2005.09.01

部落学固有の研究対象

muro1【第1章】部落学固有の研究対象
【第1節】部落学固有の研究対象


部落学は、部落に関する学です。

歴史学が歴史に関する学であり、社会学が社会に関する学であり、民俗学が民俗に関する学であるのと同じように、部落学は部落に関する学です。

部落学の研究対象としての「部落」を表現するにはどのような言葉があるのでしょうか。近世の幕藩体制の中で、「穢多村」と言われていたところは、明治4年の太政官布告以降は、「旧穢多村」と呼ばれるようになりました。

近世の幕藩体制下の「穢多村」と近代の明治初期の「旧穢多村」を同定するには、批判・検証が必要になるとおもいますが、「穢多村」と「旧穢多村」の外延はほぼ共通している・・・、と推定しても差し支えないのではないかと思います。

その「旧穢多村」は、日本が「国辱」として認識していた、治外法権という不平等条約撤廃の実現の可能性が見えはじめた頃から、「旧穢多村」に代えて、「特殊部落」という言葉が使用されるようになりました。

しかし、「旧穢多」から「特殊部落」への移行は、単なる名称の変更ではありませんでした。行政用語としての「特殊部落」は、「一般部落」から差別的に区別された表現として使用され、その外延は、「旧穢多」だけでなく、「その他の人々」をも含有するものでした。「旧穢多村」から「特殊部落」への名称の変更は、単なる名称変更ではなく、その概念の外延について、急激な拡大をともなっていたのです。外延がかわると、当然内包も変わってきます。

「旧穢多村」から「特殊部落」への概念の変遷は、単なる名称変更ではなく、概念の外延と内包において、大幅な変節がともなっていたのです。「特殊部落」という言葉がささやかれはじめた頃、「旧穢多」の外延は、明治政府の統計調査によると、約80万人でした。しかし、水平社宣言の頃には、「特殊部落民」の外延は約300万人であると言われています。「特殊部落」という言葉は、その外延として、「旧穢多」に加えて、その約3倍の「その他の人々」を含んでいたのです。

水平社宣言は、「全国に散在する我が特殊部落民よ・・・」という言葉ではじまっています。水平社宣言を朗読してみれば分かるのですが、後半に入ると、突然、「我々がエタである・・・」という言葉がでてきます。

最近の水平社宣言の研究によると、水平社宣言は、2種類の資料(西光万吉と栃木重吉の2者による執筆)から構成されていると言われます([07-50])。つまり、「特殊部落」に関する部分と、「エタ」に関する部分。両者は、本来異なる資料に属するというのです。その2種類の資料が併合・編集され、最後に、今のような宣言になったというのです。つまり、水平社宣言は、「特殊部落民」としての宣言と、「エタ」としての宣言と、その両方が編集によって合体されたものだというのです。

水平社宣言が出された当時、「旧穢多」身分の人々の中には、「特殊部落民」に数えられることを拒否した人々が相当数いたことが記録されています。彼らは、自らが「旧穢多」であることを認めつつ、「その他の人々」(明治後期に、政治的・社会的・経済的にその時代から取り残された士族や平民たち)と、混同されて同一視されて、「特殊部落民」とされることに強い反発を感じていたものと思われます。

「特殊部落」・「特殊部落民」は、「旧穢多」や「その他の人々」が、自分たちの存在を表現するために、自分たちの中から紡ぎだした言葉・表現・概念ではありませんでした。「特殊部落」・「特殊部落民」は、行政用語として、当時の政治家や官僚、学者・教育者等によって、「旧穢多」と「その他の人々」に、政策上、押しつけられた用語だったのです。水平社運動に参加した人々の多くは、行政用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という概念を自分たちの存在を示す表現として採用していったのです。「一般部落」から区別された、非常に差別的色彩の強い「特殊部落」という言葉を、自分たちの存在を示すことばとして受容していたのです。

水平社宣言の限界と問題点は、水平社運動に参加した人々が、当時の行政によって押しつけられた「特殊部落」・「特殊部落民」という差別的な表現をもってしか、その存在を表現することができなかったというところにあります。もし、水平社運動に参加した人々が、行政用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という概念に代えて、彼らのレーゾン・デートル(存在理由)を表現する呼称を提案していたとしたら、今日に続く、「特殊部落」・「特殊部落民」をめぐる概念のあいまいさに翻弄されることはなかったでしょう。

「明治政府・地方行政は、「特殊部落」・「特殊部落民」と差別的な表現で我々を見るけれども、それは間違った見方である。我々の本質は、○○。我々は、我々自身を○○と呼ぶ・・・」と宣言しそれを明文化していさえすれば、今日のように、「特殊部落民」・「未解放部落民」・「被差別部落民」・「同和地区住民」・「被差別市民」等、その時々の施策や運動によって、「部落」・「部落民」概念の外延・内包について、恣意的な解釈を許容し、「部落差別問題」を解決不能と思われるような混乱状態を引き起こすことはなかったでしょう。

戦後、「特殊部落」という言葉は、「未解放部落」という言葉に言い換えられ、「未解放部落」もやがて「被差別部落」という言葉に置き換えられていきます。概念自体に差別性を含まない言葉へと、表現が変化していく訳ですが、「特殊部落」→「未解放部落」→「被差別部落」という概念の変遷は、単なる言葉の言い換えではありませんでした。

「特殊部落」が「未解放部落」へ、また「未解放部落」が「被差別部落」へ、概念の名目が変更されるだけでなく、「旧穢多村」から「特殊部落」へ概念の変遷が行われたときと同じように、概念の外延が拡大され、内包も変節されていったのです。

明治4年の太政官布告が出されて「穢多村」が「旧穢多村」になり、「旧穢多村」が「特殊部落」になり、「特殊部落」が「未解放部落」になり、「未解放部落」が「被差別部落」になっていく都度、「穢多村」を核として、その周辺に「その他の人々」が配置され、その外延が徐々に肥大化・拡大化させられた結果、現代の「被差別部落」は、明治初期の「旧穢多村」とは似ても似つかぬ存在になってしまったのです。

「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」、それらの概念がどのような意図で創設されていったのか、それを取り上げた文章に、京都大学名誉教授・井上清(唯物史観の歴史学者)の《「未解放部落」と「被差別部落」》([22-15])があります。

この、約二千字の短文は、どちらかというと、功なり名を遂げた歴史学者が、学生を前に語って聞かせる、ちょっぴり自慢話を含んだ裏話である「歴史学夜話」のような文章ではないかと思われます。夜話なら夜話らしく、面白くおかしくその話を楽しんだなら、それは酒の席での話であると、すぐ忘れてしまった方がいい。それをことさら取り上げるのは問題である・・・、というように考える人もいるかもしれません。しかし、逆に、夜話であり、裏話であるからこそ、それを井上清はほんとうのことを物語っていると考える人もいるかもしれません。ともかく、筆者が、余話として書かれた短文を、ひとつの重要な論文としてとりあげるとき、多くの人々から失笑をかうことになるかもしれません。しかし、ここでは、その愚をあえておかして、その歴史学夜話を取り上げることにしましょう。

井上は、「自分で自分を特殊部落と呼ぶことと、他人がその語を用いるのを糾弾することは、表面的には矛盾なしとはしない。けれども全国水平社は、これに代わるよび方をつくらなかった」と指摘します。この「特殊部落」という言葉は、戦後5年後の1950年頃まで継続して使われ続けたと言われます。

井上は、部落解放全国委員会書記長北原泰作との話し合いの中で、「未解放部落」という表現を勧め、北原は、その1年後、その著作の中で、「特殊部落」と書いたところは、すべて「未解放部落」に変更したといいます。

