観」(「愚民論」)にどっぷりと身をつけている布引は、「穢多」たちに対してだけでなく、「百姓」に対しても、負の部分をすべて強引に押しつけます。歴史学者として、正当な史料批判の手続きを経ないで、また、伝承の恣意的な解釈をすることによって、歴史の事実とは異なる世界を捏造していきます。

布引の牽強付会的な解釈によって、史実とは異なる解釈が、「賤民史観」の世界、「部落史」の世界で一般化・普遍化された例は2、3にとどまりません。彼の部落史研究のすべてに渡って、同様の姿勢をみてとることができるのです。

山口県の部落史の研究家や教育者は、「布引を批判してはいけない」とよく言います。

それは、「山口県で部落史を本格的に研究したのは布引だけである」という「共通認識」にあります。長州藩の部落史を研究してきた「仲間」は、「布引とその説を守らなければならない」というのです。彼らによると、布引を批判すると、「左」の立場を離れて、論争の敵である「右」に利することになるというのです。「研究者」の口から何度も耳にした言葉です。

しかし、私は、由緒正しき貧百姓の末裔です。百姓を限りなく貶める解釈しか採用しない布引は、当然批判の対象になります。「賤民史観」は、「穢多」だけでなく「百姓」にも向けられているからです。天保一揆を起こした百姓に対して、『毛利十一代史』は、本藩・枝藩を問わず、「土民」という蔑称で呼んでいます。布引の中にも、それをとりまく学者や研究者、教育者の中にも、長州藩の権力側に身を置いた人々と同じ発想があるのかも知れません。百姓の末裔でしかない、現代の無学でただの人でしかない私は、布引に組することはできないのです。

私の目には、布引は「左」ではなく、限りなく「右」に見えるのですが、学歴も資格も、地位や名誉も持ち合わせていないただの百姓の末裔にとっては、「左」も「右」も関係がありません。必要なのは、歴史の真実だけです。よくもわるくも本当の姿を知りたいだけです。

次回は、布引敏雄の「賤民史観」と「穢れ論」を批判します。

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布引敏雄と長州藩青田伝説

【第2章】部落学固有の研究方法
【第4節】長州藩青田伝説にみる賤民史観と穢れ
【第2項】布引敏雄と長州藩青田伝説



民俗学でいう「ケガレ」は「気枯れ」、歴史学でいう「ケガレ」は「穢れ」を意味していることはすでに述べてきたと おりです。

この場合「穢れ」というのは、法的逸脱を意味します。

何が「穢れ」であるのか、という問いに対する答えは簡単です。「穢れ」は、幕藩体制下の幕府や諸藩が出したお触れ(法)に対する逸脱で、日本において政治・支配が開始されたときから必然的に存在します。

古代の律令制度においてはもちろん、中世・近世・現代においても、法は、国家による民衆支配の重要な装置になります。

法の淵源として、通常、成文化された法・成文法と、成文化されていない法・未成文法に分類されます。このふたつの形式の法は、いつの時代にも、共存していました。古代・中世・近世・近代を問わず、法の淵源は成文法と未成文法の両方を含んでいました。笠松宏至著『法と言葉の中世史』(平凡社)によると、中世において、法は「慣習法が大きな部分を占めていた」といいます。中世においては、成文法と慣習法の「境界は、きわめて特別の場合のほかは、意識されることはなかった」といいます。

笠松によると、中世の民は、その時代の法を意識することなくして生活することは難しかったといいます。笠松によると、中世社会は、「どんな思いがけない法が彼の敵から主張されるかわからない」社会であるといいます。さらに、中世社会においては、「人は法を意識することなしには自分の身を守ることはできなかった」といいます。
また、「然らば即ち格は律令の条流、政教の輗軏、君と百姓のこれを共にするものなり」という貞観格の序を引用して、「立法権者たる天皇であれ、辺境の百姓であれ、ほとんど同次元の「法意識」をもってこれに対応せざるを得なかったのが中世的現実であったことを知っておく必要がある」と指摘します。法は、権力が任意に定めるもので、法的逸脱である「穢れ」もその中で規定されるものです。「何が穢れであるか」、それは、その時代の権力が定立したものであると言えます。

長州藩青田伝説に関する、長州藩の歴史資料を見ていると、皮革にまつわる「穢れ」というものが、藩権力の恣意に委ねられていることがよく分かります。

百姓所有の馬が死んだとき、その皮は藩に提出しなければなりませんでした。しかし、青田の節には、百姓は、穢多がその皮を引き取りにくることを忌み嫌ったのでしょう。百姓の中には、死牛馬を焼き捨てたり、土の中に埋めたりするものが出てきます。藩は、皮の収集は、「軍用」であり、それを阻害する百姓の営みは厳重に処罰するとのお触れをだしています。

牛馬の皮の船積みに際しても、10月より翌2月までの期間に行うよう穢多にも通達をだしているが、例外として、その期間を越えて皮の積み出しを行うこともあると規定しています。そのときは、藩の「送り状」を掲示しているので、その場合は、たとえ期間外の搬出であったとしても皮番所の役人は搬出の障碍になるようなことをしてはならないとの通達もだしているのです。

長州藩青田伝説でいわれる皮革の積み出し期間の外であっても、藩が搬出する皮革の荷に「送り状」を掲示している場合は、「穢れ」ではないというのです。上記の例から見てもわかるように、「穢れ」(法的逸脱)というのは、権力の恣意によって、如何様にも判断されるということです。

明治6年、明治政府は近代国家に変貌すべく、太政官布告「自今混穢ノ制被廃候事」という混穢の制廃止の通達がだされるのです。古代律令制度にはじまる一切の習俗と化した「けがれ」は廃止されるのです。何が「けがれ」であるのかないのか、それは、天皇制度の中の権力によって規定されるのです。

布引敏雄の『長州藩部落解放史研究』は、簡単には入手・閲覧できないと思いますので、布引説を採用した原田伴彦著『被差別部落の歴史』の一節をとりあげてみましょう。原田は、長州藩の天保2年の一揆が、青田伝説が原因で起きたことを確認したあと、このように布引の論文を要約します。

