2005.09.01

部落学の定義

rqkqn04【第2章】部落学固有の研究方法
【第1節】部落学固有の研究方法
【第1項】部落学の定義



第1章で、「穢多は非常民である」と定義付けをしました。

この定義に至るまで、私は、十数年に渡り、試行錯誤を繰り返してきました。定義の仕方については、近藤洋逸著『論理学概論』(岩波書店)に依拠しています。近藤は、「問題解決の過程の中で概念が形成される」と書いていますが、部落学の固有の研究対象である「部落」を定義する場合も同じことが言えるのではないかと思います。部落差別完全解消を目的とした研究過程の中で、自ずと必要な定義が形成されていきます。

定義は、一度の定義で、完全な定義をすることはできません。

仮説的に定義された概念を、その内包と外延を検証することで、更に、より正確な定義を模索していくことになります。具体的には、まず、概念の内包(「共通な性質」)を抽出することで、その概念の外延を確定していきます。そこで確定された外延を検証して、設定された内包が正しいかどうか検証していきます。外延に問題があれば、更に、内包を定義しなおし、更にそれに基づいて外延を把握し直します。定義には、「無限」を感じさせるほど、多くの時間と作業の繰り返しが必要になります。私は、その結果として、「穢多は非常民である」と定義することになったのです。

「部落学」固有の研究対象が明確になりますと、部落学固有の研究方法は必然的に決まります。

「民俗学」が、常民に対する学であるなら、その常民の対極にある非常民を研究する「部落学」は、「民俗学」の研究方法をかなりな部分、援用することが可能になります。

「民俗学」は、①歴史学、②社会学・地理学、③宗教学の学際的研究であると言われますが、「部落学」も、それらの個別科学研究の学際的研究として設定することができるようになります。

「民俗学」と「部落学」で総合される個別科学研究の科目内容が同じであるなら、「民俗学」の対極になぜわざわざ「部落学」を構築する必要があるのかと考えられる方もおられるかも知れません。

私が「部落学」構築を提唱するのは、「民俗学」が、研究の対象にしている民俗の世界は、神道の世界を前提としているからです。柳田国男が想定している民俗の伝承の器である「村」は、仏教伝来以前の日本の村ではなく、明治政府が描いていた近代日本の構成要素たる村であったからです。柳田国男の民俗学は、多分に明治政府、日本国家のイデオロギー的側面を持っています。

五来重は、「柳田民俗学は、宗教の点においては神道のほうに傾いていたといえると思います。そんな中で私が仏教民俗学といいだしたのは、庶民の側の仏教史をどうとらえたらいいのかと考えたことからなんです」と、宮田登との対談の中で語っています(『歴史公論№52日本の民俗と宗教』)。また、「柳田国男先生のなかに神道なり国家主義なりに同調するような方向があり、その方面をおしすすめた観はありますね」とも言っています。宮田も「ほとんどの民俗学研究者たちは仏教学を知らない。だから現実に調査したときにも・・・」、正しい聞き取り調査ができない可能性を示唆しています。

私は、「部落学」の研究方法としては、宗教学に神道に仏教を付加するだけではまだ不十分であると思っています。もうひとつの宗教、キリスト教を付加すべきであると思います。

日本古来の「非常民」が、「軍事」と「警察」に二極化されたのは、嵯峨天皇の時です。

『新天皇系譜の研究-万世一系の演出と実態』を書いた角田三郎は、陸軍航空士官学校を出ますが、戦後、キリスト教に転身します。そして、天皇制批判を展開していくのですが、彼は、知る人ぞ知る、江戸時代の漢学者・新井白石の末裔です。彼は、風のうわさでは、靖国違憲訴訟を準備していく段階で、体制がしかけた罠に陥り、挫折を経験させられたと聞いています。

角田は、その書の中で、評価できる天皇の中で、最上位に推すことができる天皇として嵯峨天皇の名をあげています。

その理由のひとつに、「彼の政策の穏健さ」をあげています。具体的には、嵯峨天皇が、天皇家の血で血を洗う皇位継承問題の悲惨さを繰り返さないために、「軍事」と「警察」を分離し、「治安維持のための検非違使の創設」をしたことを取り上げています。

