2005.09.01

本当の挨拶

yama06 【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第1項】本当の「挨拶」



「学問」の世界には、「学会」なるものがあって、そこで、個別科学研究の成果の共有が行われているそうですが、「学問」の世界とはほとんど無関係な私は、「学会」なるものに一度も参加したことはありません。

ある人から聞いた話では、医学会では、「学会」での発表は、発表者ひとりにつき10分程度の時間しか与えられていないとか・・・。10分で、発表される研究の目的・研究方法・研究成果のすべてを、「学会」の聴衆に伝えなければならないのですから、相当、熟練が必要であると想像されます。

10分間の発表で、「学会」の聴衆に受け入れられる背景には、発表者と聴衆の知的レベルがほとんど同じで、両者の間に、共通の知的基盤が確立されている場合でしょう。これまでの研究成果と今後の課題がはっきりと共有されている場合は、その新しい研究成果のみを強調すればいいわけですから、10分間の発表で十分なのかもしれません。

しかし、この『部落学序説』の筆者と読者の間には、そのような前提がありません。

筆者は、無学歴・無資格、しかも、独学という個性に満ちた方法で説を唱えているのに反して、このブログの読者は、学歴も資格も持ち合わせている方々ではないかと思います。

しかも、筆者は、部落史研究の共通基盤である「賤民史観」を破棄して、新しい学的論述を提案するという趣旨で『部落学序説』を書いているものですから、つい、言葉が多くなってしまいます。

最初は、岩波書店の新書版1冊分で『部落学序説』をまとめようとしたのですが、すでに、原稿用紙300枚分を突破してしまいました。原稿を書きながら思うのですが、どのページも、『部落学序説』全体を念頭にいれながらタイピングしていかなければなりません。書き下ろしの場合、「照尺三千キロメートル」(高村光太郎の詩の1節)を視野に入れながら、目の前の課題に取り組まなければならないという精神的負担を余儀なくされます。

私は、この『部落学序説』を書くときの姿勢として、「スパイラル方式」で行こうとこころに決めています。「スパイラル方式」は「渦巻き方式」という、情報処理教育の中で採用されている教育方式です。カリキュラムの全過程を、何回も走査することで、徐々にレベルをあげて、最終的には所期の目的に達するという教育方法です。

『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「はじめから全貌を一度に明らかにするといった方法はない」といいます。もし、そういうものがあるとしたら、「物を正確に知ろうとすることの放棄であるか、或いは一面的な認識を全貌であるとして押しつけることになる」といいます。

「そして、各分野の認識の総合、或はそれの一歩手前での併立を求める場合でも、それを一個人に求めることになれば、そこでも正確度の放棄を求めることになる」といいます。

その言葉に刺激されて、私は、この『部落学序説』を、従来の「直線方式」ではなく、情報処理の新しい教育方法である「スパイラル方式」で執筆しようと決めたのです。

古島は、「対象についてあらゆる面の知識を得ることが文字通りの目的であるならば、このような見る角度の正確な多くの見方を集め、さらにそれらを総合するという努力を加えて目的を達成すべきである」といいます。

すでに、この論文の中で、いろいろな学者の論文を批判的にとりあげてきましたが、私にとって、「批判」は、私が持ち合わせていない、多種多様な「見る角度」(「視角」)の取得の手段です。学者・教育者・被差別部落の当事者への「批判」を通じて、私は、彼らから、『部落学』構築に必要な視角を学ばせていただいているのです。どの視角が、私の『部落学序説』にふさわしいか・・・、今後も学ぶことは学ばせていただこうと、思っています。

漢語に「挨拶」という言葉があります。

この言葉は、仏教用語だそうです。昔、中国で仏教が迫害された時代に、仏教の僧侶は、迫害を逃れるために西域に移動していったそうです。その時代にあって、なお仏教を学ぼうとする人は、仏教の指導者のいる西域へ旅をしなければならなかったそうですが、「真師を求めて修業の旅に出る」ということを漢字では「挨」というそうです。

しかし、訪ねていっても、「真師」のもとに、仏教の教典や解説書があるわけではありません。すべては、時の権力者によって、迫害の最中、焚書の処置にあっています。そこで、仏教を学ぼうと旅を続けてきた人は、「真師」の生き方(ことばやふるまい)を観て、仏教の悟りを得たといいます。「真師」から何かを引き出すことを「拶」といいます。

この『部落学序説』を執筆する際に取り上げた部落研究、部落問題研究、部落史研究の学者・教育者・被差別部落の当事者に対しては、この「挨・拶」の精神で、「批判・検証」することにしています。ただ、問題の性質上、「批判・検証」のあと、その説に賛同する場合もあれば、やむを得ず否定せざるを得ない場合もあります。いずれにせよ、「挨・拶」の精神は忘れないようにしたいと思っています。

古島は言います。

「複雑な形をとって現れる現象の中から、特に研究の目的に必要な素材的要素をできるだけ純粋にぬき出し、特定の着眼点に即して整理し、加工して、知ろうと思う点に肉薄しうる能力を豊かに備えてくることを通じて果される。そのような特定の目的のための観察・理解・統一の体系が、客観的なものとして捉えられることのうちに個別の専門科学の体系が生まれてくるのだといいうる」。

「真師」(古島のような大学教授)に直接会う機会は、筆者には、生涯、与えられませんでしたが、「真師」の書いた論文を通じて、間接的に、「真師」の語る言葉を目にすることができるということは、実に、幸いなことです。古島に出会うことなくして、私は、歴史に興味を持つことはなかったでしょう。

『部落学序説』・『部落学原論』でとりあげる主題は、かって、歴史学者にとって「禁忌」の対象になったことがらです。明治以降の部落研究、部落問題研究、部落史研究に携わってきた人は、部落差別問題の核心にたどり着けたと思った瞬間、中心に鎮座する「権力」という遠心力によって弾き飛ばされ、所期の目的とは違った研究に落ち着いてしまうという傾向がみられます。

民俗学者の柳田国男は、「新旧錯綜を極めた文化複合をかき分けて、国が持ち伝えたものの根源を突き留めるということは、容易な事業ではない」といいます。「国が持ち伝えたもの」(筆者は、「国が隠してきたもの」と解釈)、国が国民から隠してきたこと、明治4年の太政官布告の本当の意味もそれに該当すると思われますが、それを明らかにすることは、戦前・戦後を通じて、研究者・教育者・被差別部落の当事者にとっても「禁忌」であり続けたのではないかと思います。

この「禁忌」が、問題の核心に分け入るのではなくて、「賤民史観」という虚構の「核心」に向かわせたのではないかと思います。

柳田は「変化の無数の段階の比較が、行く行く記録なき歴史の跡を、探り出し得る希望を約束する。これが・・・日本民俗学の立脚点である」といいます。

私は、「賤民史観」という虚構の「核心」を研究する研究者・教育者・被差別部落の当事者の公開された論文や書籍の比較を通して、彼らが語っていること(「賤民史観」)と語っていないこと(禁忌)とを明らかにして行きました。部落史の研究者の書いた論文や書籍を、詳細に、比較検証すれば、すぐに分かります。どの研究者も、如何に、恣意的な解釈にとどまっているかを・・・。

たとえば、『部落学』を標榜する川元祥一は、「貴・賤」概念の「生活の座」(SitzinLeben)を「政治」に求め、「浄・穢」概念の「生活の座」を「習俗」に求めます。その結果、川元は、問題に核心に肉薄しながら、その中心に鎮座する「権力」という遠心力によって弾き飛ばされ、文化という世界にたどりつくのです。そして、政治起源説を否定して、同和対策審議会答申が否定している職業起源説をあらためて提案します。

