2009.04.11

部落差別は語り得るのか

《読書案内》《総合目次》


【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第2項】差別と被差別
【その1】部落差別は語り得るのか

前項で、部落史研究にともなう<根源的制約>について言及しました。その<根源的制約>・・・、歴史研究一般においてそうであるように部落史研究においても、<歴史記述の客観性>を追究するために、それを阻害することになる<歴史記述の主観性>は常に批判検証され、歴史研究の<視点・視角・視座>は常に相対化されつづけなければならないのです。

今回、あらためて、<部落差別は語りうるのか>、<語り得るとしたらどのように語ることができるのか>・・・、考察してみたいと思います。

筆者、最近、インターネット上の古書店で流通している、部落問題・部落差別問題・部落史研究などに関する古書を検索することが多いのですが、現在、インターネットの古書店で入手することができる関連文献だけでも相当量にのぼります。

北海道から沖縄まで、あるいは、古代から現代まで、その関連文献を検索し、資金的ゆとりがあれば、それらの関連文献を入手することも不可能ではないでしょう。

しかし、それらをすべて入手したところで、<限られた人生>・・・、1人の学者・研究者・教育者が、部落問題・部落差別問題・部落史研究のすべての関連文献を読破し、個々の問題に精細に言及することなど、ほとんど不可能なことでしょう。

まして、無学歴・無資格、学問の世界、歴史研究の世界とはほとんど縁のない筆者の場合、被差別部落に関する諸問題すべてに精通して論述することなどありえないことがらです。

しかし、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆をはじめて以来、筆者の論述に、<時間的・空間的制約がある・・・>との批評はあとを絶ちません。そんな批評は、筆者が、インターネット上で『部落学序説』を公開する前の長い準備段階から、筆者にあびせられていた批評で、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢が、被差別部落に関する諸問題について言及するとき、必然的にともなってくる、<ありきたり>の<世間>からの批評に過ぎないとは思うのですが・・・。

確かに、『部落学序説』執筆の大きな動機は、近世幕藩体制下の長州藩・・・、周防の国と長門の国の、<被差別部落>の歴史と伝承に負っていることは否定すべくもありません。部落史研究者の書いた論文を自分の足で歩いて確認し、そこでであった<被差別部落>の人々の伝承に耳を傾けてきたことが、それまで、部落問題に関心のなかった筆者に関心を引き起こさたのは事実ですから・・・。

しかし、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、<時間的・空間的制約がある・・・>と評する方々にとって、<時間的・空間的制約がない・・・>、あるいは、<時間的・空間的制約を越えた・・・>、普遍的な、誰でもが納得できる、部落問題・部落差別問題・部落史研究は、これまで、どのうように、誰によって、構築されてきたというのでしょうか・・・。

インターネット上で読むことができる『被差別部落伝承文化論序説』の著者・乾武俊氏は、このように記しています。

「「全国六千部落」という。「自分はその半分の三千部落を歩いた」「二千部落に接した」という研究者に出会うことがある」。

乾武俊氏・・・、「そのたびに私は、絶望的になってしまう。私などいくらか知っている部落は50部落にも満たない・・・」とため息をもらします。

民俗学の立場から、著名な論文『被差別部落伝承文化論序説』を書いた乾武俊氏ですら、多分に、その研究成果に対して、<時間的・空間的制約がある・・・>と批判の対象にされる可能性があるのでしょう。

研究対象における、<3000部落><50部落>の差・・・、それは、圧倒的な、否定すべくもない差であると思われます。乾武俊氏曰く、「私はいまだに知らないことばかりだ。こんな私が、いま「被差別部落の伝承文化」について、諸説をのべる資格があるのだろうかと戸惑う」。

しかし、乾武俊氏・・・、「自分はその半分の三千部落を歩いた」「二千部落に接した」という豪語する研究者の研究に対して、乾武俊氏流の<疑義>を提示しています。

少し長い引用になりますが、乾武俊氏のことばです。

「たとえば3000部落を30年でまわるとすれば、1年100部落である。1部落3日間か。本も読まず、ものも書かず、ましてや人の前で話しなどせずに、古老の語りだけを聞き取りしながら、私の30年もそのように過ごせばよかった。そうすれば、「全国被差別部落の民俗伝承」の輪郭だけでも書き残せたのにと今になってつくづく思う。時は帰らない。各地の古老の語りは、なおさらに帰らないのである・・・」。

30年といいますと、大学・大学院を出て博士課程を取得してから許される学者・研究者・教育者として許された歳月です。その間、「本も読まず、ものも書かず、ましてや人の前で話しなどせずに、古老の語りだけを聞き取りしながら」過ごすことなど、誰にとっても不可能なことです。

仮に、「三千部落を歩いた」「二千部落に接した」・・・という学者・研究者・教育者のことばが真実であったとしても、<1部落3日間>の聞き取り調査によって、その被差別部落の歴史と民俗をどの程度まで聞き取りすることができるのでしょうか・・・。被差別部落の古老の信頼感を勝ち得て、その古老から真実を聞き出すことができる術を知っていても、<1部落3日間>で、その部落の歴史と民俗をすべて調べ尽くすということなど、最初から不可能なことがらではないでしょうか・・・。

柳田国男のいう、民間伝承の<採集方法の3形態>、<生活外形・生活解説・生活意識>、<目の採集・耳と目の採集・心の採集>、<旅人の採集・奇遇者の採集・同郷人の採集>のすべての側面を網羅することは、最初から可能性はないのです。

<凡人>でしかない部落史の学者・研究者・教育者は、<凡人>である筆者に対して、<天才>的な学者・研究者・教育者には可能である・・・というようなことを主張されますが・・・。

たとえ、<1部落3日間>・・・、飲まず食わずで30年間、被差別部落の古老の話を聞き取りして、その被差別部落の歴史と民俗をしらべあげても、30年後にそれを集大成する作業・・・、そんなに簡単にはすることができません。研究のため、30年間徒食するだけの財産が前提とされますが、そのような財産を保有している<富める人>が、部落史の学者・研究者・教育者の間に浸透する差別思想・賎民史観がいう、<生まれながらにして賤しき民>のことばに耳を傾けることができるのかどうか・・・。

『被差別部落の伝承と生活』の著者・柴田道子ですら、被差別部落の古老の聞き取りにおいて、柳田国男が戒めていた聞き取りの<禁忌>をおかしているのですから・・・。日本全国に散在する被差別部落の歴史は、<藩政>という観点からは多くの差異がみられますが、<幕政>という近世幕藩体制という観点からみれば、<差異>よりも<類似点>が多くみられます。

休むことなく、1部落3日間、被差別部落の古老から<類似>した歴史・伝承・民俗を聞かされては、「全国被差別部落の民俗伝承」聞き取り30年計画・・・、そのスタート時点の学者・研究者・教育者としてのこころの精気をどこまで維持することができるやら・・・。