犯罪を未然に防ぐことを目的として設置された警察制度は、効を発揮して、「そしてこの後340年間、保元の乱まで、朝廷の手による死刑執行が止められたことも有名なことです」と言います。

検非違使が制度化される以前は、「非常民」は、「軍事・警察」が渾然と一体化したものであったのですが、検非違使が制度化された以降は、「軍事」と「警察」の両機能は分離され、戦時ではない平時にあっても有効に機能する、治安維持のための制度ができあがったわけです。検非違使制度は、古代律令制から見ると、「制度外制度」であり、そこに従事した人々は、「身分外身分」ということになります。検非違使制度は、時代を超えて温存され、日本の全国津々浦々に、「番人」として配置されていきます。彼らの姿は、藍染めの衣装(制服)を身にまとった、一目で分かる存在でした。

私は、その存在を、「衛手」(まもりて)と認識して、その「衛手」の漢語読みを「エタ」と推測したわけです。「衛手」は、江戸時代まで、文字としては「守手」(まもりて)として伝えられていましたが、文字としての「衛手」が失われ、音としての「エタ」のみが残っていったと推測したわけです。

網野善彦は、『歴史を考えるヒント』(新潮選書)の冒頭で、以下のように述べています。

「日常、われわれが何気なく使っている言葉には、実は意外な意味が含まれていることがあります。あるいはまた、われわれの思い込みによって言葉の意味を誤って理解していることもしばしばあるのです。歴史の勉強をしていると、そういうケースに直面することが少なからずあります。しかも、そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざるを得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違ってみえてくることさえあるの">ではないかと考えます」。

今日、「穢多」という言葉については、暗くて惨めなマイナスイメージの響きしかありません。しかし、私は、「穢多」という概念を再定義していく中で、「穢多」の属性として、「衛手」(エタ・非常民)に到達したのです。

この「エタ」は、歴史の進展の中で、徐々に社会的に重要な存在になり、その職務内容が増大していきます。

様々な職務を担っていくようになります。その内容は、明治以降の近代警察の職務内容とほぼ匹敵する内容です。実に多種多様な仕事に従事していました。「穢多」の立場からすると、「穢多」という言葉は、「多くを穢す」意に受け止められていたように思われます。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


山口県立文書館の研究員・北川健が発掘した、長州藩の近世穢多村の伝承の中に、「山部は穢す皮張場」という一節がありますが、「穢す」という言葉は他動詞です。穢多が、主体的に働きかける存在になります。ここでいう「穢す」という言葉は、『広辞苑』(初版)の説明では、「人格・実力のない者が高い地位に就く。また、自分がある地位や席につくことを、謙遜していう。」意味にあたります。

「穢多」というのは、「穢れ多し」と読むのではなく、「多くを穢す」と読むべきではないのかと、私は、推測するわけです。近世の非常民である「穢多」の特質は、その職務に、さまざまな警察機能に加えて、「宗教警察」が含まれたことにあります。ここでいう、宗教とは、キリシタンとか日蓮宗の不受不施派、悲田宗、三島派など、「邪宗門」とラベリングされ、幕藩体制下で禁教扱いされていた宗教のことです。特に、穢多に課せられたのは、キリシタンに対する取り締まりでしょう。長州藩の史料の中には、穢多たちに対しては、キリシタンを取り締まるように指示が記されたものがあります。

近世穢多のはじめと終わりは、キリシタン弾圧のはじめと終わりに平行していることは、多くの部落史の研究者が指摘しているところです。もちろん、それを解明したひとはいませんが・・・。

私は、これらのことから、民俗学レベルの宗教学(神道中心)では、非常民の本質を十分に描ききることはできないと思っています。さすれば、「仏教民俗学」を補助科目として付加すればそれで十分かといえば、それでも不十分であると思っています。やはり、「神道民俗学」・「仏教民俗学」だけでなく、「キリシタン民俗学」も視野に入れないと、穢多の本質は把握できないと思っています。

