2005.09.02

島崎藤村と『破戒』

yama02島崎藤村と『破戒』】1.『部落学序説』と文学

5月14日から書きはじめて7月31日までの間に、『部落学序説』・『部落学序説(削除文書)』にアクセスしてくださった方々は、両方あわせて、アクセス件数は5400にのぼります。筆者には、この『部落学序説』の読者がどのような方々であるのかはわかりませんが、筆者の思惑を越えてたくさんの人々が読んでくださっていることは否定しようがありません。

ときどきは、「読者サービス」をしてもいいのではないかと思いまして、第3章を中断して、島崎藤村の『破戒』について数回論じることにしました。

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(第1回)『部落学序説』と文学

この『部落学序説』において、「部落学」は、「<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究」であると定義しました。

その際、「文学」は、個別科学研究の中には加えませんでした。
そして、これからも加える意図は持っていないのですが、「部落学」をできるかぎり実証的研究として徹底させたいために、作者の創作部分を含む「文学」(特に小説)を、「部落学」研究上の素材にすることにはためらいがありました。

それと、もうひとつは、「文学」を楽しむだけなら、自由に感想を書くことができますが、「文学」を「部落学」上で批判の対象にする場合には、できるかぎり、主観を排除して、客観的に論じる必要があります。

例えば、「文学研究法」のようなものが必要ですし、少なくとも、「文学研究法」の基礎的な知識や技術を踏まえる必要があります。しかし、残念ながら、私には、文学的素養はまったくありません。

それでも、何とか、文学研究法をマスターできないかと思って、読んだのが、L.T.ディキンソン著『文学研究法』です。文学研究法に関する書物は、あとにもさきにも『文学研究法』だけですから、文学研究法に関する知識と技術は、この『文学研究法』に拘束されていると思われます。

ディキンソンは、「文学研究の方向」の中で、「文学作品はその時代と場所の産物である。すぐれた作品はこの二つの制約をとびこえて「普遍的な」性質をもつけれども、それは又その時代の産物であって、その時代とわれわれの時代とはすっかり異なったものであるかも知れない。」といいます。

彼は、文学を鑑賞するためには、その背景、「政治的な発展、社会情勢、宗教思想、宗教的慣習、哲学的概念・・・を知らなければならない」といいます。

また、「文学作品の分析は簡単な仕事ではないが、分析に含まれる諸要素は・・・経済学、哲学などの複雑さを扱う能力をもった学生なら、扱えないことはない」といいます。

彼の文章を見ても、「文学」を批評することは、それほど簡単なことではありません。「学歴なし・資格なし」を標榜する筆者のよしとするものではありません。それを知りつつ、あえて愚をおかすと、多くの人々の嘲笑の対象になること、必定です。

特に、日本の純文学の場合、佐藤春夫の死を持って終わる日本の文豪についての研究は、調べられるところはすべて調べ尽くされていると言われます。どの小説家にも、数多くの研究者によって構築されてきた「通説」というものがあります。その「通説」をくつがえす新説を打ち立てるには、新たな史料の発見というものが必要ですが、その可能性すら、ほとんどなくなっていると言われます。

島崎藤村の『破戒』についても同じことが言えます。

「通説」のひとつに、『破戒』のモデルになったのは、「大江磯吉」であるという説があります。

若宮啓文著『ルポ現代の被差別部落』(朝日文庫)によると、「大江磯吉」は、明治元年、下伊那郡伊賀良村の被差別部落に生まれたといいます。飯田市の郷土史家・水野都沚生の研究論文の内容をこのように紹介しています。

「磯吉は苦学の末、明治19年、長野県尋常師範学校を優秀な成績で卒業、諏訪郡平野村小学校に赴任したが、教職員から「席をつらねるにたえない」と排斥され、わずか5日で長野師範付小学校に引き取られた。さらに東京高等師範を卒業して母校長野師範で教育学を教えたが、教え子の一人は当時を振り返って、「頭脳明晰で教授ぶりはあざやかだった。生徒中でも少数のあこがれ者はあったが、大部分その身分を口にして、きらっていた。当時、権堂町に下宿していたが、身分が分かるにつれて他の下宿人が逃げ出すので、下宿屋でも困った」と述べている。その後、県の教員検定試験委員となったが、出張先の宿屋で「賤民」だと騒がれ、追い払われたことがある。宿では畳替えをするさわぎだった。そんな空気から、磯吉は明治26年、信州を去り、大阪府尋常師範学校へ転任したが、ここでも生徒に身分を調べられて排斥され、28年に鳥取県尋常師範学校へ移った。このとき彼は就任のあいさつとして、生徒の前で堂々と出身を明かした。これがかえって磯吉の人格を認めさせることになり、34年には兵庫県立柏原中学校の校長となった。翌年35歳の若さで病死した・・・」。