乾武俊氏・・・、その論文の行間においては、その研究において、<時間的・空間的制約をとりはずす>ことの不可能であることを主張されているのです。

乾武俊氏曰く、「私の体力は、もはやそのような仕事には耐え得ない・・・」。

乾武俊氏の、学者・研究者・教育者としての<時間的・空間的制約>を認識・受容しての<妥協点>は、「すでに聞き取りを終えた具体的ないくつかの民俗事例から、それを手がかりにみんなが見落としていた、あるいは私たちの調査結果を読みちがえていると思われる、大事なことを問いなおすことだけはしておこうと思う・・・」ということになります。

無学歴・無資格、学問の世界とは何の縁もない筆者・・・、部落史研究においても、その研究に際して、どれだけ多くの史資料に接したかによって、その研究の質が決まるものではないと思います。通称6000部落の半分3000部落の史資料に接しているから、3分の1の2000部落の史資料に接しているから、その部落史研究は、評価され、一般説・通説として受けとめられなければならない高品質の研究論文になる・・・、とは思われないのです。

限られた史資料を通して、<歴史記述の客観性>を追究し、歴史の真実に迫る・・・。

それが、歴史学・民俗学などの学者・研究者・教育者に与えられた唯一の可能性であると思われます。無学歴・無資格、学問とはほとんど縁のない筆者にとっても・・・。

  

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2009.03.23

歴史記述の視点・視角・視座

《読書案内》《総合目次》


【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その4】歴史記述の視点・視角・視座

無学歴・無資格の筆者が、歴史研究の基本的な知識・技術として依拠しているのが、今井登志喜著『歴史學研究法』と、古島敏雄著『地方史研究法』であることは、繰り返し表明してきましたし、度々両論文から引用してきました。

この2冊は、歴史研究の基本的・伝統的な方法が紹介されています。

筆者の蔵書は、文庫本・新書版が圧倒的に多いのですが、この2冊の本も新書版で、東京大学出版会の「東大新書」に含まれています。

歴史研究の基本的・伝統的なこの2冊の本ですら、<歴史記述の客観性>について、楽観的な信頼を綴ることはありません。むしろ、その論文の至るところで、<歴史記述の客観性>を阻害することになる要因に対して常に警告を発しています。

史料に表現されていることは、<記憶によって再構成>されたものにほかならず、その史料には、その史料を記録した人の<視点・視角・視座>が否応なくまとわりついているのが普通です。

通常歴史研究は、史料の中から、歴史記述の主観的要素を取り除き、<生のままの歴史事実>を抽出しようとします。しかし、歴史研究の学者・研究者・教育者が、実証主義的研究法を駆使して、<生のままの歴史事実>を確定した・・・、といっても、そのことで、<歴史記述の客観性>が自動的に保証されるわけではありません。

「歴史は過去に対する現代の関心である」(『歴史學研究法』)ので、現在の歴史研究に際しては、その学者・研究者・教育者の現在の<視点・視角・視座>という、あるいは外部からの歴史研究に対する要請(運動団体・政治団体・教育団体・・・)という、<歴史記述の客観性>をそこなうことにつながる<歴史記述の主観>的要因がついてまわるからです。

そういう意味では、歴史研究は、常に、<歴史記述の主観性>を批判検証し、歴史研究の<視点・視角・視座>は常に相対化されつづけなければならないのです。「歴史学は・・・自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」(野家啓一著《歴史を書くという行為》)たらねばならないのです。

無学歴・無資格の筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆するに際して、筆者の<視点・視角・視座>をできるかぎり明らかにしてきました。『部落学序説』とその関連ブログ群に、執筆者たる筆者の<個人的な情報>が多々含まれるのは、筆者の<視点・視角・視座>について読者の方々に情報を提供すると同時に、筆者の<視点・視角・視座>をより明確に確立するためです。

それでは、<視点・視角・視座>とは何か・・・。

『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から何度も質問されたことがらですが、『部落学序説』第5章・水平社宣言批判の執筆をあらためて再開するにあたって、筆者のいう<視点・視角・視座>とは何なのか・・・、少しく説明しておきたいと思います。

筆者、正真正銘の無学歴・無資格ですので、大学・大学院等の高等教育機関において、歴史研究における<視点・視角・視座>について学んだことはありません。そのため、ここで<視点・視角・視座>について説明することは、またまた、歴史研究の学者・研究者・教育者の方々から・・・、とりわけ、彼らを代表するかのように、筆者の言説を批判してこられる、岡山の中学校教師・藤田孝志氏から、筆者が<誹謗中傷・罵詈雑言>としてしか受けとめることができない酷評を受けることになるかもしれません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、どれだけ、部落史研究の学者・研究者・教育者の方々(部落解放研究所編『部落解放史』全3巻の著者21名)の<代弁>に成功しているかどうかはわかりませんが、筆者・・・、典型的な無学歴・無資格・・・、本来、学問の世界、歴史研究の世界、部落史研究の世界とは無縁の存在ですので、筆者の<視点・視角・視座>を明らかにすることで、部落史研究の学者・研究者・教育者から<失笑>されることについて、臆する理由は何もありません(無学歴・無資格の筆者の居直り・・・)。

といっても、<無から有を呼び出す>ことは、筆者にはできませんので、<視点・視角・視座>とは何か・・・、そのことについて言及するために、この項の文章を書くときに最初に紹介申し上げた野家啓一著《歴史を書くという行為》を参考にして、考察をすすめていきます。

野家啓一氏は、「歴史記述は個人や共同体や国家のアイデンティティ・・・と切り離しがたく結びついている。」といいます。「アイデンティティの主張はナショナリズムの問題圏と接しており・・・否応なく政治性を帯びている。」そうです。

しかし、その「歴史記述の客観性」を損なう「主観的要素」のひとつ、「政治性」は、その歴史記述が、歴史研究の世界から歴史教育の舞台に移されるとき、「歴史記述」「正史」として認定され、歴史研究の批判対象からはずされていきます。歴史を学ぶものは、歴史研究の学者・研究者・教育者の「歴史記述」を、<公認された客観的歴史>として、受容・維持・発展させることが求められるようになります。

部落史研究についていえば、被差別部落のひとびとの歴史を、<賎民の歴史>とみなす<賎民史観>こそ、部落史研究の研究成果であり目的である・・・、ということになります。

部落史研究を<賎民史観>として描くときの歴史資料・・・、時空を越えて種々雑多な史料が存在しますが、部落史の学者・研究者・教育者は、<賤民史観>的部落史像を描くために有効な史料を取捨選択することになりますが、そのとき、野家啓一氏のことばの通り、「歴史家たちは、みずからの利害関心や動機づけにしたがって「語るに値するもの」、すなわちその時代にとって「意味」と「価値」を持つ出来事を選び出すのである。」