私は、「常民」を固有の研究対象とする「民俗学」の部分的修正だけでは、「非常民」について十分に迫りうるものにならない、やはり、「民俗学」とは別に、「非常民」の学としての「部落学」を構築する必要を感じてしまうのです。

ここで、命題2を設定します。

「部落学は、<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究であり、そのことによって部落学固有の研究対象である「部落」の歴史と本質を明らかにし、差別・被差別の立場を問わず、すべての人を<賤民史観>から解放し、日本社会の病巣である部落差別の完全解消に資することを学的課題とする」。 


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※『部落学序説』の執筆を開始して9ヶ月、ほとんど批判らしい批判はありませんでした。あっても、通説にのっかった単発的な批判(たとえば、沖縄・北海道には「被差別部落」はないという、筆者がその存在をほのめかすことへの批判)でしかなく、議論に発展することはありませんでした。ただ例外的に、筆者の足元からの批判がありました。山口県高等学校同和教育研究協議会の高林君夫氏(『部落学序説』では「研究者」として登場)と部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡英章氏(『部落学序説』では「部落解放同盟の方」として登場)の2者からの批判でした。いずれも、『部落学序説』の筆者とのかかわりを否定したいという動機が働いているようです。部落史研究・解放教育の一般常識や通説からかけ離れた「虚説」にかかわって、筆者と一緒に笑いものにされたくないという気持ちが優先しているのでしょう。両者は、15、6年に渡って、「電話」を介して情報交換してきたのですが、両者とも積極的に筆者の『部落学序説』の内容に賛同していたというのではなく、まったく、逆に全面否定の立場を明らかにされていたのです。山口県北の寒村にある、ある被差別部落の聞き取り調査をきっかけにはじまった「部落学」構築の歩みをはじめた当時は、インターネットもなければブログもありませんでした。調べた結果を公表する手段としては、印刷物による配布・出版しかなかったのですが、そのときから15、6年が経過したいま、時代は大きく変わり、ブログで、論文の公開執筆と出版が可能になっています。山口県高等学校同和教育研究協議会の高林君夫氏は、筆者の『部落学序説』は「2度と見ない」と宣言されて離れて行かれました。部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡英章氏は、対応に苦慮され、結局、「地域限定情報論」を唱えて、「山口県内では情報を流してきたが、全国的に流したわけではない」との理由で、『部落学序説』の文書の該当個所の削除をもとめてこられました。部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡英章氏が発信した全国向情報は、『部落の過去・現在・そして・・・』([22-13-130]こぺる編集部編・阿吽社)に限定されてしまいます。部落解放同盟山口県連新南陽支部は、同和対策事業終了とともにすでに解散され、「部落史研究会」(仮称)されておられるとのことなので、筆者が、彼のことを「部落解放同盟の方」と呼ぶのも、その「部落史研究会」を「部落解放同盟山口県連某支部」と呼ぶのも「事実誤認」のようですが、ともかく、筆者の棲息している「山口県」の世界からの筆者に対する批判は、『部落学序説』の2度の執筆中断と書き直し作業を引き起こすことになったことだけは否定しようがありません。『部落学序説』執筆をはじめて9ヶ月、結局、『部落学序説』の読者の方々から、『部落学序説』に対する批判はありませんでした。筆者は、学者・研究者・教育者の論文を2つのグループ(Aグループと not Aグループ)にわけ、それぞれのグループの中からそのグループを代表する学者・研究者・教育者「A」・「not A」を抽出、両者の論文を比較して、いずれかの見解を採用し、のこりの見解を否定する方法で、『部落学序説』を展開してきました。筆者は、「A」・「not A」を「楯」として、ブログ上で『部落学序説』を書きはじめたのですが、「A」・「not A」の「楯」を突破して、『部落学序説』の内容を批判してくださる方はほとんどおられませんでした。批判がない・・・、ということで、今回、「元」部落解放同盟山口県連新南陽支部関連の記事を削除することで、『部落学序説』の文書を固定することにしました。「はじめに」からはじめて、やっと「第2章」に入りました。まだ、当分、編集校正作業に時間がかかるかと思いますが、『部落学序説』、最後まで執筆を続けたいと思います。

