2005.09.01

賤民史観と士農工商穢多非人

【第1章】部落学固有の研究対象
【第7節】士農工商穢多非人図式を破棄する理由
【第1項】賤民史観と士農工商穢多非人



「賤民史観」とは、「賤民」を、関係概念としてではなく、実体概念として把握する歴史学上のものの見方や考え方のことです。

この『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の執筆目的は、この「賤民史観」を批判・検証して廃棄させることであることは、以前にも述べた通りです。「賤民史観」を、最も分かりやすく図式化したのが、学校同和教育や社会同和教育の場面だけでなく、歴史学者の研究の場面においても、一般的に使用されている、「士農工商穢多非人」という図式です。

この図式に対して、私は、以下の理由で廃棄の必要性を主張します。

①「士・農・工・商」は、それぞれ漢字1字で表現されているのに、そのあとに続く「穢多・非人」は、漢字2字で表現されていること。「士・農・工・商」と「穢多・非人」の連結の仕方が不自然であること。
②「士・農・工・商」は、江戸時代の職業的階層であると言われる反面、「穢多・非人」は、「穢多役」・「非人役」として、当該身分の役務を指す表現であるから、異なる種類の分類をひとつの序列に位置づけることは問題があること。
③「士農工商穢多非人」という図式は、近世の文献・伝承には存在していないこと。
④幕藩体制下の諸藩の史料を検証すると、「士農工商」という身分制度があったことを否定するような史料が多数存在すること。
⑤幕藩体制下の身分制度は、今日考えられているように「士」・「農」・「工」・「商」各階層間は、閉じられた関係ではなく、かなり開かれた関係にあること。「士」が帰農して「農」になることが認められていたし、「士」の功績あるものが報奨として「庄屋」身分を授与される場合もあったこと。「農・工・商」にあるものが、名字帯刀を許され、士雇(さむらいやとい)の身分を兼務する場合もあったこと。「士」に属する家が断絶を免れるために「穢多・非人」身分を養子として迎える場合がかなり一般的に存在したこと。
⑥「士農工商穢多非人」を教育現場で用いることによって、「穢多非人」が最下層の人間であるという印象を与えてしまうことで、学校同和教育・社会同和教育を空洞化させる機因となる場合が多いこと。
⑦「士農工商」というのは本来中国由来の表現。幕藩体制下の身分制度を表現するのに相応しい用語であるかどうかが検証されていないこと。
   
この節では、最初の理由だけを取り上げてみましょう。

長州藩の枝藩である徳山藩の幕末期の史料に、「士農工商雑」という図式があります。

この図式は、「士農工商穢多非人」という図式の近世における前身のようなイメージがありますが、実際は、かなり違いがあります。

この場合の「雑」という言葉は、「その他」という程度の意味で、封建的身分制度における最下位の身分を指しているわけではありません。「士農工商」という枠に収まらないその他の職業というような意味合いです。

『広辞苑』によると、「雑」という言葉は、あまりいい意味をもっていません。『広辞苑』では、「①種々のものの入り交じること。統一なく集まっていること。②主要でないこと。③有用でないもの。④精密でないこと。粗野。」という説明が付与されていますが、江戸時代末期の徳山藩の「士農工商雑」の「雑」には、現代語の意味合いはありません。

徳山藩の身分制度は、概ね本藩に準じて構成されています。

「士農工商」は、「士・農工商」にまとめられ、「武士・百姓」の形で存在します。ただ、城下町の住人だけは、更に「百姓」から区分され「町人」とされます。城下町に住む住人はすべて「町人」とされ、城下町以外の村に住む住人は、すべて「百姓」とされています。

徳山藩の天保5年の「御領内諸町人数書取」を見ると、「町人」として次のような職業があげられています。

○「職人」(医師・地神経読盲僧・大工・木挽・車指・桶大工・桧物師・櫛挽・竹細工・茅屋根噴・左官・鍛冶・鋳物師・鏡磨・刀脇差細工・縫物師・帳綴・紅おろし・製藥師・塗師・染物師・石工・髪油蝋燭師・油絞・髪結・綿打・風呂屋・社氏・醤油造・瞽女)
○「奉公稼」
○「職人・奉公稼以外の町人」(圧倒的多数)