私は、部落差別の完全解消のためには、問題の中心に鎮座して、研究者を容易に近づけない権力の秘密を明らかにする以外に方法はないと思っています。問題の中心に、より近づける「視角」を貪欲に吸収し、中心からはじきだされ周辺に逃げていく「視角」は留保していきます。

ひとりの研究者の中に、両方が共存している場合は、一部は吸収し、一部は留保することになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近世幕藩体制下の身分とは何か

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第2項】近世幕藩体制下の身分とは何か



『広辞苑』によると、「身分」は次のように説明されています。

「①身の上。境遇。 ②社会関係を構成する人間の地位の上下の序列。封建社会においては制度的に固定し、世襲的で 、他への移行が認められなかった。」

「社会関係を構成する人間の地位の上下の序列」というのは、「身分」概念の通史的な説明です。日本社会においては 、古代・中世・近世・近代・現代を通じて、「身分」という概念は、「地位の上下の序列」を意味していて、「人間」 性の「上下の序列」を意味するものではないということになります。

つまり、「地位の上下の序列」の中にあって、「上」にいる人も、人間的にみて、優れた人もいればそうでない人もいるということになります。逆に、「下」にいる人も、人間的にみて、優れた人もいればそうでない人もいるということになります。地位の「上下」と人間性の「上下」とは直接関係がないことを示しています。

『広辞苑』によれば、「地位の上」・「地位の高いこと」は、「貴」と表現され、「地位の下」「地位の低い」ことは、「賤」として表現されます。

しかし、「封建社会においては」、通史的な説明とは異なる要素が見受けられます。『広辞苑』は、それを、「封建社会においては制度的に固定し、世襲的で、他への移行が認められなかった。」と説明しているのです。

近世幕藩体制下においては、「身分」というのは、①制度的に固定され、②世襲的で、③他への移行が認められなかったと説明されています。近世においては、「身分」は、「地位の上下の序列」ではなく、人間の価値の序列・・・という側面をもっていることを示唆しています。

つまり、近世幕藩体制下では、「賤しい」という言葉が、「地位が低い」という意味だけでなく、「②貧しい、みすぼらしい、③とるにならない、④下品である。おとっている。つたなく、まずい。⑤さもしい、けちである。⑥(特に)食物などに対する欲望が、むき出しである。いじきたない」という意味を持つようになってきます。「賤しい」という言葉が、「地位の上下の序列」ではなく、「人間の価値の序列」としてみなされるようになってきた・・・という状況をうかがうことができます。

しかし、これは、明治以降、政治家・研究者・教育者、そして旧穢多の末裔たちによって、「賤民史観」的なものの見方や考え方が導入された、それ以降のことがらで、近世幕藩体制下において、「賤しい」という言葉が、「地位の上下の序列」を越えて、「人間の価値の序列」として受け止められていたという確固たる証拠は未だに見いだされていません。

「貴賤」を、「地位の上下の序列」ではなく、「人間の価値の序列」と受け止めたのは、「賤民史観」樹立と深い関係があると思います。「賤民史観」は、政治家・研究者・教育者だけでなく、被差別部落の人々によっても受け入れられ、いつのまにか、「賤」は、被差別部落の祖先と末裔の本質を示す言葉として解釈されるようになっていきます。

山口県光市の浅江部落出身の村崎義正の『怒りの砂』にでてくる、被差別が自ら語る言葉は、被差別部落の人々の「賤しい」姿、「賤民史観」にでてくる、被差別部落の人々を賤民視する言葉が数多く登場してきます。彼らにとっては、「賤しい」という言葉は、「地位の上下の序列」ではなく、「人間の価値の序列」として、受け止められていたのです。

被差別部落の人々が、歴史の事実に違うて、自分たちの子孫に語り伝えることができない「賤民史観」を採用していったのは、なぜだったのでしょうか。「みじめで、あわれで、気の毒な」人間像を引き受けていったのはなぜなのでしょうか。しかも、「江戸時代三百年間を通してずっと差別されてきた」という、ありもしない幻想を受け入れてきたのはなぜなのでしょうか。「特殊部落」という言葉がささやかれるようになった時代には、すでに、旧穢多の歴史は、失われてしまっていたのでしょうか。「賤民史観」という差別思想を水平社運動の中に持ち込んだ、早稲田大学教授・佐野學の『特殊部落民解放論』を全面的に受け入れていったのはなぜなのでしょうか・・・。

「賤しい」という言葉が、「地位の上下の序列」から「人間の価値の序列」へと大きく変質していった時代こそ、近代的な部落差別が構築された時代であると言えます。佐野の、明治4年の太政官布告を「解放令」とする解釈、「特殊部落の人々は・・・解放令に依りて解放された」という彼の説は、なぜ、批判の対象にならなかったのでしょうか。被差別部落の人々は、なぜ、佐野の思想を受け入れていったのでしょうか。

「貴賤」概念は、「地位の上下の序列」を意味する言葉であって、決して、「人間の価値の序列」を意味する言葉ではないのです。「賤民史観」が、なぜ、「地位の上下の序列」から「人間の価値の序列」へ、その解釈のシフトを移していったのか、そこに、現代の被差別部落生成の謎が秘められているような気がします。

『広辞苑』は、「封建社会においては制度的に固定し、世襲的で、他への移行が認められなかった。」と説明しますが、最近の部落史研究の成果としては、①制度的に固定、②世襲、③他への移行が認められなかったという認識が是正されつつあります。

長州藩の枝藩である岩国藩については、「穢多」は、支配者の政治的な理念によって意図的に作り出されていきます。百姓一揆の再発を防ぐために、一揆が発生した地方の村々や街道の要所要所に「穢多村」を配置していきます。岩国藩にあっては、武士(藩士)の家に跡継ぎがいなくて「御家断絶」の状況に置かれると、ためらうことなく、穢多の家から養子をとって、「いい養子をもらった」と自慢している節さえうかがうことができます。長州藩では、「穢多」の勤めに熱心であった人を「ご褒美」として、その職を解いて、百姓身分にしている例もあります。『広辞苑』の「封建社会においては制度的に固定し、世襲的で、他への移行が認められなかった。」という説明を覆す資料は、例外とはいえない程、多数、資料の中に散見できます。長州藩に限らず全国的に確認されつつあります。

あらためて、「近世幕藩体制下の身分とは何か」という問いを立ててみましょう。

その答えとして、『広辞苑』に記載されているような説明では、不十分であることが分かります。近世幕藩体制下の中で、「身分」とは何であったのか。部落史研究家の数冊の書籍を読めばすぐに分かります。「身分」概念についての説明は、千差万別・多種多様であると。

先行する「部落学」の第一人者、立教大学の川元祥一は、「当時の身分について、共通の認識をもって誰もが自分で考えることができる」ようにするために、「江戸時代の賤民、ことに「穢多・非人」身分の呼称を社会全体の職業的カテゴリーに置き換えて考える必要がある」としています。「ひとつの課題を考えたり議論するとき、共通の認識が基盤にないと何も進展しないだろう」と言います。川元は、「部落差別の祖型としての差異」「職業」におくことによって、「この問題の解決の第一歩と考える」と、その自信の程を披露しますが、同和対策審議会答申で否定されてきた被差別部落の「職業起源説」を、またぞろ、持ち出すことで、本当に彼のいうように問題解決につなげることができるのでしょうか。