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部落学と歴史学

【第2章】部落学固有の研究方法
【第1節】部落学固有の研究方法
【第2項】部落学と歴史学



既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果としての史料や論文の累積は相当数にのぼります。
これらすべての史料や論文に目を通すことは事実上不可能です。

特に、大学で高等教育を受け、歴史学に精通した研究者ならともかく、大学での「学」とはまったく無縁な状態で人生を歩んできた、無学歴・無資格な、ただの人である筆者にとっては、すべての史料や論文に精通することは最初から不可能なことです。

この『部落学序説』を書くに際して使用する史料や論文、伝承との遭遇は、筆者にとっては、まったくの偶然の産物です。筆者が遭遇した史料や論文は、ひとつの「出会い」のようなものであると思っています。その「出会い」によって、この『部落学序説』は、大きく影響されていると思うのです。

部落史研究の大御所である沖浦和光は、その著『「部落史」論争を読み解く戦後思想の流れの中で』の中で、「人生の長い旅路で、いちばん大事なのは、いつ、どこで、だれに出会うかということであろう。それによって、行き先も、歩く道も、大きく違ってくる場合が少なくない。他者との出会いが、人生の大きな節目になる-そういう出会いは、この人生という長い路線の転轍手みたいなものだ。」といいます。

筆者にとっては、人物だけでなく、史料や論文等も同じ類の出会いです。いつ、どこで、どのような史料や論文と出会うか、その偶然によって、筆者の『部落学序説』の内容は大きな影響を受けています。

筆者は、以前にも記したように、58歳の年になるまで、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書を持った人から、高等教育、講義を受けたことは一度もありません。

しかし、論文や書籍を通じて、間接的に、大学教授の研究成果に触れることは度々ありました。すぐれた学者は、一般の人々に、分かりやすい言葉で入門書や啓蒙書を執筆してくれます。それが、筆者の人生を、いろいろな意味で潤してきたことは否定できません。しかし、更に優秀な大学教授は、歴史学の研究成果だけでなく、歴史学の研究方法を提供してくれます。無学なものに、歴史学が何であるのか、どうすれば、歴史学研究を自分で行うことができるのか、詳細な情報を提供してくれます。それらの書物は、知識・技術だけでなく、歴史研究をすすめる上での姿勢や、研究の途上いろいろな壁に直面したときの対処法なども提供してくれます。ときには、読者に対する配慮から、励ましや慰めの言葉を、その行間に散りばめてくださる方もいます。

歴史学についていえば、筆者は、『歴史學研究法』(今井登志喜著)と『地方史研究法』(古島敏雄著)から、大きな影響を受けました。もし、この2冊の書にであうことがなかったら、筆者は、歴史学に関心を持つことはなかったでしょう。

この『部落学序説』では、「新しい資料の発見」はひとつも含まれていません。今井は、「新しい資料の発見によって旧学説が覆る実例はしばしば見る所である。」といいますが、無学歴の筆者のよしとするところではありません。「いかに不完全であってもすでに発見し得た資料に基づいてそれによって立証される限りの真理を認識するほかはない」ことを認めざるをえません。

今井の『歴史學研究法』は、既存の歴史学研究の論文がどのように構成されているか、その舞台裏を知る上で大いに役に立ちます。部落史の学者・研究者が、歴史学のクリティークをきちんと実践しているかどうか、その論文の読者に、それを確認する様々な方法を提供してくれます。