若宮は「藤村は磯吉の話を聞いて大いに感動し『破戒』を書いた、というのが現在の定説になっている」といいます。

しかし、筆者は、島崎藤村とその小説『破戒』に関する史料や論文を読んでいて、本当に、『破戒』の主人公は「大江磯吉」なのか、戸惑ってしまいます。

藤村は、『破戒』から17年後、読売新聞上で《眼醒めたものの悲しみ》という短文を公表します。

その中で、藤村はこのようにいいます。「『破戒』の主人公は申すまでもなく、一人の若い部落民を書こうとしたものですが、小諸に7年も暮らしている間に、あの山国で聞いた一人の部落民出の教育者の話、その人の悲惨な運命を伝え聞いたことが動機になって、それからああいう主人公を胸に描くようになっていったのでした。あの小説の中に書いた丑松という人物の直接のモデルというものはなかったのです」。

島崎藤村は、『破戒』の主人公は「大江磯吉」ではないと断言しているのです。『破戒』の作者が否定しているのに、『破戒』の読者や研究者が、「大江磯吉」は「丑松という人物の直接のモデル」だと断定するというのは、どういうことを意味しているのでしょうか。藤村は、「大江磯吉ではない」と言っているのに、今日の研究者や教育者、そして被差別部落の人々までもが、「大江磯吉こそモデルだ」と強弁するのは、なぜなのでしょうか。

藤村は、『破戒』を書くために、旧穢多村に聞き取り調査をしたといいます。

通称弥衛門という長吏頭の家を訪ねて、藤村の知らない多くのことを教わったようです。藤村は、「この弥衛門という人に逢ったということが、自分の『破戒』を書こうという気持ちを固めさせ、安心してああいうものを書かせる気持ちを私に与えたのでした。それほど私は深い、好い印象を受けたのです。私は作中の人物にその人を写そうとはしなかったが、しかし部落民生活に関したことで多少なりとも自分が『破戒』の中に書き入れたことは、その弥衛門というお頭から教えられたことが多いのです」といいます。

藤村は、『破戒』の主人公は、長吏頭の末裔としての「丑松」であって、春駒の末裔である「大江磯吉」ではないと力説しているのです。

部落史の研究者は、島崎藤村が『破戒』を執筆する際に、「聞き取りなど具体的踏査をした」ことを認識しつつ、藤村が、『破戒』を通して、近世幕藩体制下で司法・警察であった長吏たちが、明治政府の施策の中で、身分の「零落」を余儀なくされていったことについて書こうとしたことについては、何ら評価することなく、葬り去ってしまうのです。そして、部落史の研究者までもが、『破戒』の歴史的な背景を探求することなく、「差別的表現」批判に終始するのです。

「部落差別の苛酷さを、読んでいる者が耐えられぬほどの執拗さで表現した最初の文学である」(『部落解放史』中巻)と断定します。丑松の「土下座」と「テキサス行き」に焦点をあて、「突破口が見えないが故の作者の投了(丑松が差別に負けたことを強調して話を終えること)」であるといいます。

島崎藤村の『破戒』という小説は、文学評論家や部落史研究家がいうように、単なる差別文書でしかないのでしょうか。

個別科学研究の学際的研究である『部落学』の立場からすると、島崎藤村の『破戒』は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に立った学者たちによって、藤村が予期もしていなかった「土俵」の上に引きずり出されて、執拗な拷問を繰り返えされ、藤村から、「賤民史観」に沿った「自白」を得ようとする、私的リンチのように見えます。藤村自身が、『破戒』のモデルは「大江磯吉」ではないと言っているのに、次から次へと圧迫の手を加えて、藤村から、『破戒』のモデルは「大江磯吉」であったという「自白」を強要するというのは、どう考えても正常ではありません。

島崎藤村は、『破戒』を書くにあたって、「大江磯吉」に聞き取り調査をしようとはしませんでした。藤村が調査したのは、弥衛門という長吏頭でした。

藤村は、『破戒』の中で、丑松についてこのように記します。

丑松は、「小諸の向町(穢多町)の生まれ・・・一族の「お頭」と言われる家柄であった。獄卒と捕吏とは、維新前まで、先祖代々の職務であって、父はその監督の報酬として、租税を免ぜられた上、別に俸米をあてがわれた」と。

丑松が長吏頭の末裔であるということをほとんどの学者や研究者は、無視するか、無視しないまでも評価することはありません。

『部落学序説』の立場からすると、丑松が長吏頭の末裔であったということは、大きな意味合いをもちます。

島崎藤村は、長吏頭の末裔には関心があるけれども、「特殊部落民」には関心がないといいます。前掲書において、藤村は、「水平社の運動というものについて詳しいことは知りません」といって、このようにその文章を終えます。「少なくとも他から働きかけられたものでなしに、もっと自発的に・・・」運動が展開されていくことを祈ると。

島崎藤村は、当時の旧穢多の末裔「80万人」が、水平社運動で言われる特殊部落民「300万人」に一挙増加するからくりに否を宣言したのでしょう。藤村は、「80万人」を視野に入れて『破戒』を書いたが、「300万人」を視野に入れて書いたのではないと行間で語っているように思われます。

島崎藤村とその著『破戒』に与えられた、不幸な誤解と錯誤を、『部落学序説』の立場から論述したいと思います。

私は、「部落学」の個別科学研究として「文学」を付加することは、学際的研究としての「部落学」構築にとって好ましいことではないと思っていますが、逆に、「部落学」は、島崎藤村とその文芸作品に対して、新たな解釈の視座を提供できるものと思っています。

