2005.09.01

「非常の民」としての穢多

【第1章】部落学固有の研究対象
【第5節】非常の民としての穢多
【第1項】「非常の民」としての穢多



「穢多」という概念は、穢多・茶筅・宮番の総称として使用しています。

長州藩では、いろいろな呼び方が「穢多」という概念に吸収される傾向があります。萩・本藩では、身分階層が細分化され、「穢多」・「非人」の別がはっきり区分されていますし、また「穢多」内部にあっても、穢多・茶筅・宮番という存在が区分されていて、それぞれ身分階層の所定の場所に位置づけられています。

しかし、長州藩の枝藩・支藩になりますと、本藩と比して、身分階層がある程度簡略化される傾向にあり、例えば徳山藩を例にとると、「穢多」・「非人」の区別がなくなり、すべてが「穢多」として表現されるようになります。また、「穢多」の内部の穢多・茶筅・宮番等の区別もなくなり、「穢多」という言葉ですべてのことが表現されるようになります。

そういうところから、私は、大概念としての「穢多」と小概念としての「穢多」の二重定義を認識するのです。上位概念としての「穢多」と下位概念の「穢多」として識別してもいいかもしれません。広義の意味での「穢多」と狭義の意味での「穢多」が存在するわけです。

まえがきで、「ある聞き取り調査」の文章で紹介した、山口県北の寒村にある、ある被差別部落は、その村の刀禰役(中世から継続して存在する村役人で、地図を作製し、土地を管理する能力を持っていることから、支配者や支配の構造が変わっても継続してその専門職にとどまり続けることが許された人)の作成した地図上に、藩の役人が、「穢多屋敷」と注を振ります。

ここでいう「穢多屋敷」の「穢多」は、包括概念・大概念・上位概念としての「穢多」です。その「穢多屋敷」、藩の牢屋敷を守っていたのは、小概念・下位概念の「穢多」ではなく、実際は、「茶筅」と言われた人々でした。

部落史研究において遭遇するさまざまな歴史資料を読んでいて、注意しなければならないのは、この「概念」の多重定義です。ひとつの概念がいろいろな意味を持って使用されているということです。それを無視して、歴史資料を解釈すると、無理を押し通す強引な解釈に陥ってしまう可能性があります。

中上健次の名著、『紀州 木の国・根の国物語』の中に、紀州の旅を終えるにあたって中上が抱いたひとつの感想があります。それは、「私は、自分が被差別部落とは何なのか、差別、被差別とは何なのか、何ひとつ分からないのに思い至る。」という言葉です。中上の紀州の旅は、それを少しでも解明していく旅であったはずですが、中上は、旅の終わりを前にそのように記しているのです。部落差別は、中上のような感受性豊かな精神を持っているひとにしてもなおそのような言葉を語らせるほどに難解なものかもしれません。

その問いは、紀州の旅の途上においてしばしば繰り返されてきた問いでもあります。

「差別・被差別の回路を持って旅をしている」という中上の脳裏にしばしばよみがえってきたのは、「差別、被差別とは何なのだろう」という問いでした。「今改めて、被差別部落とは何なのだろう、と問う。そして、被差別部落民とは何なのだろう」。中上は、ひとつの難問の前に立ち尽くします。「被差別者でありながら、被差別部落民を差別している」という現実の前に。

長州藩の「穢多」と「茶筅」の両者は、包括概念としての「穢多」に含まれるのですが、両者は、ほとんど交流がありません。江戸時代の「穢多」と「茶筅」だけでなく、「穢多」の末裔と「茶筅」の末裔の間にも通婚ということはないのです。

長州2ヶ国のひとつ、周防の国の「茶筅寺」(茶筅を門徒に抱える浄土真宗の寺)は、すべての村の「茶筅」を抱え込むためには、3ヶ寺必要になります。相対座標によって、長州藩の歴史資料に出てくる「周防国中茶筅寺」しか、史料にはでてこないのですが、口伝(浄土真宗の僧侶の話)で確認することができる、「周防国北茶筅寺」と「周防国南茶筅寺」の3カ寺です。