近世幕藩体制下の「身分」概念について、「部落学」構築上無視できない視点を提供してくれる人に、桃山学院大学の寺木伸明がいます。彼は、その著『部落史を読みなおす-部落の起源と中世被差別民の系譜』(解放出版社)・『近世身分と被差別民の諸相-<部落史の見直し>の途上から』(解放出版社)の中で、興味ある発言をしています。

寺木は、穢多の「身分」「役負担」「職業」に分けて考察することを提案するのです。
そのときひな型になったのは、武士のそれでした。寺木は、「支配権力をもった武士身分の特徴を他の身分にももってきた」というのです。

私は、寺木の説は、「部落学」上の勇断であったと思います。

なぜなら、穢多・非人という身分を考察するとき、武士身分をひな型にしてそれを普遍化する方向で押し進めていきます。ということは、穢多・非人は、近世幕藩体制下にあっては、「身分外身分」ではなく、武士と同じ身分、身分制度の中に正しく位置づけられた身分であったということになります。寺木はこのように言います。

「現在の部落の成立に関連して、近世の穢多身分の差別の実体の特徴を明らかにする必要がある、ということで江戸時代の穢多身分の職業と役負担のことを明らかにした・・・。」

寺木が、他の多くの歴史学者と共に、「賤民史観」に強く影響されていたとはいえ、その中にあって、近世幕藩体制下の穢多身分について、その解明に向けて大きく一歩を踏み出した瞬間であると思います。幕藩体制下の「身分」は、「役負担」「職業」から構成される、という命題を私は、「部落学序説」の第4番目の命題としてとりあげることにします。表現は少々違いますが、内容は同じです。

命題4:穢多の身分は、役務と家職によって構成される。

寺木が考察の結果抽出した命題は、明治4年の「穢多非人等の称廃せられ候条、自今身分職業とも平民同様たるべき事」という太政官布告には、「身分」・「職業」は、「平民同様たるべき事」とうたわれているが、「役負担」については何も言及されていないことを示唆しています。これは明治4年の太政官布告の身分解放が、「職業」については、「平民同様たるべき事」としていますが、「役負担」については何の言及もしていないところに、明治4年の太政官布告が、明治以降の「部落差別」につながっていった遠因があるように思います。

明治政府は、キリスト教を一度も解禁するとは明言しませんでした。明治政府は、ただ、明治6年2月19日に全国の津々浦々からキリシタン禁制の高札を撤去したのみでありました。小崎弘道は『国家と宗教』の中で、「諸外国に対して基督教禁止の高札を撤去したが如く吹聴すれども内に向っては其の法令を撤回するに就いて何らの布令書を出すことはなかった」と言います。

諸外国に対しては、キリスト教を解禁したと装いながら、国民に対しては、近世のキリスト教弾圧を継承していることを装った、国の「外」に向けた対応と、国の「内」に向けた対応の二重性を、日本宗教史家は、「半禁半許」と言います。

明治政府は、日本の国辱として捉えている、諸外国に与えた治外法権を撤廃するため、その条約に不利に働くキリシタン弾圧政策から後退を余儀なくされました。そして、国の「外」に向けては、宗教警察の解体(明治4年の太政官布告)を宣言し、国内においては、「身分と職業」は、「平民同様」になったけれども、穢多の宗教警察機能を含む「役負担」については言及を避けることで、国民に対して、「穢多は野に放った宗教警察である」というイメージを強くしていきました。私は、キリスト教に対する政府の「半禁半許」に対して、穢多に対する政府の施策の姿勢を「半解半縛」と呼びます。この「半解半縛」が、近世幕藩体制下の警察である「穢多」の末裔たちを差別の奈落へ落とす大きな要因になっていきました。この点については、第4章で、「解放令」批判を取り上げる際に詳述します。

寺木伸明の「身分」概念の定義は、「部落学」構築上、重要な命題となります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

穢多という身分

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第3項】穢多という身分



歴史学上の差別思想である「賤民史観」によると、近世幕藩体制下の身分制度は、「士農工商穢多非人」という図式で 表現されます。

旧聞に属しますが、1988年8月16日の朝日新聞に「差別紙芝居」事件の記事が掲載されていました。

kamisibai1 山口県教育委員会が婦人団体向けに実施した「同和教育婦人リーダー交流研修会」の席上、その研修会の講師をされていた、山口県教育委員会同和教育課指導主事が、小学校の教師をしていたときの同和教育の実践事例として紹介された児童作成による「紙芝居」の中に、「江戸時代の被差別階層をことさら辱めるような表現の絵があった」として、その集会に被差別部落側から出席していたひとりの女性によって、差別事件として、県教委が抗議を受けたという報道でした。その記事の中で、このような説明がなされています。

「紙芝居は指導主事が同県豊浦郡内の小学校教諭をしていた五十六年に、社会科の授業で当時の六年生に描かせた。テーマは「士農工商から四民平等へ」で、検地、刀狩り、農民一揆、大政奉還など農民側からみた歴史的出来事をクレヨンや水彩絵の具で十一枚の絵にまとめている。問題になったのは士農工商と「その他」の五つの階層を表す人の絵が描かれた一枚。「その他」の人は、頭の真ん中をそりあげてまげも結わず、全身裸にはだしで腰みのだけをつけ、手には棒という異様な姿。」

研修会に参加した被差別部落の女性から、「差別を助長する」表現であると指摘され、差別事件としてクローズアップされたものです。

その2年後日本放送出版協会から出された『部落史をどう教えるか』という本の中で、NHKのディレクター・福田雅子による「差別紙芝居事件」の取材記事が掲載されていました。そこにはこのように記されていました。

「紙芝居は、小学六年生の授業で「士農工商」について学んだ児童たちに、身分制度の姿を浮きぼりにすることを目標にして描かせた六枚の絵から成っていた。問題を提起されたのはこのうちの一枚で、士農工商と〃その他〃を、階段状に図示し、身分制度の最下層に〃その他〃を位置づけ、そこには「裸で蓑を腰に巻き、右手に槍を持った姿」が書き添えてあった」。

福田はさらに、研修会で、その紙芝居を見たとき「ひどい」と声を発した被差別部落の女性の言葉を載せています。

「この紙芝居の絵を見た部落の子供たちが、上半身裸で腰に蓑を着け、槍を持った姿の自分たちの先祖を見て落胆しないだろうか。自分たちの誇りを傷つけられ、生きる力をくじかれるかも知れない。そしてかっての私と同じように卑屈になって、自分が部落出身であることを隠そうとするだろうと。」

私は、この二つの記事をよみながら、あることに気がつきました。それは、近世幕藩体制下の身分制度として学校の教育現場で教えられている「士農工商その他」という図式の「その他」の人物が手に持っているものが、「棒」から「槍」に変化していることです。「差別紙芝居」事件発生から2年が経過すると、記憶に変化が生ずるのは止むを得ないけれども、「棒」から「槍」に変化しているのは、何故なのでしょうか。

いつか、当の本人に尋ねてみようと思いつつ、今日まで、その機会を得ることはできませんでした。その女性が、「棒」から「槍」に変えたのは、何故なのか・・・。事件発生の次の年、読売新聞の取材では、「棒」は、「棒切れ」になっていました。