同じ年の「百姓」については、概略のみ記載されています。

○百姓
○町人(旧町人/城下町が移転した後も旧城下町の住人は町人と呼ばれている)
○職人
○医師
○僧・社人・山伏・比丘尼


つまり、江戸時代の「町人」・「百姓」という表現は、便宜的なもので、藩が、町人に数えれば町人になり、百姓に数えれば百姓になるという状況があります。政治的意図によってどうにでもなります。

実質、同じ職業であったとしても、住む場所によって、「町人」ともなれば、「百姓」ともなるのです。城下町に住む「医師」は「町人」であるが、村に住む「医師」は「百姓」になります。「地神経読盲僧・瞽女」は、城下町に住めば「町人」になりますが、村に住めば、穢多・非人と共に、時として、「士農工商雑」の「雑」に組み込まれることになります。

長州藩の本藩領のうち、室積村(農村)と室積浦(漁村)をみてみましょう。

まず、室積村(農村)ですが、百姓の職業は以下のようになります。

農人・漁人・木挽・大工・左官・紺屋・船大工・船持・廻船持・鍛冶屋・商人、これらの人は当時の一般的な方法で租税が課せられます。当時の免税措置が講じられた人には、僧・俗女・社人・山伏・盲僧がいます。これらの人すべてが農村に住む「百姓」になります。

室積浦(漁村)の職業は以下の通りです。

漁師・問屋・魚問屋・商人・家大工・船大工・桶大工・車大工・紺屋・鍛冶・畳刺・左官・煮売屋・餅屋・茶屋・廻船持、これらの人は当時の一般的な方法で租税が課せられます。当時の免税措置が講じられた人には、僧・医・地神経読盲僧・座頭・瞽女がいます。これらの人すべてが漁村の「百姓」になります。

「百姓」に属さない村の住人としては、「在郷諸士」と「穢多」がいます。

「在郷諸士」は、萩城下の勤務を隠退したあと、自分の領地に戻って生活している、どちらかというと帰農している武士たちのことです。「在郷諸士」は、「非常時」には、武士として穢多と共に動員されました。

徳山藩の「士農工商雑」の「雑」は、「穢多」と「座頭」を指します。

歴史資料から判断すると、この「雑」には、「穢多」(非常民)と「座頭」(百姓/常民)が含まれることになります。つまり、「雑」は、「士農工商穢多非人」の「穢多・非人」のことを直接指しているわけではありません。「士農工商雑」を「士農工商穢多非人」の前身ととることはほとんど不可能なようです。

これは、長州藩の例外事項ではありません。

どの藩も、藩政上、いろいろ工夫を凝らして税務処理や事務処理をしていますので、その内容を詳細に検証すれば、同じような現象を確認することができます。

「士農工商穢多非人」を、「士」が上位にあって、「士」、「農」、「工」、「商」、「穢多」、「非人」と続き、「穢多・非人」は、当時の身分制度の最下層を形成していたと断じるには、相当無理があります。

明治以降の歴史学者、「賤民史観」に立つ歴史学者によって、強引に、その時代の要請から過去の時代を読み直して、「士・農・工・商・穢多・非人」という序列ができあがったのではないかと思います。しかも、この序列が、明治以降の歴史学者や教育者によって、人間の価値の序列として解釈されることにより、序列の最下層の「穢多・非人」は、「賤民」として実体概念として解釈されるようになったと考えられます。江戸時代の身分制度の実態にそぐわない歴史像が捏造されていきます。

明治政府が明治4年に出した二つの太政官布告、ひとつは、「穢多」に対するもので、「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事」として布告され、「座頭」(検校・別当・勾当・座頭・在名等)に対しては、「盲人ノ官職自今被廃候事」として布告されました。両者共、「平民」同様の扱いをするとの名目で、明治政府の日本国家の近代化の諸政策のもとで切り捨てられていきました。

前者は、日本の警察の脱封建化、近代化のために「半解半縛」(筆者の造語/第4章で詳細に論じます)の形で切り捨てられ、後者は、日本の金融制度の近代化のために、不要となった過去の遺物、近代化のための障碍要因として切り捨てられていきました。

前者は、相当数の人々が、近代警察へと「再雇用」され、近代警察機構の中に組み込まれていきました。県によって、かなり、違いがあります。それは、江戸時代に、その地方にいた「穢多・非人」たちが、「士農工商」に対してどのような関係を構築していったかによって大きな違いがでてきます。後者に属する盲人たちは、「穢多・非人」と違って、「再雇用」の方策すら立てられず、明治政府によって「塵屑(ごみくず)」のように切り捨てられていきました。