歴史家は、個々の歴史資料を収集・分析・解釈したあと、それらの歴史資料を総合して、ひとつの歴史的研究の成果としての論文を構築しなければなりません。今井は、その構築を、「歴史的連関の構成」と呼んでいます。「一の歴史的連関の構成が未だ何人にもなされなかった題目について行われる時、それはその研究者の学的業績になる」と言います。新しい歴史資料の発見に至らずとも、既存の歴史資料を批判・検証して、研究主題に応じて「歴史的連関の構成」を新しく試みるとき、今井は、それも、歴史学的研究の一つに数えるわけです。

『部落学』は、歴史学にとどまらず、社会学・宗教学・民俗学の個別科学研究の成果を批判・検証することで、部落学の固有の研究対象にふさわしい史料・伝承、論文・研究を抽出し、個々の要素の「連関」を再「構成」することを課題にすることになります。

『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「歴史に関心を持った人々」に、二つのタイプがあることを指摘しています。

「一つはたとえば日本は今迄多数の研究者が永年研究をやっているのだから、もう残された問題はないだろうとする人々であり、他の一つは新しい歴史学樹立の必要を痛感し、その立場として民衆の立場ともいうべきものの必要を痛感して勉強をはじめ、あるいは成果の啓蒙運動をやってみて、数年にして所期の成果がえられないとして焦っている人たちである。一方は過去の業績を無条件に完全と認めているのであり、他方はそれを否定しながらも過去の業績の読み直しをやりさえすればそれで新しいものができると過信しているのである。両者ともに新しい・根底からやり直すような歴史研究上の問題を認めないことでは共通したものを持っている」。

「部落学」は、歴史学を過剰に評価するあまり、この二つのタイプに属する歴史学者や研究者からの果てし無き無益な論争に巻き込まれることは、極力さけなければなりません。部落史の分野においては、二つのタイプに共通していることがらとして、「賤民史観」の受容があげられます。

沖浦は、戦後の部落史研究の口火は、京都の部落問題研究所の創立ではじまったとします。その最初の成果は、北山茂夫・林屋辰三郎・奈良本辰也・藤谷俊雄・井上清の5人の研究者によって執筆された『部落の歴史と解放運動』(1954年)であったと言います。更に、上田正昭・原田伴彦・藤谷俊雄・中西義雄の4人によって、『新版・部落の歴史と解放運動』(1965年)が出版され、「賤民史に関する歴史認識の枠組みが設定され」たといます。戦後の部落史研究の基本的枠組みとして、「賤民史観」が確定されていったのです。それは、今日に至るまで影響を持ち続け、「新しい・根底からやり直すような」(「賤民史観」を見直すような)歴史研究上の問題を認めることはしません。他ならぬ沖浦自身も、「賤民史観」の支持者でした。

沖浦は、「特に90年代に入ってからさまざまの視点から多様な部落史像が語られるようになりました。活発な論争が展開されること自体は、歴史研究の水準を高める必須の契機なのだが、それにしても先学たちが苦心して蓄積してきたこれまでの研究成果(「賤民史観」/筆者注)を十分に咀嚼しない粗雑な仕事が一部にみられたことも、残念ながら否定できない。」といいます。沖浦も、「賤民史観」そのものを批判・検証して手放すことはなさそうです。

岩波書店の近代思想体系の『差別の諸相』という、幕末から明治23年までの豊富な歴史を紹介している書物の編集者・ひろたまさきは、巻末の《日本近代の差別構造》の中で、「賤民史観」支持を明確に打ち出しています。近世・近代を通じて、「賤民史観」でまとめています。近世の「士農工商穢多非人」に代えて、近代の「天皇・皇族・華族・士族・平民」「新平民」「アイヌ」「沖縄人」という図式を採用しています。

しかし、古島敏雄著『地方史研究法』(初版1955年)は、「賤民史観」を見直すためのさまざまな示唆に富んでいます。古島は、文献のみによる民衆の歴史や生活史を明らかにするためには、「民俗学的な聞きとりと文献の利用は平行しなければならない」と指摘しています。特に明治4年太政官布告以前の歴史資料の取扱方と研究の方向性を示唆している点では、『地方史研究法』は、部落学構築にとって非常に有意味な歴史学の解説書です。