「文学作品の起源(その作品が書かれたいきさつ)、資料(どんな材料を使ったか)、文芸の手法(創作の方法)・・・これらも興味のある問題である。しかし、どんなに興味があろうとも、作品そのものに関する問題のお株をうばうようなことがあってはならない」(ディキンソン)。

島崎藤村の『破戒』をめぐる批判は、戦前・戦後を通じて、一貫して、文学研究上の禁じ手である「問題のお株をうばう」営みではなかったのでしょうか。島崎藤村は、「賤民史観」という差別思想の持ち主である学者や研究者、教育者、そして、被差別部落の人々から、よってたかって集団リンチを受けた、穢多を穢多として語り伝えようとした歴史の真実の追求者ではなかったのか・・・、私はそのように思うのです。

小説に対する批評は、ディキンソンがいうように、「第一義的な関心は常に・・・文学作品そのものに向けられてなければならない」のです。

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丑松と志保

【島崎藤村と『破戒』】2.丑松と志保


『破戒』の著者・島崎藤村の「思想を知るもっと確実な手がかり」とは何なのでしょうか。

『文学研究法』の著者・ディキンソンは、「その作者が描く葛藤の性質とその解決の仕方である」といいます。
さらに、ディキンソンによれば、「葛藤の性質」は、「葛藤の種類」「葛藤の過程」を把握することで明らかになっ てきます。

「葛藤の種類」には、「個人対個人」・「個人対団体」・「個人対自然」・「個人対社会的経済的環境」等があげられるといいます。「等」をさらに展開していけば、「個人対国家」というような葛藤もあると思われます。

『破戒』の主人公・丑松の「葛藤の種類」は、具体的にはどのようなものなのでしょうか。

「個人対個人」という葛藤は、丑松と志保、丑松とその父親、丑松と猪子連太郎、丑松と土屋銀之進・・・。「個人対団体」という葛藤は、丑松と学校、丑松と教育界・・・。「個人対自然」という葛藤は、丑松と信州・・・。「個人対社会経済的環境」という葛藤は、丑松と水平社前夜・・・等があげられます。

純文学の場合、この主人公の葛藤は、いろいろな種類の葛藤が複雑にもつれ合って進行する場合がほとんどなので、『破戒』の主人公・丑松の葛藤をあきらかにすることは、それほど簡単なことではありません。

筆者は、ここで、「個人対個人」という葛藤の中から、「丑松と志保」を取り上げてみたいと思います。

ディキンソンは、「葛藤の種類」を決めたあとは、「葛藤の過程」を明らかにしなければならないといいます。

彼は、アリストテレスの言葉を引用しながら、物語には「初めと真中と終り」があるといいます。これを通常、プロットといいますが、プロットは、「提示部」(初め)・「からみ合い」(真中)・「大円団」(終り)から構成されます。

ディキンソンの『文学研究法』で紹介されている手法を使って、「丑松と志保」の間の葛藤を見てみましょう。

『破戒』は、「蓮華寺では下宿を兼ねた。」という言葉で始まります。

「蓮華寺」は、主人公・瀬川丑松の下宿となる寺で、「真宗に属する古刹」のひとつです。蓮華寺の2階の窓から、丑松が教鞭をとる「小学校の白く塗った建物」が見えます。

丑松は、新平民に対する差別から逃れるようにこの蓮華寺に下宿するようになるのですが、その寺に、寺の住職夫婦の養女となった志保がいます。

筆者が中学3年生のとき、視聴覚教育のために、学年全員が映画館に『破戒』を見に行きました。丑松は、市川雷蔵。志保は、藤村志保。藤村志保のデビュー作でした。白黒の映画でしたが、寺の庭の木に隠れるようにして丑松をみつめる志保の姿は印象的でした。『破戒』を読んでいると、映画のいろいろな場面を思い起こします。
丑松は、「霜葉の舞い落ちる光景をながめながら、廊下の古壁によりかかってたっている」志保に語りかけます。志保は、「すこしく顔をあかくしながら」答えます。丑松は、志保の「黒瞳の底」「深い憂い」をみつけます。「新平民」として差別される悲しみや苦しみを知っている丑松のこころは、志保の中にある悲しみや苦しみも見抜くこころをもっていたのでしょう。

「提示部」において、丑松と志保の葛藤は、このような表現で終わります。

丑松は、「追憶のりんご畑」の章で、幼なじみの「お妻」との初恋を思い起こします。二人でりんごとりんごの木の間をあちこちと歩いた、昔の思い出にひたりながら、丑松の脳裏には、「お妻」「お志保」が二重写しになっていきます。

丑松は考えるのです。

「お妻」とのあわい初恋の思い出は、「お妻」が、「自分の素性をしらなかったから」であると。そして、「それが卑しい穢多の子と知って、その朱唇で笑って見せるものがあろう。もしも自分のことが世に知られたら・・・」と考えると、「なつかしさは苦しさに混じって、丑松の心をかき乱す」といいます。

丑松は、「寝る前には必ず枕の上でお志保を思い出すようになった」といいます。丑松は、その都度、丑松が「穢多の子」であることを志保に知られてはならないと思うようになっていたのでしょう。

