2005.09.01

「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克

【第2章】部落学固有の研究方法
【第3節】新けがれ論
【第1項】 「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克



「けがれ」という言葉が多義的に使用されてきたということは、多くの学者や研究者が指摘している通りです。

前節で、筆者は、「けがれ」を「気枯れ」と「穢れ」の二重定義として捉えました。近世幕藩体制下の「村」に住む「村人」に焦点をあてて、「村」・「村人」の「常」の時に発生する、百姓として生きる気力の喪失・生産性の低下を「気枯れ」と定義し、「村」・「村人」の「非常」の時に発生する法的逸脱を「穢れ」と定義しました。ここで、第3の命題をあげておきます。

命題3:「けがれ」は、二重定義された概念である。「けがれ」は、「常」の時には「気枯れ」として、「非常」の時には「穢れ」として定義される。

表題の新「けがれ」論という表現は、以上のことを指しています。

ここで、歴史学や民俗学で指摘されている「けがれ」論についてその概略を把握してみましょう。最初に取り上げるのは、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談集である『ケガレ 差別思想の深層』(解放出版社)です。

沖浦は、「ケガレとは何か」と自ら問いを立てたあと、その問いに答えます。

「ケガレは、古来からきわめて多義的に用いられてきました。今日では、民俗学をはじめ文化人類学・宗教学・社会思想史・比較文化論など、学問の各分野で論じられていますが、はっきりと定まった一つの観念体系として<ケガレ>を規定することはむずかしい・・・」。そして、ケガレの解釈を、①神話学、②文化人類学、③宗教学、④民俗学の個別科学研究の現時点での一般論を紹介しています。

沖浦は、部落差別に深く関わる「ケガレ」観は、「③宗教学」の「宗教的なケガレ」観であるといいます。「ケガレを不浄とみて、<清浄>を維持するためにそれを隔離し排除していこうとする思想」であるとして、具体的に、「日本の寺社の死穢(しえ)・産穢(さんえ)・血穢(けつえ)を中心とした禁忌に代表されるケガレ観」をとりあげています。

沖浦は、次いで、「④民俗学」の「ハレ・ケ・ケガレ」の三極循環論に触れ、「いささか安易な図式」として否定的な評価をしています。その理由として、「気枯れ」説と「穢れ」説の関連を民俗学がきちんと説明しきれていない点を指摘しています。沖浦は、「それ自体が悪しき生命力をもった実体」とみなされている、ヒンドゥー教的なケガレを、民俗学は、「到底説明できない」と主張しています。

沖浦は、部落差別の原因である「穢れ」は、本質的に「実体概念」であると認識しているようです。近世被差別民が「穢多」といわれたのは、そう言われるだけの「実体」・「実質」があったのだと、主張しているようです。

沖浦は、「②文化人類学」におけるケガレは、「それ自体で存在する実体概念ではなく、一定のシステムとの関わりにおいて生じる関係概念」である」と、ケガレに関する考察の中には、文化人類学のように、実体概念を退け関係概念を主張する学的研究があることを十分認識しながら、あえて、被差別部落の人に対する差別の原因であるケガレを「実体概念」として捉えようとする姿勢からみると、沖浦の説の背後にも、払拭されていない「賤民史観」が存在しているようです。

沖浦は、「社会学」者としての肩書の下、「評論家」の管孝行と対談しています。

雑誌『現代の眼』(1981年11月号)で、《賤民史観樹立への序章》と題した対談の中で、管から、「賤民はおのずから賤民だったのではなく、賤民とされたことによって賤民になったのですから、それには理由がなくてはならない」と指摘されたとき、沖浦は、周辺的な事例を列挙するのみで、管の問いに対してまともに答えようとはしていません。

その頃、沖浦は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」を「賤民」と同定する歴史学者としての視座をより確実なものにしつつあったのでしょう。論題の《賤民史観樹立への序章》という表現もさることながら、沖浦は、「士・農・工・商・穢多・非人」を、沖浦固有の表現、「士・農・工・商・賤」という図式で表現しています。