「部落学」は、史料や論文の単なる「読み直し」ではなく、差別的な歴史思想である「賤民史観」という汚れに染みた歴史学者の手から、関連する歴史資料を取り戻し、「洗い直し」の作業をしていくことになります。「賤民史観」という差別思想を洗い流すことによって、歴史資料の持っている意味を、歴史資料をして語らしめるという作業を通して、「部落学」の中に取り込んでいく必要があります。

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部落学と宗教学

【第2章】部落学固有の研究方法
【第1節】部落学固有の研究方法
【第3項】部落学と宗教学

『部落学』構築のためには、民俗学・歴史学の他に、宗教学・社会学の手助けが必要です。

宗教学は、ある宗派・教派の固有の学としての「教学」ではなく、宗教一般についての科学的な研究を指します。神道・仏教・キリスト教についての、できる限り、客観的な研究成果に立脚して、「穢多と神道」・「穢多と仏教」・「穢多とキリシタン」の関係について考察する必要があります。

東日本の「穢多」については、「穢多と神道(白山神社)」の問題を避けて通ることはできませんし、西日本の「穢多」については、「穢多と仏教(浄土真宗)」の問題を避けて通ることはできません。この場合の神道にしても仏教にしても、近世幕藩体制下の非常民としての、近世警察としての「穢多」の精神的支柱を形成するものです。
江戸時代300年間を通じて、穢多が穢多であり続けたのは、穢多自ら、穢多の職務に主体的に関わったからであると思われます。望みもしない職務を上から押しつけられて、300年間に渡って黙々と服従してきた・・・というのは想像することすらできません。300年間も穢多であり続けたのは、彼らが、自分たちの非常民としての職務に自信と誇りを持ち続けてきた結果に他なりません。

従来、「被差別部落は西日本に多く、東日本にはほとんど存在しなかった」ということが言われてきましたが、「部落」の近世的前身である「穢多村」は、決して、西日本に多くて、東日本に少ないというような形で偏在していたわけではありませんでした。非常民としての、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」は、身分名や役職名の違いこそあれ、日本列島の北から南まで、押し並べて存在していたのです。

※明治以降の旧穢多に対する、「賤民史観」の間違った見解によると、沖縄や北海道には穢多は存在していなかったということになります。しかし、非常民としての「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました。江戸幕府から遠く離れた地、江戸幕府にとっての辺境の地であればあるほど、軍事・警察上の防衛のために、「非常民」なる存在が必要でした。

筆者は、キリシタン弾圧が行われた地には、すべて、キリシタンを取り締まる宗教警察たる「穢多」という「非常民」が存在していたと思います。「穢多」たちは、キリシタン弾圧に大きく関わっていました。幕府と諸藩は、「穢多」に宗教警察的機能を与え、年間行事であった宗門改めでは徹底できないキリシタン禁圧政策を、日本全国の穢多によって、抜き打ち的に戸別調査をさせて、幕府のキリシタン禁圧政策をより徹底したものにしようとしました。

浄土真宗は、宗教教団全体で、このキリシタン禁圧政策に参加していきました。多くの宗教教団が、この世の権力の支配機構になぞらえて、その組織を形成していきます。宗教教団のトップは、自らを「天皇」や「将軍」と同じ権威を持っているものとして自己主張します。しかし、浄土真宗の組織は、極めて例外的な組織を形成します。

浄土真宗は、その教団組織を「軍事」組織ではなく「警察」組織に擬して構成していくのです。浄土真宗門徒は、「歴代本願寺法主」を「弥陀の御代官」として観念していたと言われます。そして、全国に散在する「末寺・寺庵の僧侶」は「如来の与力」として、門徒に受け止められていました。「代官」・「与力」の次には、「同心」・「目明かし」が続くと想定するのは決して間違いではないでしょう。「穢多寺」の門徒である「穢多」たちは、その「同心」・「目明し」・「棒突」を指すことになります。