しかし、井上は、「未解放部落という語も適当でないと思うようになった」といいます。「未解放とは封建的身分差別から解放されていないという意味ですが(・・・中略・・・)現在の部落解放は、資本主義とその権力からの解放でなければならない。その意味では、日本のすべての労働者・農民も未解放である。それなのに未解放部落の解放運動といえば封建制からの解放運動になってしまう。これはいけないではないか」と考えたといいます。

井上は更に続けて、「そこで私は、何から解放されるのかという問題にはふれないで差別されている部落だから、少々どぎついけれども、そのものずばり「被差別部落」といえばよいではないか、と考えた」といいます。井上の提案は、すぐには一般的に受け入れられることはありませんでしたが、1966年頃から、「被差別部落」という表現が一般的に使われはじめたと言われます。井上は、「遺制とする見方から、現代資本主義とその権力の人民収奪と支配の一形態であるという見方への移行を意味している」といいます。

要するに、一人の歴史学者によって、「特殊部落」→「未解放部落」、「未解放部落」→「被差別部落」という概念の変遷が作り出されていったのです。

筆者は、「未解放」というのは、時間的概念であると思います。「被差別」というのは、空間的概念であると思います。唯物史観の歴史学者・井上の、あいつぐ、歴史的な基礎概念の見直し作業によってもたらされたものは、単なる名称変更という表面上の変更にとどまりませんでした。歴史学上の批判・検証をより徹底して、概念を明確化、「特殊部落」という概念を、縮小し、解消へと導くというのではなく、逆に、学者の思いつきでもって、時間的にも空間的にもその枠組と内容が拡大されていったのです。「部落」概念は、拡大されればされるほど、焦点がぼやけ、複雑さ矛盾を孕み、錯誤と混乱を自らの概念のうちに抱え込む結果に陥ってしまったのです。

それにしても、概念が「元穢多」から「未解放部落」へ、「特殊部落」から「被差別部落」へと、何度も変遷されていったにもかかわらず、「部落」の当事者からは自分たちを正しく表現する概念が一切提示されることがなかったのは、なぜなのでしょうか。

明治の女性解放運動家に、青踏社の平塚雷鳥がいます。彼は、このような言葉を残しています。「原始女性は太陽であった。真正の人であった。今は、女性は月である。他によって生き、他の光によって光る病人のような青白い顔の月である」。他者によって、権力者や政治家、学者や教育者によって定義づけられた「旧穢多村」、「特殊部落」、「未解放部落」、「被差別部落」といった言葉でしか、自分たちの存在を表現できないでいる、部落学の固有の研究対象である「部落」の人々は、まさしく、この「青白い顔の月」、「他によって生き、他の光によって光る病人のような」存在であり続けているのではないでしょうか。今日に至るまで・・・。

水平社宣言の中で、声高々に歌われている言葉、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。」は、穢多の末裔である、栃木重吉の言葉であると言われています([07-50])。栃木重吉こと、平野小剣([19-01])は、東北福島県信夫郡浜辺村、阿武隈川畔の出身です。彼の先祖は、幕藩体制下の獄屋に勤める穢多身分でした。すべての番人は、藩からの祿米で生活していました。非常のおりには、一身を投げうってその職務に忠実に、場合によっては、村人のためにいのちさえかけて闘ったといいます。彼は、父親が逝去した次の年、福島県庁の給仕になろうとしましたが、「新平民だから採用はできぬ」と云って世話人から履歴書をつき返されたといいます。そのとき、彼の母は、「涙を一瞼に溢らして」、「こんな村に生まれ、こんな母を持ったお前は因果なものだ。許してくれ・・・」と云った、「あの悲痛な言葉は今でも耳底に残っている。」といいます。

栃木重吉は云います、「いったいどうすれば、俺は生きて行けるだろう。新平民のこの俺は、深い人間生存の道について悩まずにはいられなかったのだ。そうだ、俺の生き行く道は一つあった。俺はそれを考えはじめた」。彼の母は、「世の中の人はみな鬼だ。呪われるものは呪い返せ、そして最後は母の側に来い。母は温かい手をひらいて待っている・・・」と言って世を去っていったといいます。水平社運動に、西光万吉、坂元清一郎、米田富、駒井喜作、桜田規矩三、南梅吉等と参加した彼は、「他動的または受動的に慈恵と憐憫によって解放を希うは我々先祖に対する「最大の罪過」である」といい、そして、「自動的に我が祖先の霊を慰めんがため共通なる目標に向かって」生きることを宣言します。栃木重吉は、「穢多」こそ、自分を語る言葉、昨日穢多であった、今日も穢多である、そして明日も穢多であり続ける、そのことによってだけ、穢多はほんとうの自由を、解放を、自分の手にすることができると宣言したのでしょう。栃木重吉の言葉には、平塚雷鳥と同じく、「他によって生き、他の光によって光る病人のような」存在であることを拒否し、穢多の始源に立ち戻って己の存在理由を確かめようとした、他を寄せつけないような比類まれなる「熱」と「光」が溢れています。

政治家や運動家、学者や教育者が作り出す、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」のような、熱くもなく冷たくもなく、生ぬるくて、吐き出したくなるような言葉ではなく、「穢多村」、そして、その住人として「穢多」という言葉が、復権され、本来の輝きを放つようになったときにだけ、部落差別のほんとうの姿が解明され、部落差別の完全解消が実現されるのではないかと思います。

明治の法学者のひとりは、「穢多を穢多視するは不当なり」([71-06])といいます。

「穢多は穢多にあらず・・・」。

主語として用いられている「穢多」(前者)と述語として用いられている「穢多」(後者)とはまったく異なる意味を持っています。ひとつは、被定義事項であり、もうひとつは定義事項です。「穢多」なる概念は二重定義なのです。「穢多」概念の二重定義、多重定義に気づいたひとはそう多くはありません。歴史学・社会学・民俗学などの個別科学研究がなしえなかったことに挑戦する、「穢多」という言葉を、明治以降の部落差別というるつぼから取り出して、本来の輝きを取り戻させる、それも、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の大きな課題なのかもしれません。「穢多」という言葉は、彼らが自分の言葉で自分を語ることができる、たったひとつの言葉だったからです。

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穢多村の原風景

【第1章】部落学固有の研究対象
【第2節】穢多村の原風景



近世の穢多村・・・

それは、どのような村なのでしょうか。

「被差別部落」出身ではない筆者にとっては、近世の幕藩体制下の穢多村を何とか想像してみようとするのですが、ほとんどこれといったイメージを思い浮かべることはできません。『部落学序説』を執筆するために集めた、歴史資料や伝承、昔話をひもといてみるのですが、近世穢多村の風景を描くとっかかりさえ手にすることはできませんでした。このブログの読者の中に、近世穢多村の伝承を継承し、近世穢多村が何であったのか、その原風景を知っている人がいたら、是非、教えていただきたいと思っています。

近世の穢多村がどのような村なのか、思いを馳せていたある日、小学校のとき、担任の教師が話していた、「水田・塩田・皮田」という言葉を思い出しました。水田を耕すのは、ただの百姓。塩田で塩をつくるのは、塩百姓。皮田で皮革を生産するのは皮百姓・・・。それ以上のことは思い出せないのですが、私が小・中・高で勉強していた頃住んでいたのは瀬戸内海に面した小さな町でした。そこは、江戸時代のときに、遠浅の海を干拓して、塩田が作られた場所で、日常、塩田で働く人々の姿をよく目にしていました。