沖浦は、彼が、「穢れ」を関係概念から実体概念の方へ傾斜していった起因として、その対談の中でこのように語っています。「私、この春にインドに行きまして被差別民衆と交流して参りました。ひどい差別を受けている不可触賤民といわれている人たちの部落へ入ったわけです。合計九地区へ行きました。そこでいろいろ実体を調べたのですが、さきにあげた日本の賤民の従事していた職業と九割まで一緒なんです」。

インドの不可触賤民の在所を日本固有の「部落」という言葉で表現しているところをみても、インドにおける不可触賤民の調査が、沖浦に相当大きなインパクトを与え、「穢れ」を、関係概念としてではなく、実体概念としての解釈の道を開いたことは想像に難くありません。

沖浦のインドの不可触賤民調査から二十数年後、彼は、『瀬戸内の被差別部落 その歴史・文化・民俗』の中で、広島藩の「革田身分」に触れ、「不可触賤民を<身分外の身分>とみなしたインドのカースト制度にきわめて類似した身分制度」としています。そして、インドの不可触賤民と日本の穢多との間の属性・共通の性質を比較し、「日本社会における「穢多」「非人」という呼称ならびにその処遇は、インドの「不可触賤民」にきわめて類似していたと言わねばならない」と結論づけています。

沖浦は、その根拠として五項目をあげます。①内婚制、②職業の世襲、③清目役の賦課、④儀礼・行事における身分間の格差、⑤衣食住の規制。「十七世紀中期から法制化され・・・江戸幕府の賤民政策は、しだいにインドの不可触民制に類似した賤民制になっていったのである」といいます。

しかし、沖浦にとって、日本の部落差別が、インドの不可触賤民制にどのようなルートで、どのような影響を受けたのかということは、未だに研究途上にある課題であって、沖浦自身の中にあっても証明し得ることがらではないのです。

しかし、インドの不可触賤民調査から20年後にあっても、「大きい衝撃を受けた」とする沖浦は、「賤民史観」をより強固にしていきます。

沖浦がその過程の中で書いた『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る』の最後の部分で、このように語ります。「特に「人に非ず」「穢れ多し」というような烙印を押されて、差別の中で抑圧されてきた近世の時代の被差別民史は、まさしく不条理と悲惨の歴史であったことはまぎれもない事実である。しかし、そのような光のさしこまぬ暗い歴史のなかでも、彼らは伝統的技能と新しい創意でもって仕事にはげみ、古くから伝承されてきた民族と文化の一端を担ってきたのだ。様々な苦しみと悲しみがあったが、差別と闘いながら人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。・・・賤民の生活と生業は、正面から歴史のオモテ舞台に出ることはなかったが、心底ではひとりの人間としての自負と誇りを持ちながら、迫害を乗り越え苦難に耐えつつ生き抜いてきたのであった・・・」「賤民史観」をそのままに、否、むしろ強化しながら、そのような歴史学者の差別的営みがさもなかったかのように、宗教家が語る説教のような言葉で、その著を結ぶ沖浦和光の中に、私は、日本の知識階級、そこに属する歴史学者や社会学者の差別意識を見てしまいます。

「賤民史観」は、部落差別が近代国家の政策から出てきたことを、民衆の目からそらし、原因ならぬ原因、文化に内在する、ひいては民衆に内在する差別意識へと民衆を駆り立てます。そして、ますます、部落差別を解決不能な迷路へと、混沌の世界へと追いやろうとしています。

歴史学者・社会学者として聡明な沖浦は、私が書く『部落学序説』と同じ内容の論文を書こうと思えば書くことができたと思います。しかし、この論文でとりあげるような、一切合切の史料や伝承を、沖浦は、何のためらいもなく、「賤民史観樹立」のため、ばっさりと切り捨ててしまいます。一時的な同和対策事業の継続のために、本当の部落差別からの解放への願いを放棄していった、部落解放同盟をはじめとする運動団体に、彼の「賤民史観」は受容されていきましたが、私は、沖浦の歴史学者としてのありようにすごく違和感を感じています。

明治以降における、部落差別の最大の言辞は、歴史学者が研究し、教育者によって流布・伝搬されていった「賤民史観」そのものであると思います。差別的な歴史観からは差別的な研究結果しか生み出されないと思われるのです。