「穢多・非人」に出された太政官布告も、「盲官」に出された太政官布告も、「解放令」という意味合いはつゆももち合わせていませんでした。

明治政府が出した太政官布告の中で、唯一、「解放令」という言葉が相応しい布告は、明治5年10月の太政官布告第295号だけでした。その条文の中に、「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致」とあり、解放という言葉が明確に使用されていました。

明治以降の歴史学者は、「穢多・非人」と「遊女」を同じ地平で表現できるようにするために、「賤民」という概念を導入しました。「賤民概念」が導入されることで、はじめて、「賤民」の概念は、両方の概念の外延と内包を共有することになったのです。近世、幕藩体制下では、「穢多」と「遊女」は別の世界に身を置いていて、「穢多」は「非常民」、「遊女」は「常民」の世界にいたのです。「非常民」と「常民」の関係は、「非常民」が江戸の風俗を取り締まる側で、「常民」の一角、遊女は風俗に従事するもので、「非常民」によって取り締まりの対象になる側でした。

「非常民」である「穢多・非人」と「常民」である「遊女」を「賤民」という同一概念下におくことによって、「遊女」に対する身分解放令という属性は、「穢多・非人」に対しても使用されるようになります。相いれない存在である「穢多」と「遊女」を一緒くたにして、明治4年の太政官布告を「賤民解放令」と呼ぶのは、牽強付会的な解釈以外の何ものでもないのです。

長州藩の記録では、「遊女」は「百姓」の部類に入ります。

歴史学の常識となっている「賤民史観」に立って、「士農工商穢多非人」が江戸時代の身分制度の実態を物語っていると仮定すると、「農」→「穢多」の序列になりますので、「穢多」は、「遊女」以下の存在になってしまいます。現代的に解釈すると、風俗を取り締まる警察官は、風俗を業とする人々より低い身分ということになります。そんなこと、あるはずがありません。

長州藩の穢多の給与は、平で年間約3両、長吏頭で10両から13両、室積の遊廓の女将は、遊女あがりの女将で、年収は540両・・・。穢多が収入が少ないにも関わらず、江戸時代三百年間を通じて、穢多であり続けようとしたのは、非常の民(近世警察官)としての使命と職務に対する誇り、浄土真宗の世俗化倫理に支えられた彼らの生き方が背後にあったためではないでしょうか。

徳山藩の藩士の中で、年間400両を超える収入がある藩士は、「家老職」以上になります。藩主と5人の家老をのぞいて、その他多くの徳山藩士、士雇、中間・足軽・穢多・非人は、すべて、室積の遊女の最高納税者に遠く及ばないことになります(もしかしたら、現代でも、風俗を取り締まる警察官より、売春等風俗で働く女性の方が収入が上なのかもしれません)。

私は、「賤民史観」は、明治以降の歴史学者や教育者が作り上げたひとつの「幻想」に過ぎないと思っています。歴史資料を少しく精査すれば、いたるところで、ほころびや破れが目につきます。次回は、そのほころびや破れに目を閉ざし、「賤民史観」に依拠し続ける歴史学者の実像に触れてみましょう。

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明治に始まる「穢多非人」の賎民化

【第1章】部落学固有の研究対象
【第7節】士農工商穢多非人図式を破棄する理由
【第2項】明治に始まる「穢多非人」の賎民化



寺木伸明は、その著『近世身分と被差別民の諸相 <部落史の見直し>の途上から』の中で、見直し作業について彼が感じる危機感を述べています。

「従来の研究の枠にとらわれない斬新な発想・史料解釈などにより、部落史は豊かに再構成されつつあるように見える。しかし、他方で、残念ながら、この見直しの中には、今までの研究史の蓄積を無視ないし軽視した言説や、間違った説に無批判的に乗りかかった言説も散見される」。

寺木は、部落史の見直し作業の中で次第に明らかになってきた、「今までの研究史の蓄積を無視ないし軽視した言説」や、「間違った説」への便乗については、部落史「研究の水準を引き下げる」ことにつながると手厳しく批判をしています。

一般的・通説的な部落史研究の方向性を支持し、それを継承・発展させようとする寺木は、「今までの研究史の蓄積を無視ないし軽視した言説」や、「間違った説」への便乗について、深い憂慮の思いをもっておられるようです。寺木は、そういう意味で、部落史の通説の擁護の権化のような側面があります。