「塩田で働く人々を昔、塩田百姓と呼んでいた・・・」と、その時耳にしたように思うのですが、まだ半世紀しかたっていないのに、私たちの生活や記憶から、その塩田や塩田百姓はその姿を消してしまっていました。小学校に上がる前までは、入浜式塩田でした。塩田百姓の人が、大きな熊手のようなもので、塩田の砂をならしていました。やがて、流下式塩田に変わり、昔の塩田の姿は、著しく様変わりしてしまいました。そして、高度経済成長の時代にはいると、今度は、真空式製塩法が採用され、潮を天火でほして塩を採るのではなく、油をどんどん炊いて、それでもって潮から塩を蒸留する方式へと変えられていきました。そして、中近東の戦争と石油の高騰で、真空式製塩法は経済的に採算がとれない状態になり、結局、塩田は姿を消し、そのあとには、工場や駐車場、商店街やボーリング場、JRの操車場へと姿を変えていきました。日本は、外国から、純度の高い岩塩を輸入するようになり、日本の製塩業は壊滅的打撃を受けました。

私は、小学校から帰ると、よく、塩田にいって、その岸壁から海を眺めたり、釣りをしたりしていました。夕暮れどきには、浜夕顔や月見草の花がきれいに咲いていました。潮風を思い切り吸うと、何かほっとするようなところがありました。ところが、そういう、ふるさとの光景が、高度経済成長にともなう、工業都市化、近代化によって、ほとんど姿を消してしまいました。岡山県倉敷市児島には、塩生(しおなす)という遠浅の海が延々と続く場所がありました。しかし、そのような、日本人の、瀬戸内に住む人々の原風景のひとつが姿を消していきました。「ふるさとにいてふるさとを失う」・・・、そんな淋しい思いを経験したのは、私ひとりではないでしょう。

塩田だけでなく、水田も同じです。自宅から小学校までの通学路、少し市街をはずれると、青々とした稲田が続く畑の中の一本道を小学校目指して歩いていったものです。水田と水田の間を流れる、ちいさなせせらぎや用水路は、学校の帰り際、小学生たちが、メダカをとったり、フナをとったりする遊び場でした。しかし、農業の近代化とかで、パラチオン製剤という農薬が撒かれた次の年には、メダカの姿はどこにもありませんでした。農薬で荒れた水田は、次第に、姿を消し、住宅地や工場へと変身していきました。塩田だけでなく、水田も、その原風景を失ってしまったのです。「故郷にいて故郷を失う」、その寂しさは耐え難いものです。

それでは、「皮田」は?というと、私が住んでいたところには、そういう場所はありませんでしたから、戦後の高度経済成長の中で、「皮田」がどういう運命をたどっていったのか、知るよしもありませんが、そうとう大きく変貌し、やはり、「故郷にいて、ふるさとを失う」、そういう経験をされたのではないかと思います。

「水田」や「塩田」については、私の中に、「原風景」が存在しますが、「皮田」については、何の記憶もありません。ただ、「水田」や「塩田」から類推・想像するのみです。

なぜ、「近世穢多村の原風景」を追求しようとするのかというと、それは、そういう作業をすることで、筆者の中にある先入観や偏見、意識・無意識を問わず、差別的社会の中で継承を余儀なくされているものの見方や考え方をできる限り排除するためです。意識する分だけ、筆者は、先入観や偏見から自由になることができると思っています。

あるとき、『部落解放史 熱と光を』(部落解放研究所編)の上・中・下3巻を読みました。『部落解放史 熱と光を上巻』(部落解放研究所編)の中に、「革製品となるまでの工程」として、全16工程が紹介されていました。その工程に着目しながら、「皮田」の立地条件を検証していて分かったのですが、「皮田」が存在・成立するためには、①豊富な川の水、②良質の塩、③上等の菜種油が必要なことがわかりました。

長州藩のいろいろな歴史地図をひもときながら、その条件にあう場所を想像してみますと、長州藩の「穢多村」の中で、最も大きな「穢多村」のひとつが、その条件を満たしていることが分かりました。その「穢多村」は、農村地帯の真っただ中にあって、春になると、「穢多村」周辺には、黄色の菜の花が咲き乱れたと思われます。江戸時代、菜種油は、貴重な資源でした。その「穢多村」は、島田川の上流にあり、「穢多村」の中を貫いて流れています。島田川を下ると、そこは、瀬戸内海の天然の遠浅、昔から、塩田(しおた)で塩を栽培していました。豊富な川の水、良質の塩、上等の菜種油が手に入るその「穢多村」は、長州藩最大の「穢多村」であり、幕藩体制下の「皮田」としての「穢多村」の立地条件を満たしていました。

そこで、ふと疑問に思ったのですが、島田川の上流に位置するその「穢多村」は、島田川の川の流れに原皮をつけます・・・。そして、近隣でとれた高品質の菜種油と、島田川の下流から舟で運ばれてきた瀬戸内の天然の塩を用いて、皮の加工をして革を作ります。百姓たちは、その島田川の、同じ水を飲料水にしたり、農業用水にしたりして、上流から「穢多村」を貫いて流れくる島田川の水を生活用水として使っていたのですが、百姓たちが、その水を問題にしたことは一度もないのです。「穢多村」から流れ出る「穢れた」水・・・、それを差し止めるために百姓一揆が起きたという事例はひとつもありません。そのとき、もしかしたら、江戸時代の百姓の穢れ観と、現代社会に住む私たちの穢れ観とはかなり違いがあるのではないかと思わされました。

『部落学』の研究対象である「部落」民でないものが、戦後の時代を通り過ぎ、戦前の昭和の時代、そしてもっと前の大正、明治の時代を通って、近世「穢多村の原風景」を手にすることができるというのは、本当に絶望的な試みです。しかし、どんなに時代がかわっても、なんらかの形で、その昔の原風景を伝えるものが残っているはず・・・。どんなにちいさな断片でもそれを寄せ集めて再構成することで、近世「穢多村の原風景」を復元することができるのではないかと思いました。

そんな思いをもって、史料を漁っていたとき、山口県立文書館の研究員・北川健の書いた論文の中に、長州藩・近世穢多村の原風景のような、山口県北の被差別部落に伝わる伝承を目にしました。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


わずか8行の短い伝承ですが、北川は、近世、幕藩体制下での「穢多村の伝承」であるといいます。この伝承は、今日まで、近世穢多村の「景観と態様」、その「典型」を伝えているというのです。私は、この伝承の中に伝えられている「穢多村」の姿が、近世穢多村の原風景に一番近いのではないかと思いました。この伝承を精読し、分析していけば、江戸時代の穢多村のほんとうの姿を自分の目で見ることができるのではないかと思わされました。「水田」・「塩田」に続いて、「皮田」に親近感を覚えた瞬間でした。

当時、山口県立文書館の研究員であった北川健は、この8行詩を、《山口県の文芸の中の部落の歴史》と題した講演の中でも触れておられますが、この8行詩は、他の歴史学者や研究者、また民俗学者やその研究者の注目をひくところとはなっていません。私は、かえってそのことが幸いしていると思われます。この伝承は、差別的な歴史観や歴史解釈のケガレに染まっていない、純粋無垢な形で存在し続けている希有な伝承であると思わされました。

北川がいう、「近世被差別部落の景観と態様」を伝える、「典型」的な伝承は、それを正当に解釈してくれる、解釈者を求めていると、思わされました。この8行詩は、近世穢多村の住人が、住人が帰属する「穢多村」と「穢多」について歌いあげた歌です。

「部落学」を指向するものは、なんらかの形で、はるかに過ぎ去ってしまった遠き時代の、近世「穢多村」の原風景を己の中に復元しなければなりません。人は誰でも、何も描かれていない真っ白なキャンパスのような心や精神を持つことはできません。生まれてから現在まで、様々な言葉や像をこころに刻みながら生きています。自分で刻み込む場合もありますし、また自分の意志とは関係なく、外からの力で、教育や学習によって、刻み込まれる場合もあります。「真っ白なキャンパス」というようなものは、ありもしない幻想以外の何ものでもないのです。だから、できる限り、自分の心や精神が「真っ白なキャンパス」に近づくことができるよう、研究者が研究対象に対して抱く「原風景」を明らかにし、言葉化する必要があるのです。