「この一揆は、藩権力の支配と圧政に対する農民の怒りの爆発でした。しかしその怒りが逆に彼らよりも下の部落民に対する凶暴な仕打ちとなってあらわれたことに差別の根強さが示されています。また一揆が部落民に対する百姓の差別的反感をきっかけに爆発したことが注目されます。部落民がその強制された仕事である皮革業によって営々と努力しながら生活を向上させていったことさえ、農民にとっては不満の種であり、部落への反感を強めるものでした。これは農民の物心両面の貧しさと、そのような貧しさに追い込んだ藩の政治支配と愚民政策のなせる業だったと言えるでしょう。農民たちは凶作に対するたえざる不安の中にあって、政治のしくみにその目を向けることができず、部落に対する迷信と反感によってその苦しみを癒そうとしていたのです。・・・このような差別と迫害のうちにあって部落民はいつまでも手をこまねいて、差別を甘受していたわけではなく・・・長州一揆のときも部落がまったく農民のなすがままに蹂躙とはずかしめをうけたわけではありません。部落がわは農民に対してかなりの抵抗をしています。ところが藩の役人は抵抗をやめない部落民を打ち殺すように農民を指図しています。・・・幕藩権力はこのように民衆どうしの対立をそそのかし、それをあくまでも利用しようとしていたのです。」

原田による布引論文の要約のすばらしさを前にして、「さすがは学者・・・」と思わざるを得ないのですが、「賤民史観」は、各地方の研究を集積して、それを、中央の「賤民史観」研究家の手によってまとめられていったものなのでしょう。原田が、布引の論文を自分で、どれだけ確認していったのか、知るよしもありませんが、おそらく、「賤民史観」構築の「仲間」として、無条件に布引の説を採用していったのではないでしょうか。

原田の手に渡ることによって、長州藩青田伝説と天保一揆は、「賤民史観」を裏付ける貴重な材料として採用されていきます。

原田の布引論文の要約から、原田や布引の「賤民史観」を検証してみましょう。

(1)近世警察である「穢多」と明治政府によって棄民扱いされた「特殊部落民」を同一視していること。
(2)「穢多」を「農民」より下の身分秩序に位置づけていること。
(3)「穢多」と「農民」の対立を「民衆同士の対立」に還元(分裂政策)し、長州藩の不法と不正については不問に付していること。
(4)「穢多」の家職として「皮革」を過大評価していること。
(5)「農民」に対する差別的な予見と先入観が見られること。
(6)「農民」を愚民としてみるあまり、「農民」の尊厳を著しく損なっていること。
(7)「穢多」なる存在の本質を完全に見誤っていること。
(8)「部落民を打ち殺すように農民を指図」というのは、史料の完全な誤読であること。
(9)文章全体として、長州藩の歴史資料を「賤民史観」に見合うように、牽強付会的な強引な解釈をほどこし、著しく史実に反していること。

ひとことで言いますと、布引敏雄の『長州藩部落解放史研究』の天保一揆と青田伝説についての文章は、「賤民史観」構築の材料として、著しく改竄され、場合によっては、歴史資料そのものを無視して、布引の恣意的解釈にゆだねられた、布引自身による捏造、作話でしかないということです。布引は、「賤民史観」という色眼鏡で、長州藩のすべての歴史資料を見ているのです。

彼が論文作成に使用した資料を検証するとすぐに分かるのですが、歴史学研究の基本的なクリティークさえ無視している場合が少なくありません。二つの異なる史料があるとき、布引は、十分な史料批判をしないで、「賤民史観」構築という、布引の歴史研究の目的に沿う歴史資料の方を採用しているのです。「みじめで、あわれで、気の毒な」そんな姿が描かれている歴史資料は、すべて、「穢多」や「百姓」に割り振ります。そして、「武士」の所作の過ちを限りなく隠蔽し救済していきます。

今後、布引の部落史をめぐる諸見解は、適宜批判の対象にしていきます。

次回は、布引の部落史研究が、被差別部落の人々に影響を与えて、歴史学者である布引と、被差別部落の住人である村崎義正の間で、如何に、「賤民史観」が増幅していくかを検証していきます。

歴史学者によって、描かれる「みじめで、あわれで、気の毒な」賤民像は、被差別部落の人々に受け入れられて、また、そのことが被差別部落の人々の被差別経験に裏打ちされて、歴史学者の賤民史観が更に強化されていく、その研究論文を読んだ被差別部落の人々によって、またぞろ、賤民史観がより強化されていく・・・。そして、最後は、考えるもおぞましい部落民像が形成されてしまったことを紹介します。

「賤民史観」は、悲しむべき日本社会の病巣です。

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丸岡忠雄とふるさと

【第2章】部落学固有の研究方法
【第4節】長州藩青田伝説にみる賤民史観と穢れ
【第3項】丸岡忠雄とふるさと



山口県光市教育委員会が作成した同和問題の啓発用パンフレット『ふれあいがある ぬくもりがある わがまち・光』があります。

その中に、被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄の二つの詩が掲載されています。ひとつは、有名な『ふるさと』という詩です。

"ふるさと"をかくすことを
父は
けもののような鋭さで覚えた
ふるさとをあばかれ
縊死した友がいた
ふるさとを告白し
許婚者に去られた友がいた
吾子よ
お前には
胸張ってふるさとを名のらせたい
瞳をあげ何のためらいもなく
"これが私のふるさとです"
と名のらせたい

もうひとつの詩には、光市教育委員会によって、「10年後の詩」という注が付されています。
その詩の題名は、『時の貌(かお)』。

きょう
学校で学んだという
部落問題を父に訊ねる
中学生になった吾子の
生き生きと澄んだ瞳に
もうふるさとの重い翳りはない
無駄に流れてはいなかった。
たしかな"時"の貌を
私ははっきりと子の眉に見た

山口県で部落解放運動に参加したある青年は、丸岡忠雄の詩の中に、山口県の部落解放運動の限界をみることができるといいます。丸岡忠雄のような優秀な人でさえ、自分の子どもに、部落出身であることを直接教えることができないでいると。