その寺木の文書を材料として、彼が擁護する通説としての「賤民史観」を検証してみましょう。

まず、「賤民」という概念ですが、寺木によると、近世の「支配者側によってつけられた呼称」であるといいます。
寺木は、「支配者側によって」を強調することで、「賤民」概念が学術用語、歴史学者や教育者によって明治以降作られた新語・造語であることを故意に隠しているように思われます。

近世の文献の中には、「賤しい民」(身分の低い人々)という相対概念は存在しますが、「賤民」(近世身分制度の最下層の人々)という実体概念は存在していません。私は、いろいろな文献や史料から判断して、「賤民」という概念は、明治以降、政治家・歴史学者・教育者によって使用されるようになっていったと認識しています。

寺木は、「部落差別の淵源が、前近代社会に存在した賤視(最下層の人間とみられること)・不浄視(穢らわしい人間とみられること)身分に対する差別にある」と指摘し、これは、「万人の認めざるをえない確固たる歴史的事実」であるといいます。

寺木は、「今日の部落差別の本質」を捉えるにあたって、従来から、部落史研究の通説とされてきた、「賤民史観」を最大限、尊重・継承しようとするのです。「万人の認めざるをえない」・「確固たる」・「歴史的事実」と、彼の確信の程を伝える言葉を強調して積み重ねるのですが、彼の確信・信念はいったいどこから出てくるのでしょうか。

私は、幕藩体制下の穢多・非人について、史料から、「賤しい民」という表現を見いだすことはできるのですが、「賤民」という表現は見いだすことができません。穢多・非人が「最下層の人間」であったという表現についても、具体的に、史料で確認することはできません。しかし、彼は、「万人の認めざるをえない」・「確固たる」・「歴史的事実」と言い切るのですが、彼の言葉には、何か、学問上の検証の結果そう主張しているというよりは、部落史研究を担った過去の研究者に対する「崇敬の念」から、宗教者が時として抱く、宗教教理の「無批判的受容」のような側面があるのではないかと思います。

寺木は、「賤民史観」を「ひどく高く持ち上げる」けれども、「どう認識するかは十分に教えない」、「砂や泥の上に築かれたにすぎない楼閣」でしかないということに思いをはせたことはないのでしょうか。学者や研究者の「前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけない」といったのは、『方法序説』のデカルトでした。「万人の認めざるをえない」ということが事実であったとしても、「何ひとつ価値のある証拠にはならない」とデカルトはいいます。学者や研究者は、「誤った論拠に満足しないよう」常におのれを「習慣づける」ことが大切です。

こういうのを、「釈迦に説法」というのかもしれません。

「最下層の人間」・「穢らわしい人間」・・・、こういう表現で、人間を観る、それがたとえ過去の人間であったとしても、「最下層の人間」・「穢らわしい人間」という概念をもてあそぶ学者や研究者の姿勢を、学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な私は非常に不思議に思うのです。

寺木は、「士農工商・穢多・非人」という図式を様々な学者や研究者の言葉を引用して批判・検証した上で、「「穢多」身分が、なぜ下の外側に排除ないしは疎外されたのか、を地域の史実に即して明らかにすること」を部落史研究上の「重要な課題」としています。たとえ歴史上の過去の人間であったとしても、「下」と「外」に向けて「排除ないしは疎外された」原因を明らかにするという表現は、寺木が、とりもなおさず、近世の穢多は、封建的身分制度の最下層に位置づけられ、最後は身分制度の外に排除された存在としてしか認識していないということを物語っています。

寺木の説は、「賤民史観」を前提とし、「賤民史観」という枠組みの中で、「賤民史観」を証明してみせる営みに過ぎません。いつまでたっても、「賤民史観」そのものを、歴史学的に批判・検証の対象にすることはないのです。こころある歴史学者は、歴史学者の「前理解」を明らかにして、それを自覚するところから、その研究をはじめると思われるのですが、寺木は、自分の「前理解」を認識することも、自分の内にある差別性を自覚することもなく、「万人の認めざるをえない確固たる歴史的事実」であるというオブラートに包み隠し、自分の臓腑の中に飲み込んでしまっているのです。

