2005.09.01

村と百姓と穢多

tori02第2章】部落学固有の研究方法
【第2節】村のシステム
【第1項】村と百姓と穢多



この『部落学序説』は、ウエブログ上で直接書き下ろしています。時々、深夜にタイピングすることになりますが、眠気と闘いながらタイピングした原稿は、支離滅裂・・・と感じるような部分が少なくありません。後日、該当部分を書き直したいと思っていますが、とりあえず、先にすすめます。

筆者は、「部落学」を構築するときの視角・視点・視座は「百姓」であることは何度も述べてきたとおりですが、「百姓」の多くは「農人」です。「農人」の在所は「農村」ということになります。「農人」と「穢多」の関係を検証していて思うのですが、近世幕藩体制下において、「農人」と「穢多」の関係はそれほど強くありません。

「農人」は、「穢多」となんらかの接点がありますが、直接、なんらかの交流があるわけではありません。もしかしたら、「農人」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と、直接、関係を持つことなく、その一生を終わることになるかも知れません。

火付・強盗・殺人等の重大な犯罪を犯した場合や、百姓一揆に参加して、鋤や鍬を振りかざして、藩権力である武士や穢多と渡り合った場合をのぞけば、「農人」にとって、近世警察官である「穢多」とは何の関係も持たずにその時が過ぎて行くことになります。

「農人」の住む世界は「常」の世界です。「農人」は、この「常」の世界にとどまる限り、近世警察官たる「穢多」との関係はありません。しかし、「常」の世界からはみ出して「非常」の世界に迷いこむと、好むと好まざるとに関わらず、近世警察官たる「穢多」と遭遇することになります。犯罪の捜査・逮捕・取調・裁判・判決・お仕置きのさまざまな分野で「穢多」と関わらざるを得なくなります。

「農人」が犯した罪が無過失で正当防衛の範疇にある場合は、「穢多」は同情を持って「農人」に接してくれるかもしれません。しかし、「極悪人」とラベリングされるような重大な犯罪を犯した「農人」については、近世警察官による厳しい対応が予想されます。幕藩体制下の取調方法に、「拷問」という制度がありますが、穢多によって、直接、「拷問」にさらされることになります。一端、無実の罪で、この「拷問」にさらされた「農人」は、そのときの屈辱と反感を生涯持ち続けることになるでしょう。

長州藩の近世における行政単位の最小単位は、「村」です。

漁村の場合は、「浦」と呼ばれていますが、「浦」は同名の「村」と区別されるときに使用されていますので、「浦」は「村」の一種と考えて構わないと思います。

近世の歴史資料や伝承を考察していくとき、この近世の村をどのように正確に把握することができるか、ということが、とても大切になってきます。

筆者の頭の中にある村を検証してみます。

ひとつは、山口県に棲息するようになって二十数年、妻と一緒に繰り返しドライブした「村」に、山口県熊毛郡熊毛町八代というところがあります。「八代」(やしろ)という村は、中国地方で唯一の鶴の飛来地として知られている村です。最近は、飛来する鶴の数が激減して一桁にまで減ってきていますが、私と妻は、春夏秋冬を問わず、この村を尋ねます。

春・夏・秋・冬を通じて、八代の村は、日本古来の村が持っていたと思われる様々な表情をみせてくれます。村の西の峠から、盆地上の八代の村を見渡すと、夕日に村全体が輝いてとてもきれいで、八代の村をみているだけで、こころが和みます。

八代出身の、ある高校教師は、「八代は、山口県のチベットと言われている」と言って、私達夫婦を驚かせました。八代に住む若い人々は、この「チベット」から出て行って、都会で生活をしたいそうです。この八代は、例の『周防國図』という地図を見ると、長州藩の重要な街道からそれたところ、どちらかいうと、いくつかの街道に取り囲まれた周防国のひとつの「ふところ」というような場所にあります。