「部落学」は、決して、学者や研究者が、己の中に無意識にもっている被差別部落に対する「原風景」を絶対化し、それを、賤民史観という枠組みの中で、みじめで、あわれで、気の毒な面だけを強調して描いてみせるような独善的な研究であってはならないと思います。「部落学」は、差別意識を、史料や伝承の中に読み込むのではなく、できる限り予断と偏見を排除して、仮説的に設定した「原風景」を検証しながら、歴史的にほんとうの「原風景」にたどり着くという営みでなければなりません。

近世穢多村の「景観と態様」を伝える8行詩の形をとった伝承・・・。この伝承を、どう読み取るか。
それは、「部落学」構築が可能かどうかの試金石になります。

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穢多の実像

【第1章】部落学固有の研究対象
【第3節】穢多の実像



「穢多」・・・、この言葉を筆者が何のためらいもなく使用していることに違和感を覚えておられる方がいるかもしれません。

「穢多」という言葉は、「差別語」として、差別・被差別の側から「使用してはならない言葉」として認定されて久しく時が経つからです。ほとんど誰も使用しなくなった言葉を、筆者は、普通に使用しています。筆者は、この言葉でしか、『部落学序説』の研究対象である「部落」という概念を把握することはできないと考えるからです。

「旧穢多」や「新平民」ならまだしも、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」という言葉をもってしては、明治4年の太政官布告が対象とした人々の本質を把握することができないからです。

「穢多「という言葉が差別語として扱われるのは、「穢多「という言葉を「穢れ多し」と読むからでありましょう。しかし、「穢れ多し」という読みは、「穢多」という言葉に対する正しい読みなのでしょうか。

近世史料や文献をひもといていくと、「穢多」という言葉に関して、3種類の命題を抽出することができます。

(1)「穢多は穢多なり」
(2)「穢多は穢多にあらず」
(3)「女は穢多なり」

上記(1)~(3)の命題の中で、「穢多」という言葉は、主語と述語の両方で使用されています。「述語」としての「穢多」の主語は「穢多」だけでなく、「女」の場合もあります。この場合の「女」は、「穢多」出身の女性ではなく、一般の女性を指しています。

筆者がこの『部落学序説』で、研究対象としてとりあげるのは、(1)と(2)と②の主語としての「穢多」のみです。筆者は、「穢多」という言葉を、『部落学序説』の固有の研究対象である「部落」の起源を指す言葉として受け止めています。

江戸後期から明治前期の国学者である岡本保孝は、このように記しています。「ソモソモ穢多ト書クハ、仮字ナリ。・・・穢多ト云ウ仮字ノ字面ニスガリタルヨリノコトナラン。・・・穢ト書クニヨリ汚穢ノ義ニトリナシ、ケガレルコト多シトオモウナルベシ。笑ウニタエタリ」

国学者・岡本は、「エタ」という言葉は、本来、別の漢語表現であったが、それがいつのまにか忘却されて、「仮字」として「穢多」という漢語表現が用いられるようになったというのです。そのために、「穢」という漢字が、「汚穢」の意味にとられるようになった、今日でいう差別語になったことを示唆しています。岡本は、「エタを穢多というは、笑止千万、ちゃんちゃらおかしい」と指摘しているわけです。

それでは、「エタ」という言葉に割り当てられた最初の言葉は、何なのでしょう。国学者・岡本は、残念ながら、「エタのタの詞未だ、詳にせず」と示唆に富んだ言葉を残して、「もとよりエタは雅言にあらねば捨ておくべし」として、「エタ」の語源を探る考察を中断してしまいます。

明治以降の歴史学者は、幕末から明治初期の国学者のこの研究をほとんど誰も省みないのです。そして、国学者・岡本が、「笑ウニタエタリ」と表現した、「穢れ多し」という言葉を採用していくわけです。

江戸時代三百年間穢多であり続け、明治以降も穢多の末裔であった人々も、「エタ」を「穢多」として受け止め、この「穢れ多し」という意味内容も持つ、自分たちの先祖を指す言葉を忌み嫌うようになります。「穢多」という言葉に、差別と侮辱感を感じるようになってしまいます。

私は、この「エタ」という概念を定義することを目標に、歴史資料や論文を漁ってきました。一般的に、定義というのは、まず、内包を決めて、そのあとで外延を決めます。内包というのは、概念の属性、概念を説明する言葉です。外延というのは、その概念に属する個々の具体的な構成要素をいいます。

例えば、「被差別部落」という概念の内包は「被差別」であり、概念の外延は「被差別部落」ということになります。この定義方法は、好ましい定義ではありません。なぜなら、概念の中に、すでに内包が内在しています。「被差別部落(概念)は、差別された(内包)部落(外延)である」ということになり、単なる字句の説明と同じレベルの定義になってしまいます。本来「被差別部落」という言葉は、その程度の意味しかないわけです。この言葉を考案した歴史学者の井上が指摘しているように、時間的側面、歴史的側面は一切含んでいない空間的概念でしかないのです。「被差別部落」という概念は、あまりにも漠然とし過ぎて、「穢多」の末裔を指す言葉としては相応しいものではありません。

国学者の岡本は、「エタ」という概念の内包と外延を明らかにして、その概念を定義しようとしますが、途中で、自分の仕事の範囲外であると言って、投げ出してしまいます。

私は、「エタ」という言葉のもとの漢語は何なのか、長い間、その言葉の定義をめぐって試行錯誤をしてきました。内包を確定しては、外延を検証し、外延を検証しては、内包を検証し、それを延々と繰り返してきたのです。そして、「エタ」という言葉は、ひとつの漢語に置き換えることができるようになりました。それは、「穢多」といわれた人々がいったい何であったのか、その本質が分かった瞬間と同じでありました。

この論文の結論とでもいうべき内容ですが、いまだに、具体的な歴史資料の中にその証拠を見いだすことができないでいるのですが、歴史資料の中からすでに抹消されてしまった言葉である可能性もあります。結論を先出しすれば、「エタ」のもとの漢語は、「衞手」ではないかと思っています。前田勇著『江戸語の辞典』の中に、「守手」(まもりて)というのが掲載されていますが、その言葉には、「見張りの番人」という説明がなされています。

武部良明著『漢字の用法』によれば、「まもる」に対応する漢字として、「衞」・「護」・「守」を取り上げています。「衞」は、「危ないことがないように取り囲むこと」、「護」は、「攻められることがないように持ち続けること」、「守」は、「大切なものとして持ち続けること」を意味するとあります。「見張りの番人」という前田の説明からすると、「まもる」という言葉の漢語として相応しいのは、「衞」・「護」となります。武部は、「盗人の隙はあれども守手の隙なし」という諺をとりあげていますが、「六尺弐分の棒構ひ旅人強盗せいとふ(制盗)し」と歌われている「穢多」は、別名「棒突」とも呼ばれていました。「棒突」の職務は、「衛」であり、「お上」から護衛を命じられた対象に危害が及ぶことがないように、その屋敷や居場所を護衛することでありました。