たったひとりで、「周防国中茶筅寺」を調査のために尋ねたとき、その住職は、「確かに、あなたが言われる寺はこの寺のことですが、お話をする前に、あなたの身元を確認させてもらってもよろしいか」といって、私の目の前で、玄関の電話を使って問い合わせをされたのです。

電話の相手先は、浄土真宗の別院(事務局)。「○○教団に○○さんというひとは在籍していますか。山口県同和問題を考える宗教者連帯会議に参加しているということですが、今聞き取りにこられています」。「ああ、いる・・・」。「例の件で話を聞きたいと言っているのですが、話をしてもよろしいのでしょうか」。「ああ、いいのですか・・・、分かりました」。そういう電話でのやりとりだったと思います。

住職は、「分かりました。どうぞお上がりください」といって、私を、応接間に通してくださった。しかし、住職は、「こちらのことを話す前に、もう少し、あなたのことを話していただけませんか。私が納得したら、この寺のことについてお話します。」といわれました。

私は、ありのまま話をした。聞き取りの相手から、真実の話を聞きだすためには、こちらも真実の話を伝えなければならない。その話のあとで、住職はこのように言われました。「そうですか。それで、あなたは被差別部落出身ではないのに、被差別部落のひとの気持ちが分かるようになったのですか。わたしと同じです。そうですか。それでは、あなたが知りたいことはすべてお話しすることにしましょう。」といって、いろいろなことを話してくださったのです。

その話のひとつに、「周防国中茶筅寺」の通婚圏の話がありました。住職は、「○○村の長吏頭をしていた○○さんのお宅を訪ねたら、必要な資料を見つけることができるし、必要な話を聞くことができるでしょう。」といろいろなアドバイスをしてくださいました。

住職に、「私が来る前に、調査に来られた方は何人おられるのですか」とお尋ねしたら、何年か前に、「光市教育委員会の方々が調査に来られただけ」ですという返事でした。山口県の部落史研究の大半は、文献上での研究だけであって、文献に登場してくる穢多村や穢多寺を尋ねて、その伝承を調査・研究している人は、ほとんど皆無に近いことを知らされたのです。

光市教育委員会は、その調査をもとに、『茶筅についての一考察(同和問題の歴史的背景の資料)』(光市同和教育資料等調査専門委員会)を出版していますが、それは、「賤民史観」一色に塗りつぶされた、読むに耐えないものでした。「被差別地区住民に関する歴史資料は、その一つ一つがその時そのところに位置づけられていた人々の苦悩の歴史であり、耐え難い歴史なのである」と断定する姿勢から、どのような教育姿勢が生み出されるのか・・・、それを考えると暗澹たる思いがしました。彼らの手にかかると、歴史上のどのような資料も、差別者の薄汚い手で汚されてしまうような気がしました。

幕末の上関茶筅隊に対して、「国によって大切にされない民が国の為に戦うという気になるだろうか」という評価をしていますが、「国(長州藩)によって大切にされない民(茶筅)が国(長州藩)の為に戦うという気持ちになるだろうか」という主張は、歴史的な事実を無視した幾重にも過ちを積み重ねた結果でてくる表現です。歴史の曲解が、同和教育をゆがめ、同和問題をあらぬ方向へと導いているのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落も、光市教育委員会の地域にある被差別部落も、同じ、長州藩の牢屋がありました。しかし、あるとき、光市教育委員会の地域にある「穢多村」の中にあった牢屋は廃止され、囚人はすべて、山口県北の寒村にある、ある「穢多村」の牢屋敷に移されました。その両被差別部落の明治以降の歩みは、まったく対照的なものでした。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の人々は、先祖の歴史を忘れることなくそれを子孫に語り伝えています。融和事業や同和対策事業の対象になることもなく、差別の風雪に耐えて、自分たちの歴史を守り抜いて生きていこうとしています。しかし、山口県南の被差別部落は、融和事業・同和対策事業の対象とされ、いろいろな事業が展開されてきました。事業の必要性を説くために、彼らは、自分たちが、江戸時代、いかにみじめな状態に追いやられていたのか、その悲惨さを強調してきました。