野家啓一氏、「それを決定するのが歴史家の「視点」・・・」であるといいます。

「そこには、すでに一種の価値判断が働いている」のであって、部落史の学者・研究者・教育者が、その研究主題の論究に必要な史資料を取捨選択する段階で、<歴史記述の客観性>を損なう<歴史記述の主観性>がしのびよってきているといえます。

そういう意味では、<部落史を語るときの視点>とは、種々雑多な関連史資料からどのような史資料を選択するか、そのときの判断基準であるといえます。部落史の一主題を研究するときに、幕府という中央政府の史資料に依拠するのか、諸藩の地方政府の史資料に依拠するのか・・・。あるいは、支配者である<武士>階級の資料に依拠するのか、被支配者の<百姓>階級の地方文書に依拠するのか・・・。あるいは、軍事・警察・司法などの、<殺生与奪の権>を行使することができる<非常民>の側の資料に依拠するのか、<非常民>によって逮捕・監禁・捜査・裁判・処刑の対象とされる<常民>の側の資料に依拠するのか・・・。部落史の主題を研究するに際して、どの史資料を採用するのか・・・、その判断の根拠となるのが<視点>です。

野家啓一氏は、その論文《歴史を書くという行為》の中で、<視角>という表現を用いることはありませんが、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者にとっては、<視点>によって、歴史記述のために選択された史資料を分析、批判検証していくときの方向性が、<視角>であると認識しています。

たとえば、女性史に関する論文を書くときを想定しますと、男性が書き記した史資料だけに基づいて女性史を書く場合と、女性が自ら書き記した史資料を集積して女性史を書く場合とでは、その歴史記述に大きな違いが出てきます。<女性史家の視点>は、種々雑多な史資料の中から、どのような史資料を取捨選択して女性史を記述しようとしているかによって明らかにされます。

取捨選択された女性史に関する史資料を、<男性の立場>から<男性の視線>で女性史を描くのか・・・、<男性の立場>から<女性の視線>で女性史を描くのか・・・、<女性の立場>から<男性の視線>で女性史を描くのか・・・、<女性の立場>から<女性の視線>で女性史を記述していくのか・・・、取捨選択された史資料の解析に向かうための方向性は、ひとつではありません。歴史の記述に際して、学者・研究者・教育者によって確定された方向性のことを、筆者、<視角>と呼んでいます。

どの<視角>をとるか・・・、そこにも、<歴史記述の客観性>を損なう可能性のある<歴史記述の主観性>が忍び寄ってきます。歴史研究における、学者・研究者・教育者の<視点>・<視角>は、その学者・研究者・教育者の「一種の価値判断」の結果であって、決して、没価値的な概念ではありません。

普通、歴史研究の学者・研究者・教育者によって、「生のままの歴史事実」を明らかにするために<視点>・<視角>が自覚されるのですが、その<視点>・<視角>は、歴史研究の学者・研究者・教育者が置かれた歴史と状況によって大きく左右される可能性が否定できませんので、ほんとうの「歴史学は・・・自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」であることを自覚し続け、歴史学の研究者としてのおのれのありようを常に批判検証することを怠らないのです。

それでは、<視座>とは何か・・・。

歴史研究にかかわる学者・研究者・教育者が、その<視点>・<視角>によって、史資料を選択、批判検証、分析と総合を遂行した結果生じる研究成果を<歴史記述>として叙述する場合、その学者・研究者・教育者によって選択された<枠組み>・<史観>のことです。

<権力史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか、それとも<民衆史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか・・・。<皇国史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか、それとも<唯物史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか・・・。

<視座>も、<視点>・<視角>と同じく、没価値的概念ではなく、むしろ、まったく逆に、本質的に価値概念であるといえます。

野家啓一氏によると、「歴史家の視座」は、「歴史を記述する主体の立ち位置(ポジショナリティ)」の問題であり、「時代精神や利害関心によって彩られ、ある種のイデオロギー性を帯びている」ことは否定できない・・・。歴史研究の学者・研究者・教育者も、その「視座」を選択するときに「歴史家の学問的実存」を賭けている・・・というのです。その「特定の視座によって開かれる時空」は、<歴史記述の客観性>を無条件に保証するものではなく、「関心の遠近法に沿った歪みを伴わざるをえない」といいます。

「生のままの歴史事実」は、歴史研究に携わる学者・研究者・教育者の<視点・視角・視座>によって、その歴史記述に際して、その客観性が常に危うくされ、損なわれている可能性に直面しているのです。

そして、その「歴史家の視座」は、時として、その<主観性の限界>・・・<客観性>が否定されることにつながり、「視座の転換」を求められる場合も少なくないのです。戦前の皇国史観、戦後の唯物史観・・・、その<歴史記述の客観性>が問われ、現在に至っていることは否定すべくもありません。

野家啓一氏は、歴史家の「視座の転換」は、皇国史観・唯物史観においてだけでなく、「西洋対東洋」「男性対女性」・・・という「二項対立を無効化」し、「これまでの歴史記述において忘却され隠蔽されてきた・・・声を発掘し、顕在化させることになった」といいます。「視座の転換は歴史の書き換えを要求せずにはおかない・・・」というのです。

野家啓一氏が、そう語る際に引用される上野千鶴子氏のことばは<強烈>です。

「ジェンダー史は、正史に対して「女性」という「見逃されてきた領域」(missing perspective)を付け加えることで正史の「真理性」を高めることに貢献するのではなく、自らの偏りを認めることで、返す刀で正史を僣称するものに対して「おまえはただの男性史にすぎない」と宣告したことになる」。

野家啓一氏は、その上野千鶴子氏の「指摘は、正鵠を射たものと言うべきであろう。その意味で、人種、民族、階級、人権といった概念もまた、ジェンダーの視点から再構成されねばならないのである。」といいます。

部落史研究における、学者・研究者・教育者が無条件の前提、部落史研究の枠組みとして採用している<賎民史観>は、<貴民>・<賤民>の「陳腐な二項対立」を前提とした、<貴民>の側からの差別的な<史観>に他なりません。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史研究の範疇に入るものではありませんが、上野千鶴子氏のことばをこのように借用することができるのではないでしょうか。「部落学序説は、部落史の正史<賎民史観>に対して、それぞれの時代の司法・警察に関与する「非常民」という「見逃されてきた領域」を認めることで、部落史の正史である<賤民史観>の「真理性」を高めることに貢献するのではなく、これまでその<賎民史観>によって教育され洗脳されてきた自らの偏りを認めることで、返す刀で、部落史の正史である<賎民史観>を僣称するものに対して「賤民史観よ、おまえはただの差別史にすぎない」と宣告したことになる」・・・。