歴史学者・沖浦和光と民俗学者・宮田登の対談『ケガレ 差別思想の深層』の中で、沖浦は、宮田の前に議論上、敗北します。

宮田は沖浦にこのように問いかけます。

「さまざまの文献資料の中から、賤業とされていた生業のプラス面を抽出できるということは、当時の人々のなかにもそういうプラス意識が十分にあった」として、「見えるケガレ」、「見えないケガレ」を「消していく作業が可能ならば、沖浦さんが以前から主張されていた、賤視観の根本にあったケガレ=不浄観を徹底的に解体していくという作業も現実に定着するんじゃないでしょうか」。

そのとき、沖浦は、「穢れ」の実体差別であるインドのカースト制度になぞらえて日本の部落差別を研究してきた、彼自身の研究の方針を忘れてこのように答えるのです。

「だから、私は、ケガレ=不浄というのは、確固とした根拠のある実体概念ではなくて、もともとイリュージョン、共同幻想だと・・・」。それに対して、宮田は答えます。
「そうそう、共同幻想・・・」。

沖浦の「・・・」は、沖浦が自分自身の語っている言葉に違和感を感じたことを示唆します。また宮田の「・・・」は、沖浦が簡単に宮田の説に屈伏してしまったことに対するとまどいを示しています。

私は、この対談を読んだとき、二つの「・・・」は、歴史学者の沖浦和光が、民俗学者の宮田登との論争に破れた瞬間を示唆している、歴史学者の「賤民史観」・「賤民思想」が、民俗学者の前に論争で破れた瞬間であると、こころの中で、民俗学者・宮田登に拍手喝采をおくりました。

筆者は、歴史学の「穢れ」解釈と、民俗学の「気枯れ」解釈とが、いまだに妥協点を見いだせないでいるなか、「部落学」構築の重要なキーワードとして、「けがれ」の二重循環説を主張することにしました。「けがれ」を、「常」のサイクルと「非常」のサイクルに分けて考える視角・視点・視座は、『部落学序説』の筆者固有のものです。無学歴・無資格故の発想である・・・、と批判されるかもしれませんが、「しろうと学」でしかない『部落学序説』の基本的な発想です。

「村」に身を置いて生きる「百姓」の目からみると、「けがれ」の二重循環説、「新けがれ論」は、研究上の必然から浮上してきました。今後の『部落学序説』のすべての文章には、この「新けがれ論」を前提として執筆されます。

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「穢れ」の語源論・意味論の限界

【第2章】部落学固有の研究方法
【第3節】新けがれ論
【第2項】 「穢れ」の語源論・意味論の限界



雑誌『別冊東北学』(第5巻)で、「部落学」を提唱したのは辻本正教という人です。

もちろん、私は、辻本正教という人と面識はありません。彼の主著『ケガレ意識と部落差別を考える』の著者紹介を見ると、奈良県出身、関西学院大学文学部卒、部落解放同盟奈良県連事務局にお勤めになっているかたわら、部落解放同盟中央執行委員の重職にあり、また大阪市立大学や天理大学で講師もされているそうです。

辻本は、そのあとがきで、「「部落とは何であり、部落差別とは何であるのか」「部落民とは何であり、穢多とは何であるのか」。このことの解明なしに、部落解放運動の真の前進はありうるのか、いやありえない」といいます。「いったい人々は、なぜ我々を今に至るも差別し続けるのか」と記していますが、「我々を差別する」という表現は、辻本の「部落民宣言」なのでしょうか。そうだとすると、辻本は、「部落民」として、その主体をかけてこの文章を書いているということになります。

辻本は、「過去二十年間、ケガレ観とは何かの分析に、憂き身をやつしてきた」といいます。

この書を、期待を持って読んだあとの感想は、「よくこんな荒唐無稽な文章を書けたものだ・・・」という驚きでした。もし、私が、大阪市立大学や天理大学の学生であったとしたら、辻本の講義を聞いたあと、すぐ、教授会に「他の講師に変えてほしい」と嘆願することになったでしょう。想像をたくましくすれば、大学の教授会は、関西学院という学閥や部落解放同盟というバックを配慮して、問題提起した私を即刻退学処分にしたのではないか・・・と思います。たとえ、退学処分になるのを覚悟しても、「もっとましな講師に変えてほしい」と、私は言い続けたと想定されます。