「人間外の人間の位置に突き落とされ、同時に居住地も辺鄙な所へ押しやられ、職業まで、厳しく制限されてしまった」、「死牛馬を処理し、皮革を生産するだけでも嫌われるのに、肉まで食い尽くしてしまうのであるから、農民にとって、胴震いするほど恐ろしいことであった。人の世にあってはならないことであり、死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えるに違いない。」、「穢多の家に生まれたら、どれだけ努力しても、穢多の身分から、またその職業から逃れることはできない。集中的な賤視を受け、悲惨な生活を余儀なくされるのを、誰も好むものはいない、耐え難い苦痛であったに違いない・・・」といいます。

被差別部落の歴史を研究する学者・研究者・教育者と、被差別部落の当事者との間の、「賤民史観」を介したやりとりは、お互いを、被差別部落の悲惨さを露骨に強化する方向へと駆り立てていきました。被差別部落の人々が、自分たちの歴史をみじめな存在であったと認識すればするほど、歴史学者や教育者は、それを裏打ちする史料や資料を提供し、それを読んだ被差別部落の当事者が、更に自分たちの卑賤感を増幅させていく・・・、そんな悪循環が作り出されていったような気がします。

被差別部落の人々が、さんざん、先祖を露骨に卑下し、侮蔑したあとで、「私達の先祖」は、「まったく素晴らしい先祖であった」と力説し、「どのような困難にもくじけない、・・・底抜けに優しく、一人、一人の生命をいつくしみ、輝かせずにはおかない先祖を持ったことを、私達の誇りにしよう」と訴えたところで、被差別部落の子どもたちにどうして受け入れられることになるのでしょうか。

私が史料で読み取る限り、被差別部落の先祖を卑賤視し、みじめで、あわれで、気の毒な存在だと印象づける、「賤民史観」の枠組みの中での、歴史学者や教育者、被差別部落の当事者の言葉は、両者が共同でつくりあげてきた幻想に過ぎません。光市教育委員会の地域においても、「高佐郷の歌」に見られるような伝承は存在していますし、「衛手(エタ)」(まもりて)として、近世警察官として、すぐれた人材を輩出した穢多村であることを伝える史料や伝承も存在しています。山口県北の寒村にある、ある被差別部落とも、「高佐郷の歌」の高佐村ともよく似た歴史と伝承を伝えているはずの光市の被差別部落なのですが、どうして、こんなに開きが、差ができてしまったのか、私は、被差別部落の人々が、「賤民史観」を自分たちの歴史としてうけとめてしまったかどうかが深く関わると思っています。

歴史学者や教育者のいう「賤民史観」を一端受け入れると、そこから、なかなか脱出できません。しかし、「賤民史観」という幻想に身をゆだねることなく、先祖伝来の伝承をただしく継承してきた被差別部落は、風雪に耐えて、その精神を継承しているのです。所与の人生を引き受けていきるだけでなく、人間としての誇りを継承しているのです。そして、被差別部落の親は、先祖の歴史を、過大評価も過小評価もすることなく、歴史の事実を歴史の事実として語り伝えることができるのです。

しかし、自分達の先祖の歴史を限りなく貶めて、みじめで哀れで気の毒な存在に自ら貶めた末裔は、その歴史を、自分たちの子孫に語り伝えることはできないのです。その結果、被差別部落の子どもは、学校同和教育や社会同和教育の枠組みの中でしか、自分自身を認識することができなくなります。そしてまた、33年間15兆円をかけた同和対策事業終了後も、同和対策審議会答申でいう「心理的差別」が残存する中、被差別体験を余儀なくされ、悩み苦しむこどもたちも存在するのです。