犯罪者が逃げ込む場所としては、最も条件の悪い場所にあります。

八代に行くと、夕暮れ時は、いまでも、イノシシの親子連れに遭遇することがあります。道に迷って山奥に入っていくと熊にも遭遇します。畑の畦道で、狸の親子連れを見ることも珍しくありません。どの道をたどっても、やがては、穢多や茶筅が配置されている街道に出てしまいます。犯罪者の逃避行のルートとしては、まったく意味をなさない場所に八代の村はあります。こういう村には、長州藩は、穢多や茶筅を配置しませんでした。

長州藩における穢多の在所は、治安維持のために重要な拠点に配置されていたのです。

ですから、現代の住人によって、「山口県のチベット」と言われるような場所には、今も昔も「被差別部落」は存在しないのです。八代の「農人」は、その村で生活する限り、その生涯の間、「穢多・茶筅」なる存在に一度も遭遇しなかったとも考えられます。

この場合は、「百姓」と「穢多」の関係は非常に疎遠なものになります。

それでは、八代の村は、治安維持をどのように図っていたのかといいますと、庄屋をはじめとする村役人によって、その職務が遂行されていました。いまでも、長州藩の村の庄屋をしていた家の蔵には、捕り物道具(十手やさすまた等の捕亡具)が保存されていることが珍しくありません。庄屋の手にあまる懸案については、代官所に庄屋を通じて連絡されましたから、百姓一揆も起こさず、近世の百姓道をまっとうしていけば、「穢多・茶筅」との接点はほとんどなくなります。

八代から山陽道へ一歩でも出ることになると、必ず、穢多の在所を通ることになります。そして、そこで、近世警察官の検問を受けることになります。

八代の村の生活の中心は、神道だけでなく、仏教も大きな影響を持っています。

柳田国男の民俗学は、神道を中心とした村ですが、長州藩の村々を見てみますと、民俗学が想定する「神道を中心とした村」というのはなかなか見つけることが難しい状況にあります。長州藩の、山口県のいずこの村にも各派の寺があって、住民のこころの拠り所となっています。

私達が、一般的に使用している「村」という言葉は、多重定義の用語です。

「村」という言葉で、別な存在を指して用いられるのです。「村」には、「自然村」と「行政村」とがあります。農事評論家の原田津が《"むら"は"むら"である-農村の論理・都市の論理》で、自然村とは、「暮らし万般のあれこれでひとつのかたまりになって動いている村」のことで、「地方行政単位としての村」ではないといいます。村は、二重定義されているのです。

村の人は、日常生活の中で、この二つの村を使い分けているのですが、『にっぽん部落』の著者・きだみのるは、「東京の役人や知識人はこのことを忘れ、外国を含めた東京の知識で、部落(自然村のこと)を律しようとして、過誤に陥るのだ」と警告しています。

部落差別の起源について、幕藩体制が、百姓を生かさず殺さずの状態で搾取するために、百姓身分の下に、百姓よりも、あわれで、みじめで、気の毒な被差別民としての穢多・非人を置いたのだ・・・という、一見、もっともらしい説明がなされてきましたが、長州藩の村の中には、穢多・非人が設置されていない村というのが相当数あります。この場合、どういう解釈が成立するのでしょうか。

私は、「愚民論」(支配者が被支配者を愚弄する見方)から出てきたもので、長州藩の時代、一度たりとも百姓は、そのようなことで満足したことはないと思います。藩側の理不尽な要求に対しては、百姓は、一揆を持って断固抗議してきたというのが本当です。近世幕藩体制下の百姓は、自分たちの生活の向上は、自分たちの知識と技術で克服していったのであって、「自分たちよりも下の暮らしをしている人を見て自分をなぐさめていた・・・」というような姑息な人は極めて例外に過ぎません。いないとは言いませんが、「百姓」を馬鹿にするのもほどがあります。