辻本が、提案する研究方法は、「語源論」「こだまはこだまである」と説明されても分からないが、「こだまは木霊である」と説明されるとよく分かるというのです。「人間の思考、精神世界とは何であるかをよく知ることができる」というのです。こだまを木霊と置き換えることは迷信的説明になります。迷信的説明が、「人間の思考、精神文化」を知る手がかりになるのでしょうか。

再三いいますが、私は、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書のついた人から講義を受けた経験は一度もありません。「学歴なし」「資格なし」の無学なただの人です。そんな私でも、辻本のこの説明は、「奇怪しい」と感じます。

私の批判に対して、辻本に「語源を追求することそれ自体が間違いだなんていうのは、言葉というものに対する冒涜にも等しい」と居直られると、唖然としてしまいます。更に、お前の「感覚がマヒ」「十分な判断力がなくなっちまってる」と批難された分には、教授と学生の間の一発触発的雰囲気に突入してしまいます。「これでも大学の先生かよ」と言って、彼の本を床に投げつけたかもしれません。あくまで、想像ですが・・・。

辻本は、『別冊東北学』の中で、赤坂憲雄と対談して、このようにいいます。

「あらゆる学問を結集して、それこそ学際学的手法に基づく部落学として、それぞれの疑問を取り除いていくということをしないと。部落問題はそれくらい大きくて、とんでもないテーマですよ。」と言います。部落学を提唱する辻本と、ケガレについて、重箱の隅をほじくるような論文『ケガレ意識と部落差別を考える』の筆者である辻本と、どこでどう切り結べばいいのか戸惑ってしまいます。

『ケガレ意識と部落差別を考える』を何度も読み返しながら、「まあ、よく、こういう荒唐無稽な文章を書けたものだ・・・」と、繰り返し、ため息をつかざるを得ないのです。

そして、こんな「邪心」を起こしてしまいます。

「辻本は、本当に、被差別部落出身なのだろうか・・・」。言葉においても、文章においても、行間においても、辻本の論文からは、被差別に置かれたものの、悲しみや苦しみ、怒りや闘い、希望や夢・・・、他の人の書いた論文でいつも目にするところのものが、何もないことに気づかされるのです。そして、山口に住んでいたある人物を想定してしまいます。

関西学院大学で勉学していた彼は、授業料納入に困って、ある人に相談したら、部落解放同盟の某支部の書記の仕事を紹介してくれたそうです。そこで、彼は、某支部の書記を手伝う見返りに、解放奨学金をもらって、大学を卒業することができたというのです。彼は、山口では、部落差別問題とは全然関わりをもとうとしませんでした。

私は、彼に対して感じたのと同じことを、辻本に対しても感じてしまうのです。私と辻本の関係は、「差別(真)」と「被差別(真)」の関係ではなく、「差別(真)」と「被差別(偽)」の関係ではないかと、思わざるを得ないのです。

『ケガレ意識と部落差別を考える』に出てくる辻本の言葉は、「鵺」(ぬえ)の鳴き声と聞こえてしまうのです。実体がないのにさもあるかのように「観念」しているのは辻本自身なのです。

辻本の「語源論」の限界は、その書名にすでに現れています。

『ケガレ・・・と部落・・・』。助詞の「と」は、同格の「と」、並列の「と」と考えられます。さすれば、「語源論」は、「ケガレ」だけを対象としないで、「部落」をも対象とするべきでした。しかし、辻本は、「部落」の「語源論」的解釈は一切していません。辻本は、「部落」の説明を「特別の空間」とひとことで片づけていますが、「ケガレ」同様、「ブラク」についても、「ブラクという概念が、いったいどういう語幹からできているのか、もともとどのような意味を持った言葉だったのかを探る作業を通じて、我が国の文化や歴史を捉えようというものです」と説明してくれた場合は、納得するところがひとつやふたつできたかもしれません。