中山英一著『被差別部落の暮らしから』(朝日選書)に、一茶の句が紹介されていますが、その中に棒突の句がいくつかあります。この本は、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の立場からみて、従来の部落解放運動の枠組みの中で書かれた書籍としては最もすぐれた書籍のひとつであると思っています。
中山英一は、1926年生まれ。長野県出身で、現在、「人権センターながの」の代表理事をされているそうです。中山は「私自身被差別部落に生まれ、さまざまな差別を受けた体験をもとに、自分なりの差別」に対する見解を書いた」とする、その書の中で、「歴史を無批判に受け入れるべきではない。歴史の歪みに気づく感性こそ人権感覚なのだ」と指摘しています。中山はいいます。

「部落の親たちというのは、わが子に部落のことを語りたがりません。なぜなのか。それは部落の人たちは「部落とは何か」という本当のことを知らないからなのです。「誇りと自信」が持てないから、わが子に語れないのです。私が自分の出身を知ったのは「部落民」という言葉ではなく、「長吏」と「四つ」という言葉からでした。・・・「長吏」と呼ばれる人たちは、自分が長吏でありながら、「長吏」の正しい意味を知らないのです。知らないから教えられないのです。ところが、本当のことは知らないけれど、間違った、嘘のことは知らされていたのです。それを「偏見」といいます。「偏見」というのは、事実ではないことをあたかも事実であるかのように思ったり、いったりすることです。それを部落の人たち自身も本当だと思っていたのです。つまり、部落の人は、「ふつうの人間とは違う」「卑しい人間」「悪い人間」である。部落の人たちもそう思われていたのです。だからこそ、わが子に語れないのです。・・・一番基本的なところでは、五十年前と現在とあまり変わっていないのです。わが子に部落のことを生き生きと、胸をはって語れるお母さんが何人いるのでしょうか。子どもに聞かれると、逃げてしまっているのではないでしょうか。」

「世間の人は「部落の人は字を知らない」とか「文化の程度が低い」といいますが、そういう現象は明治以降なのです。それ以前は、部落の人たちは、文字がなければ生活できなかったのです。なぜかというと、「長吏」という役は権力の末端を担う仕事ですから、さまざまな役があるのです。今でいう「警察」や「刑務所」の仕事です。だから、字を読め、あるいは、書き、役目を理解する必要があるのです。字を知らないと、「長吏」という役がつとまりません。」


中山が、そのような洞察を持つようになったのは、同じ信州人である小林一茶の句との出会いでした。一茶は、百姓の息子でした。中山は、その「百姓の目から見た穢多の姿」を知るのです。差別的な目ではなく、穢多や長吏に対して、別な、尊敬のまなざしを持って見る一茶の句に触れて、中山は、部落解放運動に携わるものが時として持つ、針鼠のようなとげとげしさを克服し、このように語るのです。

「苦しみ、悲しみながら、それでも喜びのときには笑いを忘れず、真摯に人生を全うする人の姿に触れたとき、だれもその人を見下したり、卑しいと忌避することはできないはずだと、私は信じている。なぜなら、部落の出であろうと、そうでなかろうと、真摯に生きる人がこの世には大勢いるのだし、そうした人が自分と同じように生きている人を差別することなど、ありえないではないか。」

少しく長い引用になりすぎたが、中山の書に、一茶が歌った棒突の句の解説がのっています。

「棒突がごもくを流す白雨哉

この年は九州、四国を行脚している時期であるので、その辺りのことを詠んだ句であろう。「白雨」は「夕立」のことで夏の季語である。「棒突」とは、六尺棒(警棒の前身)を持って町や村を護衛する役人、現在の警察官にあたる。つまり「長吏」の別称である。私の生家(長野県南佐久郡佐久町)にも六尺棒と十手があった。「ごもく」とは「五目」で、「いろいろ」すなわちここでは塵芥のことである。「棒突」は世人から卑しめられ、軽蔑されているが、夕立が塵を洗い流すと同じように世の中の悪人と悪い物を清掃する人で、世のため、人のために貢献している大事な人であると賞賛している句である。」


話をもとに戻すと、『江戸語の辞典』に出てくる「まもりて」は、言葉の意味からして、「守手」よりも「衛手」という言葉の方が相応しいと思われます。「衛手」の、「衞」を「エ」と発音し、「手」を「タ」と発音します。「衛手」は、「エタ」のもとの漢語ではないかと、私は推測しているのです。まだ文献で確認したわけではありませんが、かならずしも間違いではないと思っています。「手」を「タ」と発音することは、江戸時代の言語学者である新井白石も認めています。

「エタ」は、「衛士」という、今でいう警察のキャリアのもとで、実際に警察官として現場で働いていた配下の「衛手」ではないか・・・、そのようにみはじめると、古代律令制度の中の、制度外制度、身分外身分として登場してきた「衛士」や「衛手」は、司法・警察職として、古代から中世へ、中世から近世へ、時代を超えてその職務を担っていったと推定されます。現在の部落研究・部落問題研究・部落史研究におけるさまざまな問題点と行き詰まりを一挙に解消できるのではないかと思います。

中山英一著『被差別部落の暮らしから』に、中山の両親の写真が掲載されています。

中山のおとうさんの写真をみながら、頭に、まげと月代をつけ、腰に刀をさしたら、そして、長吏としての職務に従事しているときの緊張感をもって写真をとったら、私が、十五年前、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の家、長吏と同じ役を担っていた、あの古老の姿がダブってきます。あの古老の先祖の厳めしい、警察官か検察官のような鋭い眼光をしていた人が、ふと、微笑みをもらしたときは、こんな表情になるのかな、と思わされました。

『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』は、まだまだ、たくさんのことを立証していかなければなりません。しかし、『部落学序説』の結論は、中山がいう「新しい視点と希望」を共有することになるでしょう。ですから、『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』の遅々たる歩みにいらいらする人は、中山英一著『被差別部落の暮らしから』を読んでください。そして、ご自分で、彼の長吏の末裔としての生き方を、それぞれの個別科学研究の立場で調べ直してください。いつかきっと、筆者と同じ道を、『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』自分の頭と足で歩みだすことができるでしょう。悲しい国、悲しい民、悲しい歴史・・・、被差別部落の歴史は、そのような歴史に組み込まれています。しかし、かならず、差別なき朝がやってきます。権力者や政治家、学者や教育者が、被差別者に賤民史観を振りまき、差別の痛みや苦しみを押しつけたことに対して恥ざるを得ない朝がやってきます。「賤民史観」を根底から覆し、完膚なきまでに徹底的に批判・検証することで、被差別部落の人々だけでなく、すべての人が、その内にもっている人間の尊厳に気づく日がやってきます。『部落学序説-「非常民」としての部落学構築を目指して』は、中山のいう、「新しい視点と希望」に裏付けを与える営みでもあるのです。

「穢多」は、幕藩体制下の「司法・警察」を表現するときの包括概念・上位概念です。筆者が、一般的に差別語といわれている「穢多」という言葉を、臆面もなく使い続けるのは、「エタ」という言葉の中に、千数百年の時の流れに耐えて持ちこたえている真実の響きが鳴り響いているからです。私のこころの中にある耳にはその響きがいつも聞こえているのです。

最後に、(1)~(3)の述語としての「穢多」ですが、主語である「穢多」の述語としえの「穢多」は、(1)の命題では肯定され、(2)の命題では否定されています。主語である「穢多」の述語としての(1)の「穢多」と(2)の「穢多」とはどのような関係があるのでしょうか。また両者の間に、どのような「差」があるのでしょうか。あらためて、言及していきます。

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「地域的概念としての部落」の崩壊-野口説への批判

【第1章】部落学固有の研究対象
【第4節】穢多の在所
【第1項】「地域的概念としての部落」の崩壊-野口説への批判



幕藩体制下の「穢多」はどこに住んでいたのでしょうか。

「穢多村」と、「旧穢多村」・「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の間には、それぞれの概念の外延(誰を構成要素としているか)の違いがあります。現代に近づけば近づくほど、その外延は「拡大」していく傾向にあります。拡大すればするほど、部落差別の問題がみえなくなってきます。