その女性が住んでいる場所は、旧徳山藩の北穢多村があった場所です。

江戸時代の身分は「穢多」です。「穢多」は徳山城下に至る山陽道沿いにあって、街道の警備のために設置されていました。彼らが身につけていた捕亡具のひとつに六尺棒があります。時代劇でよく見受ける六尺棒です。それが、1年後の読売新聞取材の記事では、単なる「棒切れ」に。

kamisibai2 被差別部落の女性は、自分たちの子供に、先祖は、「棒切れ」ではなく、「槍」を持つことが許された身分であるということを教えたかったのか・・・、私は勝手な推測をしていました。その女性はいつ、そのような発想の変更をなしとげたのでしょうか・・・。

差別紙芝居事件が発生した年の秋、山口県同和教育研究協議会主催の研修会で、講師によって、この事件のことが取り上げられました。そのとき、講師のひとりであった大阪市教育セミナー教育研究室の稲垣有一は、《部落問題学習をどうすすめていくか》という主題で講演をされました。

稲垣は、国立大学の同和教育論で習った「士農工商その他」という身分制度の図式は、「その当時は、正しいと思っていた。しかし、今では間違っていると思っている」と話していました。そのあと、彼は、「士農工商その他」という図式に代えて、「まだ誰にも認められていないが・・・」と言いながら、「部落民裏貼説」の図式を披露されました。

しばらくしてから、山口県同和教育研究協議会の先生方から電話で、稲垣が「士農工商その他」という図式に代えて、黒板に書いた図式をメモしているかどうかという問い合わせがありました。どういう図式を書いたのか、参加された先生方で記憶をたどっているうちに、正確に記憶している教師は誰もいないことがわかった。参加者のうちで、正確にメモをしている人はいないか探していたら、私の名前が浮上してきた・・・というのです。

稲垣がいう「部落民裏貼説」というのは、近世幕藩体制下の穢多・非人は、「士農工商」の下にいたのではなく、士農工商の「中」にいたという説です。武士の中にも「穢多」はいたし、百姓の中にも「穢多」は存在していたというのです。「農」の中にも、「工」の中にも、「商」の中にも、「穢多」は存在していたというのです。

「賤民史観」の中にどっぷりと身を浸けている山口県の学校の教師たちは、稲垣の「部落民裏貼説」を、一度講演を聞いただけでは理解することができなかったのでしょう。「穢多・非人」は、「士農工商」の下にいたのではなく、「士農工商」の中にいた・・・、という稲垣の説は、既に「賤民史観」の見直しがはじまっていることを示していました。

稲垣の「新説」が、その後どのように展開されていったのか、私は寡聞にして何も知りませんが、稲垣の身分制度の通説に対する批判的な視座は、身分制度見直しに対する私の関心をかき立てました。

まだ、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いを経験する以前の話ですから、私の理解は、まだまだ、「賤民史観」の真っ只中にありました。忠実に、「士農工商穢多非人」という差別的な図式を信じていました。ですから、稲垣の、「士農工商穢多非人」という図式を退けて、その代わりに提案された「部落民裏貼説」は、驚きの思いを持って受けとめました。

「棒切れ」から「槍」への変化は、大きな意味を持っていました。なぜなら、「士農工商その他」の「その他(穢多・茶筅・宮番等)」身分が手に持ってるものは、単なる「棒切れ」ではありませんでした。

あとで分かったことですが、「士農工商その他」の「その他(穢多・茶筅・宮番等)」が手に持っている「棒(六尺棒)」と「槍」は、共に、近世幕藩体制下にある非常民必須のアイテムでした。ある被差別部落の女性が住む、徳山藩北穢多村は、徳山藩が飢饉のおり、百姓救済のために米俵を差し出した「穢多」に対して藩が与えた報奨は、従来「六尺棒」しか持っていない穢多に「槍」を携帯する許可を与えたことでした。「六尺棒」と「槍」、いずれも、「非常民」の道具した。

kamisibai3もしかしたら、被差別部落の女性によって、「誇りを傷つけられ、生きる力をくじかれる」と言われた、あの「差別紙芝居」は、被差別部落の人々に、誇りと、生きる力を与える別な要素を内蔵していたのかも知れません。天保2年の一揆のとき、その「穢多村」は、百姓から、襲撃を受けます。そのとき、穢多は槍を持って、その百姓に対峙します。穢多村を襲って、その家々に火をはなち、穢多の諸道具を焼き捨てた一揆に参加した百姓たちに、穢多が槍をつきつける・・・

それが何を意味したのか、それに直接触れる研究者はひとりもいません。徳山藩の記録によると、近世警察官たる穢多たちは、自分たちの村を、一揆を起こした百姓たちによって焼き払われたにもかかわらず、警察官たるものの職務に忠実に、冷静に対処したとのことで、藩からおほめの言葉を頂戴しているのです。「六尺棒」と「槍」とは、近世警察官たる「穢多」の象徴でもありました。それは、怒りにまかせて他者を傷つけるためのものではなく、近世警察官の職務を執行するために、他者と自分とを守る道具でした。

被差別部落の女性が、「棒」から「槍」に表現を代えたのは、「棒(六尺棒)」を「棒切れ」としか表現しなかった読売新聞の記者に対する、徳山藩穢多村に先祖を持つ彼女の無意識の反論だったのかもしれません。

徳山藩の「穢多」身分は、包括概念です。

徳山藩は、天保2年の頃、「穢多」という概念で、「穢多・非人」を表していました。長州藩本藩で、「非人」に課せられた職務も「穢多」が担っていました。徳山藩の「穢多」という概念は、さらに、長州藩本藩の「穢多・茶筅・宮番」をすべて内包する概念でした。徳山藩では、「穢多・非人」という近世警察・非常民のすべてが「穢多」という概念に集約されていたのです。

---------------------------------------------
※この写真の撮影日付は、88.8.8です。部落解放同盟山口県連による山口県教育委員会に対する糾弾会のとき撮影されたものですが、その時から、18年が経過しています。この糾弾会が成功したのかどうか、その後の報道がありませんので、筆者は知る術もありません。風の噂では、差別事件の代償として同和対策事業を獲得して終わったとか・・・。この「差別事件」が、同和教育に対してあまり効果を発揮しなかったのは、「被差別部落」の側が、自分たちの歴史について確固たるものを持っていなかった点にあります。「被差別部落」の歴史を、学者・研究者・教育者にゆだねて、みずから探求の努力をしなかったことが大きな一因をなしていると思います。「差別紙芝居事件」から18年、決して短いと言えない歳月、山口県の「被差別部落」の人々は、自分たちの歴史を、どのように掘り下げていったのでしょうか・・・。(下図:名和弓雄著『十手・捕縛事典』雄山閣)

kamisibai4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伝承にみる穢多の身分

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第4項】伝承にみる「穢多」の役務と家職



「穢多とは誰のことなのか」
「穢多とはどのような人のことなのか」

「穢多」について、何らかの情報を入手しようとする人は、このような問いを発します。前者の「穢多とは誰のことな のか」という問いは、「穢多」という概念の外延の説明を求める問いです。後者の問い「穢多とはどのような人のことなのか」という問いは、「穢多」という概念の内包の説明を求める問いです。

一般的には、ある概念を定義するときには、まず、概念の内包を求めて、それから、それに見合う概念の外延を求めます。近世幕藩体制下の「穢多」を定義するとき、まず、「穢多」の内包を決めて、そのあとで、それに見合う外延、具体的に誰が「穢多」であったのか、ということを解明していきます。