同和対策事業の終了と共に、この山口県にあっても、ちょうど潮が引くときのように、みんな手を引いていきます。部落史を研究してきた人でさえ、「もう一銭も研究費がでないからしない」と宣言する人もいます。小学校も、中学校も、高校も、同和教育から明らかに後退していっています。政府からの援助がなくなったという理由で、同和加配の教師の数を減らすために腐心されている管理者もいます。

被差別部落のこどもたち、中学生・高校生の、部落差別をめぐる悩みを聞いてくれる教師はもういないという声も聞かれます。

私は、部落差別を完全解消に導き、誰もこのことで苦しんだり悩んだりしないようにするためには、差別者の中にも、被差別者の中にも存在する、近代の、明治以降の権力者や政治家、学者や教育者が、そして被差別の当事者も連座して、つくりあげてきた「賤民史観」を徹底的に破壊することしか方法はないと思っています。「賤民史観」は、融和事業や同和対策事業の前提でしたが、「賤民史観」を取り除くことによって、融和事業や同和対策事業の前提を失ってしまうことになります。しかし、それはそれでいいのではないでしょうか。日本の社会から、部落差別が完全になくなってしまうなら。「部落差別はなくならない。日本の文化や国民性に内在するものだから。だから運動で取るものをとったほうがいい」という敗北主義的考えは棄てて、差別・被差別が共働して、次の世代を担う子供たちのために、「賤民史観」を取り除いていった方がいいのではないでしょうか。

被差別部落の当事者であり、学識と経験の豊富な川元祥一の部落学と、被差別部落出身ではない、ただの無学な貧乏宗教家の私の説く部落学は、同じことを主張することができます。

古代警察、中世警察、近世警察の末裔は、近代警察・現代警察に継承されていること。

近世から近代への移行期の中で、歴史上前代未聞のできごと、近世警察の解体を余儀なくされたことで、古代警察→中世警察→近世警察→近代警察→現代警察へとその系図をたどることができる人と、明治政府の政策によって、近世警察が解体され、近世警察→近代警察→現代警察の流れに入ることができず、近世警察(穢多)→旧穢多→新平民→特殊部落民の流れをたどらされた人がいること。

33年間15兆円をかけて実施された同和対策事業は、単なる社会的経済的な底辺にいる人々への救済事業ではなく、明治初期のやむを得なかった近世警察解体の中で、日本国家の近代化の犠牲になった人々、近世警察(穢多や非人)に対する国家による包括的な賠償であったこと。それは、同和対策事業の隠れた動機でした。その動機は、かくされたままになったので、今日のような混乱が起きているのですが、日中戦争の実質上の戦後賠償は7兆円の経済援助であったし、北朝鮮との国交が回復したときの戦後賠償額は1兆2千億円とも言われていますが、15兆円は、それをはるかに凌駕する額でした。

どの国のどの歴史を見ても、後の政権が、前の政権の経済的な失策で貧しさの中に置かれた人々に対して損害賠償をしたという話は聞いたことがありません。百姓の末裔である私もそのような話は一度も聞いたことがありません。それなのに、同和対策事業は、過去の政策の結果に対して実施されたのか、それは、明治政府による国策上の都合で犠牲になった人々に対する国家賠償以外の何ものでもないことを物語っているのです。

同和対策事業は、その真意を明らかにしなかったために、「穢多村」や「穢多村」を核とする「特殊部落」ではなく、「同和地区」指定された地域を対象に実施されたのです。政府のこのあいまいさが、「似非同和行為」を誘発します。本当に受けなければならない人々のところにその資金は届かず、まったく関係がない、自称「部落」の人々のところに資金がいたずらに流用される結果になったのは、政府の同和対策のあまさにあります。