《「言語論的転回」以後の歴史学》の著者・小田中直樹氏は、このことについては「日本の歴史学界は・・・ほぼ黙殺してきたといえる」といいます・・・。<歴史記述の客観性>の追究と<歴史記述の書き直し>を求めるのが、歴史学ではなく「隣接する諸学問領域に属する研究者」であったことは、歴史の皮肉・・・。「他領域の研究者が歴史学者の頑迷さを批判し、後者は前者の無理解に首をすくめるという光景が、各地で展開されることになった・・・」そうです。

「歴史学は・・・自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」・・・

無学歴・無資格、学問・歴史の門外漢である筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、最初から<序説>(プロレゴメナ)として、「自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」を内に抱え込んでいるため、『部落学序説』執筆の<視点・視角・視座>は、日本の歴史学に内在する差別思想である<賎民史観>の学者・研究者・教育者に対する批判検証の学であると同時に、筆者の自身自身に対する批判検証の学でもあります。

 

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2009.03.22

歴史記述の客観性の追究

《読書案内》《総合目次》


【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その3】歴史記述の客観性の追究

歴史学における「一般の常識」として、「歴史家の仕事は、過去の事件や状態を事実に即して客観的に記述することである・・・」ということがあげられます。

前々回に引用したことのある、加来彰俊著《歴史記述の客観性》という論文の一節です。

歴史研究の学者・研究者・教育者によって執筆される論文の<歴史記述の客観性>が保証されるためには、<客観性>の対となる<主観性>ができる限り排除されなければなりません。

しかし、歴史研究の成果である論文は、「事実という客観的要素と解釈という主観的要素とが複雑に絡み合ったもの」として存在しているので、歴史研究から、<主観的要素>を完全に排除することはできません。

もし、歴史研究の学者・研究者・教育者として、<主観的要素>を排除して、<客観的要素>のみで、その論文を組み立てている・・・と信じている人があるとすれば、その歴史研究の浅薄さ、通俗さを示すのみで、歴史研究の名に値しない論文であると推測せざるを得ないでしょう。

筆者が知りうる限りの歴史学者・研究者・教育者の多くは、<歴史記述の客観性>を保持するため、常に、<主観的要素><歴史記述の客観性>をそこなう可能性に留意し、それを自覚しながら、日々、<主観的要素>と闘い、<歴史記述の客観性>を追究してやまないひとびとです。

しかし、長い歴史研究の間には、最初<主観的要素>であったものが、いつのまにか、<主観的要素>の域を脱して、歴史研究の暗黙の前提になってしまうことがあります。一端、<暗黙の前提>が、歴史研究の学者・研究者・教育者によって受容されはじめますと、その<暗黙の前提>は、歴史研究の批判検証の対象ではなくなり、多くの学者・研究者・教育者によって、無批判に<自明の理>として通用するようになります。

加来彰俊氏が、「歴史家の主観的制約をなす視点の中から、可能なかぎり個人的要素を排除して行って、誰でもが普遍的に受け入れられるような、何か共通の一つの視点、いわば「歴史意識」一般のようなもの・・・」とよぶもの・・・、つまり、<史観>と呼ばれるものです。

筆者が、<日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観>として批判する<賎民史観>もそのひとつです。

筆者、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢ですので、歴史研究の論文をひもとくときは、その学者・研究者・教育者の、論文執筆における<客観的要素><主観的要素>を認識しようとします。どの部分が、歴史の事実で、どの部分が歴史の解釈なのか・・・。その解釈の、どの部分が、その学者・研究者・教育者固有の見解で、どの部分が<史観>に依拠した部分なのか・・・。その両者をどのように連絡をとろうとしているのか・・・。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者が、なぜ、そこまで意識しなければならないのか・・・。

筆者、部落差別問題に関与する前までは、部落差別問題にはほとんど関心がなく、自分のライフワークとして天皇制の問題にかかわっていこうとしていたからです。天皇制に関する論文を批判・検証するためには、そのような自問自答をすることを避けて通ることができなかったからです。

というのは、論文《日本の歴史思想》の著者・上横手雅敬氏(当時、京都大学教養部助教授)がいわれるとおり、日本の「近代歴史学」は、「天皇制の恐怖からの解放なしに・・・成立しえなかった」からです。<実証主義研究>は常に迫害され、日本の歴史研究の学者・研究者・教育者は、「長い受難の歴史」を生きざるを得なかったからです。

戦後、「長い受難の歴史」に終止符が打たれたといわれますが、しかし、戦後、学問の自由が保証されるようになってからも、<天皇制の恐怖>は、歴史研究の学者・研究者・教育者の自由な精神を拘束し、自主規制させるような力を発揮していた・・・、と考えられます。

現在の社会においても、「明治以降に作り出されたものに過ぎない国民感情論が持ち出され、国民の信条にさえ干渉が生ずる」可能性が多々存在しているからです。

そういう意味では、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢である筆者にとってすら、歴史に関する研究論文に目を通すとき、どの部分が、歴史の事実で、どの部分が歴史の解釈なのか・・・。その解釈の、どの部分が、その学者・研究者・教育者固有の見解で、どの部分が<史観>に依拠した部分なのか・・・、絶えず、自らに問いかけ、批判検証のいとなみをせざるを得ないのです。

期せずして、かかわるようになった、明治天皇制構築の流れと表裏一体の関係にある、部落問題・部落差別問題・部落史研究においても、その関連史資料・論文などを読むとき、どの部分が、歴史の事実で、どの部分が歴史の解釈なのか・・・。その解釈の、どの部分が、その学者・研究者・教育者固有の見解で、どの部分が<史観>に依拠した部分なのか・・・、自らに問いかけざるを得ないのです。

『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者・・・、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢ではありますが、このような姿勢は、筆者の<歴史に対する間違った態度・姿勢>などではなく、歴史研究に責任をもって、主体的にかかわっておられる歴史学の学者・研究者・教育者によって、その論文・書籍を通じて<間接的>に教示されたものにほかなりません。

ですから、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して採用している歴史研究法は、歴史研究の常道をたどるもので、決して、そこから逸脱して、<恣意的な解釈に自己満足>しているわけではありません。

筆者が、現代部落史研究の成果として採用しているのは、『部落解放史・熱と光を』の上・中・下の3巻です。全1000ページを越え、上田正昭・和田萃・井上満郎・横井清・寺木伸明・中尾健次・生瀬克己・布引敏雄・桐村彰郎・秋定嘉和・黒川みどり・白石正明・八箇亮仁・灘本昌久・城間哲雄・藤野豊・村越末男・渡辺俊雄・三輪嘉男・梅原達也・友永健三の21名の学者・研究者・教育者によって執筆されたものです。