そんな、丑松と志保の間に、転機が訪れます。

それは、丑松の父親の死でした。丑松に、「新平民であることを明かしてはいけない」と諫めた父親も、人里離れた信州の牧場で、牧夫をしていたのですが、飼っていた牛に襲われ、瀕死の重症を負ってしまい、やがて息をひきとってしまいます。

丑松の父親がなくなったことを知った志保は、丑松からいろいろな話を聞き出します。幼くして母親の死を知ったことを丑松が話すと、志保は涙を流したといいます。志保の母親もこどもの頃になくなったそうで、志保は、「自分の家の零落」を思い出してうなだれます。丑松は、志保に見送られながら、父のいる牧場へと向かいます。
父親のところに帰って来た丑松が最初に耳にしたのは、父親の最後の言葉でした。「丑松に「忘れるな」と伝えてほしい・・・」

しかし、丑松は、自分の出自を隠すことで、「貴様は親を捨てる気か」と何度も自分の中で自問自答するのです。
父親の死をきっかけにして、やがて、丑松が「穢多」の末裔であるとのうわさが小学校の教師の唇にのぼるようになるのです。丑松は、「次第に・・・学校へ出勤するのが苦しくなって」きます。丑松は、「あまりの堪えがたさ」に欠勤するようになってしまいます。小学校では、丑松を狙って、様々な差別語が飛び交います。

丑松は、志保に対しても疑心暗鬼になっていきます。「同じ屋根の下に住むほどの心やすさはありながら、優しい言葉の一つもかけてくれないのであろう。なぜ、そのくちびるは言いたいことも言わないで、固く閉じふさがって、恐怖と苦痛とでふるえているのであろう」。

丑松は、夢の中で、小学校の同僚が、「お志保さん、あなたにいい事を教えてあげる。」といって、丑松の前で、「丑松が隠している恐ろしい秘密をささやいて聞かせるような態度を示」され、あわてふためく自分の姿をみます。

うわさがうわさを呼んで、丑松が「新平民」であるということは、たちまちのうちに丑松が住んでいる世界中にひろがってしまいます。おりしも、丑松が尊敬していた猪子連太郎が暴漢に襲われて死んでしまいます。

藤村は、そのときの丑松をこのように描写します。

「その時になって、初めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽そうとして、持って生まれた自然の性質をすりへらしていたのだ。そのために一時も自分を忘れることができなかったのだ。思えば今までの生涯は虚偽の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ、何を思い、何を煩う。「我れは穢多なり」と男らしく社会に告白するがいいではないか。こう連太郎の死が丑松に教えたのである。」

丑松は、「今までの自分は死んだ・・・」といいます。そして、丑松は、新しく生きるために、「告白」の道を選択するのです。

丑松は、クラスの生徒を前に、「穢多という階級」について話をします。「穢多」「卑しい階級」であると。近世幕藩体制下の「身分」は、近代社会にあっては「階級」とよばれるのですが、社会によって、相対的に卑しい存在とされている・・・と、告白します。島崎藤村は、丑松に、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が好んで使う本質概念・実体概念としての「賤民」を使用することはないのです。生徒の前で跪き、「私は穢多です、調吏です、不浄な人間です。」とたたみかけるように語る丑松の心の中にある差別の鉄鎖が、ひとつひとつ壊れていきます。新生への希望が溢れてきます。起死回生というのはこういうことをいうのでしょう。

プロットは、「からみ合い」(真中)から「大円団」(終り)へと移っていきます。

丑松の姿を、丑松の周辺にいる人々はどのように受け止めたのでしょう。

丑松の姿をみて、丑松を批判し、嘲笑し、侮蔑したのは、丑松が生きた世界の「権力者」でした。今日的に言えば、歴史学の差別思想である「賤民史観」を鼓舞する学者・研究者・教育者、そして、「穢多の歴史」を忌避し、穢多であることから逃亡を続ける被差別部落の人々です。

志保は、丑松の告白をどのように受け止めたのでしょうか。

藤村は、「男らしく素性を告白」したと語らしめます。「新平民だってなんだってしっかりしたかたの方が、あんな口先ばかりのかた(志保に丑松が新平民であると耳打ちした教師)よりはよっぽどいいじゃございませんか」。「おとっさんおっかさんの血統がどんなでございましょう。それは瀬川さんの知ったことじゃございますまい。」と言い切ります。志保の瞳は清々しく輝いていきます。

志保は、丑松の伴侶になることを決心するのです。

藤村は、もうひとつの「日本村」(アメリカにある)を目指して旅立ちをする丑松と志保の別れをこのように語ります。

「志保の前に黙礼したは、丑松。清しい、とはいえ涙にぬれたひとみをあげて、丑松の顔を熟視ったは、お志保。たといくちびるにいかなる言葉があっても、その時の互いの情緒を表わすことはできなかったであろう。こうしてこの世に生きながらえるということすら、すでにもう不思議な運命の力としか思われなかった。まして、様々な境涯を通りこして、また会うまでの長い別離を告げるために、互いになつかしい顏と顔を合わせることができようとは。」