この『部落学序説』において、既に、「穢多」について、二つの命題を設定しました。ひとつは、「穢多は非常民である」という命題、もうひとつは、「穢多の身分は役務と家職によって構成される」という命題です。

「非常民」は、「非常・民」、つまり、「非常の民」を意味します。

筆者は、非常民を、軍事・司法・警察に携わる人々を指して使用しているのですが、「非常民」は、大きく分けて、軍事に関わる「非常民」と司法・警察に関わる「非常民」に分類します。軍事に関わる非常民は、「戦時」のために存在し、司法・警察に関わる非常民は、「平時」のために存在します。

今から二十年前、『伝統と現代』(79号)に「靖国」が特集されていました。

最初の記事は、ルポライター・穂坂久仁男の《ルポ・靖国神社はいま-》でした。小見出しには次のような言葉が並びます。

参拝者に対する神社の見事な対応
神々の宿る装置
靖国神社に祀られている人、祀られていない人
靖国神社に祀られるための条件
祀られるのを拒否するのを許さない
靖国神社、護国神社をめぐる訴訟

靖国神社に祀られている「祭神」は250万に近いといいます。20年前にして、「フルネームさえ分かれば、戦死年月日死亡地が分からなくても、その人が合祀されているか否かが即座に判明する」システムが構築されていたようです。「宝物遺品館の一室にある調査部には、二五〇万近くの合祀者の名簿があ」り、「それはアイウエオ順に整理され、索引が可能」であるといいます。

「安国」「御祭神はすべてこの御心のように祖国永遠の平和な国をつくりあげることであり、御祭神はすべてこの御心のように祖国永遠の平和とその栄光を願いつつ日本民族をまもるために貴い生命をささげられた方々であります」と靖国神社の社務所発行の印刷物「やすくに」に記されているといいます。

穂坂は、坂本龍馬・吉田松陰・大村益次郎・橋本佐内・高杉晋作・頼三樹三郎・真土和泉守・清川八郎、中岡慎太郎・梅田雲濱は「御祭神」として合祀され、西郷隆盛・戊辰の役の幕府軍・奥羽列藩同盟の戦没者・会津白虎隊(逆賊)・大久保利通(不名誉な暗殺死)・木戸孝允・東郷平八郎(病死)・乃木希典(自殺)は合祀されていないといいます。

靖国神社の起源は、一八六九年(明治二年)に現在地に建てられた招魂社だそうですが、「合祀の資格を与えられたのは、鳥羽伏見戦争から函館戦争までの「官軍」の戦死者である」そうです。靖国神社は、他の神社と違って、陸軍省・海軍省の施設であるので、帝国軍人に殺害された犬飼毅は合祀されていないといいます。

神社本庁の調査主事・落合偉州は、「靖国神社に祀られるための資格条件」を次のように語ったといいます。

「祀られている人は軍人、軍属及び準軍属其の他で、
一、軍人では戦死戦病死、及事変での戦死戦病死。
二、終戦後外地において公務に勤務して死んだもの。内地に帰ってから病死したもの。
三、満州事変以降戦死したもの、平和憲法十一条によって死亡したもの。A級戦犯も祀られている。
四、特別措置法によって公務の上で死亡したもの・・・。

穂坂は、この合祀基準は、神社本庁の見解で、靖国神社の見解と同じかどうか分からないといいます。四に属する人々は、「御祭神」に含まれていない可能性があるといいます。

穂坂は、神社本庁の見解通りに靖国神社に祀られていたとしても、空襲による一般の焼死者は合祀されていないといいます。軍人とその関係者は靖国神社の祭神になることができるが、一般の人々はどんなに願っても祭神にはなれないということです。

筆者は、「非常民」は、軍事に関わる「非常民」と司法・警察に関わる「非常民」に分類しましたが、靖国神社の「祭神」は、軍事に関わる「非常民」に属します。

穂坂の文章を読んでいて、私は、ひとつのことに気づきます。それは、靖国神社に合祀されている人々の中に、一般の警察官や、戦争中、戦争遂行の一翼を担った特別高等警察は含まれていないということです。つまり、戦前・戦後を通じて、靖国神社には、司法・警察に関わる「非常民」は合祀されていないということです。

長州藩は、幕府の第二次長州征伐に際しては、幕府の軍勢を藩の四境に迎え撃つ戦争・四境戦争のとき、穢多を構成要員とする「維新団」、茶筅を構成要員とする「山代茶筅隊」を結成します。「維新団」や「山代茶筅隊」という部隊の性格は、「軍隊」ではなく「警察」でした。「軍隊」は、敵の軍隊を壊滅するのを目的に動きますが、「警察」は、敵の兵を生きたまま捕獲して、取り調べと拷問を用いて、敵側の情勢や情報を入手します。「維新団」や「山代茶筅隊」は、そのために、前線へ送り出されたのです。

このことは、長州藩だけではありません。幕府側の広島藩も、第二次長州征伐に際しては、「穢多」を前線へ送り出して、長州藩の兵を生きたままとらえ、彼らから情報を入手します。違いがあるのは、長州藩の穢多や茶筅は、軍隊同様の新式銃で武装された精鋭部隊でもあったということです。彼らは、長州藩の戦勝のため、多大な貢献をしたといわれます。

四境戦争後、「維新団」の穢多たちは、藩から報奨として「士分取立て」「山林五ヘクタール」かいずれかをとるように迫られます。彼らのほとんどは、後者を選択したと言われます。長州藩の穢多たちは、藩の存亡に関わる「四境戦争」には参加したけれども、戦争は、近世警察官である穢多たちにとっては、たえ難いできごとだったのでしょう。穢多は、「士分取立て」を選択して、兵となって、江戸・会津・函館へと戦争の旅(近代兵器を使った殺戮の旅)にでることより、「山林五ヘクタール」をもらって、元の近世警察官の職務、長州藩のふるさとの山や川、人々の生活や治安を守る職務の方を選択したのだと思います。

「山代茶筅隊」は、「本藩別業の地」で、本藩一般の地とは支配形態が異なりました。茶筅は、最初から、「士分」として、四境戦争に参加しました。軍人として参加した「山代茶筅隊」の戦死者は、当然、靖国神社に祀られました。

しかし、軍人ではなく警察官であることをまっとうすることを願った「維新団」の戦死者は、戦前・戦後の一般警察官や高等警察官が靖国神社に合祀されなかったのと同じく、靖国神社に合祀されることはありませんでした(広義の意味では、国のために尽くした軍人を祭られる人、祭られぬ人に意図的に区別しているという点では差別的ですが、軍人以外は警察もふくめて一様に合祀していないという点では、狭義の意味合いでは差別的ではありません)。靖国神社に祀られなかったことこそ、近世警察官たる者の、職務に対する責任と誇りだったと思われます。城を屠するは武士の仕事、近世警察官たる穢多の仕事ではない・・・、と。何がなんでも靖国神社に祀られなければならないということではありません。

「穢多は非常民である」という命題は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の多くの謎に、合理的な説明を提供してくれる可能性を秘めています。

山口県立文書館の研究員をされていた北川健先生の論文《『防長風土注進案』と部落の歴史》の中で紹介されている被差別部落の伝承に「高佐郷の歌」があります。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