1989年出版ですから、いまからちょうど20年前・・・の部落史研究に依存していることになります。

それらの部落史の学者・研究者・教育者の種々雑多な論文を、ひとつにまとめているもの・・・、部落史研究の、研究成果を収める枠組みを、筆者、<日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観>とよんでいるのです。

それらの21人の学者・研究者・教育者は、高学歴・高資格、歴史の専門家、しかも、部落解放運動を視野にいれての部落史研究をされている方々・・・。その彼らが、『部落学序説』とその関連ブログ群で、筆者が<差別思想>であると指摘する<賎民史観>を、何ら批判検証することなく、<暗黙の前提>として採用しているというようなことが、一体、ありうるのか・・・、『部落学序説』の読者の方からときどき、問いかけされますが、筆者、大いにあり得ることであると思われます。

日本人が、「天皇制の恐怖」を前に、歴史の事実・真実を追究する、歴史研究の学者・研究者・教育者としての良心を捨て、「皇国史観」の国民の精神に対する注入機関に甘んじていた、歴史学の学者・研究者・教育者自身の歴史は、遠い昔の過去のできごとではないからです。

そして、その「天皇制の恐怖」は、亡霊のごとく、現在においても、歴史研究の学者・研究者・教育者の精神の奥深くに宿っているからです。

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2009.03.21

部落史における歴史記述の客観性

《読書案内》《総合目次》


【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その2】部落史における歴史記述の客観性

「客観性を尊重しない学問などはない・・・」

宮崎市定著《中国の歴史思想》の中に出てくることばです。

歴史学は、歴史に関する<学問>(科学)のことですが、<学>という名称をつけている以上、歴史学は、その研究対象たる史資料に対する研究だけでなく、その歴史学がよって立つところの前提に対する批判・検証をそのいとなみのうちに内包しています。

<歴史とは何か>、<歴史研究とは何か>・・・。歴史学は、その問いに対する答えを、他の学問に他律的に求めるのではなく、自立的に、みずから、<歴史とは何か>、<歴史研究とは何か>・・・、をあきらかにしようとします。

そのような問いは、筆者のような、無学歴・無資格、歴史の門外漢にとっては、避けて通られがちな問題になります。

「一般の人にとっては歴史事実は始めからそこにあった自明のもの・・・」として受けとめられるのが常です。その歴史的事実は、歴史学の学者・研究者・教育者の学問的研究によって、ただしく研究され、「一般の人」が全面的信頼をもって受け入れることができるものとして提示されていると考えられています。

しかし、「一般の人」が、歴史研究の学者・研究者・教育者の論説に問題意識をもって、批判検証をはじめるとしたら、歴史研究の学者・研究者・教育者にとっては、プロフェッショナルな歴史学の専門家に対する<極めて不遜な挑戦>としてうけとめられることになるのでしょうか・・・。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である「一般の人」は、歴史の専門家である学者・研究者・教育者の書く論文に耳をかたむけ、ありがたく受容するだけでいい・・・、それを、<しろうと感覚>で疑義を持ち、批判するなどもってのほか・・・、そんな雰囲気がいたるところに漂っているようです。

宮崎市定氏は、その論文《中国の歴史思想》の冒頭で、このように記しておられます。

「あらゆる学問の中で、歴史学はとりわけ客観的具体性を尊重する学問である。もちろん、客観性を尊重しない学問などはないであろうが、私の言いたいのは、歴史学は、生のままの歴史事実を尊重する点にある・・・」。

現存する、あるいは、今は隠蔽されているがやがてその存在が明らかにされる史資料を含めて、その史資料の背景にある「生のままの歴史事実」・・・。歴史学が、学として存在し続けるためには、この「生のままの歴史事実」に肉薄し、歴史の事実・真実にたどりつこうとする学問的情熱が要求されます。

「生のままの歴史事実」に対する関心を喪失したり、その追究を断念したりする、学者・研究者・教育者は、もはや、歴史学の研究者の名に値しないといっても過言ではないでしょう。

「生のままの歴史事実」に置き換えて、ある特定のイデオロギー、たとえば、皇国史観とか唯物史観とかによってつくりだされたアドホックな用語に置き換えるとしたら、それは、歴史学の研究者が、研究者であることを放棄して、「一般の人」の水準に歴史学を引き下げることになるでしょう。

宮崎市定氏は、「歴史学では、歴史事実を生のままで、即ちそれだけを全体から切り離したり、独立させたりしないで、全体につながったままで使い道を考えるのである。だから歴史学では、凡ての場合にあてはまるようにと、抽象的なことばで総括することはあまり役に立たない。」といいます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、部落史研究の学者・研究者・教育者が、「生のままの歴史事実」(たとえば、<穢多>・<非人>・・・)を「生のままの歴史事実」として受けとめ続ける、歴史学本来の研究上の姿勢を放棄して、「凡ての場合にあてはまる」、便利な、「抽象的な言葉」、<賎民>として「総括」することは、「あまり役に立たない」どころか、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての<穢多>・<非人>を、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>、<賎民>として認識することは、歴史研究にたずさわる学者・研究者・教育者によってなされる、学問上の差別再生産の悪しきいとなみとして映ります。

宮崎市定氏のいう、「客観的具体性を尊重」するためには、部落史の学者・研究者・教育者は、<賎民>という、差別的な概念の枠組みを最初から設定しないで、「生のままの歴史事実」は、「生のままの歴史事実」として受けとめ続ける必要があります。

どうしたら、「生のままの歴史事実」「生のままの歴史事実」として認識し続けることができるのか・・・。

宮崎市定氏は、「その生のままの歴史事実をうかむためには、別のなまのままの歴史事実を手助けとしてもってこなければならない。」といいます。つまり、Aという「生のままの歴史事実」は、Bという「生のままの歴史事実」によって、相対化されなければならない・・・、というのです。

宮崎市定氏によれば、「生のままの歴史事実」の相対化の飽くなき連続こそ、歴史研究の本質であるといえます。「生のままの歴史事実」を徹底的に相対化し続けること・・・、それこそが、歴史研究にたずさわる学者・研究者・教育者の本来的なありようです。宮崎市定氏曰く、「歴史学は、いつまでたっても生の歴史事実から離れられない学問なのである」

部落史研究において、その学者・研究者・教育者が、「生のままの歴史事実」である、近世幕藩体制下の司法警察である非常民としての<穢多・非人>を、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>、<賎民>とラベリングして、<穢多・非人>に、すべての<賎民>の負の遺産を押し付け、それでも、<賎民>は、差別とたたかい<脱賎>を勝ち取っていった・・・、と自家撞着的に解釈することは、本来の歴史研究からの明白な<逸脱行為>であると思われます。