農事評論家の原田津は、先の論文の中で、このようなことを語っています。

「岐阜県の山村での話だが、先生の舎宅を村営で建て、その舎宅を村内の各地区(つまり、むら)の一つ一つに散在させてある。学校の先生はむらの先生であることを求められている。教育権は国にあるのか国民にあるのかという議論が、裁判で争われもしているが、冷酒を囲んでのむらびとの座談で、国か国民かという抽象の論点は、たちまち、学校かむら(父兄)かという次元に引きずり下された。それが、私にはたいへん印象深い」。

二十五、六年前のことになりますが、岐阜県のある村で、ひと夏、教育実習を受けたことがあります。村にある、たったひとつの保育園で、小さな園児たちと一緒に過ごしました。その村は、岐阜県の白川というところで、教育実習にでかけていってみてはじめて、飛騨の白川ではなく美濃の白川であると知りました。

白川には、飛騨川の支流として三つの川、赤川・白川・黒川が流れていますが、川底の石の色でそのような川の名前がつけられています。

教育実習の期間中、私の宿白場所は、村で唯一の料亭の座敷・・・。

来る日も来る日も夕食は、刺身と酒。刺身でないときは、近くの川でとれた鮎や鱒の塩焼き。アルコールに弱い私は、数日間で辟易して、普通の食事にしてもらいましたが、その料亭のおかみさん、「余所の人に粗末なものを出しては申し訳がない」と言って、教育実習の間、ずっと刺身と酒を用意してくださいました。

園児の父兄の家を家庭訪問すると、どの家でも、原田がいう「冷酒」が出されました。

「お暑いでしょう。お冷やをどうぞ」と出されたものですから、私は一気に飲み干そうとしましたが、一口飲み込んだ瞬間、清酒だと分かりました。そのあとがたいへんでした。次の家を訪問すると、やはり、「お冷やをどうぞ」と出てくるのです。「もしかして、これって、お酒ですか」と尋ねると、「もちろんです。」という答え。「あの、私、飲めないのですが・・・」とお断りすると、「まあ、ご冗談を。前のうちでは、たいそう立派な飲みっぷりだったそうではありませんか」といいます。もじもじしていると、そのお母さん、急に眉をつりあげて、「前の家で飲めて、うちでは飲めないということなのですか」といいます。しかたがなく、私は、一気にコップの酒を水だと思ってのみほしました。それから、更に、4、5軒。最後の家は、駐在所のおまわりさんの家でした。「ああ、やっぱり飲まされましたか」と、うれしそうににこにこしておられました。この村に赴任するのはよそう。アル中になってしまう、私は、心の中で決心していました。

「飛騨の白川もいいが美濃の白川もいいところ・・・」と村の人々がいう白川でのひと夏、私は、いろいろな経験をさせられました。私が宿泊していた料亭の部屋の前は、白川が流れています。一晩中、せせらぎの音が、けたたましく聞こえます。「せせらぎ」というのは静かに聞こえるものだと思っていたら、私の耳には「ごうこう」という音に聞こえます。眠り浅いまま、朝はやく目を覚まして、私は、その白川の岸に下りてみました。すると、そこに猿が1匹いて、川の水で顔を洗っていました。私は、はじめてみる光景なので、その猿の仕種をじっとみていたのですが、またたくまに、村の人々の間にうわさが流れました。「今度きた保育園の見習い先生、朝、川で顔を洗っている猿をみて、朝のあいさつをしていたそうだ・・・」。村の人々にとって、余所者はめずらしいのか、何かにつけて、物笑いのタネにされているようでした。

ある日、隣村の古い映画館で、「トラック野郎」の岐阜県編の上映会があるというので、近所のこどもたちと一緒に歩いてでかけました。夜道を歩いていたとき、「シャーン、シャーン、シャーン、シャーン・・・」という不思議な、しかし、静かで、きれいな音が、近づいて遠ざかっていきました。「今の音、何なの?」と小学生たちに尋ねると、「ええ、先生、あの鳴き声知らないの?みんな、この先生、あれが何の鳴き声か知らないんだって」とみんなでくすくす笑うのです。女の子が、「あれは、雌きつねの鳴き声」といいます。「ええ、きつねって、こんこんとなくのではないの?」と聞き直すと、みんなどっと笑って、「本当にしらないんだあ」とからかいます。