丸岡忠雄にとって、部落差別から解放されるということは、被差別部落の人々が生まれ、育ち、生き、そして死んでいった、愛すべきふるさとを、誇り得るふるさととして取り戻すことを意味していました。しかし、丸岡は、自分のこどもに、父と母が生きているふるさとが被差別部落であることを伝えることにためらいを持っていて、いつのまにか時が経過、中学生になったこどもが、学校の同和教育で習ったことを他人事のように、「おとうさん、部落差別って何?」と訊ねたのではないかというのです。

丸岡が、自分のこどもにどのように答えたのかは知りませんが、丸岡は、部落差別について訊ねる自分のこどもの目に、被差別の悲しさや痛みという、「ふるさと」がもたらす「重い翳りはない」と感じるのです。

同和対策事業は、決して無駄ではなかった・・・。光市教育委員会は、丸岡忠雄の詩を借りて、光市の同和対策事業や同和教育が、10年という時の流れの中で、大きな成果を手にすることができたと自ら評価しているのでしょう。

本当に、山口県光市の部落差別問題は、解消したのでしょうか・・・。

その被差別部落にあって、「21世紀までに、部落差別をなくしよう」というスローガンの下に、政党・運動団体が一致協力して取り組んできた同和対策事業と同和教育は、所期の目的を達したのでしょうか。国による同和対策事業の終了宣言と共に、ほとんど話題にならなくなった現在、普通の市民生活をしている私の耳元には、何も伝わってきません。

光市の被差別部落は、全国の被差別部落に先駆けて、「もう差別的実体はなくなった」として、同和対策事業や同和教育の打ち切りを宣言した部落でもあります。

1985年3月にNHK大阪放送局が作成したテレビ番組『差別からの解放-胸張ってふるさとを-』の中で、大阪・和歌山・島根・福岡・鹿児島に混じって、山口の被差別部落も取り上げられていました。後日、そのディレクターの福田雅子は、《取材ノートの余白から》という文章の中で、「放送には出さなかったことば、映像にはないもうひとつの事実が、鮮やかによみがえる。」といいます。

「"ふるさと"をよまれた丸岡忠雄さんが、急性心不全で五月に逝去された。番組の冒頭に、この詩を朗読していただいた日、丸岡さんのふるさと山口県光市の海は青く、白砂に松林が続いていた。ご子息誕生から20年、その成人をよろこびながら、丸岡さんの心は、いまだに結婚差別に出会う若ものがあることを悲しんでいた。」と伝えていました。

そのときから、今日まで、また20年が経過しました。

丸岡忠雄さんの愛するご子息は、今は40歳を越えておられると思いますが、すでに結婚して、こどもを与えられ、幸せな家庭を作っておられると信じていますが、ご子息は、自分のこどもに祖父母のふるさと、父母のふるさとが、被差別部落であること、そしてその歴史を、みずから、教えておられるのでしょうか・・・。

私は、光市教育委員会発行の同和問題の啓発用パンフレットに記載された、丸岡忠雄の二つの詩を見たとき、「なぜ、彼は、自分のこどもに本当のことを伝えないのか・・・」という疑問の思いをもちました。そして、その理由を求めて、資料を漁るようになったのですが、私の目に映った丸岡忠雄「ふるさと」はこのようなものでした。

国立国会図書館に保存されている『周防國図』を見ながら、光市室積の港から萩城下へ向けて陸路旅をするときの道のりをたどると、すぐに、丸岡忠雄の「ふるさと」である場所にたどりつくことができます。

その「ふるさと」は、重要な街道の拠点で、他の多くの穢多村が配置されたのと同じ条件を満たした場所にあります。その先祖は、差別的な意図を持って、自然災害の多い場所へ押し込められたのではなく、街道警備上重要な場所だから配置されたのです。

近世幕藩体制下にあって、丸岡のふるさとは、近世警察の重要な拠点のひとつでした。

そこには、長州藩の牢屋が配置されていました。18世紀後半に、その牢屋は廃止され、「軽罪の者は山代牢屋、重罪人は萩牢に送られることに」なりました(岩本忠一著《「地下上申」絵図による浅江周辺の歴史について》)。

浅江の穢多村の穢多たちに支給される、役人に対する報酬は、当時の職人とほとんど同じでした。これは、「穢多役」という「役務」に対する報酬で、浅江の穢多たちは、その他に、「身分の低い武士」(百石以下)に許可されたのと同じ、特に、中間や足軽に許可されたのと同じ「家職」を持つことが許されていました。穢多の収入は、庄屋等の村役人や本百姓の収入と比較すると、きわめて少なかったかも知れませんが、貧農層の百姓とくらべると比較的安定した収入が保証されていました。百姓の年収というのは、稲作が主たる家職であるため、天候の如何によって収入に大きな差がでてきます。干害や冷害によって、稲が凶作に陥ったとき、一家が路頭に迷い餓死する危険性にいつも直面していました。しかし、長州藩の穢多は「役人」と呼ばれ、なんらかの形で藩から手当てが恒常的に支給されていました。凶作・豊作に関係なく一定の収入が保証されていました。

凶作によって、百姓の中から多くの餓死者がでるときも、穢多は「役人」として、一揆の発生を防止し、行き倒れになったりする人々の保護等を行っていましたので、藩から、それ相応の手当てが支給されていました。ただ、貧しい農民に対する救済費の中から、その費用が計上されていますので、穢多も貧しい農民と同じ立場に置かれていたと解釈する研究者がいますが、それは歴史資料が伝えている事実に反します。農民が飢饉で餓死しているときも穢多はその立場上餓死することはありませんでした。中には、「山口県北の、ある寒村にある被差別部落」の「穢多」たちの中には、寒い冬の朝、餓死していく農民に自分たちの食料を渡して、結果、農民と同じく餓死していった「穢多」はいますけれども・・・、例外です。