寺木は、「士農工商穢多非人」という表現が、明治4年福岡県の大蔵省布告の写しに(石瀧豊美発見)、明治7年明治政府の啓蒙雑誌の中に(上杉聰発見)、明治17年高橋義雄『日本人種改良論全』(寺木発見)、昭和3年群馬県融和会発行『融和問題概説』(中尾健次発見)を紹介しているが、なぜか、近代の歴史を研究している人にとっては、基本的な史料である司法省の『全国民事慣例類集』(明治13年)の図式については言及していません。

明治4年の太政官布告以降、近世警察・司法解体の確かな証拠を求めて実施された調査、明治政府が自らの政策の脈をとったと思われる司法省調査の中で、「近代封建ノ制定リシ以来、人ノ身分自ラ区域を為シ、天子・諸侯・士・農・工・商・穢多・非人ノ名称アり」と総括しています。司法省調査は、さらに、「天子・諸侯」を別にして、「士・農・工・商・穢多・非人」「分テ三種族トス」としています。「士」「第一ノ種族」「農・工・商」「第二ノ種族」「穢多・非人」「第三ノ種族」に区分しています。司法省調査は、「穢多・非人」について、差別的言辞で多くのことを語っています。「穢多・非人ハ人民中ノ最賤族ニシテ・・・」。日本の「国辱」とされた「治外法権」撤廃のため、明治政府がとった種々の政策、近世警察・司法の解体の実効のしるしとして、近世警察・司法の本体であった「穢多・非人」がいかに明治政府によって排除されているか、排除されるに応じて、日本の警察・司法が近代化されていることのしるしとして、その証拠として利用されたと思われる司法省調査については、ひとことも言及されていないのはなぜなのでしょう。

「士・農・工・商・穢多・非人」という図式は、近代日本の国家が創出していったものなのです。「穢多・非人」の「賤民」化は、明治4年の太政官布告にはじまるのです。寺木が、近世穢多を「賤民」視し、近代・現代の被差別部落出身者を「賤民」視するは「不適切である」と、歴史を知らない民衆の目を、この問題の核心から逸らしていくのはなぜなのでしょうか。寺木の主張するところは、歴史の事実とはまったく逆なのです。

近世警察(司法含む)であった「穢多・非人」は、相当数が近代警察へ再編成されていきました。再編成からもれた「穢多・非人」の一部は、近代「警察ノ手先」・「探偵」として生きざるをえませんでした。そのときから、「下級警察官」というイメージが醸しだされていきました。

寺木は、「支配者の側」から「被支配者の側」へ、歴史学者・研究者の視座を移さない限り、部落史の本当の謎を解くことは永遠にできないと思います。

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「士農工商穢多非人」不要論

【第1章】部落学固有の研究対象
【第7節】士農工商穢多非人図式を破棄する理由
【第3項】 「士農工商穢多非人」不要論



この『部落学序説』で最初に定立した命題は、「穢多は、非常民である」という命題でした。

「穢多」は、「非常民」ですが、「非常民」は、必ずしも「穢多」であるとは言えません。なぜなら、「穢多」は、「非常民」という概念の外延、つまり、構成要素のひとつでしかないからです。

「民」は、「非常民」と「常民」に区分されます。

民俗学の祖・柳田国男は、まず、「常民」を定義して、そのあと「常民」に非ざるものを「非常民」として提起していきます。そのため、「常民」か「非常民」か、区別しにくい中間領域的存在を、「非常民」の側に含めて論議します。

その結果、「非常民」という概念は、複雑な様相を呈してきます。私は、あいまいさを排除するために、まず、「非常民」を定義して、「非常民」にあらざるものをすべて「常民」として把握すべきであると思っています。この場合の「非常民」は、「常民」と「非常民」の間の中間領域的存在を最初から排除して「常民」の範疇に数えます。

この場合の「非常民」は、「軍事・警察に関与する人々」を意味します。

「軍事」は、本来武士の仕事、「警察」は、一部の武士と穢多・非人、そして村役人の仕事になります。「軍事」に携わる人も、「警察」に携わる人も、非常時に非常に関わる仕事ですから、文字通り非常民になります。「穢多」は、武士身分・百姓身分の「非常民」と共に、近世幕藩体制下の司法・警察に従事することになりますが、当時の「警察」は、司法・検察・警察が渾然と一体化したもので、厳密な意味では、今日の「警察」とはかなり大きな違いがありますが、その職務の本質上、近現代の警察に類似した「警察」であることは、いろいろな史料から想定することができます。

