2005.09.01

部落学の定義

rqkqn04【第2章】部落学固有の研究方法
【第1節】部落学固有の研究方法
【第1項】部落学の定義



第1章で、「穢多は非常民である」と定義付けをしました。

この定義に至るまで、私は、十数年に渡り、試行錯誤を繰り返してきました。定義の仕方については、近藤洋逸著『論理学概論』(岩波書店)に依拠しています。近藤は、「問題解決の過程の中で概念が形成される」と書いていますが、部落学の固有の研究対象である「部落」を定義する場合も同じことが言えるのではないかと思います。部落差別完全解消を目的とした研究過程の中で、自ずと必要な定義が形成されていきます。

定義は、一度の定義で、完全な定義をすることはできません。

仮説的に定義された概念を、その内包と外延を検証することで、更に、より正確な定義を模索していくことになります。具体的には、まず、概念の内包(「共通な性質」)を抽出することで、その概念の外延を確定していきます。そこで確定された外延を検証して、設定された内包が正しいかどうか検証していきます。外延に問題があれば、更に、内包を定義しなおし、更にそれに基づいて外延を把握し直します。定義には、「無限」を感じさせるほど、多くの時間と作業の繰り返しが必要になります。私は、その結果として、「穢多は非常民である」と定義することになったのです。

「部落学」固有の研究対象が明確になりますと、部落学固有の研究方法は必然的に決まります。

「民俗学」が、常民に対する学であるなら、その常民の対極にある非常民を研究する「部落学」は、「民俗学」の研究方法をかなりな部分、援用することが可能になります。

「民俗学」は、①歴史学、②社会学・地理学、③宗教学の学際的研究であると言われますが、「部落学」も、それらの個別科学研究の学際的研究として設定することができるようになります。

「民俗学」と「部落学」で総合される個別科学研究の科目内容が同じであるなら、「民俗学」の対極になぜわざわざ「部落学」を構築する必要があるのかと考えられる方もおられるかも知れません。

私が「部落学」構築を提唱するのは、「民俗学」が、研究の対象にしている民俗の世界は、神道の世界を前提としているからです。柳田国男が想定している民俗の伝承の器である「村」は、仏教伝来以前の日本の村ではなく、明治政府が描いていた近代日本の構成要素たる村であったからです。柳田国男の民俗学は、多分に明治政府、日本国家のイデオロギー的側面を持っています。

五来重は、「柳田民俗学は、宗教の点においては神道のほうに傾いていたといえると思います。そんな中で私が仏教民俗学といいだしたのは、庶民の側の仏教史をどうとらえたらいいのかと考えたことからなんです」と、宮田登との対談の中で語っています(『歴史公論№52日本の民俗と宗教』)。また、「柳田国男先生のなかに神道なり国家主義なりに同調するような方向があり、その方面をおしすすめた観はありますね」とも言っています。宮田も「ほとんどの民俗学研究者たちは仏教学を知らない。だから現実に調査したときにも・・・」、正しい聞き取り調査ができない可能性を示唆しています。

私は、「部落学」の研究方法としては、宗教学に神道に仏教を付加するだけではまだ不十分であると思っています。もうひとつの宗教、キリスト教を付加すべきであると思います。

日本古来の「非常民」が、「軍事」と「警察」に二極化されたのは、嵯峨天皇の時です。

『新天皇系譜の研究-万世一系の演出と実態』を書いた角田三郎は、陸軍航空士官学校を出ますが、戦後、キリスト教に転身します。そして、天皇制批判を展開していくのですが、彼は、知る人ぞ知る、江戸時代の漢学者・新井白石の末裔です。彼は、風のうわさでは、靖国違憲訴訟を準備していく段階で、体制がしかけた罠に陥り、挫折を経験させられたと聞いています。

角田は、その書の中で、評価できる天皇の中で、最上位に推すことができる天皇として嵯峨天皇の名をあげています。

その理由のひとつに、「彼の政策の穏健さ」をあげています。具体的には、嵯峨天皇が、天皇家の血で血を洗う皇位継承問題の悲惨さを繰り返さないために、「軍事」と「警察」を分離し、「治安維持のための検非違使の創設」をしたことを取り上げています。

犯罪を未然に防ぐことを目的として設置された警察制度は、効を発揮して、「そしてこの後340年間、保元の乱まで、朝廷の手による死刑執行が止められたことも有名なことです」と言います。

検非違使が制度化される以前は、「非常民」は、「軍事・警察」が渾然と一体化したものであったのですが、検非違使が制度化された以降は、「軍事」と「警察」の両機能は分離され、戦時ではない平時にあっても有効に機能する、治安維持のための制度ができあがったわけです。検非違使制度は、古代律令制から見ると、「制度外制度」であり、そこに従事した人々は、「身分外身分」ということになります。検非違使制度は、時代を超えて温存され、日本の全国津々浦々に、「番人」として配置されていきます。彼らの姿は、藍染めの衣装(制服)を身にまとった、一目で分かる存在でした。

私は、その存在を、「衛手」(まもりて)と認識して、その「衛手」の漢語読みを「エタ」と推測したわけです。「衛手」は、江戸時代まで、文字としては「守手」(まもりて)として伝えられていましたが、文字としての「衛手」が失われ、音としての「エタ」のみが残っていったと推測したわけです。

網野善彦は、『歴史を考えるヒント』(新潮選書)の冒頭で、以下のように述べています。

「日常、われわれが何気なく使っている言葉には、実は意外な意味が含まれていることがあります。あるいはまた、われわれの思い込みによって言葉の意味を誤って理解していることもしばしばあるのです。歴史の勉強をしていると、そういうケースに直面することが少なからずあります。しかも、そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざるを得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違ってみえてくることさえあるの">ではないかと考えます」。

今日、「穢多」という言葉については、暗くて惨めなマイナスイメージの響きしかありません。しかし、私は、「穢多」という概念を再定義していく中で、「穢多」の属性として、「衛手」(エタ・非常民)に到達したのです。

この「エタ」は、歴史の進展の中で、徐々に社会的に重要な存在になり、その職務内容が増大していきます。

様々な職務を担っていくようになります。その内容は、明治以降の近代警察の職務内容とほぼ匹敵する内容です。実に多種多様な仕事に従事していました。「穢多」の立場からすると、「穢多」という言葉は、「多くを穢す」意に受け止められていたように思われます。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


山口県立文書館の研究員・北川健が発掘した、長州藩の近世穢多村の伝承の中に、「山部は穢す皮張場」という一節がありますが、「穢す」という言葉は他動詞です。穢多が、主体的に働きかける存在になります。ここでいう「穢す」という言葉は、『広辞苑』(初版)の説明では、「人格・実力のない者が高い地位に就く。また、自分がある地位や席につくことを、謙遜していう。」意味にあたります。

「穢多」というのは、「穢れ多し」と読むのではなく、「多くを穢す」と読むべきではないのかと、私は、推測するわけです。近世の非常民である「穢多」の特質は、その職務に、さまざまな警察機能に加えて、「宗教警察」が含まれたことにあります。ここでいう、宗教とは、キリシタンとか日蓮宗の不受不施派、悲田宗、三島派など、「邪宗門」とラベリングされ、幕藩体制下で禁教扱いされていた宗教のことです。特に、穢多に課せられたのは、キリシタンに対する取り締まりでしょう。長州藩の史料の中には、穢多たちに対しては、キリシタンを取り締まるように指示が記されたものがあります。

近世穢多のはじめと終わりは、キリシタン弾圧のはじめと終わりに平行していることは、多くの部落史の研究者が指摘しているところです。もちろん、それを解明したひとはいませんが・・・。