『部落学序説』の、これまで書いた文章の中で、繰り返し引用してきた伝承です。

北川は、この伝承の中に、近世の穢多村を考察するときの重要なキーワードとして、「垣の内」、「皮」、「長吏」、「穢」を抽出します。「穢多」概念の属性として、穢多の「役務」は、「長吏の役ハ高佐郷 何そ非常の有時ハ ひしぎ早縄腰道具 六尺弐分の棒構ひ 旅人強盗せいとふ(制道)し高佐郷中貫取」と歌われている捕亡の仕事を意味します。

また、穢多の「家職」として、「垣ノ内」「皮張場」でなされる生業を意味します。

近世幕藩体制下の「穢多」概念は、その外延・内包とも極めて明確だったのです。近代になって、明治天皇制樹立の過程で、「旧穢多」の概念は、その外延・内包ともあいまいなものにされてしまいます。

------------------------------------------
※文章が長すぎるとページが破損して、やっかいなことになりますので、破損しない程度で文章を途中で切ります。次回は、「垣の内」の「垣」についてとりあげます。もちろん、「穢多は非常民である」という命題に基づいて、「垣」の見直しをします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

垣の内に関する布引説への批判

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 1.垣の内に関する布引説への批判



少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

『部落学序説』で、筆者が繰り返し取り上げる、近世幕藩体制下の「穢多村」の原像です。この歌の最初の一節に、「少岡ハ垣ノ内」とあります。

「垣の内」に関する研究としては、山口県立文書館の元研究員をしていた布引敏雄の《長州藩被差別部落成立の一形態 「垣之内」地名を手がかりにして》があります。

この論文の材料となった史料は、『地下上申』・『防長風土注進案』・『山口県風土史』の3冊です。布引が「垣の内地名一覧表」「垣の内」として取り上げるのは8カ所です。布引は、『地下上申』の「小名垣之内と申ハ、穢多之者罷居申ニ付垣之内と名付申」という文言から、玖珂郡・熊毛郡・吉敷郡の3大穢多村については、「「垣ノ内」とは部落に固有の地域名であるという推測が可能である」としています。

しかし、上記の「高佐郷の歌」を歌った穢多たちは、自らの居住地の一部「少岡」を「垣の内」と呼んでいますが、布引の垣の内に関する研究の対象外になっています。

高佐郷だけではありません。

長州藩の「垣の内」を知る上で、藩の重要な史料は、長州藩本藩だけでなく、長州藩の枝藩である徳山藩や岩国藩の史料にも「垣の内」に関する記述は多数存在しています。布引は、「垣の内」考察に際して、その根拠となる史料を『地下上申』・『防長風土注進案』・『山口県風土史』の3冊に限定したことで、長州藩の「垣の内」の全体像を把握できなくなっています。

布引は、「「垣ノ内」に隣接し、両者で一つの小台地を形成する地域名に「岡」がある。これは、地名より考えて「岡垣内」という地名であったことが考えられる。それが明治期には「岡」と「垣内」に分離したのではなかろうか」と推測しています。しかし、彼の説は、何か言葉の遊びをしているようなところがあります。

「高佐郷の歌」では、文字通り「岡」・「垣ノ内」はセットでてきます。

この場合、「岡」は、「垣ノ内」のあった地理的表象、「垣ノ内」は、「岡」に配置された政治・行政上の表象であると考えればすむことで、布引の言語操作は必要ないと思われます。

のびしょうじは、《囲われたムラ》(『部落史の再発見』(解放出版社))で、1695年(元禄8)河内国更池皮田村に出された「皮田村全体を竹垣で囲い、出入口三つ、夜は本村に通じる北口一つとし番人を置く」という「法度」を紹介した上で、のびは、「皮田村を取り巻く環境・景観がどのようなものであったか、と問えば、ほとんど具体的なイメージをもてないのではないか」と言っています。更に「文字史料では景観のありようは推定に推測を重ねてみるしかないし、それでもイメージを得るのは困難であろう」としています。

しかし、布引は、長州藩の極わずかな史料から、「えたの居住地を「垣ノ内」と呼んだ理由は、その集落が垣根によって囲まれている景観を有していたからであると考えられる。」とし、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味したのである」と断定していきます。

のびは、布引の説を、「先駆的な社会史の観点からの考察」と評価していますが、その「推定に推測を重ねてみる」姿勢に少しく疑問を感じておられるのかもしれません。

布引敏雄の部落史に関する研究論文を精読していて思うのですが、この「推定に推測を重ねてみる」姿勢は、いたるところで、しかも、重要なテーマのところで確認することができます。布引は、推定や推測の根拠を明確にしないで、「・・・と考えられる」と、論文の読者に論理の飛躍を要求します。

布引の推定や推測の指導理念は、歴史学上の差別思想である「賤民史観」です。被差別部落の人々の近世幕藩体制下の先祖たちが、「如何に差別され、如何にみじめで、あわれで、気の毒であったのか」を証明するための素材を、長州の地から全国へと発信していきます。のびのように批判的に見ている人はまれで、多くの場合は、布引がつくりあげた垣の内に関する像、「「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味したのである」という、現代的な差別・被差別に色濃く染められた像が無条件に受け入れられて行きます。

布引の「垣の内」説のプロトタイプは、彼の「賤民史観」であり「愚民論」であり「差別意識」であると思われるのです。

布引と同じ過ちを犯さないために、筆者の中にある「垣」について自己検証をしてみます。

こども心に「垣」の存在を実感させられたのは、小学校にあがる前の年の夏のことです。朝目を覚ますと、隣近所のおじさんやおばさんの大きな話声が聞こえてきました。なんでも、歩いて5~6分のところにある入り江で、若い女性の水死体があがったという話です。「いま、警察が取り調べている。見に行こう・・・」と言って、若い女性が入水自殺した入り江へ走って行きました。私も他のこどもたちと一緒に大人のあとを追いました。

若い女性が自殺した入り江には、私が生まれた町でも比較的に大きな紡績工場がありました。

若い女性が死んだ場所は、ちょうどその大きな紡績工場の正門の前でした。紡績工場の前の道にたくさんの人が集まって、潮の引いた浜辺に横たわり、掛けられたむしろからはみ出した青白い足を見ていました。

若い女性というのは、その紡績工場に、働きに来ていた18歳の「むすめさん」でした。

岸壁から、その下にある「むすめさん」のなきがらをみながら、大人たちは、「本当にかわいそうだね。十七や八で、命を捨てるなんて・・・」。

その「むすめさん」のなきがらの回りには、たくさんの剃刀が散らばっていました。自殺した娘さん、大人たちの話では、その紡績工場で労働争議があって、女工さんの立場から、その労働組合の委員長をしていたそうです。「中学校を出ると十五、六で故郷を離れて、集団就職で働きにきて、朝早くから夜遅くまで働かされる、労働がきつくて中には身体を壊すひともでてくる。するとすぐに親元へと返される。それでは、家が困るからといって、女工さんたちは、少々の無理を押してかんばる。でも、それにも限界がある。少しは、女工の置かれた厳しさを緩和してくださいと会社に訴えると、会社は、いろいろな嫌がらせをする。ストに入ると、暴力団を雇って、女工さんたちに、人間の糞尿をぶっかけたそうだ。たくさんの剃刀は、警察が数えると、紡績工場の組合員の人数分あったとさ・・・」。大人たちの話声が、こどもの心に深く入ってきました。

その紡績工場は、周囲を塀で囲まれています。

そして、その塀の上に、鉄条網が張られています。大人たちは、それを見ながら、「鉄条網が内側に傾いて張られてるだろう。あれは、紡績工場やその中にある女工さんのための寮に外部から不審な人が侵入してくるのを防ぐためではなく、中の女工さんに、夜、脱走させないためなんだよ」と話をしていました。