長州藩では、「穢多」は「役人」と呼ばれています。

警察職として勤務するその代償として藩から「役人」に支給される手当てを受け取っていました。名実共に、近世警察官であったわけですが、長州藩の枝藩である岩国藩の武士は、子宝にめぐまれず、御家断絶の危機に直面したとき、武士と同じ「非常民」である「穢多」身分から、文武に長けた養子を迎えたといいます。「武士」と「穢多」との関係は、私達が考えているほど遠い存在ではありません。

「士農工商穢多非人」という図式は、「士」と「穢多・非人」の距離の遠いことを示しています。

しかし、ものの見方・考え方を少しく変えると、「士」と「穢多・非人」は、極めて近い存在になります。

《中国の歴史思想》を書いた宮崎市定は、「あらゆる学問の中で、歴史学はとりわけ客観的具体性を尊重する学問である」といいます。宮崎は、「歴史学とは史料に歴史事実を語らせる学問」であり、「何を史料に使い、その史料をどう使うか、という問題に還元される」と指摘、「歴史学は結局、歴史事実をして歴史事実を語らせる学問だということになる」といいます。「すぐれた歴史家とは、史料のいうことを間違いなく受取る聞き上手のことである」と断言します。またこのようにも語ります。

「歴史を如何に理解すべきかという問題は、歴史学の専門家と非専門家とではその受け取り方が違う。というのは、一般の人にとっては歴史事実は始めからそこにあった自明なもの、与えられたものとしてそれをどう理解するかだけが問題なのであるが、歴史の専門家にとってはそうはいかない。歴史学者にあっては先ず自分で史料から歴史事実を汲み取り、造りあげることから取りかからねばならぬのである」。

少しく長い引用になりますが、歴史学の先達の言葉に耳を傾けることは意味のないことではないと思われますので、続けます。

宮崎は、「要するに政権から歴史学に対する注文があまりにも多すぎるのである。新政府の革命を偉大なものと謳歌するにはその前に暗い封建時代を前提としなければならぬ・・・」と、近代国家によって、賤民史観が発生する前提を示唆しています。そして彼は、その論文をこのように結論します。

「いったい歴史学に限らず、凡ての学問は只真実のみを注文するのでなければ順調に発達するものではない。ここにいう真実とは、人間の理性に信頼し、自由に放任された人間なら、誰しも結局は認めざるを得なくなる真実をいうのであり、闘争の末に勝った官軍によって宣言されて始めて真実たりうる真実のようなものをいうのではない」。

「賤民史観」に限定して言えば、歴史学者の多くは、「穢多」が「賤民」であることを証明するために、牽強付会的な強引な解釈を施して、「みじめで、あわれで、気の毒な」そんなイメージを含む史料をすべて「穢多」に押しつけます。歴史資料をして歴史事実を語らせるのではなく、権力や政治の要請に応えて、歴史の真実を歪曲し、捏造してしまいます。「部落史」の分野においては、「賤民史観」は暗黙の前提として、歴史学者や教育者を精神的に拘束します。

学歴も学識もない筆者は、時の権力が要請した「賤民史観」に拘束された、部落史の学者や研究家と比して、「自由に放任された人間」として、学歴・学閥などに拘束されることなく、歴史資料や論文からのみ判断材料を得て、デカルトのいう内なる「理性」に信頼して、歴史の真実を追求することができます。

歴史学的研究をする上での姿勢について学ぶところが多い宮崎ですが、この論文を読んだのは高校2年生のときでした。彼の言葉は、いまだに私の心の中にあります。

その論文の中で、宮崎は、漢代の司馬遷の史料蒐集のための旅にふれて、このように語っていました。「彼の旅行はまた彼の視野を一般市民層にまで拡大するに役立ったと思われる。ここに市民というのは、中国でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する壮丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られていた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むにいたったものである」。

「士・農・工・商」という近世身分制度上の図式を考慮する際、「士」を、「貴族の子弟」に相応する藩士のみに限定せず、士雇・中間・足軽・穢多・非人・茶筅・宮番・村役人まで、「非常の民」すべてを含む概念として、「士・農・工・商」の「士」を把握すれば、「士農工商」の下に「穢多非人」を置かなくてすみます。穢多・非人は、非常時の質によっては帯刀を許されたのですから、何ら不都合は存在しません。