私は、これらのことから、民俗学レベルの宗教学(神道中心)では、非常民の本質を十分に描ききることはできないと思っています。さすれば、「仏教民俗学」を補助科目として付加すればそれで十分かといえば、それでも不十分であると思っています。やはり、「神道民俗学」・「仏教民俗学」だけでなく、「キリシタン民俗学」も視野に入れないと、穢多の本質は把握できないと思っています。

私は、「常民」を固有の研究対象とする「民俗学」の部分的修正だけでは、「非常民」について十分に迫りうるものにならない、やはり、「民俗学」とは別に、「非常民」の学としての「部落学」を構築する必要を感じてしまうのです。

ここで、命題2を設定します。

「部落学は、<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究であり、そのことによって部落学固有の研究対象である「部落」の歴史と本質を明らかにし、差別・被差別の立場を問わず、すべての人を<賤民史観>から解放し、日本社会の病巣である部落差別の完全解消に資することを学的課題とする」。 


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※『部落学序説』の執筆を開始して9ヶ月、ほとんど批判らしい批判はありませんでした。あっても、通説にのっかった単発的な批判(たとえば、沖縄・北海道には「被差別部落」はないという、筆者がその存在をほのめかすことへの批判)でしかなく、議論に発展することはありませんでした。ただ例外的に、筆者の足元からの批判がありました。山口県高等学校同和教育研究協議会の高林君夫氏(『部落学序説』では「研究者」として登場)と部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡英章氏(『部落学序説』では「部落解放同盟の方」として登場)の2者からの批判でした。いずれも、『部落学序説』の筆者とのかかわりを否定したいという動機が働いているようです。部落史研究・解放教育の一般常識や通説からかけ離れた「虚説」にかかわって、筆者と一緒に笑いものにされたくないという気持ちが優先しているのでしょう。両者は、15、6年に渡って、「電話」を介して情報交換してきたのですが、両者とも積極的に筆者の『部落学序説』の内容に賛同していたというのではなく、まったく、逆に全面否定の立場を明らかにされていたのです。山口県北の寒村にある、ある被差別部落の聞き取り調査をきっかけにはじまった「部落学」構築の歩みをはじめた当時は、インターネットもなければブログもありませんでした。調べた結果を公表する手段としては、印刷物による配布・出版しかなかったのですが、そのときから15、6年が経過したいま、時代は大きく変わり、ブログで、論文の公開執筆と出版が可能になっています。山口県高等学校同和教育研究協議会の高林君夫氏は、筆者の『部落学序説』は「2度と見ない」と宣言されて離れて行かれました。部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡英章氏は、対応に苦慮され、結局、「地域限定情報論」を唱えて、「山口県内では情報を流してきたが、全国的に流したわけではない」との理由で、『部落学序説』の文書の該当個所の削除をもとめてこられました。部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡英章氏が発信した全国向情報は、『部落の過去・現在・そして・・・』([22-13-130]こぺる編集部編・阿吽社)に限定されてしまいます。部落解放同盟山口県連新南陽支部は、同和対策事業終了とともにすでに解散され、「部落史研究会」(仮称)されておられるとのことなので、筆者が、彼のことを「部落解放同盟の方」と呼ぶのも、その「部落史研究会」を「部落解放同盟山口県連某支部」と呼ぶのも「事実誤認」のようですが、ともかく、筆者の棲息している「山口県」の世界からの筆者に対する批判は、『部落学序説』の2度の執筆中断と書き直し作業を引き起こすことになったことだけは否定しようがありません。『部落学序説』執筆をはじめて9ヶ月、結局、『部落学序説』の読者の方々から、『部落学序説』に対する批判はありませんでした。筆者は、学者・研究者・教育者の論文を2つのグループ(Aグループと not Aグループ)にわけ、それぞれのグループの中からそのグループを代表する学者・研究者・教育者「A」・「not A」を抽出、両者の論文を比較して、いずれかの見解を採用し、のこりの見解を否定する方法で、『部落学序説』を展開してきました。筆者は、「A」・「not A」を「楯」として、ブログ上で『部落学序説』を書きはじめたのですが、「A」・「not A」の「楯」を突破して、『部落学序説』の内容を批判してくださる方はほとんどおられませんでした。批判がない・・・、ということで、今回、「元」部落解放同盟山口県連新南陽支部関連の記事を削除することで、『部落学序説』の文書を固定することにしました。「はじめに」からはじめて、やっと「第2章」に入りました。まだ、当分、編集校正作業に時間がかかるかと思いますが、『部落学序説』、最後まで執筆を続けたいと思います。

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部落学と歴史学

【第2章】部落学固有の研究方法
【第1節】部落学固有の研究方法
【第2項】部落学と歴史学



既存の部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果としての史料や論文の累積は相当数にのぼります。
これらすべての史料や論文に目を通すことは事実上不可能です。

特に、大学で高等教育を受け、歴史学に精通した研究者ならともかく、大学での「学」とはまったく無縁な状態で人生を歩んできた、無学歴・無資格な、ただの人である筆者にとっては、すべての史料や論文に精通することは最初から不可能なことです。

この『部落学序説』を書くに際して使用する史料や論文、伝承との遭遇は、筆者にとっては、まったくの偶然の産物です。筆者が遭遇した史料や論文は、ひとつの「出会い」のようなものであると思っています。その「出会い」によって、この『部落学序説』は、大きく影響されていると思うのです。

部落史研究の大御所である沖浦和光は、その著『「部落史」論争を読み解く戦後思想の流れの中で』の中で、「人生の長い旅路で、いちばん大事なのは、いつ、どこで、だれに出会うかということであろう。それによって、行き先も、歩く道も、大きく違ってくる場合が少なくない。他者との出会いが、人生の大きな節目になる-そういう出会いは、この人生という長い路線の転轍手みたいなものだ。」といいます。

筆者にとっては、人物だけでなく、史料や論文等も同じ類の出会いです。いつ、どこで、どのような史料や論文と出会うか、その偶然によって、筆者の『部落学序説』の内容は大きな影響を受けています。

筆者は、以前にも記したように、58歳の年になるまで、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書を持った人から、高等教育、講義を受けたことは一度もありません。

しかし、論文や書籍を通じて、間接的に、大学教授の研究成果に触れることは度々ありました。すぐれた学者は、一般の人々に、分かりやすい言葉で入門書や啓蒙書を執筆してくれます。それが、筆者の人生を、いろいろな意味で潤してきたことは否定できません。しかし、更に優秀な大学教授は、歴史学の研究成果だけでなく、歴史学の研究方法を提供してくれます。無学なものに、歴史学が何であるのか、どうすれば、歴史学研究を自分で行うことができるのか、詳細な情報を提供してくれます。それらの書物は、知識・技術だけでなく、歴史研究をすすめる上での姿勢や、研究の途上いろいろな壁に直面したときの対処法なども提供してくれます。ときには、読者に対する配慮から、励ましや慰めの言葉を、その行間に散りばめてくださる方もいます。

歴史学についていえば、筆者は、『歴史學研究法』(今井登志喜著)と『地方史研究法』(古島敏雄著)から、大きな影響を受けました。もし、この2冊の書にであうことがなかったら、筆者は、歴史学に関心を持つことはなかったでしょう。

この『部落学序説』では、「新しい資料の発見」はひとつも含まれていません。今井は、「新しい資料の発見によって旧学説が覆る実例はしばしば見る所である。」といいますが、無学歴の筆者のよしとするところではありません。「いかに不完全であってもすでに発見し得た資料に基づいてそれによって立証される限りの真理を認識するほかはない」ことを認めざるをえません。