辻本は、漢語にだけ、特別な魔力を感じているようで、「部落」の語源、ドイツ語のゲマインデについては何の興味も示していません。「部落」という言葉には、「部」についても、「落」についても、両者を結合した「部落」についても、漢語本来の意味は何も含まれていません。「部落」は単なる記号でしかないのです。ですから、「記号論」ではなく「意味論」に立脚する辻本は、「部落」の語源をたどることに何の興味も持たなかったのでありましょう。
明治政府は、大日本帝国憲法制定に先立って、地方自治制度の確立を図りました。

そのとき、明治政府の顧問になったのは、ドイツ人法学者のアルベルト・モッセでした。国家の支配が及ぶ地方自治の最小単位・基礎単位としての共同体をドイツ法に従ってゲマインデと呼んでいましたが、モッセは、「各種ノゲマインデヲ総括スベキ適当ナ語ナキハ余ノ甚ハダ之ヲ遺憾トスル所ナリ」と言います。ゲマインデの訳語として、登場してきたのが、「部落」という言葉でした。ですから、「部落」という言葉の語源を探るには、元の言葉、ドイツ語のゲマインデを尋ねなければならないのですが、辻本の書には、そのような説明はどこにも見いだすことができません。辻本にとっては、「語源論」の対象は漢語だけであって、西欧語は対象外なのでしょうか。

明治政府が採用した「部落」という言葉は、国家神道下にある、神道を中心とする基本的な共同体を意味していました。民俗学者の柳田国男が、民俗学の研究対象にした村は、仏教伝来以前の日本の古来の村ではなく、この明治政府が企画・設計した、神道を中心とした、新しい共同体のことでした。その「部落」を、明治政府は、外交上の都合で、「一般」から「特殊」を分離する形で、社会的に排除していることを、諸外国に提示しなければなりませんでした。明治政府は、ある人々を天皇制の側に近づけ、「特殊部落」とされた人々を天皇制の外側へと追いやったのです。

部落差別は日本固有のもの・・・、というのは、単なる幻想です。明治以降、日本に部落差別が作り出された責任の半分は、欧米諸国を中心にした諸外国にあります。イギリスに責任があり、フランスやドイツに責任があり、アメリカやロシアに責任があったのです。

私は、部落出身者ではありません。穢多の末裔でもありません。先祖伝来、由緒正しき貧百姓の末裔です。そのような私でも、「部落」の語源をたどっていくと、世界的視野で、部落差別を捉えることができます。多くの学者や研究者が、この事実に目を閉ざしているのは不思議でなりません。

この問題については、本論文の第5章でとりあげます。

この論文の中で、いろいろな書籍を紹介してきましたが、辻本の『ケガレ意識と部落差別を考える』だけは、読書しないことをすすめます。読むと、>/span>魑魅魍魎跳梁跋扈する世界に陥ります。その世界に関心を持っておられる方は是非お読みください。その方面では、超一流の本です。

私は、辻本正教の『ケガレ意識と部落差別を考える』の代わりに、宮田登の『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』をお読みすることをおすすめします。迷信の世界ではなく、理性の世界で、部落差別問題を考える人にとっては最適な本です。 

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新けがれ論(詳説)

【第2章】部落学固有の研究方法
【第3節】新けがれ論
【第3項】 新けがれ論(詳説)



「常と非常」によく似た概念の組み合わせに「日常と非日常」があります。

tori05 「常と非・常」と「日常と非・日常」の区別は、時として、混同されて使用されています。この二つの概念の組み合わせは、決して同じものではありません。

「日常」の世界と「非・日常」の世界は、私たちが日頃経験する世界です。

「日常」は、多くの民衆の間に行われている極一般的な毎日の生活のありようを指します。一般の社会人ですと、朝起きて、お布団たたみ、着替えて、顔を洗い、朝の食事をして、ゴミ袋を町の所定の場所に棄てます。駅まで歩いて行って、電車に乗って、職場に通います。職場についたら、一日の仕事の準備をして、朝の朝礼を経て仕事に入ります。昼には、昼食。午後はまた仕事に戻ります。5時がきたら、仕事を終える作業をして、退社する旨あいさつして職場をでます。また電車にのり自分の住んでいる駅に、帰り際に、スーパーによっていろいろ買い物をして、帰ったら、食事の準備をしながら、お風呂の準備をします。テレビを見ながら夕食を食べて、お風呂にはいって、リラックスする趣味の時間を過ごし、最後に日記をつけます。そして12時がきたら寝室にはいって寝ます・・・。と、いったことがらは、毎日毎日繰り返されることがらですが、これを「日常」といいます。