ある時、川の淵にこどもたちを連れて泳ぎに行きました。私は、泳ぐことができないので、こどもたちがいつも泳いでいる、いちばん浅い淵に行きました。川で水遊びをしていると、川の向こう岸から、蛇が頭をあげて、こどもたちが泳いでいるこちらの岸へやってくるではありませんか。私は、こどもたちが蛇に噛まれてはたいへんであると思って、「あがれ、あがれ」と手振りを交えて、こどもたちを岸へあがらせました。同時に、私は、こちらにやってくる青大将めがけて、河原の石を投げ続けました。そして、ふと、不思議な違和感に包まれていることに気がついたのです。石を投げる手をとめてこどもたちの方をみると、こどもたちが、私の方を冷たい視線でにらみつけているのです。こどものひとりが口を開いて、「先生、なんで蛇に石をぶつけてるの。けがするじゃない」といいます。蛇の方をみると、岸にあがってきた青大将の頭から血が流れています。「この蛇は、ぼくたちの友達だよ。みんなが泳いでいると、いつも一緒に遊びに出てくるの。」、私は、しまったと思いましたが、あとのまつりでした。蛇は、頭にけがをしたまま、向こうの岸へと姿を消していきました。

私は、そのとき、予断とか偏見というのが、どういうものか、身を持って知らされました。「蛇は邪悪な生き物。人間にとって危害を与えるもの。」・・・、私の頭の中には、いつのまにかそういう予断や偏見ができあがってしまっていたのです。その結果、保育園のこどもたちの大切な「友達」に石をなげつけ怪我をさせてしまいました。「自分の中にある諸々の予断や偏見を取り除かなければ・・・」、そのときこころからそう思ったのです。

蛇に石を投げつけていたとき、3歳児の女の子が、私の足にしがみつきながら、「先生、殺しちゃだめ」と言っていた声をいまだに忘れることはできません。

明治初期、その村は、廃仏毀釈の流れの中で、神道中心の村になりました。

民俗学が想定していた、神道を中心にした村であると言えます。私がひと夏を過ごした、美濃の白川のある村のように、日本の社会の中には、寺を棄て、神道に戻った村もないわけではありませんが、ほとんどの村は、仏教がその村の精神文化の中心になっているのではないでしょうか。美濃・白川の近世の村の歴史資料には、「穢多、非人・・・村に差置かぬこと」という一文がありました。その村も、「穢多」とは直接関係のない村でした。

民俗学者・柳田国男の弟子、「東京に生まれて東京に育ち、三十近くなってからこのかた約二十年、郊外や海岸に住みなれていくぶん田園の風物に接しても、まだこういう農村の生活は初めてのことであり、殊にあたりに旧い知人が一人もなく、まったく土着の農家ばかりの中で暮らすようになった」という山川菊枝は、『わが住む村』という著書(岩波文庫)の中で、「お寺が今でも部落の信仰の中心」であるといいます。昭和十年代のその村は、まだ近世の伝承が残っているようで、一生をその部落で過ごしてきた老婦の「刀なんかさした人は見たことはなかったね・・・」と聞き取りをしています。山川は、武士と百姓は、「まるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていた」と記していますが、同じ「非常民」に属し、「武士」とその職務を同じくする「穢多」も、「百姓」に対しては、「まるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていた」のかもしれません。

私達は、明治以降の教育の中で、「賤民史観」を図式化した「士農工商穢多非人」という言葉を無批判的に受容させられてきましたが、その図式では「百姓(農工商)」と「穢多非人(非常民)」とは、いちばん近い階層に位置づけられます。しかし、近世幕藩体制下にあっては、「百姓(農工商)」と「穢多非人(非常民)」は、それほど近い存在ではありませんでした。「穢多非人(非常民)」なくしては、百姓独自で村の治安維持にあたった例も少なくありませんが、その場合、もうひとつの村の非常民(庄屋をはじめとする村方役人)の負担はかなりおおきなものがあったに違いないと思います。