今井の『歴史學研究法』は、既存の歴史学研究の論文がどのように構成されているか、その舞台裏を知る上で大いに役に立ちます。部落史の学者・研究者が、歴史学のクリティークをきちんと実践しているかどうか、その論文の読者に、それを確認する様々な方法を提供してくれます。

歴史家は、個々の歴史資料を収集・分析・解釈したあと、それらの歴史資料を総合して、ひとつの歴史的研究の成果としての論文を構築しなければなりません。今井は、その構築を、「歴史的連関の構成」と呼んでいます。「一の歴史的連関の構成が未だ何人にもなされなかった題目について行われる時、それはその研究者の学的業績になる」と言います。新しい歴史資料の発見に至らずとも、既存の歴史資料を批判・検証して、研究主題に応じて「歴史的連関の構成」を新しく試みるとき、今井は、それも、歴史学的研究の一つに数えるわけです。

『部落学』は、歴史学にとどまらず、社会学・宗教学・民俗学の個別科学研究の成果を批判・検証することで、部落学の固有の研究対象にふさわしい史料・伝承、論文・研究を抽出し、個々の要素の「連関」を再「構成」することを課題にすることになります。

『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「歴史に関心を持った人々」に、二つのタイプがあることを指摘しています。

「一つはたとえば日本は今迄多数の研究者が永年研究をやっているのだから、もう残された問題はないだろうとする人々であり、他の一つは新しい歴史学樹立の必要を痛感し、その立場として民衆の立場ともいうべきものの必要を痛感して勉強をはじめ、あるいは成果の啓蒙運動をやってみて、数年にして所期の成果がえられないとして焦っている人たちである。一方は過去の業績を無条件に完全と認めているのであり、他方はそれを否定しながらも過去の業績の読み直しをやりさえすればそれで新しいものができると過信しているのである。両者ともに新しい・根底からやり直すような歴史研究上の問題を認めないことでは共通したものを持っている」。

「部落学」は、歴史学を過剰に評価するあまり、この二つのタイプに属する歴史学者や研究者からの果てし無き無益な論争に巻き込まれることは、極力さけなければなりません。部落史の分野においては、二つのタイプに共通していることがらとして、「賤民史観」の受容があげられます。

沖浦は、戦後の部落史研究の口火は、京都の部落問題研究所の創立ではじまったとします。その最初の成果は、北山茂夫・林屋辰三郎・奈良本辰也・藤谷俊雄・井上清の5人の研究者によって執筆された『部落の歴史と解放運動』(1954年)であったと言います。更に、上田正昭・原田伴彦・藤谷俊雄・中西義雄の4人によって、『新版・部落の歴史と解放運動』(1965年)が出版され、「賤民史に関する歴史認識の枠組みが設定され」たといます。戦後の部落史研究の基本的枠組みとして、「賤民史観」が確定されていったのです。それは、今日に至るまで影響を持ち続け、「新しい・根底からやり直すような」(「賤民史観」を見直すような)歴史研究上の問題を認めることはしません。他ならぬ沖浦自身も、「賤民史観」の支持者でした。

沖浦は、「特に90年代に入ってからさまざまの視点から多様な部落史像が語られるようになりました。活発な論争が展開されること自体は、歴史研究の水準を高める必須の契機なのだが、それにしても先学たちが苦心して蓄積してきたこれまでの研究成果(「賤民史観」/筆者注)を十分に咀嚼しない粗雑な仕事が一部にみられたことも、残念ながら否定できない。」といいます。沖浦も、「賤民史観」そのものを批判・検証して手放すことはなさそうです。

岩波書店の近代思想体系の『差別の諸相』という、幕末から明治23年までの豊富な歴史を紹介している書物の編集者・ひろたまさきは、巻末の《日本近代の差別構造》の中で、「賤民史観」支持を明確に打ち出しています。近世・近代を通じて、「賤民史観」でまとめています。近世の「士農工商穢多非人」に代えて、近代の「天皇・皇族・華族・士族・平民」「新平民」「アイヌ」「沖縄人」という図式を採用しています。

しかし、古島敏雄著『地方史研究法』(初版1955年)は、「賤民史観」を見直すためのさまざまな示唆に富んでいます。古島は、文献のみによる民衆の歴史や生活史を明らかにするためには、「民俗学的な聞きとりと文献の利用は平行しなければならない」と指摘しています。特に明治4年太政官布告以前の歴史資料の取扱方と研究の方向性を示唆している点では、『地方史研究法』は、部落学構築にとって非常に有意味な歴史学の解説書です。

「部落学」は、史料や論文の単なる「読み直し」ではなく、差別的な歴史思想である「賤民史観」という汚れに染みた歴史学者の手から、関連する歴史資料を取り戻し、「洗い直し」の作業をしていくことになります。「賤民史観」という差別思想を洗い流すことによって、歴史資料の持っている意味を、歴史資料をして語らしめるという作業を通して、「部落学」の中に取り込んでいく必要があります。

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部落学と宗教学

【第2章】部落学固有の研究方法
【第1節】部落学固有の研究方法
【第3項】部落学と宗教学

『部落学』構築のためには、民俗学・歴史学の他に、宗教学・社会学の手助けが必要です。

宗教学は、ある宗派・教派の固有の学としての「教学」ではなく、宗教一般についての科学的な研究を指します。神道・仏教・キリスト教についての、できる限り、客観的な研究成果に立脚して、「穢多と神道」・「穢多と仏教」・「穢多とキリシタン」の関係について考察する必要があります。

東日本の「穢多」については、「穢多と神道(白山神社)」の問題を避けて通ることはできませんし、西日本の「穢多」については、「穢多と仏教(浄土真宗)」の問題を避けて通ることはできません。この場合の神道にしても仏教にしても、近世幕藩体制下の非常民としての、近世警察としての「穢多」の精神的支柱を形成するものです。
江戸時代300年間を通じて、穢多が穢多であり続けたのは、穢多自ら、穢多の職務に主体的に関わったからであると思われます。望みもしない職務を上から押しつけられて、300年間に渡って黙々と服従してきた・・・というのは想像することすらできません。300年間も穢多であり続けたのは、彼らが、自分たちの非常民としての職務に自信と誇りを持ち続けてきた結果に他なりません。

従来、「被差別部落は西日本に多く、東日本にはほとんど存在しなかった」ということが言われてきましたが、「部落」の近世的前身である「穢多村」は、決して、西日本に多くて、東日本に少ないというような形で偏在していたわけではありませんでした。非常民としての、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」は、身分名や役職名の違いこそあれ、日本列島の北から南まで、押し並べて存在していたのです。

※明治以降の旧穢多に対する、「賤民史観」の間違った見解によると、沖縄や北海道には穢多は存在していなかったということになります。しかし、非常民としての「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました。江戸幕府から遠く離れた地、江戸幕府にとっての辺境の地であればあるほど、軍事・警察上の防衛のために、「非常民」なる存在が必要でした。

筆者は、キリシタン弾圧が行われた地には、すべて、キリシタンを取り締まる宗教警察たる「穢多」という「非常民」が存在していたと思います。「穢多」たちは、キリシタン弾圧に大きく関わっていました。幕府と諸藩は、「穢多」に宗教警察的機能を与え、年間行事であった宗門改めでは徹底できないキリシタン禁圧政策を、日本全国の穢多によって、抜き打ち的に戸別調査をさせて、幕府のキリシタン禁圧政策をより徹底したものにしようとしました。