権力者や政治家、学者や教育者は、「賤民史観」を棄てて、被差別部落民の名誉を回復すべきです。

そのキーワードになるのが、「非常」民という概念ではないかと思います。「非常の民」は、穢多が穢多自らを語る時に使用した唯一の概念です。

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御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・

【第1章】部落学固有の研究対象
【第5節】非常の民としての穢多
【第2項】御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・・



『部落学序説』の素材を、長州藩の具体的な史料から選択するとき、よく指摘されることは、「それは、長州藩だけの例外事項に過ぎない・・・」という批判です。

例外というのは、ひとつかふたつかなら、例外であると断定してもいいかもしれませんが、例外が無数に存在するようになると、果たして、それを例外として処理していいものかどうか検証しなければならなくなります。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


「高佐郷の歌」の中で、穢多が自分たちの存在を「非常」に関わる民であると歌っているのは、決して、長州藩だけの例外ではありません。長州藩内部にあっては、「穢多」以外の「手子」も、同じように自分たちのことを表現しています。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・、その村に伝えられた古文書によると、「○○○手子元之由来ハ、第一に他国御境目、御城下よりハ御手遠ニ付、火急之御間合兼候故、何ぞの節は御用役ニも可被召仕・・・」として、「先祖代々伝来の鉄砲を持伝へ、緩なく鉄砲稽古に励んでいた」と伝えられています。毛利が、周防国・長門国の長州二カ国に減封される前に、その地方にいた郷士身分がその前身であると言われています。

また、長州藩の周辺諸藩においても、同じような表現を史料の中に見いだすことはそれほどむずかしいことではありません。中国地方においても、四国地方においても、少しくその地方の歴史資料をひもとくと、同種の証言を収集することができます。

「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」といってのけたのは、岡山藩の「渋染一揆」に参加した穢多たちでした。「役人村」に住むことを許されている穢多たちは、「盗賊」・「狼藉」・「荒破者」・「一揆起之族」によって引き起こされる非常事態に際しては、「番人」として任命されたものだけでなく、穢多村の住人「一統」が、「不顧身命」、「御忠勤」を尽くしたてまつる存在であると証言しているのです。

長州藩・高佐郷の穢多と同じように、「上から押しつけられていやいやその仕事に従事していた・・・」というのではなく、むしろ、彼らに与えられた職務に忠実に、責任と使命を持って対処しようとする穢多の姿が描かれています。

穢多といわれた人々が、おのれを「非常の民」として了解していたという記録は、決して珍しいものでも、例外的なものでもありません。幕藩体制下のもとで、日本全国津々浦々に存在していた穢多たちの共通の姿勢なのです。

穢多たちの職務は、現代でいう「警察官」そのものでありました。彼らを指して、「衛手(エタ)」(まもりて)と呼び、「非常の民」、「非常民」と呼ぶのは決して的外れではないのです。

岡山藩の穢多が当時の警察官、「非常の民」であることを見失ってしまいますと、彼らの本当の姿を描くことができなくなってしまいます。「渋染一揆」の性格すら、間違って解釈されてしまいます。

『渋染一揆論』(柴田一著)は、渋染一揆に関するすぐれた研究書です。

しかし、「賤民史観」にどっぷりと浸かっているため、渋染一揆の本質を十分に把握できないでいます。柴田が書こうとしたのは、「差別や迫害に対して真っ向から挑戦する、たくましい部落民衆」なのでしょうか。柴田は、「部落解放の展望に役立つ新しい近世部落を再構成するための突破口」として『渋染一揆論』を執筆したといいます。そんな柴田の目に写る、渋染一揆の時の指導者の一人稲坪の友吉が、明治四年の太政官布告の次の年、稲坪の小学校の教授になったことについて、「郡中切っての秀才で頭脳がよかった」という伝承の存在を認識していながらも、「一揆を指導した弥市・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしてその知識を身につけたのか、いまもって謎である」といいます。