「日常」のありようの中には、「週日」と「週末」があります。

「週日」は、労働の毎日ですが、「週末」には、労働から解放されて「休暇」を楽しみます。その「休暇」は、寝て過ごしたり、図書館に行って本を読んだり、ドライブしたり、外食したり、また友人と会話を楽しんだりします。「休暇」を経ることで、再び、活気ややる気を取り戻して、次の月曜日、また「労働」を中心とする生活に入っていきます。

「労働」の日も「休暇」の日も、「日常」の中に含まれます。

この「日常」を「ケ」といいます。

この「日常」のサイクルは、個人的にも社会的にも障碍となるできごとに遭遇する場合があります。

個人的レベルでいえば、体調を崩して病気で入院。自分が入院しない場合も、家族の誰かが入院して、職場を休んで、その看護をしなければならない場合があります。親族の誰かが、なくなって、葬儀に参列しなければならない場合もあるでしょう。そういう場合は、「公的」に「職場」から離れることが許されていますが、社会的レベルで言えば、会社が倒産したり、自然災害で通勤が不可能になったりする場合があるでしょう。「ケ」を阻害する要因を「ケガレ(気枯れ)」といいます。ケガレの状態は、その他にも、仕事に対する意欲喪失や人間関係のトラブルに巻き込まれて精神的にまいることも含まれるでしょう。このような、日常生活からの逸脱を「非日常」といいます。「非日常」の世界の「ケガレ(気枯れ)」の状態に陥ったときには、個人的にも社会的にも、「ケガレ」から脱却する必要がでてきます。

この「ケガレ」から脱却、社会的制度として実施される「ケガレ」からの脱出方法を、「ハレ」といいます。この「ハレ」は、「非日常」の世界の淨化作用であるといえます。人々を「非日常」の世界から、もう一度「日常」の世界へ連れ戻す機能を持っています。一般的には、年に何回か実施される、祭りがあげられます。寺社を中心にしていろいろな種類の祭りがあります。村落共同体を中心とした祭りもあれば、家族単位で行う盆・正月といった祭りもあります。雛祭りとか端午の節供とか、家族の特定の一員を対象に行われる祭りもあります。民俗学では、お祝いだけでなく、葬式というような行事も「ハレ」に数えられます。葬祭という「祭り」であると考えられます。

この「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」→「ケ」・・・という民衆の生活の、循環的ありようが生成される場のことを「常」(じょう)といいます。「常」とは、権力によって、法的措置のもと、民衆が許可されている所作のことをいいます。

それに対して、権力によって、法的措置、お触れや内規によって禁止されている所作のことを「非常」(ひじょう)といいます。近世幕藩体制下の「村」は、「ケ」の状態である普通の日々は、村民が村境を越えることはゆるされませんでした。村境を越える、村を出ていくという営みに際しては、村役人である庄屋の許可を必要としました。通常、この村境を越えると、近世の駐在所のお巡りさんにであって、正当に村境を超えたかどうか、取調を受けることになります。

この場合ふたつのことが限られます。

代官所によって許可された祭りへの参加、あるいは旅芸人の催す芝居を見るために許可された範囲でこの村境を越えるのであれば、それは、「日常」の「ハレ」に属することになります。しかし、夜逃げをしたり、抜け荷のためにそっと村境を越えようとすると、近世警察官たる穢多によって捉えられ、逮捕され、そして、番所に引き立てられ、代官所で裁判にかけられ、お仕置きを受けることになるでしょう。民俗学者が指摘するとおり、村境は、祝福と呪いの共存する場所でもあるのです。