近世幕藩体制下の村の中には、「常」の状態にあっては、「非常民(武士や穢多非人)」の姿が見えない村々が相当存在していたように思われます。村とその住人が、一生、「常」の状態の中を生き抜いていったとしたら、彼らは、「非常民(武士や穢多非人)」に遭遇することはほとんどなかったように思われます。

「部落学」は、穢多の在所だけでなく、穢多が住んでいない「村」の存在も視野に納めなければなりません。近世の村には、「穢多」の在所がある村と、「穢多」の在所がない村が、なぜ、存在しているのか、その問いに対して、明確な回答を用意しなければなりません。「穢多」身分は、「百姓」身分の上でもなければ下でもない、右でもなければ左でもないのです。「穢多」身分は、「百姓」身分の「非常の時」にのみ、「百姓」の前にその姿をあらわし、「非常の時」が過ぎ去ると「穢多」も村からその姿を消していった・・・、そのような存在であったと思われます。当時の「非常民」である「穢多」の職務は、「村」の「非常」を正常化して、元の「常」の状態に戻すことにあります。「百姓」にとって、「穢多」は、非常時のときにのみ姿をあらわす存在だったのです。

「穢多」は、「武士」にとっては限りなく近い存在でした。しかし、「穢多」は、「百姓」にとっては、限りなく遠い存在でした。「百姓」にとって、「武士」が遠い存在であるのと同じく、「穢多」も遠い存在でした。「百姓」にとって、「穢多」が近い存在になったとき、「百姓」は、「非常の時」における「加害者」・「被害者」、いずれの立場に立たされても、苦難と試練のときでした。「百姓」が避けたのは、「穢多」そのものではなく、「穢多」が近世幕藩体制下の警察としての職務のために駆り出される「非常時」そのものでした。「穢多」を忌み嫌ったのではなく、「穢多」が権力者として「百姓」の世界に入ってくる、火付・強盗・殺人・一揆という、社会病理そのものでした。

「賤民史観」は、それを「差別」と表現します。 恐ろしき誤解です。
   

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村境と芝境、気枯れと穢れ

【第2章】部落学固有の研究方法
【第2節】村のシステム
【第2項】
村境と芝境、気枯れと穢れ


近世幕藩体制下の「村」は、すべて、幕府や諸藩の管理下に置かれています。「村」は、大小を問わず、藩権力が及ぶ場所です。

長州藩では、近世警察の管轄区分を「芝」(しば)と呼びました。「芝」は、一つ以上の村から構成されていました。その「芝」は、近世警察である「穢多」の管轄区分で、その管轄下の個々の「村」には、「穢多」が駐在しているところもあれば、そうでないところもありました。しかし、一端、「非常」が発生しますと、その「芝」に属する「穢多」が駆けつけてくることになります。

「芝」と「芝」の境を「芝境」(しばざかい)といいますが、「芝境」は、多くの場合は、村と村の間の境界線上に設置されていますが、「芝境」は、藩の治安維持のために設定されていて、長州藩の萩本藩においても、枝藩・支藩においても、「芝境」からもれる地域や農村はどこもありません。

「芝」は、穢多の死牛馬処理の権利の及ぶ範囲・旦那場のことではないかと思われる方があるかもしれませんが、長州藩においても、近世初頭はそうでした。しかし、幕藩体制が安定し、その長期継続が予想されていく中で、近世警察もより安定した方向へと秩序づけられていきました。そして、死牛馬処理の権利の及ぶ範囲が、近世警察の管轄と同じものとみなされるようになり、結局、「芝」というのは、近世警察の管轄区分を指すようになっていったのです。どの村も、いずれかの「芝」に組み込まれていて、そこから漏れるということはありません。