プロットの最後、「大円団」・「解決」は、葛藤の結末をしめします(ディキンソン)。

『文学研究法』の著者・ディキンソンは、「作者の思想を知るもっと確実な手がかりは、その作者が描く葛藤の性質とその解決の仕方である」といいます。

丑松の出自の告白に到る、物語の中間部分(「からみ合い」)ではなく、物語の結論部分(解決)こそ、その小説『破戒』の著者の根本思想が明らかになる箇所なのです。

島崎藤村が『破戒』を書いた時代、現在の被差別部落の人々にとって「悪夢」と思われるような明治政府による「棄民政策」が密かに進行していたのです。被差別部落の人々がそれに気がついたときには、すでに遅く、被差別部落の人々(「特殊部落の人々」)は、抜けように抜けることができない、差別の坩堝(るつぼ)の中に身を落とすことになりました。

岩波文庫『破戒』の解説を書いた野間宏も『破戒』の秘密を捉えることに失敗しています。野間は、「藤村はこの『破戒』の主人公に、自分の内面の秘密を託したといわれる」と指摘しながら、野間自身、藤村のその「内面の秘密」を捉えきることができないでいるのです。

『部落学序説』は、その「内面の秘密」を明らかにします。

若宮啓文著『ルポ現代の被差別部落』の中で、「現代の丑松たち」という文章があります。長野県では、「丑松教師」という言葉があるそうです。「いま、被差別部落の出身であることを隠して教壇に立っている多くの教師のこと」を指しているそうです。1970年代中葉、長野県には、被差別部落出身の教師が七、八十人いたそうですが、「このうち出身を明らかにしているのは、ほんの数人にすぎない。あとの大半はひたすら出身を隠し、あるいは「部落」とのつながりを意識的に拒否する、現在の丑松である」といいます。

若宮はいいます。「これは何を意味するのだろうか、丑松の時代からいったい何が変わったというのだろうか」。
若宮は、ある校長の話を伝えています。

結婚して晩年に近づいても、その妻に出自を秘密にしたままの校長の姿を・・・。

彼らの姿は、「丑松教師」の名に値しないと筆者には思われます。

彼らは、学歴も資格もありながら、島崎藤村の『破戒』を誤読し誤解しているのです。「丑松」は、出自を隠し続ける人ではなくて、その葛藤ののち、「穢多」であることを告白し、「穢多」である先祖や父親の生きざま、所与の人生を勇気を持って引き受けて生きていく生き方のことなのです。

ふるさとを捨て、ふるさとから自らを切り離して生きる生き方こそ、部落差別を今日まで温存させてきた本当の理由なのです。

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大江磯吉と西原清東

【島崎藤村と『破戒』】3.大江磯吉と西原清東


「テキサスへ新天地を求めるなどというのは、逃げて行くことを示すものにほかならない。・・・ここにこの小説のも っとも大きな問題点がある。この小説が差別される部落民の問題を取り上げ日本で最初の近代小説を確立しようとしながら、逆に多くの部落の人たちを傷つけ、苦しめてきた原因がある。」

島崎藤村の『破戒』の主人公・丑松について、岩波文庫版『破戒』の末尾に添付されている《「破戒」について》の著者・野間宏は、藤村を厳しく批判します。

新潮文庫版『破戒』の解説を書いた北小路健も、野間とほぼ同じような見解に立ちます。北小路は、藤村の中に「抜きがたい差別観」があることを指摘します。「差別撤廃の時代はこないであろう」とする「見通し」から、藤村は丑松を「テキサスへの逃避」行に追いやったと手厳しく批判します。

島崎藤村の『破戒』を差別文書としてみる研究者や教育者は、野間や北小路とほぼ同じ見解に立っているように思われます。

しかし、筆者の目からみると、野間や北小路は、まさに、その点で、島崎藤村についても、その作品である『破戒』についても、解釈することにおいて、失敗しているのではないかと思われるのです。

明治女学校の教師を辞めた5年後、藤村は故郷・信州に戻り、小諸義塾に教師として勤めます。そして、7年間、教師をするかたわら、藤村は、小説『破戒』を執筆するために、資料収集と、小説のプロットを構築していきます。そして、明治38年小諸義塾を辞して、東京に出て、次の年明治39年『破戒』を自費出版します。

藤村は、小諸にいる間に、『破戒』執筆に必要な材料を収集していきますが、藤村にとって、各種新聞は、時代の流れを反映するものとしては貴重な資料でした。藤村が収集したと想定される新聞記事の切り抜きの中に、「大江磯吉」の記事と「西原清東」の記事がありました。大江磯吉も西原清東のいずれも「教師」でした。

島崎藤村の『破戒』の研究者は、「大江磯吉」の記事との関連性については異常なまでに研究しますが、「西原清東」の記事との関連性は、逆に、異常なまでに無視してしまいます。藤村の、想定される資料ノートから、「西原清東」を葬り去ることによって、「テキサス」というアメリカの州の名前は、完全に、『破戒』の文脈から浮いてしまいます。そして、「テキサス」という言葉が突如出現してくることに戸惑いを感じてしまいます。

京都部落問題研究資料センターの所長をしている灘本昌久は、《瀬川丑松、テキサスへ行かず》という論文の中で、『文学研究法』の著者L.T.ディキンソンが文学研究者がしてはならないと指摘する「作品そのものに関する問題のお株をうばうようなことがあってはならない」ことを大胆に実践してみせます。