柴田の、渋染一揆に関わった穢多に対して、低く評価した上での推測でした。

時代的制約や時代的要請があったとはいえ、穢多に対する、柴田の前理解、偏見と予見がわざわいしていると思われるのです。

柴田は、「岡山藩が部落差別のしかたにもことかいて、服装・持物など、一見してすぐにそれとわかるような露骨な措置をうちだしてきた藩当局のねらいはなんであったのか」と自ら問いかけていますが、柴田は、自ら立てた問いに対する答えに失敗しています。失敗させたのは、「賤民史観」です。自らを非常民として証言する穢多の声に耳を傾けることに失敗したのです。

幕末の外交問題で揺らぐ時勢にあって、岡山藩は、藩内の警察機構を近代的なものに変えようとしました。それは、近世警察の顕在化でした。日本人だけでなく、外国の人も街道を往来する可能性のあることを認識した上で、近世警察の本体である穢多に対して、それとわかる制服(渋染・藍染)を着せ、日本人だけでなく、外国の人に対しても、警察権力そのものを顕在化させることでした。

しかし、岡山藩から出てきたお触れに対して、岡山藩の穢多たちは、近世警察としての職務遂行上の理由から、そのお触れの撤回を藩に求めるのです。穢多が一目で分かる制服を着せられると、逮捕しなければならない盗賊が、遠見より穢多の姿を見て進むべき道を変え、犯人逮捕のさまたげになる・・・というのが、岡山藩穢多の主張でした。それは、差別に対する抵抗ではなく、穢多の本来の職務に対する、穢多が穢多であり続けるための藩に対する訴えでした。

非常に関わる民が、非常を引き起こすことにためらいを持つ岡山藩の穢多たちは、普通の百姓一揆の仕方ではなく、近世警察として相応しい訴えの形式を選択します。それが、「竹槍一本持たない強訴」の形になったのです。村役人が、六尺棒を振るう中、丸腰の穢多たちは、それを手で払いながら、粛々と陳情のために歩を進めたのでした。

柴田によると、そのとき、「百姓は少なくとも藩側、役人側に加担していない」といいます。むしろ、百姓は、「皮多の者もこの責てに、二夜三日の住居(野宿)さぞ苦しかるべし、清水なりとふるまわん」と、「熱暑のもと渇きと疲れに苦しんだ」穢多たちに冷たい水を差しだすのです。

私が、渋染一揆を見るときの視点は、渋染一揆の指導者が投獄された牢庄屋・利介の目です。彼は、一番牢という、「入ったからには、まずは生きて出られない」という「重罪人の牢舎」のぬしをしていた人ですが、周防国玖珊郡柳井町の百姓(長州藩では、百姓)であった人ですが、自分たちは重罪を犯したのであるからこの牢獄に幽閉されるのもやむを得ないが、渋染一揆によって捕らえられ裁かれ入牢させられている穢多たちから話を聞くにつれ、利介は、彼らに責めるべき罪が見当たらないことを確信していきます。そして、長引く入牢生活で、一人二人と、近世警察官が倒れ息をひきとっていく様を見て、大犯罪人、長州藩周防国玖珊郡柳井町の百姓・利介は、渋染一揆の首謀者たちの赦免要求の嘆願書を提出するのです。

渋染一揆は、穢多たちに対する差別への抗議ではなく、穢多の職務熱心から出てきた要求であったのです。穢多が穢多であるための・・・。それが、牢庄屋・利介という犯罪者による、もうひとつの犯罪者への赦免要求の背景でした。

「すわ、御用の節は、御忠勤尽くし奉る身分にて・・・」と、自らを、「非常の民」、「非常民」として証言するのは、長州藩の穢多も、岡山藩の穢多も同じであったのです。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