いろいろな歴史資料から、浅江の穢多村には、現在でいう「警察学校」があった可能性があります。つまり、長州藩熊毛宰判の浅江では、「穢多」・「宮番」の養成所があったということです。浅江の非常民の養成所を卒業した穢多は、長州藩の本藩領の町々や村々において「宮番」として赴任していきました。彼らは、職務に非常に熱心で、一端、所定の場所に配属されますと、ほとんど一生をそこで「宮番」として過ごしたといいます。現代的に言えば、派遣され駐在所で、村民に信頼され、愛されて、警察官としての人生を全うしたということです。

浅江には、犯人逮捕に際して使用する逮捕術(十手や六尺棒の使い方)についての固有の流儀があったといわれます。穢多・茶筅・宮番は、帯刀することを禁止された百姓だけでなく、身元不明の浪人に対する取り締まりも行っていたのです。当然、刀を振りかざす浪人を取り押さえるすべを知っていないと、一刀両断のもとに切り捨てられてしまいます。日頃の逮捕術の訓練は相当厳しいものがあったと思われます。一般的には、近世警察官としての「宮番」の職務内容は、調査までで、実際の犯人逮捕に際しては、代官所の指示のもと、代官所直属の武士と穢多の多人数によって、集団で、行われました。現代の犯人逮捕の場面とそんなに大きな違いはありません。

浅江の先祖は、近世警察官として、当時の「法」であるお触れに忠実な人々でした。
少ない収入にも関わらず、与えられた職務に、規律と責任を貫いて生きてきた人々でした。

しかし、現代の丸岡忠雄さんの「ふるさと」は、そのような歴史をすべて忘れてしまったかのような感があります。水平社宣言に、「我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」とありますが、明治以降、浅江の穢多の末裔が、「卑屈なる言葉」(自らを卑下し、自らを辱める言葉)と「怯懦なる行為」(臆病で意志の弱いこと)に陥り、「先祖を辱かしめ人間を冒涜して」きた・・・のは、なぜでしょうか。

私は、被差別部落の人々から本当の歴史を奪い、「みじめで、あわれで、気の毒な」歴史を押しつけてきた「賤民史観」にあると思っています。日本は、敗戦によって、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わりました。大幅に国民の自由が保証されました。民主主義の重要なキーワードである「表現の自由」の中には、自らの歴史を自由に語り得る権利もあったわけです。

しかし、戦後も、旧穢多のたどった歴史について、根本的に見直す機会は到来しませんでした。歴史学の実証主義に立って、様々な歴史資料から、旧穢多について調べ直すことも選択できたはずです。しかし、被差別部落の側は、自らの歴史を尊重しなかったため、間違った皇国史観や、間違った唯物史観に踊らされて、戦前と同じ、否、戦前よりももっと、「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを濃厚に持った「賤民史観」の担い手となっていったのです。

「賤民史観」は、間違った皇国史観と間違った唯物史観に共通の観念的な産物以外の何ものでもなかったのです。「右」と「左」のイデオロギー的な史観によって、旧穢多についての実証主義的研究が大きく疎外されてしまったのです。政党的に言えば、「自民党」も、「社会党」も、「共産党」も、同じ「賤民史観」の上に立っていたのです。運動論的に言えば、「同和会」も、「解放同盟」も、「全解連」も、「全国連」も、ほとんど寸分違わぬ「賤民史観」に立脚していたので、「賤民史観」を批判的に検証する雰囲気はどこにもありませんでした。部落差別問題をめぐっては、戦前・戦後を通じて、日本全体が病んでいたとしか思いようがないのです。

被差別部落の教育者であり、詩人である丸岡忠雄が、自分のこどもに、「ふるさと」の歴史・物語を、父親の言葉として語り伝えることができなかった歴史・物語とは、いったい、何だったのでしょう。

「ふるさと」のもうひとりの末裔、「教育者であり詩人である丸岡忠雄」の対極にある、「実業家の村崎義正」の公開された文章を検証することで、その謎の解明に挑戦してみましょう。

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村崎義正(運動家)と長州藩青田伝説

【第2章】部落学固有の研究方法
【第4節】長州藩青田伝説にみる賤民史観と穢れ
【第4項】村崎義正(運動家)と長州藩青田伝説



『怒りの砂』・・・。

著者の村崎義正が、なぜ、このような文書を後世に残すことに決めたのか、私は、未だに解せないでいます。
この本を読むと、被差別部落の実名と所在が出てきます。

一般の人が、被差別部落の名前や住所を明らかにすると、差別事件になります。しかし、被差別部落の人がそれらを明 かすことは差別事件にはなりません。

記録は、著者の村崎が生存されているときはもちろん、逝去されたあとも、ずっと、残ります。時代から時代へと受け継がれていきます。後世の被差別部落の末裔は、村崎と彼が書き残した文書をどのように受け止めることになるのか、筆者の脳裏にいろいろ雑念がわいてきます。

村崎の部落史の記述は、「賤民史観」に色濃く染め抜かれています。

山口県立文書館の研究員をされていた布引敏雄の『長州藩部落解放史研究』に収録されている彼の論文を下敷きにして、それを絵取ったような文章構成になっています。一説には、『怒りの砂』のゴーストライターは、布引ではないかといわれますが、真偽の程は確かではありません。この『怒りの砂』は、村崎義正によって記された、被差別部落の側の直接の記述であるとして、論を進めていきます。

村崎は、長州藩は、「士、農工商身分の下に、穢多、非人という最下層身分を法制的に固定化」したといいます。「士・農工商・穢多・非人」という近世幕藩体制下の身分制度を、通説・一般説にのっとってこのように表現します。そして、このような説明を付加します。「つまり、人間外の人間の位置に突き落とされ、同時に居住地も辺鄙な所へ押しやられ、職業まで、きびしく制限されてしまった」と。

部落史の記述の中で、「人間外人間」という表現が用いられますが、江戸時代における、「人間外人間」、人間なのに人間扱いされなかった人々というのは、近世警察である「穢多や非人」のことではなくて、キリシタンや不受不施派の人々のことではないかと思うのですが、宗教警察でもあった「穢多や非人」は、権力の末端の機関(近世警察本体)として、キリシタンや不受不施派の人々に対する弾圧に関与してきましたが、村崎は、そのことは一切触れずに、先祖である穢多が、如何にいわれなき差別を受けてきたかを滔々と語ります。