浄土真宗は、宗教教団全体で、このキリシタン禁圧政策に参加していきました。多くの宗教教団が、この世の権力の支配機構になぞらえて、その組織を形成していきます。宗教教団のトップは、自らを「天皇」や「将軍」と同じ権威を持っているものとして自己主張します。しかし、浄土真宗の組織は、極めて例外的な組織を形成します。

浄土真宗は、その教団組織を「軍事」組織ではなく「警察」組織に擬して構成していくのです。浄土真宗門徒は、「歴代本願寺法主」を「弥陀の御代官」として観念していたと言われます。そして、全国に散在する「末寺・寺庵の僧侶」は「如来の与力」として、門徒に受け止められていました。「代官」・「与力」の次には、「同心」・「目明かし」が続くと想定するのは決して間違いではないでしょう。「穢多寺」の門徒である「穢多」たちは、その「同心」・「目明し」・「棒突」を指すことになります。

浄土真宗が自らの教団を非常民としての警察機構を擬して構成するのは、幕藩体制下における浄土真宗の存在理由を宣言したものであると解されます。日本から邪宗門であるキリシタンを排除する、そのために、浄土真宗全体がそのことに関与する、「歴代本願寺法主」が「弥陀の御代官」として門徒に認識されていったというのは、浄土真宗の宗教警察としての自負心のなせるわざではなかったかと思われます。

左右田昌幸の《真宗への歴史的視線へのゆくえ》(『脱常識の部落問題』)には、ショッキングな言葉で綴られた見出しが踊っています。

「本願寺=部落寺院総本山」の可能性

穢多が穢多であり続けるための精神的な支え、それは、真宗門徒としての信仰と倫理でした。広島大学名誉教授の有元正雄は、その著『真宗の宗教社会史』の中で、近世幕藩体制下での真宗門徒の生活と生き方、その信仰と倫理を解明しています。

筆者は、宗教社会史の中から、「穢多」の生き方を見直す必要を感じています。

「部落学」構築に際して、私が依拠する宗教学は、岸本英夫の『宗教学』です。岸本は、神道が、キリスト教に並ぶ宗教であることを立証します。「神道は宗教にあらず」を否定、神道の宗教性を根源的に主張します。「神道は宗教にあらず」という説の根拠として、「神道には教典がない」という理由があげられることがありますが、岸本は、神道の教典と教理をくっきりと描いてみせます。また、『宗教学』の中に、神道とキリスト教が如何に対立関係にあったか、なぜ、幕藩体制下で禁圧されるに至ったのか、その理由を見いだすこともできます。

この章では、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の既存の研究成果を「部落学」の中に吸収していきます。


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※「非常民としての「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という筆者の主張に、反発を感じられた方がかなりおられるようです。沖縄や北海道には被差別部落は存在しなかった・・・という説は、網野善彦も主張しています。この説は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる人々にとって、なかば常識化しています。筆者は、その常識を否定するかのように、「非常民としての「穢多」なる存在は・・・沖縄にも北海道にも存在していました」とあえて既述したのは、『部落学序説』の研究方法上当然の帰結だったからです。「穢多」は、幕府のキリシタン禁教政策のための「宗教警察」であったと認識する筆者にとって、近世幕藩体制下の「日本」の全土(沖縄から北海道まで)キリシタン弾圧が実施されたと思っています。幕府は、沖縄から北海道まで、全国津々浦々からキリシタンを排除したのであって、決して、キリシタンの「逃れの場」を許しませんでした。沖縄も北海道も例外ではなかったと確信したからです。それと、もうひとつの理由としては、沖縄や北海道には被差別部落は存在しなかった・・・という説を主張する学者・研究者の論理のあまさがあります。論争のための適当な素材を見つけましたので紹介します。
東北芸術工科大学教授・赤坂憲雄の論文(http://www.jinken-net.com/old/hiroba/2004/index.html)から、「東北から見た部落差別(上)(その2)」の「折口信夫の沖縄体験から」を全文再録します。

●それでは、被差別部落が存在しない地域にあげられる、沖縄の島々はどうだろうか。ここでは、民俗学者の折口信夫が沖縄をはじめて訪ねたときの「沖縄採訪手帖」(一九二一)を、とりあえずの手がかりとする。●そこには、「琉球には、特殊部落とてはない。唯、念仏者を特殊扱ひするだけで、皮屋も、屠児も嫌はない」(※)と見える。大阪の西成郡木津村の生まれであり、厳しい差別の実態を熟知していた折口の眼には、それがたぶん、たいへん珍しく感じられたのである。じつに簡潔な記述ではあるが、折口は三つの重要な指摘を行なっている。すなわち、沖縄には被差別部落が存在しないこと、「皮屋」も「屠児」も忌避されないこと、ただ念仏者(ニンブチャー・チョンダラー)だけが特殊な扱いを受けること、である。●このチョンダラーは、葬儀にさいして念仏を唱え、人形あやつりの芸能を生業とすることで知られた、少なからず賤視を蒙ることのあった人々である。いまはすっかり姿を消した。かれらは中世あたりに、ヤマトから沖縄に渡った念仏系の芸能民の子孫だ、と想像されている。チョンダラーには「京太郎」という漢字が当てられるが、そこにも、それが沖縄に根生いの人々ではないことが暗示されているはずだ。●沖縄の島々には、たしかに、ヤマト的な意味合いでの被差別部落が存在しなかった。折口は書いた、琉球では「皮屋も、屠児も嫌はない」と。ブタの屠畜にしたがう人々も、その皮を剥ぐ人々も、ともに差別の対象にはならなかったのである。かつて、沖縄では、正月の儀礼食として欠かせなかったのがブタ肉であることを、想起しておきたい。●むろん、東北や沖縄の島々が差別のないユートピアだった、などと言いたいわけではない。ただ、少なくとも、東北には被差別部落が少なく、中世以前の東北に、身分や職業にかかわる差別の制度が存在しなかったことは否定できない。沖縄もまた、そうした差別の制度を内発的に生んだ形跡が見られない。その社会的な背景はたぶん、東北や沖縄が生産力の低い遅れた後進地域であったからだ、といった意識せざる「ヤマト中心史観」によっては説明しがたい。それでは、ほかに、いかなる了解の作法がありうるのか。それが次の問いとなる。●※ 引用中の「特殊部落」「屠児」は不適切な表現ですが、原文どおり掲載しました。

※赤坂憲雄が沖縄には「被差別部落」は存在しなかったと主張する根拠のひとつに、民俗学者・折口信夫の『沖縄採訪手帳』があります。赤坂は、民俗学者・折口信夫が「沖縄には被差別部落は存在しない」と主張していたと解釈します。しかし、筆者の目からみると、折口の「琉球には、特殊部落とてはない」という文章と、赤坂の「沖縄には被差別部落は存在しない」という解釈は、同定することはできません。折口が「特殊部落」をターゲットにしているのに反して、赤坂は「被差別部落」をターゲットにしているからです。概念の時代的変遷(外延の拡大と内包の変節)が無視されています。しかし、両者に共通しているのは、折口も赤坂も、近世及び明治初頭についての言及ではなく、明治中期以降の「特殊部落」(戦前)・「被差別部落」(戦後)の既述であるということです。一方、筆者の「非常民の「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という既述は、近世及び明治初頭についての言及です。筆者の「非常民」概念は、「特殊部落」・「被差別部落」概念の批判・検証の上に成立する用語です。筆者は、その違いをこの『部落学序説』で説いてきたつもりですが、なかには、『部落学序説』の「非常民」理解を無視して、『部落学序説』の結論と、一般説・通説の結論を比較して、『部落学序説』の誤謬を指摘される方もおられます。「部落解放同盟の方」の、『部落学序説』の論証の過程ではなく、結論だけをもとめられ、それを評価の対象にしておられるようですが、筆者の『部落学序説』は、読者の皆様に、「論証の過程」を提示しているのであって、新しい「史観」や「運動理論」、「思想」を提示しているわけではありません。沖縄には、折口が大阪で見た「皮屋」・「屠児」の「厳しい差別の実態」を物語る「特殊部落」も「特殊部落民」も存在していなかったかもしれませんが、沖縄の無数の島々を軍事・警察の驚異から守る「非常民」は存在していたのです。中国や日本に貢ぎ物をして、沖縄の平和のために外交努力をするとともに、自分たちの島は自分たちで守るために、すべての島に「非常民」を配置していました。本州・九州・四国と名称・組織・配置がことなるだけです。琉球の古文書の中には、その存在を確認できるものもあります。琉球・沖縄を日本の「植民地」とみなす発想からは、琉球・沖縄が独自の「非常民」システムを持っていたことは容認したくないことなのかもしれませんが、筆者には、逆に、そのような発想の方が理解しがたいのです。筆者の「非常民の「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という主張に変更はありません(このテーマで1冊の本が書けそうです)。