長州藩高佐郷の穢多の歌は、岡山藩の穢多の歌でもあるのです。そこには、穢多であることの責任と使命、近世警察としての誇りと意地があります。『部落学』は、渋染一揆に関わった穢多たちについても、その名誉を回復することをひとつの課題にしなければなりません。   

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命題「穢多は非常民である」

【第1章】部落学固有の研究対象
【第5節】非常の民としての穢多
【第3項】命題「穢多は非常民である」



穢多をして穢多を語らしめる・・・

それは、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』にとって、極めて大切な事柄です。幕藩体制下の「穢多」が、自分たちを「非常の民」あるいは「非常民」として理解していたことは、これまで述べた通りですが、この段階で、近世の「穢多」を仮説的に定義してみましょう。

命題1:「穢多は、非常民である」。

近世の「穢多」概念を、「非常民」という属性で定義します。

定義は、一般的に、内包を決めて、そのあとで外延を確定することで成立します。「非常民」という定義語は、近世の「穢多」に関する歴史資料や伝承の分析から抽出してきたのですが、この述語は、既に、民俗学等で使用されている言葉です。

民俗学の祖・柳田国男は、民俗学の研究対象を「常民」という言葉で概念化したのですが、「常民」研究としての民俗学は、「常民」の対局にある「非常民」については、さほど研究の触手を延ばさなかったといわれています。

柳田は、「非常民」をとりあげるときに、《いわゆる特殊部落の種類》にもみられるように、「非常民」よりも「特殊部落民」という言葉の方を用いたように思われます。柳田が、念頭に置いていた「非常民」は、かなり大雑把なもので、まだ未整理のものが相当含まれていたように思われます。『部落学序説』で、「非常民」という言葉を、「穢多」の述語として採用するときには、当然、再定義が必要になります。

民俗学者の宮田登は、その著書『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』の中で、「常民」と「非常民」の関係について、二つの説があることを指摘しています。

ひとつは、「常民」と「非常民」の区別をする必要はないとする説。「日本社会には常民と非常民と、二通り存在したわけであるが、農村社会はほとんど常民であり、非常民は歴史の流れの中で常民化してくるわけであるから、実態として両者を明確に分けて考える必要はない・・・」というのが、その理由です。

もうひとつの説は、「非常民」を「常民」に対して「非・常民」としてとらえ、「常民」と「非・常民」の関係を、「差別・被差別」の関係でとらえようとする説。この場合、「非・常民」は、近世の穢多・非人とその末裔を指すことになりますが、宮田は、この分野については、日本民俗学が未だ解明していない問題であるといいます。

私は、『部落学序説』の枠組みの中で、「穢多は、非常民である」という最初の命題を定立するとき、「常民」と「非常民」の関係について、前二者とは、別様の仕方で把握したいと思います。

「常民」と「非常民」の関係を、「常・民」と「非常・民」として、つまり、「常の民」・「非常の民」として再定義したいと思います。両者の関係を、近世・幕藩体制下の支配システムの中に、差別・被差別として捉えるのではなく、支配・被支配の文脈で捉え直すのです。つまり、「常の民」を被支配の側に、「非常の民」を支配の側において、『部落学序説』の研究対象を考察するのです。

この話は、いままで、いろいろな人にしてきましたが、部落解放運動に熱心に参加している、私が所属している宗教教団の同和担当部門の上司は、「そんな説は受け入れ難い」といいます。理由は、江戸時代、穢多と言われた人々が差別される側にいた、いわれなき差別を受けてきたということで、同和対策事業が存在しているのに、それを否定するどころか、穢多が支配の側にいて、場合によっては、百姓を虐げていたとする主張を認めた日には、運動の基盤や根拠が失われてしまう・・・」というのです。

私は、幕藩体制下はもちろん、明治に入ってからも、穢多は、「被差別」ではなく、「非常の民」として、平民に対して、支配する側に身を置いていたと思います。

しかし、諸外国に認めた治外法権を日本の国辱とみなし、一日もはやく、その条約を破棄したいと思った明治政府は、急激な政策を打ち出し、治外法権撤廃の環境を作り出そうとします。それが、廃藩置県や明治4年の太政官布告だったわけです。