浄土真宗が自らの教団を非常民としての警察機構を擬して構成するのは、幕藩体制下における浄土真宗の存在理由を宣言したものであると解されます。日本から邪宗門であるキリシタンを排除する、そのために、浄土真宗全体がそのことに関与する、「歴代本願寺法主」が「弥陀の御代官」として門徒に認識されていったというのは、浄土真宗の宗教警察としての自負心のなせるわざではなかったかと思われます。

左右田昌幸の《真宗への歴史的視線へのゆくえ》(『脱常識の部落問題』)には、ショッキングな言葉で綴られた見出しが踊っています。

「本願寺=部落寺院総本山」の可能性

穢多が穢多であり続けるための精神的な支え、それは、真宗門徒としての信仰と倫理でした。広島大学名誉教授の有元正雄は、その著『真宗の宗教社会史』の中で、近世幕藩体制下での真宗門徒の生活と生き方、その信仰と倫理を解明しています。

筆者は、宗教社会史の中から、「穢多」の生き方を見直す必要を感じています。

「部落学」構築に際して、私が依拠する宗教学は、岸本英夫の『宗教学』です。岸本は、神道が、キリスト教に並ぶ宗教であることを立証します。「神道は宗教にあらず」を否定、神道の宗教性を根源的に主張します。「神道は宗教にあらず」という説の根拠として、「神道には教典がない」という理由があげられることがありますが、岸本は、神道の教典と教理をくっきりと描いてみせます。また、『宗教学』の中に、神道とキリスト教が如何に対立関係にあったか、なぜ、幕藩体制下で禁圧されるに至ったのか、その理由を見いだすこともできます。

この章では、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の既存の研究成果を「部落学」の中に吸収していきます。


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※「非常民としての「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という筆者の主張に、反発を感じられた方がかなりおられるようです。沖縄や北海道には被差別部落は存在しなかった・・・という説は、網野善彦も主張しています。この説は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる人々にとって、なかば常識化しています。筆者は、その常識を否定するかのように、「非常民としての「穢多」なる存在は・・・沖縄にも北海道にも存在していました」とあえて既述したのは、『部落学序説』の研究方法上当然の帰結だったからです。「穢多」は、幕府のキリシタン禁教政策のための「宗教警察」であったと認識する筆者にとって、近世幕藩体制下の「日本」の全土(沖縄から北海道まで)キリシタン弾圧が実施されたと思っています。幕府は、沖縄から北海道まで、全国津々浦々からキリシタンを排除したのであって、決して、キリシタンの「逃れの場」を許しませんでした。沖縄も北海道も例外ではなかったと確信したからです。それと、もうひとつの理由としては、沖縄や北海道には被差別部落は存在しなかった・・・という説を主張する学者・研究者の論理のあまさがあります。論争のための適当な素材を見つけましたので紹介します。
東北芸術工科大学教授・赤坂憲雄の論文(http://www.jinken-net.com/old/hiroba/2004/index.html)から、「東北から見た部落差別(上)(その2)」の「折口信夫の沖縄体験から」を全文再録します。