灘本は、丑松のテキサス行きを「逃げていく」ことだと断定した上で、「瀬川丑松テキサスへ行かず」と、これまた、断定するのです。灘本による証明の過程は、学歴のない筆者にはよく理解することはできませんが、灘本がそのように断定する背後には、「大江磯吉」の生涯を、小説『破戒』の「丑松」に当てはめて解釈する所作があるのではないかと思います。灘本は、「大江磯吉は、テキサスへ逃亡しなかった。大江磯吉をモデルにした丑松もテキサスへは行かなかったに違いない・・・」、そんな主張をしているように思われます。

島崎藤村は、穢多出身の実業家や弁護士のプロトタイプも新聞の記事に求めたと思われます。

それが、西原清東という実在の人物です。

西原清東は、土佐藩出身。郷士の家に生まれたといいます。板垣退助の自由民権論に共鳴し民権運動の闘士なっていきます。明治19年弁護士試験に合格。国会開設以降は法廷闘争で敏腕を振るったといわれます。明治31年国会議員になり、翌明治32年には、同志社大学総長に就任します。しかし、明治35年(1902年)「日本で築いた地位と名誉を捨て渡米」(国際貿易投資研究所研究主幹・佐々木高成)したといいます。西原は、「土佐の人々をテキサスに呼び込んで農場を経営、大きな成功を納めた」といいます。

島崎藤村と西原清東の間には、共通点がかなりあります。

共に基督者であること。基督教主義の学校で教鞭をとっていたこと。当時の「武士階級」出身によって支配された基督教会に、ある種の失望感を持っていたこと。教職を捨てて、別な世界へ転身を図ったこと・・・、等々。藤村は、西原清東と彼をとりまく人間模様を、『破戒』の中に組み込んでいったのでしょう。

島崎藤村とその作品に関する研究者は、長い間、「大江磯吉」との関連性は研究してきましたが、「西原清東」との関連性は、知っていながら、完全に黙殺してきました。

日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」に立つ研究者や教育者、そして被差別部落の人々は、島崎藤村が、『破戒』の主人公・丑松に「土下座とテキサス逃避行」をさせたという点を捉えて、藤村の差別性を昔も今も糾弾してきました。

しかし、筆者は、島崎藤村が基督者であったという点を考慮して、「土下座とテキサス逃避行」を、宗教的な意味合いをこめて「告白と再生」の行為ではないかと考えます。

「告白」は、「罪人」であることの「告白」です。もちろんこの罪は、 crime ではなく sin なのです。「クライム」ではなく、「シン」なのです。社会に対する罪ではなく、絶対者に対する、「自分で自分を欺いて」「虚偽の生涯」を歩んできた精神的な罪の告白だったのです。

絶対者の前での「告白」は、「新生」を引き起こします。

丑松は、「今までの自分は死んだ・・・」そう認識しつつ、そのことの故に「新しく生きよう」とします。テキサスへ渡る・・・、それは、被差別からの逃亡ではなく、此岸から彼岸へ、差別の此岸から非差別の彼岸への旅立ちを意味しているのです。

歴史は事実を記述します。
しかし、小説は事実の背後にある真実を記述します。

ディキンソンはこのように言います。
「小説と歴史とを比較するのでなくて、人生と比較してみるとよい。われわれはある人をよく知っていると思っていても、事実は親友の間柄でさえ絶対に分からないことが多々あるのである。心の底をさらけ出すことをその人たちはよしとしない、のみならず、もしさらけ出したいと思ったところで彼ら自身知りはしないのだし、また表現することもできないのである。ところが上手な小説家はあらゆることを表現することができるのである。・・・小説を読むのは代替の経験であるが、しかもその経験は実際の人生や歴史の記録にある人生よりも広く深いのである。この意味で小説は誠にもって「真実」である。」

島崎藤村著『破戒』を十分に理解するためには、島崎藤村が内面に持っていた「葛藤」「解決の仕方」を把握しなければならないのです。藤村の「葛藤」「解決の仕方」のレベルまで、すべての読者は成長していかなければならないのです。成長した分、『破戒』は、それが持っている本当の意味を私たちに語りかけてくるのです。

「西原清東」を『破戒』の解釈から遠ざけてきたように、「大江磯吉」も遠ざけないと、『破戒』の持っている真実を把握することはできないでしょう。

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部落学から見た島崎藤村

【島崎藤村と『破戒』】4. 「部落学」から見た島崎藤村


『文学研究法』の著者・ディキンソンは、「われわれが小説を読むときは、われわれと作者との間に暗黙の約束ができ る」といいます。

約束というのは、「作者が語ることを想像上の真実として喜んでうけとりますという」読者側からの約束です。

その約束に対して、作者の方も読者に対して「約束の条件」を守るといいます。ディキンソンは、「約束の条件」を次のように述べます。

「その条件とは(1)物語の語り手として彼は物語の内容と如何なる関係にあるかを明確にする。(2)人物の中でどの人物の心の中に立ち入り、われわれに示してくれるかを明確にする。」