「穢多の在所」を論じる前に、「部落差別」から地理的要素、場所的要素を取り除いて、「部落」・「部落民」概念の再構成を提案している、大きな問題を孕んでいる、野口道彦氏の説を紹介しておきましょう。

野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』という書物の中に、第1章1節、《「部落民」とは何か-どう概念規定するのか》という文章があります。彼は、現代の部落差別は「属地的要素」が希薄になってきたといいます。部落に住んでいるから部落民であるとも、部落に住んでいないから部落民でないとも言えない、「もともと、差別する側が恣意的に大した根拠もなしに部落民だとみなしているのだから、それを逆手にとって、その無根拠性を白日のもとにさらけ出したほうがよいだろう」といいます。現代では、誰が部落民か、その境界があいまいになっているのだから、「部落民概念は混乱させた方がよい」というのです。

彼は、属地的要素にこだわらないで、「部落民」という概念を拡大し、「部落民」という概念の外延を、「部落民とみなされ差別された人、あるいは差別される可能性を強く持っている人」まで拡大した方がよいというのです。「部落民とみなされ差別された人」の中には、「誤った身元調査に基づいて差別されていても、まったく本人は差別されていることに気づいていない」、そういう人も含まれるのです。隣近所のトラブルで、冗談で、「あいつは部落民だ」と流されたデマによっても「部落民」が創出されるというのです。彼は、更に、「部落差別を受けた体験を共有しうる人、差別に対する憤りや悔しさを共感できる人」をもその範疇に含めてしまいます。「部落民としてみなされ差別された人は部落民である」ともいうのです。

彼は、部落民でないのに部落民として差別されていることに気づいたら、間違われた人は、「そうだ。私が部落民だ。それがどうしたと切り返せる主体をつく」ればいいというのです。

彼のいう主体とは何なのでしょうか。

主体をあらわすひとつの言葉に、アイデンティティというのがあります。

アイデンティティは「同一性」という意味がありますが、過去・現在・未来において一貫して持つことができる立場や視座を指すといってもいいと思うのですが、このアイデンティティは二つあります。ひとつは、パーソナル・アイデンティティ、もうひとつはグループ・アイデンティティです。

パーソナル・アイデンティティは、例えば、ある人が、自分は過去においてこのように生きてきた、そして今もこのように生きている、これからも同じように生きていくのだと個人的に表現する場合がこれにあたります。自己の存在を時間の流れの中で、歴史の中で、一貫して維持しようと生きている状況をいいます。

グループ・アイデンティティは、自分が帰属する集団や共同体の一員として、「昨日、私は部落民として生きてきた、そして今日も、部落民として生きている、明日も部落民として生きるのだ」と、他の集団や共同体に所属する人と、共有理念を持って生きていく状況をさします。

パーソナル・アイデンティティとグループ・アイデンティティの両方を持ち合わせたとき、私たちは、自己の主体を確立できます。

「部落民でないのに部落民として差別されていることに気づいたら、間違われた人は、「そうだ。私が部落民だ。それがどうしたと切り返せる主体をつく」ればいいという、野口の理論は、民衆が持っている潜在的な能力、自分の「物語」を語る能力と意義を無視しています。昨日、今日と生きてきて、そして、ちょっとした人生の誤解やいたずらで、明日、なぜ部落民として生きなければならないのか。野口の理論は、桜の木に梅の花を咲かせるようなものです。そんなことできるはずもないのです。

部落差別の真の解決には、「部落」・「部落民」という概念をあいまいにしないことです。明治以降の差別問題は、その概念をあいまいにしてきたからこそ、問題が複雑化し混乱して収拾がつかなくなっているのですから、権力者や政治家、学者や教育者がまずなすべきことは、「部落」・「部落民」概念を定義して、その外延を縮減する方向で行うべきではないのでしょうか。

野口は、「部落民」は、「客観的な定義が不可能な言葉である」といって、その定義を放棄します。また、「差別される対象は、差別者の恣意により、融通無碍に広がるのであるから、あらかじめ客観的に範囲を確定できるものではない」と、「部落」・「部落民」概念の内包と外延をあいまいなままに放置しようとします。そして、「部落民」の所在を示す「部落」という概念を放棄して、新しい概念として、「被差別市民」という概念を導入しようとします。
野口の理論は、日本の社会が持っている部落差別の構造を容認し、現在時点での差別・被差別の線引きを引き直し、部落民の外延を拡大した上で、あらたな部落民(被差別市民)に運動を引き継がせる、このことで、被差別部落やその運動団体、彼らによる部落解放運動の継続を大前提に、それを学者として理論付けしようとしているように思われます。

野口が「差別する側の恣意性」を前提とするとき、その「恣意性」を最大限に利用するのは、国家であったり、地方行政であったりするのではないでしょうか。民衆が、民衆自身のアイデンティティを無視され、桜の木に梅の花を咲かせるような無理難題がまかり通るところでは、権力や国家による「恣意性」を許容する道を開くことにつながるのは必定でしょう。

こういう言葉が正確かどうかはわかりませんが、野口の理論・思想は、ファシズム的であると思われます。ないしは、ファシズムに大きく道を開け放つ理論・思想であると言えます。

野口は、本の最後の方で、アイデンティティを取り上げ、「部落民としてのアイデンティティは、結局のところ解放の戦略として「身元隠し」を選ぶのか、それとも「誇りの戦略」を選ぶのかをめぐる自分探しであり、他者に対しての自己掲示である」と。野口は、他にも、「差別のない社会システムをどのように構築するのか、未来社会への豊かな想像力があれば、さまざまな「解放の戦略」が構想されるであろう。しかし、長い時代に渡って社会から、負の意味付けをされてきた「部落」や「部落民」というシンボルを、どのようにとらえ、どのように対処していくのかという点にしぼって議論すれば、結局のところ、「身元隠し戦略」か「誇りの戦略」か、この二つ以外にはない」と力説します。

野口の言葉は、部落差別の厚い壁を前に呻吟し、絶望し、その壁を乗り越えることができないと悟ったときに、自分の中に、ありもしない幻想、自分のための「宗教」のようなものを作って、自分でその「宗教」を盲信し、その中に埋没してしまってる、あるいは自己陶酔に陥っているような感じがあります。

私は、野口があまり重点を置いていない、「差別のない社会システムをどのように構築するのか」という立場にたってこの論文を書こうとしています。部落差別は、自然発生的に生じた社会現象でも文化現象でもありません。部落差別は、権力と民衆、支配と被支配の脈絡の中で、意図的に政治的に作り出されてきたものです。各時代の、社会システム、政治システム、法システムの中に、部落差別問題を位置づけてこそ、部落差別の本当の姿を解明でき、部落差別解消につながるのではないかと思います。「未来社会への豊かな想像力」は、「過去社会」への豊かな想像力、現象ではなくシステムとして認識・把握することができる洞察力を持つことによって、必然的に開かれてくると思います。過去のシステムを解明できずにいる、また解明しようとしないから、明日の、差別なき社会の展望を持つことができないのではないかと思います。

江戸時代の穢多は、パーソナル・アイデンティティの面からしても、グループ・アイデンティティの面からしても、「昨日穢多であった、今日も穢多である、明日も穢多であり続ける・・・」、そう信じて生きていた「穢多」を部落学固有の研究対象にしていますが、幕藩体制下の社会・政治・法システムの中に「穢多」を位置づけてとらえ直すとき、はじめて、部落差別問題の完全解消につながる道が開けてくるのではないかと思っています。穢多の在所に関する考察は、「穢多」の本質や、近代以降の「旧穢多」・「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」を把握する上で、極めて重要な意味をもっています。