●それでは、被差別部落が存在しない地域にあげられる、沖縄の島々はどうだろうか。ここでは、民俗学者の折口信夫が沖縄をはじめて訪ねたときの「沖縄採訪手帖」(一九二一)を、とりあえずの手がかりとする。●そこには、「琉球には、特殊部落とてはない。唯、念仏者を特殊扱ひするだけで、皮屋も、屠児も嫌はない」(※)と見える。大阪の西成郡木津村の生まれであり、厳しい差別の実態を熟知していた折口の眼には、それがたぶん、たいへん珍しく感じられたのである。じつに簡潔な記述ではあるが、折口は三つの重要な指摘を行なっている。すなわち、沖縄には被差別部落が存在しないこと、「皮屋」も「屠児」も忌避されないこと、ただ念仏者(ニンブチャー・チョンダラー)だけが特殊な扱いを受けること、である。●このチョンダラーは、葬儀にさいして念仏を唱え、人形あやつりの芸能を生業とすることで知られた、少なからず賤視を蒙ることのあった人々である。いまはすっかり姿を消した。かれらは中世あたりに、ヤマトから沖縄に渡った念仏系の芸能民の子孫だ、と想像されている。チョンダラーには「京太郎」という漢字が当てられるが、そこにも、それが沖縄に根生いの人々ではないことが暗示されているはずだ。●沖縄の島々には、たしかに、ヤマト的な意味合いでの被差別部落が存在しなかった。折口は書いた、琉球では「皮屋も、屠児も嫌はない」と。ブタの屠畜にしたがう人々も、その皮を剥ぐ人々も、ともに差別の対象にはならなかったのである。かつて、沖縄では、正月の儀礼食として欠かせなかったのがブタ肉であることを、想起しておきたい。●むろん、東北や沖縄の島々が差別のないユートピアだった、などと言いたいわけではない。ただ、少なくとも、東北には被差別部落が少なく、中世以前の東北に、身分や職業にかかわる差別の制度が存在しなかったことは否定できない。沖縄もまた、そうした差別の制度を内発的に生んだ形跡が見られない。その社会的な背景はたぶん、東北や沖縄が生産力の低い遅れた後進地域であったからだ、といった意識せざる「ヤマト中心史観」によっては説明しがたい。それでは、ほかに、いかなる了解の作法がありうるのか。それが次の問いとなる。●※ 引用中の「特殊部落」「屠児」は不適切な表現ですが、原文どおり掲載しました。

※赤坂憲雄が沖縄には「被差別部落」は存在しなかったと主張する根拠のひとつに、民俗学者・折口信夫の『沖縄採訪手帳』があります。赤坂は、民俗学者・折口信夫が「沖縄には被差別部落は存在しない」と主張していたと解釈します。しかし、筆者の目からみると、折口の「琉球には、特殊部落とてはない」という文章と、赤坂の「沖縄には被差別部落は存在しない」という解釈は、同定することはできません。折口が「特殊部落」をターゲットにしているのに反して、赤坂は「被差別部落」をターゲットにしているからです。概念の時代的変遷(外延の拡大と内包の変節)が無視されています。しかし、両者に共通しているのは、折口も赤坂も、近世及び明治初頭についての言及ではなく、明治中期以降の「特殊部落」(戦前)・「被差別部落」(戦後)の既述であるということです。一方、筆者の「非常民の「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という既述は、近世及び明治初頭についての言及です。筆者の「非常民」概念は、「特殊部落」・「被差別部落」概念の批判・検証の上に成立する用語です。筆者は、その違いをこの『部落学序説』で説いてきたつもりですが、なかには、『部落学序説』の「非常民」理解を無視して、『部落学序説』の結論と、一般説・通説の結論を比較して、『部落学序説』の誤謬を指摘される方もおられます。「部落解放同盟の方」の、『部落学序説』の論証の過程ではなく、結論だけをもとめられ、それを評価の対象にしておられるようですが、筆者の『部落学序説』は、読者の皆様に、「論証の過程」を提示しているのであって、新しい「史観」や「運動理論」、「思想」を提示しているわけではありません。沖縄には、折口が大阪で見た「皮屋」・「屠児」の「厳しい差別の実態」を物語る「特殊部落」も「特殊部落民」も存在していなかったかもしれませんが、沖縄の無数の島々を軍事・警察の驚異から守る「非常民」は存在していたのです。中国や日本に貢ぎ物をして、沖縄の平和のために外交努力をするとともに、自分たちの島は自分たちで守るために、すべての島に「非常民」を配置していました。本州・九州・四国と名称・組織・配置がことなるだけです。琉球の古文書の中には、その存在を確認できるものもあります。琉球・沖縄を日本の「植民地」とみなす発想からは、琉球・沖縄が独自の「非常民」システムを持っていたことは容認したくないことなのかもしれませんが、筆者には、逆に、そのような発想の方が理解しがたいのです。筆者の「非常民の「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という主張に変更はありません(このテーマで1冊の本が書けそうです)。

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