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村と百姓と穢多

tori02第2章】部落学固有の研究方法
【第2節】村のシステム
【第1項】村と百姓と穢多



この『部落学序説』は、ウエブログ上で直接書き下ろしています。時々、深夜にタイピングすることになりますが、眠気と闘いながらタイピングした原稿は、支離滅裂・・・と感じるような部分が少なくありません。後日、該当部分を書き直したいと思っていますが、とりあえず、先にすすめます。

筆者は、「部落学」を構築するときの視角・視点・視座は「百姓」であることは何度も述べてきたとおりですが、「百姓」の多くは「農人」です。「農人」の在所は「農村」ということになります。「農人」と「穢多」の関係を検証していて思うのですが、近世幕藩体制下において、「農人」と「穢多」の関係はそれほど強くありません。

「農人」は、「穢多」となんらかの接点がありますが、直接、なんらかの交流があるわけではありません。もしかしたら、「農人」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と、直接、関係を持つことなく、その一生を終わることになるかも知れません。

火付・強盗・殺人等の重大な犯罪を犯した場合や、百姓一揆に参加して、鋤や鍬を振りかざして、藩権力である武士や穢多と渡り合った場合をのぞけば、「農人」にとって、近世警察官である「穢多」とは何の関係も持たずにその時が過ぎて行くことになります。

「農人」の住む世界は「常」の世界です。「農人」は、この「常」の世界にとどまる限り、近世警察官たる「穢多」との関係はありません。しかし、「常」の世界からはみ出して「非常」の世界に迷いこむと、好むと好まざるとに関わらず、近世警察官たる「穢多」と遭遇することになります。犯罪の捜査・逮捕・取調・裁判・判決・お仕置きのさまざまな分野で「穢多」と関わらざるを得なくなります。

「農人」が犯した罪が無過失で正当防衛の範疇にある場合は、「穢多」は同情を持って「農人」に接してくれるかもしれません。しかし、「極悪人」とラベリングされるような重大な犯罪を犯した「農人」については、近世警察官による厳しい対応が予想されます。幕藩体制下の取調方法に、「拷問」という制度がありますが、穢多によって、直接、「拷問」にさらされることになります。一端、無実の罪で、この「拷問」にさらされた「農人」は、そのときの屈辱と反感を生涯持ち続けることになるでしょう。

長州藩の近世における行政単位の最小単位は、「村」です。

漁村の場合は、「浦」と呼ばれていますが、「浦」は同名の「村」と区別されるときに使用されていますので、「浦」は「村」の一種と考えて構わないと思います。

近世の歴史資料や伝承を考察していくとき、この近世の村をどのように正確に把握することができるか、ということが、とても大切になってきます。

筆者の頭の中にある村を検証してみます。

ひとつは、山口県に棲息するようになって二十数年、妻と一緒に繰り返しドライブした「村」に、山口県熊毛郡熊毛町八代というところがあります。「八代」(やしろ)という村は、中国地方で唯一の鶴の飛来地として知られている村です。最近は、飛来する鶴の数が激減して一桁にまで減ってきていますが、私と妻は、春夏秋冬を問わず、この村を尋ねます。

春・夏・秋・冬を通じて、八代の村は、日本古来の村が持っていたと思われる様々な表情をみせてくれます。村の西の峠から、盆地上の八代の村を見渡すと、夕日に村全体が輝いてとてもきれいで、八代の村をみているだけで、こころが和みます。

八代出身の、ある高校教師は、「八代は、山口県のチベットと言われている」と言って、私達夫婦を驚かせました。八代に住む若い人々は、この「チベット」から出て行って、都会で生活をしたいそうです。この八代は、例の『周防國図』という地図を見ると、長州藩の重要な街道からそれたところ、どちらかいうと、いくつかの街道に取り囲まれた周防国のひとつの「ふところ」というような場所にあります。

犯罪者が逃げ込む場所としては、最も条件の悪い場所にあります。

八代に行くと、夕暮れ時は、いまでも、イノシシの親子連れに遭遇することがあります。道に迷って山奥に入っていくと熊にも遭遇します。畑の畦道で、狸の親子連れを見ることも珍しくありません。どの道をたどっても、やがては、穢多や茶筅が配置されている街道に出てしまいます。犯罪者の逃避行のルートとしては、まったく意味をなさない場所に八代の村はあります。こういう村には、長州藩は、穢多や茶筅を配置しませんでした。

長州藩における穢多の在所は、治安維持のために重要な拠点に配置されていたのです。

ですから、現代の住人によって、「山口県のチベット」と言われるような場所には、今も昔も「被差別部落」は存在しないのです。八代の「農人」は、その村で生活する限り、その生涯の間、「穢多・茶筅」なる存在に一度も遭遇しなかったとも考えられます。

この場合は、「百姓」と「穢多」の関係は非常に疎遠なものになります。

それでは、八代の村は、治安維持をどのように図っていたのかといいますと、庄屋をはじめとする村役人によって、その職務が遂行されていました。いまでも、長州藩の村の庄屋をしていた家の蔵には、捕り物道具(十手やさすまた等の捕亡具)が保存されていることが珍しくありません。庄屋の手にあまる懸案については、代官所に庄屋を通じて連絡されましたから、百姓一揆も起こさず、近世の百姓道をまっとうしていけば、「穢多・茶筅」との接点はほとんどなくなります。

八代から山陽道へ一歩でも出ることになると、必ず、穢多の在所を通ることになります。そして、そこで、近世警察官の検問を受けることになります。

八代の村の生活の中心は、神道だけでなく、仏教も大きな影響を持っています。

柳田国男の民俗学は、神道を中心とした村ですが、長州藩の村々を見てみますと、民俗学が想定する「神道を中心とした村」というのはなかなか見つけることが難しい状況にあります。長州藩の、山口県のいずこの村にも各派の寺があって、住民のこころの拠り所となっています。

私達が、一般的に使用している「村」という言葉は、多重定義の用語です。

「村」という言葉で、別な存在を指して用いられるのです。「村」には、「自然村」と「行政村」とがあります。農事評論家の原田津が《"むら"は"むら"である-農村の論理・都市の論理》で、自然村とは、「暮らし万般のあれこれでひとつのかたまりになって動いている村」のことで、「地方行政単位としての村」ではないといいます。村は、二重定義されているのです。

村の人は、日常生活の中で、この二つの村を使い分けているのですが、『にっぽん部落』の著者・きだみのるは、「東京の役人や知識人はこのことを忘れ、外国を含めた東京の知識で、部落(自然村のこと)を律しようとして、過誤に陥るのだ」と警告しています。