村崎は、「穢多の家に生まれたら、どれだけ努力しても、穢多の身分から、またその職業から逃れることはできない」といいます。長州藩から「与えられていた仕事は、人が嫌がる、また、恐れおののくようなものばかりである」といいます。

「いずれにせよ、死牛馬を処理し、皮革を生産するだけでも嫌われるのに、肉まで食いつくしてしまうのであるから、農民にとって、胴震いするほど恐ろしいことであった。人の世にあってはならないことであり、死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えたに違いない。」といいます。

近世幕藩体制下の百姓は、近世警察である「穢多」に対して本当にそのようなイメージを抱いたでしょうか。「死牛馬に群がる情景は、正に地獄図」・・・、と。幕末・明治初期にあっては、穢多が、百姓の見ている前で、死牛馬の毛皮を剥ぐ作業をすることを禁止されていますが、近世の穢多は、皮だけを持って帰ったのではないでしょうか。外国からいろいろな人が日本にやってくるようになると、日本の政府は、それすら禁止してしまいます。村崎がいうように、穢多が、死牛馬に群がってその肉を貪る地獄図のような光景を、当時の百姓がみることはほとんどありえなかったと思います。

村崎が言うように、人里離れた「辺鄙な所へ押しやられ」ているなら尚更です。

村崎は、『怒りの砂』に続く、『怒りの砂』発行から五、六年後に発行された『猿まわし上下ゆき』では、水平社宣言が否定する「卑屈なる言葉」を、より前面に出し、強調していきます。

彼の住んでいる被差別部落は、「山口県百余の部落の中でも最低と言われたほど極貧だった」といいます。山口県の他の部落の人々から、「「浅江には娘を絶対にやるな」というのが合い言葉になっていたくらいで、差別される部落の中でさらに差別を受けていた」ことを強調します。

決定的な言葉は、村崎がいう、彼の住んでいる被差別部落は「陸の孤島だ」という言葉に呼応するような当時の光市長・松岡三雄の言葉です。「浅江の被差別部落は格子なき牢獄である」と宣言して、同和対策事業の先駆をなしていったといいます。村崎は、「陸の孤島」の住人は、「餓鬼の集団と変わり果てた」といいます。そして、このように綴るのです。

「毛利藩は良民たちに布告した。「あの連中は人間ではない」と・・・。まこと、もう誰が見ても人間ではなかった。野原へ出て、蛇をつかまえたり、手当たりしだい雑草を摘み取って食べたりするのである。毛利藩は意地が悪い。先祖たちに死牛馬の処理をまかせた。先祖たちは天の助けとばかり小躍りして死牛馬に群がり、皮を剥いで肉をむさぼり食った。良民たちには、その光景が、地獄の餓鬼図にみえた。さらに毛利藩は罪人逮捕や獄門の手伝いをさせる。・・・」

『怒りの砂』では、「死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えたに違いない」という推測表現が、『猿まわし上下ゆき』では、「死牛馬に群がり、皮を剥いで肉をむさぼり食った。良民たちには、その光景が、地獄の餓鬼図にみえた」と確定表現に変えているのです。わずか、五、六年の間に、村崎の部落民としての卑賎感は著しく増長されていきます。

「賤民史観」は、村崎の頭の中で増殖する「卑賎感」を受容する装置ともなっているのです。被差別部落の人々に対する、「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを、事実として固定する役目をになっているのです。
村崎は、水平社宣言が否定した「卑屈なる言葉」(自らを卑下し、貶め、辱める言葉)を次から次へと繰り出すのです。村崎は、おのれとおのれの住んでいる被差別部落の住人だけに、その「卑屈なる言葉」をなげかけるのではありません。長州藩の枝藩である徳山藩の穢多村の住人にも投げかけるのです。

徳山藩の天保一揆についてこのように綴ります。

「一揆の突発のきっかけになったのが、前述のように、皮革の運搬によるもので、部落にとって、とんでもないとばっちりであり、災難であった。・・・農民たちは、稲作中に、穢い皮革を運搬すると、海があれ暴風雨となり、稲作に打撃を受けるという迷信を信じ込んでいた。・・・この一揆は、最も大きくふくれあがった時、十万人を突破したといわれており、豪商を中心に激しい打壊しが行われた。あたかも蝗の大群が襲来して来たようなもので、藩は、まったく手のほどこしようもなく途方にくれていた。そこで一揆の勢いは、ますます強まり、向かう所、敵無しのありさまであった。この一揆のもう一つの特徴は、町人はほとんど殺さず、穢多部落を片ッ端から襲い、五十戸、八十戸と、打壊し、焼きつくし、部落の人達を虐殺した。稲作中に、皮革を運搬するというのは迷信に過ぎないのであるが・・・農民達は、穢多さえ居なければ、自分たちのくらしが守れると考えたから、皆殺しにせよ、ということになったのである。」

「毛利藩は一揆が一段落すると、徳山の農民達のなかで、一揆の指導者とみられる者を四十名余りを逮捕したが、こともあろうに、その指導者を穢多に渡した。すると穢多はたちまち群がり寄り、手足の爪を抜き、あるいは身体の筋を切り、殴る、蹴飛ばすなどし、拷問のかぎりをつくした。藩内のいたるところで部落を襲い、兄弟達を、打壊し、焼きはらい、虐殺した片割れに対する呪いは、ここでもいかんなく爆発したのである」。

「エタによる仕返しも激烈なものである。」としてしか解釈しない布引の説を、村崎は忠実に絵取っているのです。布引の歴史解釈は、「賤民史観」にそった意図的な解釈でしかありませんでした。布引は、現代的な「賤民史観」で染め上げることによって、徳山藩の天保一揆の本当の意味を覆い隠してしまったのです。

「賤民史観」という枠組みの中で、歴史の事実とは異なる穢多像を捏造していった、歴史学者・布引敏雄と部落民・村崎義正、彼らが残していったものは、水平社宣言の「先祖を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」という言葉をいちじるしく踏みにじるものでした。