そんな事件のあった夏の朝は、青色の朝顔の花がいっぱい咲いていました。

朝の空の色は、彼女の死を悼んでいるようでとても悲しそうに見えました。

「垣」という言葉から、思い起こすことは、この悲しいできごとです。この年になって考えると「紡績工場のお姉さんが死んだんだって・・・」とこどもたちの間で話し合っていた「お姉さん」は、まだまだ、こどもでしかなかったということです。戦後の日本の高度経済成長の陰に、こんな話がいっぱい秘められていると思うと、自らの豊かさを追求する余り、多くの民衆を犠牲にしていった人々が恨めしくなります。

お隣の国、韓国においても、民主化が進行する前は、紡績工場の女工さんに対する激しい弾圧が行われました。日本のテレビでも、ニュースとして、韓国の暴力団によって、韓国の紡績工場で働く、韓国の女工さんが、人間の糞尿を浴びせられている光景をみましたが、戦後の高度経済成長の豊かさを謳歌していた日本人の多くは、「韓国は遅れている。いまだに、こんな非人間的なことをしている」と話していました。しかし、私の記憶の中では、「日本」と「韓国」の時間的な差はそんなに大きなものではありませんでした。

組合員の数だけ剃刀を持って、手首を切って、満潮の海に身を投げたひとりの「お姉さん」の砂の上に横たわる姿を思い出すごとに、いまだに涙がでてきます。

日本の社会は、至るところに「垣」があります。

垣の内から、外に出ていけないようにしている垣に、刑務所や警察、自衛隊、軍需工場、原発、自衛隊や米軍の基地・・・があります。「垣」は、一見、外部から不法侵入することを防ぐために設けられているように見えますが、逆に、垣の内側にいる人を外へ出さないようにする機能をあわせて持っているのです。

「垣」について、もうひとつのイメージがあります。

それは、青年の頃、岡山県の虫明の沖合にある長島愛生園を尋ねたことがあります。その島には、重度の「癩病」(ハンセン氏病)患者が「収容」される光明園と、比較的症状の軽い愛生園があります。尋ねたのは、愛生園の方でした。

青年会で、車に便乗して、でかけたのですが、梅雨の集中豪雨と重なってしまいました。

淋しい雨がふりそそぐ人里離れた山深い街道を通って、虫明の港にたどりついたのですが、連絡船で渡る海は、黄土色の海でした。昔、「癩病」(ハンセン氏病)だと診断された人々は、家族や親類から引き離され、まるで、地の果てに捨てられるような思いで、この道をたどったのかと思うと胸つぶれる思いでした。

その頃、私は、ある病院で、「臨床病理検査」の仕事をしていました。

あるとき、細菌検査をしていて、結核菌の検出した数を「無数」と報告したことがあります。医者は、「無数というのは、科学的な表現ではない。きちんと数え直せ」というのです。私は、「できません。多すぎて・・・」というと、医者は、「もしかして・・・」と検査室にきて顕微鏡で確認しました。「あの検体でよく検出できたなあ。これは、結核菌ではなくて、癩菌だよ」。

「癩菌」が検出された若い女性は、長島愛生園に送られることなく、通院治療になりました。

当時の岡山県、35年前の岡山県では、保健所が癩病の通院治療を認めていたのです。今住んでいる山口県では、本当につい最近まで、「癩病」(ハンセン氏病)患者は、岡山の愛生園に隔離措置がとられていたのです。

結核菌と頼菌は、「抗酸菌」という同じ種類の菌です。

日本で、戦後、「癩病」(ハンセン氏病)の発生率が極減したのは、戦後、結核予防を徹底したからです。結核を予防することで、自動的に、同種の菌に対する感染を防止することができたのです。決して、「癩病」(ハンセン氏病)患者を隔離したためではありません。私が勤務していた病院の医者は、「身体の中が癩になったのを結核といい、身体の外が結核になったのを癩といっても過言ではない。それほど、結核菌と癩菌は近い存在」と話していましたが、山口県では、いまだに、「癩病」(ハンセン氏病)の隔離施設を作った光田健輔(愛生園園長)は、近代山口が生んだ偉人の一人に数えられています。

少し話が脱線しましたが、長島愛生園の中の宗教施設で、園生と交流したとき、私たちは前の入り口から、園生は、後ろの入り口から入りました。中には畳が敷かれてあったのですが、ちょうど部屋の真ん中あたりに、高さが、30センチ程の仕切りがありました。それは、「癩病」(ハンセン氏病)患者とそうでない人を区別するための垣でした。その垣は、越えようと思うとすぐ越えることができる垣でしたが、誰一人、その垣を越えようとはしませんでした。私も・・・。私は、その背丈の低い、形だけの「垣」は、心の中に作られた「越えるに越えられぬキリシタン屋敷の垣」と同じ、人と人とを隔てる高い闇の「垣」であることを知らされました。

私の「垣」に対する予見は、上記の三つの「垣」にあります。

しかし、私は、私の中にある予見でもって、「高佐郷の歌」に出てくる「垣ノ内」に感情移入することはできません。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

この「垣ノ内」をイメージするためには、何らかのプロトタイプが必要です。次回は、「垣ノ内」の本質を把握するために、近世幕藩体制下の史料から、そのプロトタイプを模索します。


-------------------------------------------------

※「癩病」(ハンセン氏病)と表現していることについてひとこと。ハンセン氏病患者の中には、「ハンセン氏病と言われると、ことがらの本質が分からなくなってしまいます。癩病という言葉はそのまま使ってください。大切なのは、差別しないことですから・・・」と主張された方がいます。「癩病」は病名です。病名をもって、ハンセン氏病患者あるいは元患者の人間性全体を表現するときは差別語になります。差別語を退けるだけでは、差別から自由になることはできません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新井白石と垣の内

【第3章】穢多の定義
【第1節】穢多の定義
【第5項】垣の内に関する考察 2.新井白石と垣の内



前節でとりあげたように、山口県立文書館の元研究員・布引敏雄は、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味した」といいま す。

布引がそう断定する根拠になった史料は、近藤清石編『山口県風土史』(昭和18年原稿完成)に吉敷郡「垣の内」に関する以下の文章です。

「旧賤民の在所にて、垣ノ内の称は、尋常の人家の垣は杭を内にし縁竹を三段す、是れは杭を外にして縁竹を四段せり」

これに対して、布引は、「杭を外にしたという事実から、垣根がえた部落の側から自らの周囲を囲う意図のものではなくて、一般地域の側からえた部落を隔離・隠蔽する意味合いで囲ったものだということが知られよう」と推測します。

布引が、使用している文献は、幕末から遠く隔たった昭和の、しかも、戦前の時代です。その時代の文章が、どれだけ、幕藩体制下の「垣の内」について、正確な情報を伝えているか、検証が必要になります。今井登志喜著『歴史學研究法』には、「逸話、噂話」については、「これらは本来無責任な捏造が甚だ多い性質のものである。個人の逸話と言われるものの如き、真実を伝えている場合は寧ろ少ない。これらと同じ様な口伝的性質をもっている伝説はさらに芸術的要素が多く、小説であって容易に信用し難い。」とあります。