その「芝」を意識していたのは、非常民である武士や穢多たちであって、百姓ではありませんでした。「百姓」は、芝と芝の境の「芝境」(しばざかい)より、村と村の境である「村境」(むらざかい)の方に関心がありました。百姓の日常生活に直結していたのは、「芝境」ではなく「村境」でした。もちろん、両者がダブル場合もありました。ある村とある村の境が、重要な街道に関係していたりすると、その「村境」は同時に「芝境」とみなされました。

近世の百姓は、その村の中で、どのように生きていたのでしょう。

前のページで取り上げた、山口県熊毛郡内の八代(やしろ)という村を例にとってみると、村の中心は農家の家々が立ち並んでいます。ちょうど、盆地のようなところですが、農家の家々の外には、「野良」という原っぱがあります。秋には、美しいススキの花が咲いています。「野良」を過ぎると、山に入ります。山には、冬の薪をとるための入会地があります。そして、更に山に深く入っていくと、峠があって、そこには、村の境をしめす、様々な指標が設けられています。小さなお堂であったり、道祖神であったり、道案内であったりします。そこまでくると、村から外に出ていくという雰囲気になります。

八代は、四方を山に囲まれて、住人が村から出ていくには、村の家を離れて、野良を通って、山に入り、さらに峠を通って、村の外へと出ていかなければなりません。近世の百姓は、自分の住んでいる村境から外へは出ていくことは許されなかったといわれます。村を棄てて出ていく百姓は、「走り百姓」と呼ばれました。

伊藤博文の父母は、先祖伝来の農地を棄てて他所(萩城下)に移り住んだ「走り百姓」でした。倒産して夜逃げをした百姓の息子である伊藤博文(当時は幼名・利助)は、百姓の世界を捨て、武士の世界に入っていきます。伊藤博文が最初についた仕事は、「毛利家保管地相州宮田」(神奈川県)の「警護」の仕事でした。

長州藩で、一般的に「警護」の仕事に携わったのは、「穢多」と言われていた人々でした。伊藤博文は、「武士」の世界の最下層の仕事からはじめて、その実力を認められていきます。そして、たどりついた武士の世界の身分は、中間でした。伊藤博文は、明治近代国家の創設に尽力し、45歳のとき初代内閣総理大臣となります。韓国併合条約締結の前の年、ハルビン駅で狙撃され死去します。一説に、明治の重臣の中で、伊藤博文は、その出身賤しきがために、国策遂行のための人身御供にされたのだという説もあります。伊藤博文は、明治天皇から拝領した軍服しかあとに残しませんでした。日本の近代国家設立のために全力を尽くして伊藤博文は、現代の汚職にどっぷりつかった政治家とは雲泥の差があります。

脱線はこれくらいにして、伊藤博文も、「走り百姓」の悲しさを経験しています。

村を捨て、村を出る・・・というのは、村人の衆人環視の中を事実上でていくわけですから、たいへんなことであったと思います。

近世の村では、その村人はどのような生活をしていたのでしょうか。

山口県周防大島町に、「民俗資料館」があります。私が知っている限りでは、最大の民俗資料館です。農民・漁民・大工等いろいろな道具や器具が豐富に陳列されています。その中に、何の説明もなく、そっと、目のつく場所に、近世警察の捕亡道具も展示されています。

cycle 民俗学で議論されていることに、ハレ・ケ・ケガレというのがあります。

『部落学』構築を視野に入れるとき、ハレ・ケ・ケガレを、私は次のように解釈します。まず、村の住人の日常生活を「ケ」と呼びます。「ケ」というのは、百姓が朝早く起きて、農作業に従事するときの、毎日繰り返される通常の営みのことを指して用います。