「非常民」の末裔が、このような、布引や村崎がいうような、考えるのもおぞましい姿の部落民像として提示されるとき、被差別部落の、どの親が、その歴史を自分のこどもに語り伝えることができるのでしょうか。

村崎の書を朗読してみればすぐにわかります。

これでもかこれでもかと卑賎感をふりまく手法で書かれた文章は、気分が悪くなります。
耳にした言葉を反吐と共に吐き出したくなります。

山口県光市にある被差別部落と「山口県北の寒村にある、ある被差別部落」を比較するとよくわかります。江戸時代、共に穢多身分であったのに、光市の被差別部落は、明治以降、融和事業や同和事業の「恩恵」に浴してきたにもかかわらず、卑賎感のみをつのらせ、自分たちのこどもに被差別部落の歴史を語り伝えることができない・・・。一方、同じように差別されてきながら、融和事業や同和事業に浴することのなかった「山口県北の寒村にある、ある被差別部落」は、未だに「穢多」の歴史を「賤民史観」に売渡すことなく自分たちのこどもに語り繋いでいるのです。

次回は、教育者・西田秀秋の見た「長州藩青田伝説」と「穢れ」について言及します。

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西田秀秋(教育者)と長州藩青田伝説

【第2章】部落学固有の研究方法
【第4節】長州藩青田伝説にみる賤民史観と穢れ
【第5項】西田秀秋(教育者)と長州藩青田伝説



昭和40年の「同和対策審議会答申」の前文は、「あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日もすみやかに実現さ れるよう万全の処置をとられることを要望し期待するものである。」という文章で終わっています。

「差別の長き歴史の終止符」を打つ・・・。

しかし、その崇高な理念のあとに続く、「同和問題の本質」の項では、部落史の一般説・通説である「賤民史観」が採用されていました。「差別の長き歴史の終止符」を打つためには、「賤民史観」そのものを、政治や文化の諸相の中から取り除かなければなりませんでした。「同和問題の本質」の把握のあまさが、結局、答申がいう「有効適切な施策を実施」したあとも、部落差別そのものが解消しなかった本当の理由です。

33年間15兆円の同和対策事業が進行していく中で、「賤民史観」そのものは、政治や文化の諸相から解消・除去されていくのではなく、返って、強化されていきました。同和対策事業の原因が、被差別部落の側の「みじめで、あわれで、気の毒な・・・」状況にあると、差別・被差別とを問わず考えられたためでありましょう。

私が所属している宗教教団の同和問題担当のトップは、「賤民史観を否定することは、同和対策事業の前提を否定することになる。「みじめで、あわれで、気の毒な・・・」存在であるということに部落解放運動の基盤があるのに、それを否定された日には、部落解放運動は成り立たなくなる。」といいます。

私は、彼に対していつも、「部落解放運動が大切なのか、差別そのものの解消が大切なのか」と迫ります。前者の方を選択するトップに、私は、「あなたは、本当に、被差別部落出身なのですか」と詰め寄ります。最近は、彼に嫌われていることが明らかなので、あまり、そのような話をすることはなくなりましたが・・・。

同和対策事業が進めば進むほど、被差別部落の歴史がより「賤民史観」的視座が強化されていく、この逆説的な状況を、私は、「同和問題」をめぐって、日本の社会が抱えた社会的な病理であると認識するようになりました。

社会的なガンを放置して、「同和対策事業」という、一時的なカンフル剤、鎮痛剤のみを打ち続け、一向に社会病理を明らかにせず、根本的な「万全の処置」を実施して問題解決をしようとしない政治家・学者・教育者、そして部落の当事者の姿を見て、日本の社会は病んでいると思わされたのです。

この論文でとりあげた歴史学者・布引敏雄の「賤民史観」は、一例に過ぎません。筆者は、彼をして、部落史を研究しているすべての歴史学者の代表足らしめているに過ぎません。被差別部落の当事者である村崎義正についても同じです。彼を、被差別部落の人々の一般的な姿と認識してとりあげているに過ぎません。「賤民史観」は、広く、深く、長く、空間的・時間的領域を越えて存在していますので、本当は誰でもよかったのです。
今回とりあげる、教育者についても同じです。

元神戸甲北高校長・西田秀秋についても、私は、一面識もありません。もし、どこかで彼と出会っていたら、多分、意気投合して、酒を飲み交わす仲になっていたかも知れません。学校の教師は文部省の指導下で教育を実施しているので、「賤民史観」を批判するような教育を実施することはほとんど不可能であったと思われます。

西田秀秋著『長州藩部落民幕末伝説』の末尾に、鶴見俊輔の「類書をこえて持つ力」という短文が掲載されています。その中に、「この作品は、幕末に対して、通説とは別の視点をもってするだけでなく、現在の日本の社会の中にあって、まるめこまれない気概をもってこれを見すえる力を、同時代に手渡す。」と、この書を評価していますが、私は、鶴見俊輔の文章の中に、日本の知識階級の思想的限界を見てしまいます。体制に批判的であることを標榜しつつ、実は、体制の枠の中にきれいに収まっている姿を。

西田自身の「あとがき」にも、「この小説は、部落出身の若者達に差別をなくする闘いに起ちあがれと呼びかける意図でまとめたもの」とあります。そして、「止むに止まれず筆を執った一番の動機は、右のテーマを公の文章とする者は私しかいないと思ったからです」とあります。同和教育に全生涯をささげた彼の自負心に満ちた言葉です。

彼は今、校長室で脳梗塞で倒れて「車椅子の生活」(鶴見の言葉)をされているようです。「本当にご苦労さまでした・・・」と、その労をねぎらいたいという思いを持っていますが、その彼にして、「賤民史観」を撃つことができなかったという事実があります。

歴史を語るものは、歴史の真実を語らなければならないと思います。

思想や信条によって、イデオロギー的な見方に埋没することは、極力避けなければならないと思います。歴史は、文献史学と伝承史学とを問わず、「実証主義」的に解明されなければならないのですが、西田の書いた「小説」、『長州藩部落民幕末伝説』は、歴史の真実から遠い虚構に終わっていることを指摘せざるを得ません。