部落差別の起源について、幕藩体制が、百姓を生かさず殺さずの状態で搾取するために、百姓身分の下に、百姓よりも、あわれで、みじめで、気の毒な被差別民としての穢多・非人を置いたのだ・・・という、一見、もっともらしい説明がなされてきましたが、長州藩の村の中には、穢多・非人が設置されていない村というのが相当数あります。この場合、どういう解釈が成立するのでしょうか。

私は、「愚民論」(支配者が被支配者を愚弄する見方)から出てきたもので、長州藩の時代、一度たりとも百姓は、そのようなことで満足したことはないと思います。藩側の理不尽な要求に対しては、百姓は、一揆を持って断固抗議してきたというのが本当です。近世幕藩体制下の百姓は、自分たちの生活の向上は、自分たちの知識と技術で克服していったのであって、「自分たちよりも下の暮らしをしている人を見て自分をなぐさめていた・・・」というような姑息な人は極めて例外に過ぎません。いないとは言いませんが、「百姓」を馬鹿にするのもほどがあります。

農事評論家の原田津は、先の論文の中で、このようなことを語っています。

「岐阜県の山村での話だが、先生の舎宅を村営で建て、その舎宅を村内の各地区(つまり、むら)の一つ一つに散在させてある。学校の先生はむらの先生であることを求められている。教育権は国にあるのか国民にあるのかという議論が、裁判で争われもしているが、冷酒を囲んでのむらびとの座談で、国か国民かという抽象の論点は、たちまち、学校かむら(父兄)かという次元に引きずり下された。それが、私にはたいへん印象深い」。

二十五、六年前のことになりますが、岐阜県のある村で、ひと夏、教育実習を受けたことがあります。村にある、たったひとつの保育園で、小さな園児たちと一緒に過ごしました。その村は、岐阜県の白川というところで、教育実習にでかけていってみてはじめて、飛騨の白川ではなく美濃の白川であると知りました。

白川には、飛騨川の支流として三つの川、赤川・白川・黒川が流れていますが、川底の石の色でそのような川の名前がつけられています。

教育実習の期間中、私の宿白場所は、村で唯一の料亭の座敷・・・。

来る日も来る日も夕食は、刺身と酒。刺身でないときは、近くの川でとれた鮎や鱒の塩焼き。アルコールに弱い私は、数日間で辟易して、普通の食事にしてもらいましたが、その料亭のおかみさん、「余所の人に粗末なものを出しては申し訳がない」と言って、教育実習の間、ずっと刺身と酒を用意してくださいました。

園児の父兄の家を家庭訪問すると、どの家でも、原田がいう「冷酒」が出されました。

「お暑いでしょう。お冷やをどうぞ」と出されたものですから、私は一気に飲み干そうとしましたが、一口飲み込んだ瞬間、清酒だと分かりました。そのあとがたいへんでした。次の家を訪問すると、やはり、「お冷やをどうぞ」と出てくるのです。「もしかして、これって、お酒ですか」と尋ねると、「もちろんです。」という答え。「あの、私、飲めないのですが・・・」とお断りすると、「まあ、ご冗談を。前のうちでは、たいそう立派な飲みっぷりだったそうではありませんか」といいます。もじもじしていると、そのお母さん、急に眉をつりあげて、「前の家で飲めて、うちでは飲めないということなのですか」といいます。しかたがなく、私は、一気にコップの酒を水だと思ってのみほしました。それから、更に、4、5軒。最後の家は、駐在所のおまわりさんの家でした。「ああ、やっぱり飲まされましたか」と、うれしそうににこにこしておられました。この村に赴任するのはよそう。アル中になってしまう、私は、心の中で決心していました。

「飛騨の白川もいいが美濃の白川もいいところ・・・」と村の人々がいう白川でのひと夏、私は、いろいろな経験をさせられました。私が宿泊していた料亭の部屋の前は、白川が流れています。一晩中、せせらぎの音が、けたたましく聞こえます。「せせらぎ」というのは静かに聞こえるものだと思っていたら、私の耳には「ごうこう」という音に聞こえます。眠り浅いまま、朝はやく目を覚まして、私は、その白川の岸に下りてみました。すると、そこに猿が1匹いて、川の水で顔を洗っていました。私は、はじめてみる光景なので、その猿の仕種をじっとみていたのですが、またたくまに、村の人々の間にうわさが流れました。「今度きた保育園の見習い先生、朝、川で顔を洗っている猿をみて、朝のあいさつをしていたそうだ・・・」。村の人々にとって、余所者はめずらしいのか、何かにつけて、物笑いのタネにされているようでした。

ある日、隣村の古い映画館で、「トラック野郎」の岐阜県編の上映会があるというので、近所のこどもたちと一緒に歩いてでかけました。夜道を歩いていたとき、「シャーン、シャーン、シャーン、シャーン・・・」という不思議な、しかし、静かで、きれいな音が、近づいて遠ざかっていきました。「今の音、何なの?」と小学生たちに尋ねると、「ええ、先生、あの鳴き声知らないの?みんな、この先生、あれが何の鳴き声か知らないんだって」とみんなでくすくす笑うのです。女の子が、「あれは、雌きつねの鳴き声」といいます。「ええ、きつねって、こんこんとなくのではないの?」と聞き直すと、みんなどっと笑って、「本当にしらないんだあ」とからかいます。

ある時、川の淵にこどもたちを連れて泳ぎに行きました。私は、泳ぐことができないので、こどもたちがいつも泳いでいる、いちばん浅い淵に行きました。川で水遊びをしていると、川の向こう岸から、蛇が頭をあげて、こどもたちが泳いでいるこちらの岸へやってくるではありませんか。私は、こどもたちが蛇に噛まれてはたいへんであると思って、「あがれ、あがれ」と手振りを交えて、こどもたちを岸へあがらせました。同時に、私は、こちらにやってくる青大将めがけて、河原の石を投げ続けました。そして、ふと、不思議な違和感に包まれていることに気がついたのです。石を投げる手をとめてこどもたちの方をみると、こどもたちが、私の方を冷たい視線でにらみつけているのです。こどものひとりが口を開いて、「先生、なんで蛇に石をぶつけてるの。けがするじゃない」といいます。蛇の方をみると、岸にあがってきた青大将の頭から血が流れています。「この蛇は、ぼくたちの友達だよ。みんなが泳いでいると、いつも一緒に遊びに出てくるの。」、私は、しまったと思いましたが、あとのまつりでした。蛇は、頭にけがをしたまま、向こうの岸へと姿を消していきました。

私は、そのとき、予断とか偏見というのが、どういうものか、身を持って知らされました。「蛇は邪悪な生き物。人間にとって危害を与えるもの。」・・・、私の頭の中には、いつのまにかそういう予断や偏見ができあがってしまっていたのです。その結果、保育園のこどもたちの大切な「友達」に石をなげつけ怪我をさせてしまいました。「自分の中にある諸々の予断や偏見を取り除かなければ・・・」、そのときこころからそう思ったのです。

蛇に石を投げつけていたとき、3歳児の女の子が、私の足にしがみつきながら、「先生、殺しちゃだめ」と言っていた声をいまだに忘れることはできません。

明治初期、その村は、廃仏毀釈の流れの中で、神道中心の村になりました。

民俗学が想定していた、神道を中心にした村であると言えます。私がひと夏を過ごした、美濃の白川のある村のように、日本の社会の中には、寺を棄て、神道に戻った村もないわけではありませんが、ほとんどの村は、仏教がその村の精神文化の中心になっているのではないでしょうか。美濃・白川の近世の村の歴史資料には、「穢多、非人・・・村に差置かぬこと」という一文がありました。その村も、「穢多」とは直接関係のない村でした。