当時の権力によって容認された「越境」の場合は、何もなかったかのごとく、村民は自分の村に戻ることができます。

しかし、権力によって容認されていない、禁止されている「越境」の場合、藩のお触れ(法)に抵触したということで、近世警察である穢多によって捕らえられ、取調を受けたのち白州に引き出され、裁判を受けたあと、犯した法的逸脱に応じてお仕置きを受けることになります。

「法的逸脱」を「ケガレ(穢れ)」といいます。

「法的逸脱」とその「違背処理」は、「非常」の世界に関係しています。

そこでは、「常」の世界とは別な世界が存在します。「常」の世界では、村民は、「穢多」から権力的な抑止をかけられるということはありません。もし、「穢多」が、課せられた職務の範囲を超えた所作をすると、お触れ(法)に対する違反として、「穢多」は重い「お仕置き」を受けることになることでしょう。場合によっては、その穢多に対して、「ところばらい」のお裁きがでる場合があります(穢多が犯罪を犯すと穢多村から追放されるのです=「賤民史観」では理解できないことがらです。この場合、「賤民史観」は、「例外事項」というばば抜きカードで排除してしまいます)。

村民が、村境を不法に越境したことを認めない場合、「穢多」による「お仕置き」が待っています。近世幕藩体制下では、犯罪の立証は、証拠だけでは不十分で、犯罪を犯した本人の自白が必要でした。よく、近世幕藩体制下の警察機構では、「証拠よりも自白が重んじられた」といわれますが、それは違います。正しくは、「証拠だけでなく、自白も必要とされた」というのが歴史的に正しい認識です。

ですから、近世幕藩体制下での「拷問」は、犯行を否認する犯罪者のみに実施されたのです。「非常」の世界に迷い込むと、「常」の世界では経験することのなかった、「逮捕、取調、裁判、お仕置き」という一連の、藩権力による、「法的逸脱」をしたものに対して、「違背処理」が行われます。日本の古代・中世・近世の警察機能としての「違背処理」は「キヨメ」という言葉で呼ばれてきました。「キヨメ」というのは、「ケガレ(穢れ)」という法的逸脱状態にあるものをもう一度「常」の世界に復帰させることを指していました。

「常」の世界が、「ケ」→「ケガレ(気枯れ)」→「ハレ」→「ケ」・・・という循環にあるのに比して、「非常」の世界は、「ケ」→「ケガレ(穢れ)」→「キヨメ(お仕置き)」→「ケ」・・・という循環の中に置かれているのです。

現代社会にあって、青少年犯罪が増加する傾向があります。

そして、青少年による「法的逸脱」は、しだいに低年齢化して、その逸脱の内容もより深刻なものへと変わりつつあります。警察・司法関係者によって、それなりの研究と対策がとられているのでしょうが、なかなか、少年犯罪はなくなりません。少年犯罪が起こる都度、「あのおとなしいこどもが・・・」という、教育者の驚きの声が報道されます。教育者が一様に、ステレオタイプの感想を述べている間にも、少年犯罪は深刻さを増していきます。

何が原因なのでしょう。

私は、今の日本の社会が、「常」の世界の「ケガレ(気枯れ)」と、「非常」の世界の「ケガレ(穢れ)」の区別を教えていないためであると推測しています。「常」の世界と「非常」の世界の区別を教えていない・・・、そこに青少年犯罪の増加と深刻化の背景があるのではないかと思っています。

その分別を知っているはずの親が不在な家庭では、こどもたちの頭とこころの中に、テレビ・新聞・雑誌等を通して「ケガレ(気枯れ)」と「ケガレ(穢れ)」が混同して入ってきます。その結果、「ケ」への回帰策である「ハレ」と「キヨメ」も混同されることになります。

親に対する不満や不平、学校に対する不満や不平という「ケガレ(気枯れ)」の状況を「ハレ」という機能を使ってもう一度「ケ」の世界、日常生活に立ち戻る方法をとらずに、いきなり、「ケガレ(穢れ)」に対する「キヨメ(お仕置き)」へ、この場合は、「私的制裁」のことをさしますが、青少年がじぶんなりに判断した「私的制裁」を親や友人や学校、そしてひろくは社会全体に対して向けてしまうのです。