島崎藤村は、その作品である『破戒』の読者に対して、「物語の語り手として」、島崎藤村自身が「物語の内容」(穢多の末裔である丑松の生涯)と「如何なる関係にあるかを明確にする」必要があります。

藤村がそれをどのように表現しているかは、藤村が『破戒』を執筆するときの「視点」(viewofpoint)を見ればわかります。物語の視点とは、「語り手がその物語の架空の世界とどんな関係にあるか、また、その中の人物の心の中とどんな関係にあるか、ということ」(ディキンソン)です。

『破戒』の場合、藤村の「視点」、藤村が旧穢多の末裔である丑松とその世界にどのようにかかわっているかは、言葉の背後に隠されていると思われるのですが、明確な言葉で表現されていない以上、私たちは、藤村の言葉の背後に隠された「視点」を明らかにしなければなりません。

藤村と丑松の関係・・・。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」を空気のように前提として生きている部落史の研究者や教育者、そして、被差別部落の人々自身も、藤村と丑松の関係を、「差別と被差別」の関係でとらえてきました。藤村の視点は、丑松にむけられた「差別的な視点」であると断定してきました。野間宏は、『破戒』の著者・島崎藤村は、「多くの部落民の人たちを傷つけ、苦しめてきた・・・」といいます。そして、『破戒』という作品は、「厳しい批判を受ける必要がある・・・」といいます。

野間は、藤村によって描かれた丑松像は、藤村のつくり出した観念的な産物以外の何ものでもないと断定します。藤村の描く丑松像には、「部落民としての肉体」・「心理」を認識することができないといいます。藤村の描く『破戒』の丑松は、「藤村が自分の内面を託するために作り上げたられた人物にすぎない」といいます。ここで野間いう藤村の「内面」とは、「藤村の心のなか」にある「部落民を差別する」、藤村の差別性のことなのでしょうか・・・。

野間宏の解説は、用意周到に計画されて執筆された、文豪・島崎藤村の小説『破戒』を、「差別と被差別」という表層的な関係に引きずり下ろし、一片の差別文書に還元してしまう悪しきエネルギーに満ちています。

野間宏も、日本史学の差別思想である「賤民史観」に拘束されていることに気づいていません。野間は、「部落民」は、「人間ならぬ人間とされた」存在であるといいます。野間は、「部落民」は「天皇制によってつくりだされたもの」であると断言します。

野間は、丑松と志保のなかに、共通の悲哀を見いだします。

「天皇制が日本に確立」されていく過程の中での、「明治維新の犠牲者」の側面です。丑松と志保の二人を貫くのは、「同じ時代の犠牲者としての親近感」であるといいます。志保は「下級の士族」の末裔であったが故に、「穢多」の末裔である丑松に同情を持つにいたったとでもいいたいのでしょうか・・・。

島崎藤村は、『破戒』の中で、丑松に対して、一度たりとも、「部落民」という呼称は使用していません。丑松が穢多の末裔であることを「告白」する場面にあっても、藤村は、丑松に、「卑しい階級」とだけ表現させているのです。貴賤・尊卑という概念は、近世幕藩体制下にあっては、実体概念・本質概念ではなく、相対概念・関係概念なのです。身分上の序列だけを「告白」したのであって、野間がいうように、藤村は丑松に「人間ならぬ人間」として、「部落民」であることを「告白」させたりはしなかっのです。

野間宏の島崎藤村批判は、「賤民史観」に依拠する野間の一方的・独断的な藤村批判でしかないのです。

灘本昌久は、丑松の「告白」を、「堂々たる部落民宣言」と表現していますが、島崎藤村は、丑松を「穢多」の末裔として告白させていますが、決して、「特殊部落民」として告白させてはいないのです。

当時、行政の指導で一般的に使用されつつあった「特殊部落民」の背後にあるのは、いわゆる「人種起源論」でした。

明治政府は、日本の民衆を3種に分けて把握しようとしていました。「天子・諸侯」を除いて、つまり、天皇とその皇族、近世幕藩体制下の藩主を除いて、「士以下ヲ分テ三種族」に分類しました。「第一の種族」「士」「第二の種族」「農工商」「第三の種族」「穢多・非人」

明治政府の民衆支配は、「士」・「農工商」・「穢多・非人」として貫徹されるようになります。そして、明治政府は、「穢多・非人」に対して、「人民中ノ最賤族ニシテ殆ント禽獣ニ近キ者ナリ」とします。「死牛馬ノ皮ヲ剥キ・・・」をもって「穢多」と呼ばれたと近世幕藩体制下には見られなかった差別的な賤視を向けていきます。

藤村は、丑松の父親をして、丑松にこのように語らせます。

「・・・朝鮮人、シナ人、ロシア人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違い、その血統は昔の武士の落人から伝わったもの、貧苦こそすれ、罪悪のためにけがれたような家族ではない。」

しかし、近代日本の社会にあっては、日毎に、「穢多・非人」に対する蔑視の念が強まり差別的な状況がつくりだされていくことを畏れた丑松の父は、丑松に、出自の沈黙を説くのです。