部落史研究を<賎民史観>的研究に貶めたもの・・・、それは、部落史の学者・研究者・教育者が暗黙の前提として、かえりみることがなかった、学者・研究者・教育者自身の内なる<差別性>そのものに起因します。

  

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ゆらぐ歴史記述の客観性・・・

《読書案内》《総合目次》


【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その1】ゆらぐ歴史記述の客観性・・・



『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して、筆者、繰り返し、<無学歴・無資格>を表明してきました。

<無学歴・無資格>は、大学等の公的高等教育機関において勉学する機会をあたえられることがなかった・・・、そのため、高等教育を通じてなされる、保守的イデオロギーあるいは革新的イデオロギーをその精神に<注入>されることはなかった・・・ということを意味しています。

そのため、歴史学ないし歴史研究の枠組みにも拘束されないで、目にすることができる史資料を、比較的自由な精神のつばさで散策することができる・・・、という、<無学歴・無資格>のプラスの面をも持ちあわせている・・・、ということの表明でもあります。

そのため、筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から、繰り返しいただいた、<無学歴・無資格を標榜することは自粛した方がいいのではないか・・・>という善意にみちたアドバイスに対して、また<無学歴・無資格を標榜することは、自らを卑下することであり、差別問題を語るものにはふさわしくない・・・>として、筆者に向けられてきた悪意に満ちた<誹謗中傷・罵詈雑言>に対して、筆者、<無学歴・無資格>の立場を堅持すると宣言してきました。

『部落学序説』第5章・「水平社宣言批判」の執筆を再開するにあたって、<無学歴・無資格>、歴史研究の門外漢、部落史研究のしろうとでしかない筆者の立場から、<歴史記述の客観性>について、もういちど、考察しておきたいと考えて、この文章から、筆をおこすことにしました。

<歴史記述の客観性>については、すでに、『田舎牧師の日記(Ⅱ)』の「歴史研究法と歴史相対主義」という文章をしたためています。そのときは、部落史研究という<個別史>ではなく、すべての歴史研究に共通する<一般史>を前提に言及しました。

今回は、部落史研究という<個別史>の世界に限って、<歴史記述の客観性>について言及してまいりたいと思います。

<歴史記述の客観性>について考察するために、筆者が比較研究の対象として參照する論文は、加来彰俊著《歴史記述の客観性》(1963年)と、野毛啓一著《歴史を書くという行為-その論理と倫理》(2009年)の二つの論文です。

前者は、筆者が高校生のときに読んだ人文書院版『講座哲学大系』の『第4巻歴史理論と歴史哲学』に収録された論文、後者は岩波講座『哲学』の『11歴史/物語の哲学』に収録されている論文です。そのふたつの論文が執筆された時の間に、46年という歳月が横たわっています。

その46年という歳月の間に、日本の歴史学あるいは歴史研究が、どのように<発展・発達>していったのか・・・、<無学歴・無資格>の筆者、寡聞にしてなにも知りません。

ただ、偶然、筆者が目にすることになった、二つの論文、西日本と東日本、昭和と平成という時空を越えて、いずれも、<歴史記述の客観性>について、<疑義>を提示しています。

歴史学ないし歴史研究のプロフェッショナルに属する人々は、歴史学ないし歴史研究の基本的な理解として、<歴史記述の客観性>について、批判的に考察し、自らの歴史研究の営みとその研究成果について、<歴史記述の客観性>を保持していると、強弁することを控えてきた・・・と言えるでしょう。

このことは、部落史という<個別史>の研究においても言えることです。

ほんとうの、歴史学の学者・研究者・教育者は、その歴史研究において<歴史記述の客観性>を暗黙の前提として、そのいとなみを続けることはできない・・・、と思われます。しかし、部落史研究に限っていえば、その歴史研究に対しては、<外から目的を課する>という、部落史研究という<歴史研究>に対する<外圧>・・・、部落解放の運動団体や政治団体、その<御用学者>になりさがった研究者集団によって、<歴史記述の客観性>として<賤民史観の強制>が行われきた・・・、ということは、否定すべくもありません。

加来彰俊氏のことばに、このようなことばがあります。「歴史に外から目的を課することは、歴史の尊厳を傷つけるばかりか、歴史のそもそもの存在理由である、事実と空想の区別さえも曖昧にする結果をもたらす・・・」。

今日の古代・中世・近世・近代・現代の部落史研究を通じて、一般的に部落史の学者・研究者・教育者によって、部落史研究の前提として採用されている<賤民史観>は、歴史の<事実>を否定し、被差別部落の民衆に対して、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>とラベリングする営みに他なりません。

戦後の同和対策事業・同和教育事業施行の対象となった、その当時の被差別部落の人々が置かれた社会的・経済的低位の状態を、歴史的・理論的に根拠づけるものとして、拡大再生産されていったものが、この、それ自体が典型的な差別思想である<賎民史観>です。

「教訓という目的に役立つためなら、空想の方が事実よりまさる場合だってある・・・」。

部落史研究の目的は、被差別部落の歴史を客観的・実証主義的に検証して、部落差別完全解消のために、学者・研究者・教育者として、史料の発掘と、あらたな歴史像を構築していく責務があったにもかかわらず、場当たり的に人権教育・同和教育を糊塗してきた人々は、奥深いところにある<歴史の事実>・<歴史の真実>ではなく、人権教育・同和教育の「教訓」のみを安易に抽出する愚をおかしてきたと思われます。

歴史学・歴史研究における「一般の常識」は、「歴史家の仕事は、過去の事件や状態を事実に即して客観的に記述することである・・・」と信じていますが、<歴史記述の客観性>を学問的に担保するためには、「過去の事象について正確な知識」が必要です。

「歴史家が「あったことをあった通りに」語るためには、言うまでもなく、「あったこと」について正確な知識を所有していることが前提になる・・・」といいます。しかし、加来彰俊氏は、多くの場合は、「過去の事象について正確な知識を持つことができる」可能性を持つことは「不可能・・・」であるといいます。

その理由は、歴史学ないし歴史研究の主体となる学者・研究者・教育者は、その研究に際して、何らかの「前知識」・「主観」から自由になることができないからです。

それは、部落史研究の世界においてもいえることで、部落史の学者・研究者・教育者は、「自分が直接に経験することができない過去の事象について、つねに史料を媒介にしながら間接的に推理するより他はない・・・」のであって、「意識的たると否とを問わず、事実の解釈には、歴史家の主観が入らざるを得ない・・・」のです。

その<主観>が、部落史の学者・研究者・教育者の<視点>を形成し、それが集団の中で累積されることで<史観>が構築されていきますが、戦後の部落史研究において、部落解放をめぐる運動団体・政治団体・教育団体などの<外圧>によって、<特定の時代の特定の立場から見られた事実の一つの解釈>にすぎない<史観>が、部落史の歴史の事実・真実であるかのように、国民のすべてに、その理解と受容が強制されてきたものが、筆者がいう、<差別思想である賎民史観>に他なりません。