民俗学者・柳田国男の弟子、「東京に生まれて東京に育ち、三十近くなってからこのかた約二十年、郊外や海岸に住みなれていくぶん田園の風物に接しても、まだこういう農村の生活は初めてのことであり、殊にあたりに旧い知人が一人もなく、まったく土着の農家ばかりの中で暮らすようになった」という山川菊枝は、『わが住む村』という著書(岩波文庫)の中で、「お寺が今でも部落の信仰の中心」であるといいます。昭和十年代のその村は、まだ近世の伝承が残っているようで、一生をその部落で過ごしてきた老婦の「刀なんかさした人は見たことはなかったね・・・」と聞き取りをしています。山川は、武士と百姓は、「まるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていた」と記していますが、同じ「非常民」に属し、「武士」とその職務を同じくする「穢多」も、「百姓」に対しては、「まるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていた」のかもしれません。

私達は、明治以降の教育の中で、「賤民史観」を図式化した「士農工商穢多非人」という言葉を無批判的に受容させられてきましたが、その図式では「百姓(農工商)」と「穢多非人(非常民)」とは、いちばん近い階層に位置づけられます。しかし、近世幕藩体制下にあっては、「百姓(農工商)」と「穢多非人(非常民)」は、それほど近い存在ではありませんでした。「穢多非人(非常民)」なくしては、百姓独自で村の治安維持にあたった例も少なくありませんが、その場合、もうひとつの村の非常民(庄屋をはじめとする村方役人)の負担はかなりおおきなものがあったに違いないと思います。

近世幕藩体制下の村の中には、「常」の状態にあっては、「非常民(武士や穢多非人)」の姿が見えない村々が相当存在していたように思われます。村とその住人が、一生、「常」の状態の中を生き抜いていったとしたら、彼らは、「非常民(武士や穢多非人)」に遭遇することはほとんどなかったように思われます。

「部落学」は、穢多の在所だけでなく、穢多が住んでいない「村」の存在も視野に納めなければなりません。近世の村には、「穢多」の在所がある村と、「穢多」の在所がない村が、なぜ、存在しているのか、その問いに対して、明確な回答を用意しなければなりません。「穢多」身分は、「百姓」身分の上でもなければ下でもない、右でもなければ左でもないのです。「穢多」身分は、「百姓」身分の「非常の時」にのみ、「百姓」の前にその姿をあらわし、「非常の時」が過ぎ去ると「穢多」も村からその姿を消していった・・・、そのような存在であったと思われます。当時の「非常民」である「穢多」の職務は、「村」の「非常」を正常化して、元の「常」の状態に戻すことにあります。「百姓」にとって、「穢多」は、非常時のときにのみ姿をあらわす存在だったのです。

「穢多」は、「武士」にとっては限りなく近い存在でした。しかし、「穢多」は、「百姓」にとっては、限りなく遠い存在でした。「百姓」にとって、「武士」が遠い存在であるのと同じく、「穢多」も遠い存在でした。「百姓」にとって、「穢多」が近い存在になったとき、「百姓」は、「非常の時」における「加害者」・「被害者」、いずれの立場に立たされても、苦難と試練のときでした。「百姓」が避けたのは、「穢多」そのものではなく、「穢多」が近世幕藩体制下の警察としての職務のために駆り出される「非常時」そのものでした。「穢多」を忌み嫌ったのではなく、「穢多」が権力者として「百姓」の世界に入ってくる、火付・強盗・殺人・一揆という、社会病理そのものでした。

「賤民史観」は、それを「差別」と表現します。 恐ろしき誤解です。
   

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村境と芝境、気枯れと穢れ

【第2章】部落学固有の研究方法
【第2節】村のシステム
【第2項】
村境と芝境、気枯れと穢れ


近世幕藩体制下の「村」は、すべて、幕府や諸藩の管理下に置かれています。「村」は、大小を問わず、藩権力が及ぶ場所です。

長州藩では、近世警察の管轄区分を「芝」(しば)と呼びました。「芝」は、一つ以上の村から構成されていました。その「芝」は、近世警察である「穢多」の管轄区分で、その管轄下の個々の「村」には、「穢多」が駐在しているところもあれば、そうでないところもありました。しかし、一端、「非常」が発生しますと、その「芝」に属する「穢多」が駆けつけてくることになります。

「芝」と「芝」の境を「芝境」(しばざかい)といいますが、「芝境」は、多くの場合は、村と村の間の境界線上に設置されていますが、「芝境」は、藩の治安維持のために設定されていて、長州藩の萩本藩においても、枝藩・支藩においても、「芝境」からもれる地域や農村はどこもありません。

「芝」は、穢多の死牛馬処理の権利の及ぶ範囲・旦那場のことではないかと思われる方があるかもしれませんが、長州藩においても、近世初頭はそうでした。しかし、幕藩体制が安定し、その長期継続が予想されていく中で、近世警察もより安定した方向へと秩序づけられていきました。そして、死牛馬処理の権利の及ぶ範囲が、近世警察の管轄と同じものとみなされるようになり、結局、「芝」というのは、近世警察の管轄区分を指すようになっていったのです。どの村も、いずれかの「芝」に組み込まれていて、そこから漏れるということはありません。

その「芝」を意識していたのは、非常民である武士や穢多たちであって、百姓ではありませんでした。「百姓」は、芝と芝の境の「芝境」(しばざかい)より、村と村の境である「村境」(むらざかい)の方に関心がありました。百姓の日常生活に直結していたのは、「芝境」ではなく「村境」でした。もちろん、両者がダブル場合もありました。ある村とある村の境が、重要な街道に関係していたりすると、その「村境」は同時に「芝境」とみなされました。

近世の百姓は、その村の中で、どのように生きていたのでしょう。

前のページで取り上げた、山口県熊毛郡内の八代(やしろ)という村を例にとってみると、村の中心は農家の家々が立ち並んでいます。ちょうど、盆地のようなところですが、農家の家々の外には、「野良」という原っぱがあります。秋には、美しいススキの花が咲いています。「野良」を過ぎると、山に入ります。山には、冬の薪をとるための入会地があります。そして、更に山に深く入っていくと、峠があって、そこには、村の境をしめす、様々な指標が設けられています。小さなお堂であったり、道祖神であったり、道案内であったりします。そこまでくると、村から外に出ていくという雰囲気になります。

八代は、四方を山に囲まれて、住人が村から出ていくには、村の家を離れて、野良を通って、山に入り、さらに峠を通って、村の外へと出ていかなければなりません。近世の百姓は、自分の住んでいる村境から外へは出ていくことは許されなかったといわれます。村を棄てて出ていく百姓は、「走り百姓」と呼ばれました。

伊藤博文の父母は、先祖伝来の農地を棄てて他所(萩城下)に移り住んだ「走り百姓」でした。倒産して夜逃げをした百姓の息子である伊藤博文(当時は幼名・利助)は、百姓の世界を捨て、武士の世界に入っていきます。伊藤博文が最初についた仕事は、「毛利家保管地相州宮田」(神奈川県)の「警護」の仕事でした。