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周防国図・長門国図に見る穢多の在所

【第1章】部落学固有の研究対象
【第4節】穢多の在所
【第2項】周防国図・長門国図に見る穢多の在所



tizu 私の手元に1枚の地図があります。

大きさは、幅2メートル、高さ1メートル。国立国会図書館に所蔵されている地図で、その復刻版を徳山市立図書館の郷土資料室で複写・拡大し、それを貼り合わせたものです。

徳山市立図書館の郷土資料室は、地図の複写は、著作権法の問題が絡んで、どんな小さな地図でも、一枚全部を一度に複写してくれることはありません。寛大な司書の場合、一枚の地図の半分までは、一回で複写してくれます。「周防国図」・「長門国図」を全部入手するためには、最低でも4回徳山市立図書館の郷土史料室に通うことになります。

国立国会図書館に所蔵されている地図の復刻版である「周防國図」と「長門國図」の2枚の地図は、江戸時代に作成された地図の上に、明治初期の山口県の区画を上から書き込んだもので、いわば、一枚の地図の中に、江戸時代の長州藩の村と明治以降の山口県の村が二重写しにされているといってもいいような地図です。近世と近代の両時代が地図上で共存しているのです。

この地図を最初に複写してもらったのは、周防国の観音信仰を調べていたときです。

周防の国には、福岡の太宰府と広島の宮島にならんで、中世の巡礼の拠点であった、周防国極楽寺があります。中世および近世の旅人になったつもりで、瀬戸内海を船で旅をして、周防国の室積浦にたどり着いたと仮定して、そこから、どういう道のりをたどって、周防国極楽寺という、かっての天皇勅願寺にたどりつくことができるのか、調べるためでした。

長州藩は、民衆の信仰として、浄土真宗を手厚く保護しましたが、真言宗については冷やかでした。周防国極楽寺は、その維持費については、藩から一部拠出があるものの、近世全体に渡って、ごくわずかの檀家によって守られ維持されてきました。山口県にある寺院の中で、名所旧跡に数えられている寺の中にあっては、私が一番好きな寺のひとつです。

車で、参道を走ると、梅雨の時期などは、目の覚めるような青色の紫陽花の花が咲き乱れています。私は、この周防国極楽寺を「周防国紫陽花寺」と呼んで、いろいろな人に紹介しています。室積浦を船でおりて、島田川沿いを北上していきますと、やがて、周防国国分寺の参道の入り口にたどりつくことができます。

駐車場に車をとめて、境内の清水をのんで、急な石段を数分登っていくと、その頂きに、古い御堂と鐘撞堂があります。なにか、日本昔話にでてくるような小山の上の小さなお寺というところがありますが、この真言宗の寺は、観音信仰の寺で、「聖」と「俗」を分ける隔ては一切ありません。

石段に座って、麓を見下ろすと、島田川の川面が海のように見えます。

観音菩薩の浄土である補陀落世界を彷彿とさせるものがあります。もし、私が仏教徒なら、余命幾許もないお年寄りを背負って、この石段のところまで連れてきて、「ほら、ここが観音菩薩の浄土だよ・・・」といって、みせてやりたいような場所です。

差別され、抑圧され、排除され、悲しみと苦しみを背負った巡礼者が、一抹の希望を持って身を寄せる場所・・・それが周防国極楽寺です。戦後公開された古い書物に『問わず語り』(岩波文庫)があります。夫(天皇)によって、その弟に払い下げられて、妻として、女性として、非人間的な屈辱を味わった女性が出家して、全国を巡礼してまわるという話であったと記憶していますが、その中に、「足摺の観音」という文章がありました。

瀬戸内海を旅する途中、その女性が船の上で聞かされた話ですが、昔、足摺岬には、小さなお堂があったといいます。そこには、一人の住職と一人の小坊主が住んでいました。そんなある日、そのお堂に、旅の修業僧がやってきて、宿と食事を求めるのです。そのとき、住職はそれを断るのですが、小坊主は、旅の修業僧が気の毒になり、自分の食事を分けてやるのです。しかし、そのことが住職の知るところとなり、住職は、旅の修業僧を追放するわけです。そのとき、旅の修業僧は、小坊主に、「さあ、補陀落世界に共にまいらん」といって、小さな舟にのって、波の荒れる太平洋に漕ぎだすのです。そのことが何を意味しているのか、知った住職は、二人を呼び寄せるのですが、二人の姿は波に飲み込まれてしまいます。住職は、自分のこころの中に分け隔てするこころ、差別するこころがあったから、こんな悲しいできごとを引き起こしてしまったと深く悔いて、「聖」と「俗」を仕切る寺の塀を取り除き、誰でも、観音菩薩の救いを求めて訪れることができる寺にした・・・という、そのとき自分の差別性に気づいた住職が、足を摺って悔しがったという地名の由来についての話ですが、周防国極楽寺にも、「聖」と「俗」を隔てる塀はありません。

周防国極楽寺にも、「聖」と「俗」を取り除く伝承が語り伝えられています。『今昔物語』にでてくるのですが、雪が降り続いたある日、麓から食料を運んでくる信者の姿も見えずひもじい思いをしていたあるとき、雪の積もった庭に一頭の鹿を見つけるのです。住職は、それをたべて、生き延びるのですが、伝承は、観音菩薩の化身の現れとして受け止めるという話です。ある研究者は、僧侶が肉食をした寺というのは「穢寺」であるといいますが、決して、そうではありません。

中世に栄えた観音信仰の拠点であった周防国極楽寺は、近世に入って、三百年間、檀家わずか十数軒という状態が続くのです。現在もほとんど同じですが、なぜ、周防国極楽寺への巡礼が衰退していったのか・・・。私は、その理由のひとつに、周防国極楽寺の麓に、「穢多村」、それも「垣の内」が形成され、その参道を塞いでいったためではないかと思っています。周防国極楽寺は決して「穢寺」ではなく、その麓にある浄土真宗の某寺こそ「穢寺」にあたります。

tubaki2 私は、頭の中で、室積浦から周防国極楽寺にたどりつく旅をしたのですが、国立国会図書館に所蔵されている地図の復刻版『周防国図』に記された、村の名前、道の名前、川の名前、一里塚などの情報をてがかりに、昔、巡礼者がたどったであろう旅をたどったのです。そのこころの旅をしていく中で、ふと、思ったのです。長州藩の穢多や茶筅、宮番はどこにいたのだろうか、と。

歴史資料によると、中世・近世の巡礼者は、至るところで、穢多・茶筅・宮番に遭遇するということがわかったのです。道がわからなくなる、すると、穢多に尋ねると親切に教えてくれる、途中、強盗に持ち物を盗まれる、すると、穢多に相談する、場合によっては盗まれたものを取り戻してくれる、病気になる、すると、穢多が薬草をくれるか、医者のところに連れていってくれる・・・、街道を守っている穢多たちによって、中世・近世の庶民は安全な旅をすることができた、そういうことがわかってきたのです。

「穢多」の在所は、簡単にわかるようになりました。

『周防国図』・『長門国図』に記された街道と街道が交差する点、「穢多」の在所はそこにあるのです。中世・近世の「穢多村」は、人の住みたがらない不便な地に無理やり追いやられて形成されたのでも、自然発生的に形成されたのでもありません。「穢多村」は、当時の社会システムの中に、政治・統治システムの中に深く組み込まれて存在していたのです。二つの地図上には、「穢多村」の存在場所を示す、いかなる記号も言葉も出てきません。しかし、どこに「穢多村」が配置され、存在しているかがすぐ分かるのです。