更にいえば、青少年犯罪増加と深刻化の背景に、「法」に対する「遵守」の意識 の欠如をとりあげることができます。

この国にあっては、「法」を執行する側の、「法」に対する姿勢が病んでいるのです。国の法律を作る側に立つ国会議員が、さまざまな汚職・疑獄事件につながるようなことを平然と行います。選挙を「キヨメ」に見立てて、犯罪を置かしたあとも再選されれば、「みそぎ」(キヨメの儀式)が済んだとして平然とした顔をして政界に再登場してきます。国の法律を執行する行政官も汚職や公金横領、天下り事件を引き起こします。司法・検察・警察という、「非常」の世界に身を置くものが、正しくその任務・役務に対処できていないということが、日本の法社会、法システムに対して重大な影響を及ぼし、民衆の側の「法の遵守」の精神をむしばみ、「不法を容認する」という害毒をまき散らしているのです。

近世幕藩体制下の「非常・民」の末裔は、明治以降の「司法・検察・警察」の職に殉ずる人々のことで、決して、明治以降、その職を解かれた「旧穢多(被差別部落の一部)」に引き継がれているわけではありません。非常民の連続と不連続の問題をあいまいにしないで、正しく認識しなければならないのです。

古代律令制度の「制度外制度」、そこに関わる「身分外身分」といわれた「エジ(衛士)」や「エタ(衛手)」、そして、明治初期まで存続していた「非常民」は、世界刑法史上まれにみる優れた法システムの担い手として、その職務に従事してきたのです。その「非常民」のうち、明治政府がいう優秀なものは、「試験」(密室で行われた人選)を経て、明治の裁判制度・司法制度・検察制度・警察制度の中に組み込んできました。

「由緒正しき穢多の末裔」というのは、現在の被差別部落の住人の中にいるのではなく、現代の司法・検察・警察機構の中にいるのです。山口県警を含む県の職員の中には、「近世の藩士の血をひくものが3分の1はいる」と、山口県の教育委員会の採用試験における「コネ」採用が問題になったとき、県の関係者は、「コネ」採用を取り除くことの難しさを指摘していました。

明治の「非常民」に組み込まれなかった「旧穢多」の一部は、「警察の手下」、「探偵」、「興信所」へとその職業を変えていきました。「興信所」への、結婚相手に対する部落出身か否かの身元調査依頼は、複雑な問題を背後に含んでいます。日本の左翼的な政治活動が、「旧穢多」を巻き込んで行われてきたという歴史的事実も、更に複雑な問題を背後に抱え込むことになっています。

少しく話が脱線してしまいましたが、青少年犯罪の増加と深刻化に対処するためには、私は、日本社会に内在する「常と非常」、「気枯れと穢れ」の区別を正しく教えることが必要であると思います。今の日本の学者・教育者は、「賤民史観」を強制され、その中で、この区別ができなくなっています。「賤民史観」を破棄する、破壊することで、私たちは、自らを自由にし、差別することもされることもない社会を創設していかなければならないのです。

次回は、少々予定を変更して、「長州藩青田伝説」をてがかりに、「長州藩青田伝説」と、歴史学者と教育者、被差別部落の当事者の「賤民史観」と「穢れ」について論述します。歴史の事実をねじ曲げて成立する「賤民史観」は、日本社会の害毒です。取り上げる歴史学者は、大阪明淨大学の布引敏雄教授(文学博士・「日本の歴史」「人と社会(人権)」担当、『長州藩部落解放史研究』など著書多数)。教育者は、元神戸甲北高校長・西田秀秋(全同教・県同教で要職、『長州藩部落民幕末伝説』(社会評論社)など著書多数)、被差別部落の当事者は村崎義正(著作に、部落問題研究所出版部発行『怒りの砂』)です。

この論文は、歴史学者や教育者、被差別部落の当事者の人格に対する直接的な攻撃や批判ではありません。あくまで、彼らの中に存在する「賤民史観」が批判の対象になります。 

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