長州藩で、一般的に「警護」の仕事に携わったのは、「穢多」と言われていた人々でした。伊藤博文は、「武士」の世界の最下層の仕事からはじめて、その実力を認められていきます。そして、たどりついた武士の世界の身分は、中間でした。伊藤博文は、明治近代国家の創設に尽力し、45歳のとき初代内閣総理大臣となります。韓国併合条約締結の前の年、ハルビン駅で狙撃され死去します。一説に、明治の重臣の中で、伊藤博文は、その出身賤しきがために、国策遂行のための人身御供にされたのだという説もあります。伊藤博文は、明治天皇から拝領した軍服しかあとに残しませんでした。日本の近代国家設立のために全力を尽くして伊藤博文は、現代の汚職にどっぷりつかった政治家とは雲泥の差があります。

脱線はこれくらいにして、伊藤博文も、「走り百姓」の悲しさを経験しています。

村を捨て、村を出る・・・というのは、村人の衆人環視の中を事実上でていくわけですから、たいへんなことであったと思います。

近世の村では、その村人はどのような生活をしていたのでしょうか。

山口県周防大島町に、「民俗資料館」があります。私が知っている限りでは、最大の民俗資料館です。農民・漁民・大工等いろいろな道具や器具が豐富に陳列されています。その中に、何の説明もなく、そっと、目のつく場所に、近世警察の捕亡道具も展示されています。

cycle 民俗学で議論されていることに、ハレ・ケ・ケガレというのがあります。

『部落学』構築を視野に入れるとき、ハレ・ケ・ケガレを、私は次のように解釈します。まず、村の住人の日常生活を「ケ」と呼びます。「ケ」というのは、百姓が朝早く起きて、農作業に従事するときの、毎日繰り返される通常の営みのことを指して用います。

ところが、「ケ」は、農作業のマンネリ化の中で、「気」が失われてきます。「気」が失われることを「気が枯れる」、「気枯れ」(けがれ)と呼ぶことにします。「気枯れ」の状態をそのままにすると、農業の生産に著しく悪影響が出てきます。そこで、適当な時期に、この「気枯れ」を取り除いて、百姓の日常生活に意欲と活力を取り戻させる必要があります。

そのための装置が「ハレ」です。

稲作のはじめに行う春の祭り、稲作の終わりに行う秋の祭り、そして、盆と正月・・・、百姓の日常生活の中に、これらの祭りを取り込むことで、「晴れ」の時を創出するのです。「ハレ」の時を過ごすことで、百姓は、もう一度、「ケ」の世界、日常の世界に戻っていきます。

「気枯れ」は、時として、病気の形をとりますし、年をとってくると老衰という形をとって現れます。しかし、全快祝いとか、葬<祭>という「ハレ」(広義の意味でのハレ)を経由することで元の「ケ」、百姓の日常生活に戻っていきます。

村の生活は、ケ→ケガレ→ハレ→ケ→ケガレ→ハレ→ケ→ケガレ→ハレ・・・という形で、ひとつの循環を継続していくことになります。私は、この「ケ→ケガレ(気枯れ)→ハレ」という循環を、「常」の世界と呼びます。

この「常」の世界に身を置いている限り、近世警察である「非常民」(同心・目明し・穢多等)のお世話になることはありません。

しかし、ケガレ(気枯れ)が、ケガレ(穢れ)に発展する場合があります。

この場合のケガレ(穢れ)は、法的逸脱のことをさします。軽犯罪から重犯罪まで、いろいろなケガレ(穢れ)が存在します。火付・強盗・殺人等の重犯罪の場合は、本人とその家族だけでなく、被害者の家庭にも大きな悲惨と不幸をもたらします。ケガレ(穢れ)に陥ったものは、警察・司法の機関によって、捜査・逮捕・取調・裁判・判決を経て、刑罰が課せられていきます。これらの一連の営みを「キヨメ」といいます。この「キヨメ」を経由することで、村人は、もう一度、ケの世界に戻っていくことができるのです。この「ケ→ケガレ(穢れ)→キヨメ」という循環を、「非常」の世界と呼びます。

法的逸脱の程度によっては、キヨメの過程の中で、処刑され、命を持って償わされる場合もあります。近世幕藩体制下のキヨメは、藩にとっての貴重な人材を、できる限り温存しようとします。嵯峨天皇によって、設置された検非違使制度という警察制度は、政治犯に対する死刑廃止(第一次世界大戦後のワイマール憲法下の刑法を起草した法学者・ラートブルフが主張した法政策)を実施するなど法的逸脱をしたものに対する社会復帰の方法を内包する先進的なものでした。

筆者は、「ケガレ」という概念は、二重定義であると考えています。

「ケガレ」という言葉が、「常」の世界にあっては「気枯れ」を意味し、「非常」の世界にあっては「穢れ」を意味していると捉えます。民俗学でいう「気枯れ」と歴史学でいう「穢れ」は、同じ「ケガレ」の常・非常の区分に過ぎないのです。民俗学も歴史学もおのれの立場をゆずらず、ひとつの意味で、あるいは両者を恣意的に混同して用いることによって、いたずらに混乱を引き起こしているように思われるのです。

「穢れ」を前にして、「キヨメ」の営みをするもの、それが、「非常の民」・「非常民」なのです。近世幕藩体制下の穢多・非人は、キヨメの一端を担っているに過ぎないのです。穢多・非人は、「非常民」の一部であるのと同様に、「キヨメ」の一部なのです。

「キヨメ」は、それぞれの時代の警察機構の共通した所業であって、決して、「穢多」に固有の独占的な所業ではないのです。「賤民史観」は、この「キヨメ」を「穢多・非人」に集約してしまいますが、私は、間違いであると思います。「賤民史観」が差別的な歴史思想であることの証左であると思っています。「キヨメ」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の共通の属性なのです。
 

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「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克

【第2章】部落学固有の研究方法
【第3節】新けがれ論
【第1項】 「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克



「けがれ」という言葉が多義的に使用されてきたということは、多くの学者や研究者が指摘している通りです。

前節で、筆者は、「けがれ」を「気枯れ」と「穢れ」の二重定義として捉えました。近世幕藩体制下の「村」に住む「村人」に焦点をあてて、「村」・「村人」の「常」の時に発生する、百姓として生きる気力の喪失・生産性の低下を「気枯れ」と定義し、「村」・「村人」の「非常」の時に発生する法的逸脱を「穢れ」と定義しました。ここで、第3の命題をあげておきます。

命題3:「けがれ」は、二重定義された概念である。「けがれ」は、「常」の時には「気枯れ」として、「非常」の時には「穢れ」として定義される。

表題の新「けがれ」論という表現は、以上のことを指しています。

ここで、歴史学や民俗学で指摘されている「けがれ」論についてその概略を把握してみましょう。最初に取り上げるのは、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談集である『ケガレ 差別思想の深層』(解放出版社)です。

沖浦は、「ケガレとは何か」と自ら問いを立てたあと、その問いに答えます。

「ケガレは、古来からきわめて多義的に用いられてきました。今日では、民俗学をはじめ文化人類学・宗教学・社会思想史・比較文化論など、学問の各分野で論じられていますが、はっきりと定まった一つの観念体系として<ケガレ>を規定することはむずかしい・・・」。そして、ケガレの解釈を、①神話学、②文化人類学、③宗教学、④民俗学の個別科学研究の現時点での一般論を紹介しています。

沖浦は、部落差別に深く関わる「ケガレ」観は、「③宗教学」の「宗教的なケガレ」観であるといいます。「ケガレを不浄とみて、<清浄>を維持するためにそれを隔離し排除していこうとする思想」であるとして、具体的に、「日本の寺社の死穢(しえ)・産穢(さんえ)・血穢(けつえ)を中心とした禁忌に代表されるケガレ観」をとりあげています。

沖浦は、次いで、「④民俗学」の「ハレ・ケ・ケガレ」の三極循環論に触れ、「いささか安易な図式」として否定的な評価をしています。その理由として、「気枯