ところが、「ケ」は、農作業のマンネリ化の中で、「気」が失われてきます。「気」が失われることを「気が枯れる」、「気枯れ」(けがれ)と呼ぶことにします。「気枯れ」の状態をそのままにすると、農業の生産に著しく悪影響が出てきます。そこで、適当な時期に、この「気枯れ」を取り除いて、百姓の日常生活に意欲と活力を取り戻させる必要があります。

そのための装置が「ハレ」です。

稲作のはじめに行う春の祭り、稲作の終わりに行う秋の祭り、そして、盆と正月・・・、百姓の日常生活の中に、これらの祭りを取り込むことで、「晴れ」の時を創出するのです。「ハレ」の時を過ごすことで、百姓は、もう一度、「ケ」の世界、日常の世界に戻っていきます。

「気枯れ」は、時として、病気の形をとりますし、年をとってくると老衰という形をとって現れます。しかし、全快祝いとか、葬<祭>という「ハレ」(広義の意味でのハレ)を経由することで元の「ケ」、百姓の日常生活に戻っていきます。

村の生活は、ケ→ケガレ→ハレ→ケ→ケガレ→ハレ→ケ→ケガレ→ハレ・・・という形で、ひとつの循環を継続していくことになります。私は、この「ケ→ケガレ(気枯れ)→ハレ」という循環を、「常」の世界と呼びます。

この「常」の世界に身を置いている限り、近世警察である「非常民」(同心・目明し・穢多等)のお世話になることはありません。

しかし、ケガレ(気枯れ)が、ケガレ(穢れ)に発展する場合があります。

この場合のケガレ(穢れ)は、法的逸脱のことをさします。軽犯罪から重犯罪まで、いろいろなケガレ(穢れ)が存在します。火付・強盗・殺人等の重犯罪の場合は、本人とその家族だけでなく、被害者の家庭にも大きな悲惨と不幸をもたらします。ケガレ(穢れ)に陥ったものは、警察・司法の機関によって、捜査・逮捕・取調・裁判・判決を経て、刑罰が課せられていきます。これらの一連の営みを「キヨメ」といいます。この「キヨメ」を経由することで、村人は、もう一度、ケの世界に戻っていくことができるのです。この「ケ→ケガレ(穢れ)→キヨメ」という循環を、「非常」の世界と呼びます。

法的逸脱の程度によっては、キヨメの過程の中で、処刑され、命を持って償わされる場合もあります。近世幕藩体制下のキヨメは、藩にとっての貴重な人材を、できる限り温存しようとします。嵯峨天皇によって、設置された検非違使制度という警察制度は、政治犯に対する死刑廃止(第一次世界大戦後のワイマール憲法下の刑法を起草した法学者・ラートブルフが主張した法政策)を実施するなど法的逸脱をしたものに対する社会復帰の方法を内包する先進的なものでした。

筆者は、「ケガレ」という概念は、二重定義であると考えています。

「ケガレ」という言葉が、「常」の世界にあっては「気枯れ」を意味し、「非常」の世界にあっては「穢れ」を意味していると捉えます。民俗学でいう「気枯れ」と歴史学でいう「穢れ」は、同じ「ケガレ」の常・非常の区分に過ぎないのです。民俗学も歴史学もおのれの立場をゆずらず、ひとつの意味で、あるいは両者を恣意的に混同して用いることによって、いたずらに混乱を引き起こしているように思われるのです。

「穢れ」を前にして、「キヨメ」の営みをするもの、それが、「非常の民」・「非常民」なのです。近世幕藩体制下の穢多・非人は、キヨメの一端を担っているに過ぎないのです。穢多・非人は、「非常民」の一部であるのと同様に、「キヨメ」の一部なのです。

「キヨメ」は、それぞれの時代の警察機構の共通した所業であって、決して、「穢多」に固有の独占的な所業ではないのです。「賤民史観」は、この「キヨメ」を「穢多・非人」に集約してしまいますが、私は、間違いであると思います。「賤民史観」が差別的な歴史思想であることの証左であると思っています。「キヨメ」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の共通の属性なのです。
 

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