その太政官布告の、「穢多非人などの称廃せられ候条、自今身分職業とも平民同様たるべき事」という一文で、穢多は、「旧穢多」とされ、「非常の民」から「常の民」に身分を落とされ、平民と同じになったということで、「新平民」とされ、そのことで、多くのひとから、嘲笑とあなどり、差別を受けるようになったと思われるのです。「非常の民」として「支配する側」にいた穢多が、明治4年の太政官布告以降は、「常の民」として「支配される側」(差別される側)に身を置くようになったのです。

部落差別問題の本質を把握するためには、部落史を、幕末から明治4年の太政官布告に至るまでの経過をもっと詳細に解明しなければならないと思っています。しかし、多くの部落史研究家は、明治4年の太政官布告から、その筆を起こすのです。「天皇の命によって出された、太政官布告によって、江戸時代三百年間差別されてきた穢多・非人等が身分を解放されて自由になった・・・。」それを前提として、また、自明の理として、不問に付して、被差別部落の歴史を追求しているのです。

その詳細は、第4章 「解放令」批判でとりあげることにして、とりあえず、「穢多は、非常民である」という命題を前に、「穢多」概念の内包と外延を検証していきましょう。

(無学な私は、こういう文章を書くとき、一般的な言葉でしか表現できず悩むのです。もっと便利な言葉がありそうだと・・・。しかし、無いものはないのですから、嘆いても仕方がありません。持っている言葉で表現し続けます。)


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※「非常民」概念は、2通りのよみ方が可能です。「非常・民」と「非・常民」。前者は、『部落学序説』でとりあげる「非常民」で、「非常・民」・「非常の民」という意味です。近世幕藩体制下の司法・警察を職務をしていたひとびとのことで、『部落学序説』では、その一端を担った人々として「穢多・非人」をとりあげますが、彼らを当時の社会から隔絶された存在としてではなく、与力・同心・目明し・穢多・非人・村方役人で構成された「非常民」システムの中に有機的に関連付けてとりあげます。後者の場合、「非常民」を「常民に非ず」と解釈します。まず、「常民」を定義して、その範疇にはいらない人々を「非・常民」として把握します。その結果、「非常・民」として把握された場合と、「非・常民」として把握された場合では、「非常民」概念の外延と内包に著しい違いが生じてしまいます。どのような違いが生じるのか、簡単に確認する方法は、筆者の『部落学序説』と、赤松啓介の『差別の民俗学』を読み比べていただければよろしいかと思います。筆者の『部落学序説』は、「非常・民」理解に立ち、赤松啓介の『差別の民俗学』は、「非・常民」理解に立っています。赤松の研究は、「非常民民俗学」とよばれているようですが、筆者の目からみると、赤松の「非常民民俗学」は、「賤民史観」に立脚した民俗学であると考えられます。赤松は、その民俗学を「解放の民俗学」(前掲書)と自認していますが、『部落学序説』の論述において、赤松啓介の「解放の民俗学」を資料とし引用することはありません。赤松は、「常民」概念は、民俗学者の祖・柳田国男によって創出されたことをみとめながら、柳田の「常民」概念のあいまいさを指摘します。柳田自身、「常民」が何であるのか理解していないと。赤松は、柳田の「常民」概念は「賤」を排除したときに成立する概念であるとして、赤松の「解放の民俗学」においては、「常民」の対極概念である「非・常民」に「賤」という属性を露骨に負わせる結果になっています。『部落学序説』の筆者は、赤松の「解放の民俗学」を排除しつつ、柳田民俗学の「非常・民」概念を抽出・評価する方向で、この『部落学序説』を執筆しています。筆者の『部落学序説』と赤松の「解放の民俗学」とは似て非なるものです。

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