筆者は、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢であるにもかかわらず、部落史研究の学者・研究者・教育者の世界で、なんら批判検証されることなく、暗黙の前提として受容されるに至っている、部落史研究の枠組み・・・、史観・・・を、<差別思想である賎民史観>として、<部落学>の批判の対象にしているのです。

歴史研究における、<歴史記述の客観性>を重んじるがゆえに、偽りの、真ならざる<歴史記述の客観性>を批判検証・・・、部落史の学者・研究者・教育者の精神世界奥深くに内在する<差別思想である賤民史観>をとりのぞこうとしているのです。

  

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2007.12.24

『部落学序説』とその関連ブログ群のアクセス解析

《読書案内》《総合目次》

(1)アクセスの全体的傾向

Graph0711_3   

統計・・・

とかく、統計上の数字は、都合のいいように解釈される傾向があります。

今回、それを懸念しつつ、ココログの「アクセス解析」の統計上のデータを使用して、『部落学序説』とその関連ブログ群を解析してみたいと思います。

上のグラフ「月別アクセス数」は、ココログの「アクセス解析」のデータをもとに、EXCELLのグラフ機能を使用して作成したものです。期間は、ココログの「アクセス解析」のデータが保存されたはじめた、2006年6月から2007年11月までの月単位の「アクセス数」と「訪問者数」です。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、いくつかのブログで構成されていますが、どのブログも上記グラフと同じように描画されますので、サイト全体のデータのみを掲載しました。

元のデータは、右表に掲示しました。 Grp007121   

上のグラフは、EXCELLのグラフの種類の「対数」を使用したものです。このグラフによると、『部落学序説』とその関連ブログ群のアクセス件数は「微増」を続けています。

有名サイトのブログと比べますと、『部落学序説』とその関連ブログ群は、ほとんど認知されていないブログに入ります。内容が内容ですし、社会的には、「誰でもが避けて通りたい問題・・・」ですから、当然といえば当然なのですが、今後も、マイナーからメジャーに移行することはほとんど可能性がないと思われます。

上のグラフをみると、「微増」している部分と「停滞」している部分がありますが、「停滞」している部分は、『部落学序説』に新しい文章を掲載していない時期と重なります。次から次へと新しい文章を掲載していけば、「停滞」状態を脱出して「微増」を続けていくことができるのではないかと思われます。

やはり、書き続けていくことが大切であると思われます。

ココログの上記統計期間の間、『部落学序説』とその関連ブログ群に対して、罵詈雑言・非難中傷が浴びせられた時期がありますが、その影響は、通常のグラフ上でははっきりと確認することができます。しかし、グラフの種類を「対数」とすることで、それらの影響は極小化することができます。

川の流れの中の小さな岩でしかなかったということでしょうか・・・。筆者にとってなすべきことは、『部落学序説』の執筆計画通りに執筆を継続していくことでしょう。


(2)訪問者の地域的傾向


07123 『部落学序説』とその関連ブログ群の訪問者の地域的分布・・・、まず大域的にみてみましょう。右の円グラフは、東日本と西日本のアクセス数を比較したものです。東日本は東京を含みますので、速断はできませんが、西日本より東日本の方がアクセス数・訪問者数が多いのは意外です。

「被差別部落は西日本に多い・・・」と言われますが、『部落学序説』の訪問者ついていえば、東日本と西日本の間で、地域的なかたよりはなく、全国からのアクセスがあります。『部落学序説』の解釈原理、「新けがれ論」・「非常民論」は、日本全体を視野に入れての論述であるため、当然の結果といえば当然です。部落差別問題を、西日本、特に、大阪をはじめとする近畿に特化して考えるのは間違いであると思われます。

07122県別のアクセスデータは、左の表の通りですが、上位15位までと下位5位を掲載しました(統計対象は、ココログの「過去4カ月間」のデータ・・・)。

なぜ、上位15位までに限定したのか・・・、それは、中国地方(広島・岡山・島根・鳥取・・・)からのアクセスが予想以上に少ないということを強調するため。

最近、中国地方の某県の<同和教育研究協議会>で、明治初期のキリシタン弾圧で、「穢多」が宗教警察機能をになっていたことを証明する資料の存在が明らかにされたとか。問題の深刻さから一般公開しづらい資料のようですが・・・。

中国地方(広島・岡山・島根・鳥取・・・)からのアクセスが少ないのは、『部落学序説』とその関連ブログ群を無視した結果ではなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究に取り組んでおおられる学者・研究者・教育者の数の少なさに由来するようです。

山口県内からの訪問者は、既に限定されて久しくなります。あまり訪問者数は増加していません。


(3)アクセス数増加に協力してくださったサイト

ココログの「アクセス解析」から、『部落学序説』とその関連ブログにリンクして、『部落学序説』とその関連ブログ群のアクセス数の増加に協力してくださったサイトは以下の通りです。

07124全アクセス数の6.5%に達します。ココログの「アクセス解析」過去4カ月間のデータを手作業で集計しました(上位7位まで)。

この7サイトは、過去4カ月間だけでなく、それ以前に大量のアクセス者を出してくださったサイトです。

筆者は、来年早々60歳になりますが、あまり、2チャンネルの世界には足を踏み入れることはありません。また、ネットサーフィンを楽しむ年代でもありません。しかし、通算しますと、2チャンネルサイトからの『部落学序説』とその関連ブログ群に対するアクセスは決して少なくありません。最近は、というより、当初から、『部落学序説』とその関連ブログ群に対する批判はほとんどありません。まして、罵詈雑言・非難中傷といった類の言葉も少なかったように思われます。最近、2チャンネルについての筆者のイメージが<変質>しはじめています。

全アクセス数の93.5%は、『部落学序説』とその関連ブログ群からのアクセスです。

一般的に、ブログのアクセス数を増やすには、トラックバックを利用した方がいい・・・、と言われますが、筆者は、あまりトラックバックを利用することはありません。

なにしろ、『部落学序説』の内容が内容ですから、恣意的にトラックバックを設定することでかえって迷惑をおかけすることもあるかもしれないと、自粛している次第です。

ついでに。アクセス数を増やすためには、文章題を適切なものにする必要があります。最近の『部落学序説』の「水平社運動史の批判的研究(その1)」、「・・・(その2)」というような題名の付け方は、アクセス数増加を無視した付け方です。


(4)ブログ別アクセス件数

071252005年5月14日に執筆を開始して以来の『部落学序説』とその関連ブログ群の累計アクセス件数です。

開始直後は、ブログの操作方法、ブログを論文執筆ツールとして転用する方法が分からず試行錯誤していましたので、アクセス件数は何度かリセットされています。実際のアクセス件数はもう少し増えます。