歴史の真実ならざる教説は、被差別部落の青年をして、本当の闘いに立ち上がらせることはできないと思われるのです。首に「賤民史観」のプラカードをぶらさげ、背中に「賤民史観」のゼッケンを貼って、どうして、西田がいう「差別をなくする闘い」を闘うことができるのでしょう。私は、被差別部落の青年に言わなければならない、「汝の首から、賤民史観のプラカードを引きちぎり、汝の背中の賤民史観のゼッケンを引き剥がせ。汝が、賤民史観から自由になるときにこそ、汝は、本当に部落差別から自由になることができる」と。

西田は、長州藩青田伝説について、このように記しています。「その伝説とは、牛馬の皮や骨など、穢れ物を運ぶと竜神の怒りを買い、そのとき決まって暴風雨に襲われ、稲の生育に大打撃を被るという体のものであった」。西田は、本来の「青田伝説」と「竜神伝説」を混同しています。しかも、「青田伝説」についても、誤解しています。

わずか1、2行の表現をみて、なぜ、そのような判断ができるのか、ということですが、この長州藩青田伝説は、高度経済成長下で発行された山口県誌、山口県の市町村誌のすべてに登場してくる伝説であるからです。天保2年の一揆との関連で避けてとおることができない材料ですが、かって、私は、そのすべての記述を比較・分析したことがあります。その時わかったのは、文献史学者の「伝承」に対する無責任な改竄でした。彼らは、「伝承」に対して、恣意的な解釈をほどこし、適当に改竄していきます。

西田の「青田伝説」に関する文章には、「牛馬の皮や骨など、穢れ物を運ぶと・・・、そのとき決まって暴風雨に襲われ」とありますが、西田は、青田伝説を、一般化する傾向があります。「暴風雨」に、「決まって・・・襲われ」るのではなく、「青田」のおり(稲の穂はらみの時期)に「牛馬の皮や骨など、・・・運ぶと・・・暴風雨に襲われ」るのです。これが、長州藩「青田伝説」が「青田」伝説と言われるゆえんです。

山口県立図書館の研究員の木下氏、山口県の市町村誌に記載された天保一揆に関する記述や被差別部落に関する記述は「金太郎飴」だといいます。どの市町村誌を見ても、同じことしか書かれていない、比較研究するのは意味がない・・・と、あるとき、筆者に話されたことがあります。

しかし、実際に比較してみると、「長州藩青田伝説」は、歴史学者の恣意的解釈、恣意的表現によってバラエティに富んだものであることがわかりました。「長州藩青田伝説」が「長州藩黄金田伝説」に改竄される場合も少なくないのです。「青」が「黄金」に。伝承に対する恣意的な解釈の姿勢は、その歴史学者が、その他の歴史資料を取り扱うときの姿勢にもつながっています。

「長州藩青田伝説」をめぐる恣意的解釈の例を列挙します。

(1)伝承の流布地域について
青田伝説がどの地域に流布していたかという点については、言及される場合とされない場合があります。される場合は、「三田尻を中心とする瀬戸内側一帯」という地域的に限定された表現から、「周防や長州などの瀬戸内海」・「瀬戸内沿岸」までの広範囲に及ぶ表現があります。西田は、「言及しない」立場を採用しています。

(2)青田伝説は誰が信じていたのか
言及される場合とされない場合があります。されない場合は、青田伝説の解釈の中で、そのことを取り上げるのが一般的です。狭い範囲では、「農民」の間に広まっていたとする説、少し広げると「一帯の農村」、さらに広げると「百姓」、一般化すると「当時の人々」となり、青田伝説は、農民だけでなく、武士や農民以外の百姓まで信じられていたということになります。「愚民論」(支配者が被支配者をみる見方)に立てば立つほど、長州藩青田伝説の担い手を農民に収斂させてしまう傾向があります。西田は、「百姓」を採用します。

(3)青田伝説の時期
いつ、「牛馬の皮や骨など、・・・運ぶと・・・暴風雨に襲われ」るのか、という項目については欠落した伝承の解釈はひとつもありません。しかし、西田が伝える長州藩青田伝説はこの項目が欠落しています。時期は、「幼穂形成期」から「秋の収穫期」まで広範囲に及びます。「幼穂形成期」は文字通り「青田」伝説ですが、「秋の収穫期」の場合、既に、稲は青色ではなく、黄金色に実っていますから、青色ではなく黄金色になります。これは、「青田伝説」ではなく、「黄金田伝説」になりますから、歴史学者の恣意的解釈の行き過ぎを示しています。

(4)牛馬の皮・骨運搬が禁忌される場所
言及される場合とされない場合があります。されない場合は、伝承の解釈文の中で言及されるのが一般的です。西田は、言及しませんし、解釈や説明もしていません。言及される場合は、「青田の近く」「田の近く」のいずれかになります。

(5)「牛馬の皮や骨など、・・・運ぶと・・・暴風雨に襲われ」る直接的原因について
言及される場合とされない場合があります。言及しない場合は、「愚民論」の立場から農民の迷信の信じやすさを強調する歴史学者に多くみられます。長州藩青田伝説は、「青田伝説」と「竜神伝説」が合体したものですから、当然、言及するのが正しいと思います。神話的な解釈と合理的な解釈の二つに分かれます。神話的な解釈としては、「竜神がきらって」、「竜神のたたりに触れ」「竜神の住む淵に(牛馬の皮を剥いで)投げ込む」という表現になります。合理的な解釈としては、「海があれ」、「(皮革を)海中に沈めると」、「(皮革を)積んだ船が海中に沈んだりすると」という表現になります。

西田は、「牛馬の皮や骨など、穢れ物を持ち運ぶと竜神の怒りを買い」と表現していますが、竜神は、穢多や藩の御用商人が陸路、牛馬の皮・骨を運んでいても、一向に怒りません。竜神が怒るのは、竜神の住んでいる海の淵に、「汚れたもの」を投げ込んだときだけです。