「賤民史観」にどっぷりと漬けられた「垣の内」に関する『山口県風土史』に収録された史料を無批判に使用することが、歴史学者として、正当な所作であるのかどうか・・・。

文献だけでなく、伝承を、歴史研究に組み込むときは、それなりの検証が必要です。

「社会史」という学問は、少なくとも、その研究に際して取り扱う個別の伝承については何らかの検証をしていると思われます。歴史学者の恣意的な解釈をそのままに「社会史」的研究と呼ぶことは許されないと思うのですが・・・。

布引が、あえて、このようなあいまいな伝承を持ち出したのは、「垣の内」に関する資料が少ないためでしょう。近世の文献だけでなく、現在の被差別部落に伝えられている伝承の中にも「垣の内」に関するものは極めて少ないという現実もあるのでしょう。

歴史学者のいう「賤民史観」を全面的に受け入れて、「これでもか、これでもか・・・」と、被差別部落の「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別の現実を訴えてやまない、『怒りの砂』の著者・村崎義正は、「垣の内」については、ひとことも言及していません。

部落史を研究する専門家や被差別部落の当事者ですら、このような状況にあるのですから、学歴も資格も持ち合わせていないただの無学な筆者が、しかも由緒正しき百姓の末裔でしかない筆者が、「垣の内」について言及することは自ずと限界があることは否めません。

私は、ただ、徳山市立図書館の郷土史料室にある文献と、近くの書店で買い求めた若干の関連書籍を散策するのみですが、あるとき、岩波書店の『日本古典文學大系』の『載恩記・折りたく柴の記・蘭東事始』を読んでいて、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という言葉に遭遇しました。

この『部落学序説』で、明示した命題のうち、「穢多は非常民である」という命題に立てば、当然、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という表現を、近世幕藩体制下の警察である穢多・非人だけでなく、同じ「非常民」の職務にあった武士に関する史料の中から、参考史料を探し出そうとするのは自然の成り行きです。

「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という言葉は、江戸時代の代表的な漢学者である新井白石の『折りたく柴の記』に出てきます。

新井白石の父は、上総国久留里の領主・土屋家に仕えていた人で、白石によると、当時の「警察」業務に長けた人であったようです。予想される事件はあらかじめ未然に防ぎ、犯人の逮捕・監禁・取調に際しては極力冤罪事件に至らぬよう配慮をしています。

正保2年の秋、土屋家は、幕府から、徳川将軍家の旧城・駿府城の番を命じられます。

そのとき、新井白石の父は国元に残り執務にあたっていましたが、次の年の春、藩主によって、上総から駿府に呼び出されます。

白石の父は、藩主からこのように聞かされます。
その頃、「府城の陣屋」(駿府城勤務の士の居所)「なども、四面みなみな竹垣ゆひ廻せしまま也しかば、わが侍ども、夜毎に垣をこえて出あそぶもの多くして、供にさぶらひしおとなしきものども、「制止すべきやうなし」と申しければ、召ける也」と言われます。

藩主が心配していたのは、駿府城勤番に同行させた藩士たちの中に、夜な夜な、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」陣屋を抜け出して、城下に、夜遊びにいくものが多いことです。もし、藩主が若い藩士たちの行動を黙認したことで、誰か一人でも犯罪を犯すものがあれば、駿府城勤番の武士(近世警察)に対する信頼が著しく損なわれる。それは何とかして未然に防がなければならないが、藩主に同伴した家老たちは若い藩士たちを制しきれない。正済(白石の父の名)ならば、何かよい解決策を知っているかもしれない、藩主は、そう思って、白石の父を、上総から駿府へと呼び出したというのです。

白石の父がしたことは、まず、「陣屋の邊打ちめぐり見て」、藩士の居所である陣屋とその周辺を観察することでした。そして、若い藩士が、竹垣を越えて「脱走」する箇所を確定して、「しかるべき所々に番兵」を置いたというのです。当時の言葉では、垣の外を守る番人ですから、「番兵」は「垣外番」(かいとばん)であると言えます。一晩中、藩士の竹垣越えを監視する番所、「守らすべき小屋」「四つ五つ」造ります。番所毎に、「足軽の兵二人づゝをもて、そこを守らせた」とあります。

白石の父は、「夜ごとに日暮ぬれば、夜明くるまで、みずから巡視して、守り怠らざるものをばすゝめ、懈れるものをばいましめて、交代の時に至るまで、ひと夜もうちふす事なくしてありし」といいます。白石の父は、若い藩士の竹垣越えを監視する、「垣外番」の足軽をさらに監視することで、「おのづから夜を犯して出あそぶものもなくして、事終わりにき」とあります。

白石の父に対する藩主の信頼は絶大なものがあったようです。

新井白石の父は、「雪踏」を愛好していたといいます。
「雪踏として、革を底にしたるものをめして、いかにも足おとの高らかに聞こゆるやうに、すぎゆき給ひしかば、我父の來り給ふをば、皆人の聞しりしほどに、おさなき子も、その啼くをとゞめたりき。」とあります。白石の父の雪踏の足音は、駿府勤番の藩士や足軽の耳にも達していたと思われます。

白石の父は、藩主から与えられた「司察」(司法警察)の職務を忠実に果たしたのでありましょう。その方針は、犯罪を未然に防ぎ、藩の品位を保つということにつきたと思われます。

白石の父が、犯罪を未然に防ぐことに終始したのは、苦い経験が背後にあります。

ある若い藩士が、あるとき、重罪を犯した。そのことが露顕することをおそれて、偽装工作をして、幼いこどもを惨殺して逃亡するということがありました。藩主は、若い藩士に自首を迫るため、彼の母親を牢につなぎます。しかし、藩士は自首してこない。そのうち、その母親は獄中で死んでしまいます。白石の父は、犯罪を未然に防ぐことこそ肝要と観念したのでしょう。

白石の父は、生涯、刀を抜かなかったと言われます。刀を抜いて処罰する前に、刀を抜かないでいいような社会を作る、犯罪防止と社会の治安維持に努める、武士身分の「非常民」としての心意気が伝わってきます。

犯罪を引き起こす政治や経済の歪みを是正すること遅く、ただ犯罪者を裁き極刑に処することのみ速やかである現代の司法・警察行政の現実と比較するとき、近世の司法・警察行政のあり方を、時代遅れのものとして切り捨ててしまうのはどうかと思います。

幕末期、諸外国から日本に派遣されてきた人々は、当時の日本の警察が極めて優秀であることを認めています。犯罪者を生きたままとらえること速やかにして的確であるとの評です。諸外国が日本に治外法権をつきつけたのは、近世警察の取調の手法の中に、「拷問」制度があったことです。幕府も明治政府も、日本は古来からこの「拷問」制度を採用してきたので、この「拷問」制度を廃止すると、日本の社会の治安が揺らぐといって、それを廃止しようとはしませんでした。

諸外国から評価されていた、近世警察の本体であった総称としての「穢多」を廃止し、諸外国から廃止を求められていた「拷問」制度を継続していった明治政府の姿勢は、今日にも引き継がれ、ときどき、「自白の強制」として、「冤罪事件」として、明治政府の失策の悪しき遺物がその顔を顕すのではないかと思います。

白石は、「府城の陣屋なども」と語りますが、近世警察である穢多の在所としての「垣の内」も同じ構造にあったのではないかと推測できます。白石の父が、「司察」の職務を担うにあたって、その知識や技術をどこから入手したか、筆者はまだ検証と考察の対象にしていませんが、久留里藩3万石の近世警察制度には興味