藤村は、穢多の末裔を、「第三の種族」、別名「特殊部落民」とは決して呼ばないのです。

「穢多」の末裔が、「第三の種族」・「特殊部落民」に組み直され、近代日本の身分制度の最下層に貶められていく状況に、島崎藤村は、穢多の末裔・丑松の言葉と振る舞いをかりて、烈しく抗議していったのです。

野間は、丑松と志保の間に、「同じ時代の犠牲者としての親近感」を見いだしました。

しかし、野間は、その「親近感」を、『破戒』の著者・島崎藤村自身も共有していることを認識することができませんでした。藤村と「丑松と志保」との関係を、表層的な「差別・被差別」の関係でしかとらえなかったためです。

「丑松と志保」そして藤村の間で共有されている「同じ時代の犠牲者としての親近感」・・・、非常民の学としての「部落学」は、その「親近感」に、内実を提供してくれます。

『破戒』の著者・藤村と、その主人公「丑松と志保」が共有しているキーワード、それは、「零落」という言葉です。

「零落」とは何か、藤村は、志保の父・敬之進をしてこのように語らしめています。「わが輩の家というのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ・・・。ちょうど御維新になるまで。考えて見れば時勢は遷り変わったものさねえ。変遷、変遷・・・。見たまえ、千曲川の岸にある城跡を。あのなごりの石垣が君らの目にはどう見えるね。こう蔦や苺などのまといついたところを見ると、わが輩はもう言うに言われないような心持ちになる。どこの城跡へ行っても、たいていは桑畑。士族という士族はみんな零落してしまった。今日まで踏みこたえて、どうにかこうにかやって来たものは、と言えば、役場に出るとか、学校へ勤めるとか、それくらいのものさ。まあ、士族ほど役に立たないものはない。実はわが輩もその一人だがね。はゝゝゝゝ。」

「零落」とは、「身分や生活状態が下がって、みじめになる」(広辞苑)ことです。

下級武士であった志保の父と同じく、丑松も同じ経験を余儀なくされていました。

藤村は、「親を捨てた穢多の子は、堕落ではなくて、零落である」といいます。「親を捨てる」というのは、「親の歴史を捨てる」・「親が穢多であることを隠す」ことを意味しています。藤村は、それは、身分を下げることになるというのです。島崎藤村の言葉には、かなり意味深長なものがあります。

藤村は、丑松が、その父親が穢多であることを隠すということは、近世幕藩体制下の司法・警察官として仕えてきた父親をはじめとする先祖の歴史を放棄することに同意することになるというのです。丑松が出自を隠すということは、「非常民」であることを捨て平民に帰属することにほかならない、つまり身分を下げることにほかならないというのです。

穢多が穢多の歴史を引き受けて生きる。それは、零落に抗した生き方につながっていきます。

明治政府や権力によって、「第三の種族」としての「穢多・非人」として生きることを強制されているあり様に異議を申し立て、歴史の流れの中に、歴史の真実を訴えて立ち続けることを意味します。

ここに、『破戒』の著者・島崎藤村が、『破戒』の主人公・丑松に期待している姿があるように思われます。

藤村は、『破戒』の序曲から、丑松が、穢多である先祖の歴史を捨てるのではなく、その歴史を引き受けて、所与の人生を生き抜いていく姿で描写すると宣言しているのです。丑松にむけられる藤村の「視点」は、ここにあると思われるのです。

丑松も、志保も、そして『破戒』の作者である藤村も、近世幕藩体制下にあっては、その司法・警察であった「非常・民」に数えられた人々です。「非常」の際には、藩から与えられた十手をかざしてその御用にあたらなければなりませんでした。「非常」のときは、下級武士も、穢多も、庄屋等の村役人も、一緒に、協働しなければなりませんでした。庄屋の末裔である藤村と、下級武士の末裔である志保、穢多の末裔である丑松は、彼らが「非常の民」であるということにおいて否定し難い共通の歴史を共有しているのです。

島崎藤村と「丑松・志保」との関係は、差別・被差別の関係ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であることの共有関係なのです。いままで、島崎藤村の『破戒』の差別性を強調するあまり、島崎藤村と「丑松・志保」の間にある深い「共感」が見失われてきました。

水平社運動時の不幸な糾弾によって、島崎藤村の『破戒』は、作者の真意が覆い隠され、単なる差別文章に引き下ろされてしまいました。「穢多」の歴史が失われ、「穢多」が「特殊部落民」というおぞましい世界に突き落とされていく姿を、藤村は、同じ「非常民」として黙ってみていることができなかったのだと思います。

島崎藤村は、『破戒』を書くときに、既に、もうひとりの「非常民」について書く準備をはじめていたと思われます。それは、『破戒』の丑松の生きざまよりも、重厚な苦悩と悲しみに満ちた生きざま・・・、藤村の父親・島崎正樹をモデルとした、丑松と同じ「非常民」である、庄屋であり村役人である青山半蔵の生きざまです。郷里の座敷牢で狂死した藤村の父・島崎正樹をモデルとした青山半蔵の物語は『夜明け前』に結実します。

島崎藤村は、『破戒』に押しつけられた様々な誤解や中傷にもかかわらず、『破戒』を書いたときの「視点」を持ち続け、晩年に、大作『夜明け前』を完成させるのです。

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