(6)暴風雨に見舞われる間接的原因(人間の側の要因)
この項目については、多種多様な表現があります。いちばん多いのは「牛馬の皮を運ぶ」ですが、天保一揆の原因になったのは「牛馬の皮を運ぶ」という状況ではありませんでした。その他に「牛馬等の皮を持って通ると」という表現にみられるように、天保一揆の状況にあわせて合理化して表現される場合がでてきます。はっきり、「獣皮を持って通行すれば」と表現される場合もあります。長州藩の天保2年の一揆のひきがねになったのは、朝鮮犬の皮で、牛馬の皮ではありませんでした。歴史学者が自覚しているかどうかは別ですが、「穢い皮を運搬すると」という表現もみられます。「穢い皮」は、藩の法令に違反して出荷されたり密輸される皮を指し、法令に違反しない皮の運搬は除外されることになります。藩のお触れ集を読むと、この解釈がいちばん妥当性があります。しかし、多くの歴史学者は、「穢い」という言葉の中に、禁忌の要素を持ち込んで解釈しています。歴史学者・布引敏雄と部落出身の村崎義正は、共通してこの立場を採用しています。

(7)竜神が怒った結果もたらされるもの(直接的)
いちばん多いのは「暴風雨」という表現、その他「大風」「暴風」があります。一般化された表現としては「災害」というのがありますが、これは例外的表現です。

(8)竜神が怒った結果もたらされるもの(間接的)
いちばん多いのは「凶作になる」という表現です。その他に、「稲作に打撃を受ける」という軽いものから、「その年は収穫がなくなる」、「田畑損亡する」という表現まであります。「物価が高騰する」という表現もありますが、天保2年の一揆の原因は、長州藩の物産方の役人(藩士)が、竜神の住むという淵に、「汚れたもの」を投げ込んで、意図的に怒らせ、豊作が期待されている田畑に台風を招き入れ、凶作に陥れ、藩収入の要である米価をつり上げるのを目的とした「風招き」をして、百姓の怒り、「天理・人事に相背き申候」を引き起こしたという点にあります。長州藩の、経済政策上の徹底的な合理主義・利益追求が、長州藩をして、倒幕の雄足らしめていきます。

(9)この伝説をどのように表現するか
いちばん多いのは「俗信」、次いで「迷信」、「伝承」

西田の「その伝説とは、牛馬の皮や骨など、穢れ物を運ぶと竜神の怒りを買い、そのとき決まって暴風雨に襲われ、稲の生育に大打撃を被るという体のものであった」という表現は、長州藩青田伝説の西田的表現ということになります。

西田の歴史の事実を「一般化」する傾向は、長州藩の天保一揆の性格そのものについての表現にもみられます。西田は、農民の一揆が起こるのは、「凶作」のときだけ・・・という思い込みがあるのではないでしょうか。長州藩の天保2年の一揆は、「凶作」の時ではなく、「豊作」の時に起きたのです。西田はこのように表現します。「この年は、全国的に天候不順で、作物がすべて不作となり、この長州藩においても百姓たちの生活は急速に追い詰められていた」。

西田は、同和教育に熱心になる余り、「穢多」を持ち上げると同時に、「百姓」を持ち下げています。西田にとって、「百姓」は「迷信」の塊以外の何ものでもありませんでした。西田にとって、「百姓」は「穢多」に対して「怨嗟」・「嫉妬」・「憎悪」を抱く愚民以外の何ものでもありませんでした。しかも百姓は、人の道理がわからぬ徒に騒ぎを起こすやから以外の何ものでもありませんでした。西田にとって、長州藩の百姓は、「穢多狩り」を行い、穢多を「無慈悲に焼殺」したやから、身ごもった女性を竹槍で「刺し殺」し、村人の半数を「なぶり殺し」にした極悪人。

西田は、近世幕藩体制下の「穢多」と明治以降の「部落民」をごちゃ混ぜにして、その小説を展開していきます。西田はいう、長州藩には、天保期には既に「屠場」があったと。天保から程遠くない文久3年、長州藩はアメリカ・フランス・オランダの艦船を下関砲台から攻撃をしました。その敗戦処理の際、諸外国から、食料(牛肉)の供給を要求されます。諸外国に対する賠償としてはいちばん簡単なことがらだったと思うのですが、そのとき長州藩は、当藩には牛を屠殺する人はひとりもいないといって断っている事実を、西田は、どのように解釈・処理していたのでしょうか。

西田の『長州藩部落民幕末伝説』は、長州藩の末裔である現在の山口の青年にとっては、歴史的事実に反する内容を多く含んでいます。「部落出身の若者達に差別をなくする闘いに起ち上がれとよびかける」ことへとはつながらないのではないかと思います。必要なのは、「賤民史観」の汚れにまみれた思想ではなく、歴史の真実です。近世幕藩体制下の「百姓」や「穢多」を、「賤民史観」という歴史学上の差別思想に基づいて解きあかすのではなく、当時の社会システム、法システムの中で、「百姓」や「穢多」がどのような立場に置かれていたかを総合的に解明すべきです。

西田は、エピローグで、「部落に対する穢れ意識は日本人の心の隅々までしみこんでいるので、いろんな場面にいつでも顔を出してくる。だから部落差別はなかなかなくならない。」といいます。その通りです。「賤民史観」に依拠するかぎり、西田の著書『長州藩部落民幕末伝説』も例外ではありません。反差別を指向しながら、差別の温存と強化に手を貸してしまうことに陥っています。

「賤民史観」は、歴史学上の差別思想です。

この差別思想をとりのぞかない限り、「百姓」も「穢多」も、歴史の真実を取り戻すことはできないのです。

長州藩青田伝説の一言一句にこだわった分析は、長州藩の「牛馬」に対する政策の全貌を描き出してくれました。「長州藩青田伝説」については、別の論文で取り上げていく予定です。

論文の構成を少々変更して、次回から、第3章に入ります。
部落学で使用する基本的な概念の定義をしていきます。

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