この地図『周防国図』・『長門国図』を手に入れたことが、穢多の在所を知る上で大きな手がかりになりました。『地下上申図絵』や『御国廻行程記』などには、どこに穢多村があったのか、詳しい表記が施されていますが、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』という論文を書くにあたっては、必須ではありません。身の丈ほどの情報があれば十分です。

tizu3 長州藩の基礎史料のなかに、『防長風土注進案』というのがあります。

そこには、各宰判(他藩の郡に該当する言葉)に所属する穢多村が明記されています。こまかい調査をするなら別ですが、穢多の在所について調べるには、そこまで必要ありません。すべての情報を入手するには、時間と費用がかかります。手弁当で調査・研究をしている私には、そのような環境を整えることはできません。

『防長風土注進案』には、穢多村117カ所が記録されていて、江戸時代の穢多村に関する、ある程度の情報も入手することができます。

《萩藩の被差別部落について》(西田彦一著)には、『防長風土注進案』に記載されている穢多村に関する分析があります。「地形からみた被差別部落の立地」という表をみると、穢多村は、山麓の傾斜面、山肢下端分部、小谷の傾斜面、丘陵・台地面、丘陵・台地下端部、氾濫原、乱流地、自然堤防、バックマーシュ、砂州・砂嘴、トンボロ、砂浜、ポリエ斜面に設置されているというのです。穢多村の立地条件は、西田によると、「自然災害を受けやすい」、「自然的災害の危険率が甚だ高い」、「しばしば水害を蒙った」、「一般地区とは隔たったいわゆる隔離地区」であり、「不利な自然的条件にもまして、人為的に危険地域を形成していた・・・」といいます。地理学者も、賤民史観に強く影響されているのでしょうか。西田は、それらを前提にして、このように結論を出しています。
「部落の立地条件が、自然的にも社会的にも恵まれていないことには変わりがない。したがって、地理学の立場から見るならば、地域計画を推進するにあたり、悪化地区改善をはかる行政措置が必要である。本稿の執筆を機会に関係当局の適切な行政措置を強く望みたい」。

その論文でとりあげられた52の穢多村を、自分の足で歩いてみて思うことは、被差別部落の立地条件は、決して、西田が指摘するようなものではないということです。同和対策事業の根拠を捻出するために、意図的に捏造された把握ではないでしょうか。長州藩の穢多村は、村の一部であって、村全体が「穢多村」として扱われるということは、例外(本藩別業の地)をおいては存在しませんでした。自然災害にあうとき、それは、穢多村だけでなく、その近隣の百姓や町人の居住地も同じであったと思われます。

穢多村の在所は、藩によって、ある目的のもとに配置されることによって成立します。

当時の社会システム、統治システムを前提にして考えないと、穢多の立地条件を正しく認識することはできないのではないかと思われます。穢多村は、藩によって、意図的に配置されたものです。それは、長州藩だけではありません。毛利8カ国すべてに渡って同じことを確認できますし、四国や九州についても同じです。日本全国、沖縄から北海道まで、穢多村は、それぞれの地域性を考慮されながら配置されていったのです。穢多の在所に関するキーワードは、「非常の民」ないしは「非常民」です。彼らは、「非常民」として、意図的・計画的に、全国津々浦々に配置されていったのです。

穢多の在所は、「非常民」としての職務・役務を行うのに最適な場所が選択されました。西田がいうように、決して、自然災害に弱い場所へ追いやられたのではないのです。

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「高佐郷の歌」にみる穢多の在所

【第1章】部落学固有の研究対象
【第4節】穢多の在所
【第3項】「高佐郷の歌」にみる穢多の在所



少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


山口県立文書館の研究員・北川健が発掘した、長州藩の近世穢多村の伝承をもう一度とりあげてみましょう。

最初、この伝承が公表されたときには、4カ所が伏せ字になっていました。その後、伏せ字が解かれて、原文で上記のように紹介されるようになったのですが、この伝承の中で、具体的な地名は、「高佐郷」だけです。

「高佐郷」は、長州藩の時代の高佐村のことで、穢多の在所があったのは、その村の一部です。

「高佐郷」は、長州藩の奥阿武宰判に属する19ヶ村のひとつです。19ヶ村のうち、穢多(穢多・茶筅・宮番の総称、上位概念、包括概念としての穢多)の在所は、12ヶ村。戸数10~20が5ヶ村、戸数5~10が5ヶ村、戸数1~5ヶ村が7という、少数点在の地域です。

中国地方の他の穢多村との類似点が多い村ですが、前節でとりあげた西田の「地形からみた被差別部落の立地」の一覧表には、この高佐村はでてきません。高佐郷の穢多村は、ごく一般的な場所にあったのでしょう。

ときどき、北川が、被差別部落の人々に対して、「本当に地名を消していいのか。地名には、被差別部落のマイナスの面だけでなく、プラスの面も含まれている・・・」と指摘されていたと聞いていますが、この高佐郷に伝わる8行詩もそうなのでしょう。

この8行詩を、筆者は、「高佐郷の歌」と呼ぶことにします。

高佐郷の地理的な位置を、前節でとりあげた、『周防國図』・『長門國図』でみてみると、高佐郷から街道を東に行けば、徳山藩・岩国藩や安藝國、西に行けば、萩城下、南に行けば「山口」、北に行けば、石見國にたどりつくことができます。要するに、高佐郷は、江戸幕藩体制下においては、交通の要所でした。しかも、万が一、戦争が発生した場合には、この要所を抑えることで、敵軍が萩城下に侵入してくるのを防ぐことができる格好の場所でした。

長州藩は、「軍事」と「司法・警察」を明確に区別していました。

毛利藩主は、「軍事」に携わる藩士だけでなく、「司法・警察」に携わる人々(穢多もそのひとつ)を大切にしました。特に、戦時ではなく平時にあっては、高佐郷の要所を守っていたのは、「司法・警察」に携わる人々、特に、「穢多」と呼ばれた人々でした。

高佐郷の歌は、その「穢多」たちが自らを歌った歌です。

何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取


「もし、非常事態に直面したときは、高佐郷の穢多たちは、捕り物用の「ひしぎ」・「早縄」・「腰道具」・「六尺弐分の棒」を持って馳せ参じ、街道を通る「旅人」を検問し、その中に強盗が混じっていれば、それを見抜いてすぐに捕らえる。高佐郷は誰一人として村から他村へ抜け出ることはできない・・・」。この8行詩をそう読みますと、この高佐郷の歌は、高佐郷の穢多たちが、自分たちに与えられた職務に忠実に、場合によってはいのちをかけてその職務にあたっている、しかも、その職務の熟練度はすぐれていて、誰ひとりとして、彼らの支配地から逃亡することはできない。あやしいものはすべて捕らえてみせる・・・、そんな自信にあふれた歌ではないかと思います。

高佐郷の歌には、「穢多「たちが、「人の嫌がる仕事を無理やり背負わされて、いやいやその仕事に従事した・・・」というようなイメージは露もありません。彼らは、自分たちが穢多であることを誇っているし、何よりも、責任と使命を持って、与えられた職務に忠実であろうとする姿勢は、今日の警察官のような姿勢です。

いままで、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わってきた人々は、江戸時代の「穢多「といわれた人々は、「人の嫌がる仕事を押しつけられ、下級警察の仕事をしていた」と解釈する場合がほとんどです。

『部落差別を克服する思想』という論文で、従来の通説、「人の嫌がる仕事を押しつけられ、下級警察の仕事をしていた」、あるいは、「警察の手下をしていた」という見解を、正面から否定したのが、その著者、「部落学」の提唱者でもある川元祥一でした。私は、『部落学序説』を書くにあたって、先行研究として、彼の研究に負うところが