鹿児島大学・大学院で東洋史を専攻した「研究家」は、宮崎市定の説は一般的ではないといいます。そんな説にのっかって論をすすめたら恥をかくことになるといいます。学歴も資格も持ち合わせていない、ただの無学な私にとって、最大の敵というのは、私が知らない学者の名前を出されて、その権威を背景に反論される場合です。彼の学識の広さを認めるものの、時々、なぜ、「史料」そのものよりも、「通説」や「学説」を重んじるのか、不思議になります。

この『部落学序説』は、学歴のなさを十分認識しつつ、それを、「足で歩いて」、「目と耳で確認した」ことを中核に構築したものです。筆者は、部落史の真実が、筆者として、この『部落学序説』を書かせていると思っています。

この節を閉じるにあたって、もうひとりの部落史の研究家をとりあげてみましょう。

立教大学で「部落学」を開講している川元祥一です。

彼の《部落学》という論文で、彼が提唱する「部落学」の概要がしめされています。彼のホームページ上で閲覧することができますので、まだお読みでない方は、是非、ご一読ください。(http://www5c.biglobe.ne.jp/~yosikazu/burakugaku.htm)

川元の「部落学」は、歴史学・社会学・民俗学・心理学などの個別科学研究の研究成果を糾合することで部落問題の全体像を把握し「新しい学問分野とする」といいます。『部落学序説』の筆者が、川本祥一を「部落学」の提唱者とする所以ですが、彼のいう「新しさ」は、彼の語る言葉のとおり、個別科学研究の「研究成果の糾合」にあるのであって、彼の部落学の背景にあるのは依然として「賤民史観」そのものです。

川元が大学でテキストとして使用している著書『部落差別を克服する思想』をあわせ読むとよく分かるのですが、川元は、「賤民史観」を継承して、部分的にその説の一部を修正しようとします。彼は、個々の史料の解析においてすぐれた研究をしているのに、それを総括する段階で、その研究成果を「賤民史観」という古い革袋に押し込めてしまうのです。

川元は、「江戸時代の身分序列は士・農・工・商・穢多・非人・雑種賤民と列記される」と一般説を述べたあとで、江戸時代の身分呼称の全体を職業的カテゴリーとして現代的に「士・農・工・商・浄め役・諸芸」とすることができるといいます。彼のいう「新しさ」は、「身分呼称」を「職業的カテゴリー」に置き換える点にあります。

川元は、「穢多非人」を「浄め役」と呼ぶのは、「穢多非人」という言葉が部落差別の偏見を助長する起因になることを防ぐためだといいます。しかし、近世の身分制度として日本の教育制度の中で繰り返し教えてこられた「士農工商穢多非人」という図式をそのままに、「穢多非人」を「浄め役・諸芸」という川元がいう新しい言葉に置き換えたところで部落差別の偏見を取り除くことはできないと思われます。車の色を新しく塗り替えたところで、中古車が新車になるはずがないのと同様です。

zusiki 筆者の提唱する「部落学」は、個別科学研究の成果の糾合ではなく、「常民」の学として「民俗学」が、歴史学、社会学・地理学、宗教学(神道中心)を主要科目として、民俗学固有の研究方法として成立したように、「非常民」の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学(神道・仏教・基督教を視野に入れて)を主要科目として、政治学(外交史)・法学(法制史)を補助科目として、部落学固有の新しい研究方法を採用します。『部落学序説』の「常・民」・「非常・民」という概念は、歴史学・民俗学に対する挑戦でもあります。

川元の「部落学」が、日本の歴史学の通説、「賤民史観」の修正にとどまるのを横目で見ながら、「賤民史観」破棄に向けて、通説への徹底的な批判・検証を遂行し、差別・被差別の関係を乗り越えた、新しい人間理解の可能性に挑戦します。

『部落学序説』の筆者は、「部落学」を遂行するうえで、伝統的な「士農工商穢多非人」という図式も、最近の部落研究・部落問題研究・部落史研究を踏まえた上での新しい図式、たとえば、川本の「士・農・工・商・浄め役・諸芸」や、ひろたまさきの「天皇・皇族・華族・士族・平民・「新平民」「アイヌ」「沖縄人」」(岩波近代思想大系『差別の諸相』)という図式も必要はないと考えます。それらの図式は、鉄でできた冷たい足かせに毛皮を巻いて温かくみせたところで、足かせであることには変わりないのですから・・・。

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