ブログ「被差別部落の地名とタブー」と「ある同和対策事業批判」は、『部落学序説』第6章を先取りして執筆したもので、本来、『部落学序説』の一部です。

ブログ「紀州藩城下町警察日記を読む」は、筆者が、『部落学序説』の執筆を優先させるため、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の方々と執筆分担して、筆者が手をひいたためです。『部落学序説』執筆が完了しましたら、『部落学序説』の研究方法を駆使して、「紀州藩城下町警察日記」を体系的に批判検証したいと思っています。

その他は、「遊女と穢多」、「教会の怪奇現象」、「実験動物教育学」、「被差別部落の詩人・松本淳の旅(写真集)」などのブログを立てたときの残滓です。現在は、削除されていますが、『部落学序説』のあと、執筆を再会する予定です。

ときどき、すべてのブログのリアルタイムのアクセスを計算して、『部落学序説』の累計アクセス件数と数字が合わないと指摘される方々がおられますが、『部落学序説』の累計アクセス件数の数字は、適当な時に(アクセス数が1000件増えるごとに)、ココログの「アクセス解析」の「サイト全体(合算)」の数字を手作業で転記しています。


(5)読者によってよく読まれる文章


07126_5
まず、『部落学序説』の文章を取り上げることにしましょう。

文書単位でみますと、一番訪問者数の多いのは、「白山信仰と穢多」です。

そのあとに続く文章は、すべて「白山信仰と穢多」の問題に光をあてることになる文書群です。

『部落学序説』とその関連ブログ群が、西日本の人々より東日本の人々によって、より多く読まれている秘密は、この「白山信仰と穢多」が、読者の方々に何事かを語りかけているためではないかと思われます。

07127
この4カ月間、訪問者数が一番多いのは、『被差別部落の地名とタブー』の文書群です。

「禁忌」(タブー)についての文章が、読者の方々に何らかの問題提起をしているようです。

このブログは、『部落学序説』第6章で取り上げる予定のものを先取りして文章化したものですが、『部落学序説』・・・、歴史学の書ではないにもかかわらず、時間系列で文章を書いています。近世から近代、近代から現代へと、論点がシフトしていくに従って、アクセス数・訪問者数が増加していく傾向にあります。

より、現実的な部落差別問題に、より実践的な解決を提供していく可能性があるからではないかと思っています。

「差別戒名」についても、新しい視点・視角・視座から論じる予定です。

07128
『ある同和対策事業批判』、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々にとっては、関心があるようでない・・・、というか、食傷ぎみではないかと思われます。

過去の同和対策事業を批判するより、これからの部落解放運動へに可能性を模索する読者の方が多いような気がします。

『部落学序説』第6章・同対審答申批判で、あらためて、根源的にとりあげる予定ですが、過去は過去のことがらとして、きっちり批判・検証していくつもりです。しかし、今日一般的に行われている過度な批判に組みすることはありません。あくまで、史料・論文に対するテキスト批判としてとりあげる予定です。

07129
ブログ『田舎牧師の日記』は、『部落学序説』とその関連ブログ群に対する、読者の方々からの批判を直接反映させることを防ぐため、質疑応答の場として設定したものですが、最近は、『部落学序説』執筆がすすまない理由を並べ立てるような文章が多く、その内容については反省することしきり・・・。中には、筆者の<差別・被差別>についての本心を綴った文章も含まれているのですが・・・。

『部落学序説』とその関連ブログ群の読者と『田舎牧師の日記』の読者は、必ずしも一致していないような気がします。


(6)「誤解された渋染一揆」・・・


『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から、「一度、公表した文章は、読者に内緒でリライトしない方がいい・・・」との助言を受けました。

それぞれの文章には、執筆したときの状況が反映されていますので、あとからリライトして合理化しますと、「気の抜けたサイダー」のようになる・・・、というのです。

筆者もその通りであると思いましたので、リライトは、中止しました。

被差別部落の地名・人名をめぐる、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々との論点の相違も、そのままの形で温存しています。論点の相違をどのように克服していったか、行間から読み取っていただければ幸いです。

数日前、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の方から、FAXをいただきました。それは、「部落解放・人権研究所歴史部会1月例会のご案内」という文書です。

日時:2008年1月19日
場所:大阪人権センター
主題:渋染一揆、被差別民衆が柿渋染を拒絶した思いを正しく認識するために
講師:久保井規夫(桃山学院大学非常勤講師・元中学校教師)
要旨:渋染一揆に関わって、一部、「渋染の色は人をはずかしめる色か」との節があるが、これは、史実をゆがめているとして反論したい。この節は、渋染・藍染の色の解釈、無紋の前提を無視し、特定の染めに限定された意味、中世からの習俗を否定、別段の意味などに正しく答えていない。何よりも、岡山藩被差別民衆が、別段の渋染強要に反対した思いと行動が無視されているからである。歴史教科書で、唯一、近世身分差別への抵抗として記載されてきた渋染一揆の意義が歪められることを危惧し、今回の報告を行う。


講師の久保井規夫氏は、1989年、今から約20年前、大阪府の中学校教師であったとき、「渋染・藍染は人間をはずかしめる色」という文章を書きました(『江戸時代の被差別民衆』)。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、久保井規夫氏の文章は、論理的矛盾と意図的な操作が内包されています。

その文章を、10年後の1998年、福岡県の高校教師の住本健次氏から、同じ学校教師の立場から、「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か 「渋染一揆」再考」という論文で批判されます。

それは、高校教師からなされた、小中学校に配布されている同和教育の教材に記された渋染一揆い関する批判でした。住本健次氏は、「歴史の事実をまげて教えてはならない」と厳しく、徹底的に批判を展開します。しかも、「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色」という文章を書いた中学校教師・久保井規夫氏に対して、名指しで批判します。

筆者は、『部落学序説』執筆のための研究方法として、「学者のA説と反A説を比較検証して、いずれかの立場を取り込む形で論を展開する・・・」と宣言していますが、渋染一揆の渋染・藍染については、A説(久保井規夫説)・反A説(住本健次説)を比較検証し、住本健次説が正当であると判断しました。

そして、今回、さらに10年後の2007年・・・、元中学校教師・久保井規夫氏が、高校教師・住本健次氏の「反A説」を論駆するとの報に接したのです。

住本健次氏は、久保井規夫氏と論争するつもりはないのでしょうが、かって、高校教師に論調において敗北を喫した久保井規夫氏は、私立大学の非常勤講師の肩書のもと、高校教師の住本健次氏に対して、「リベンジ」するかのような姿勢で、かっての雪辱をすすぐというのです。

10年単位での論争・・・。

十年一日の如く、「渋染一揆の渋染・藍染の色は人をはずかしめる色」を主張する久保井規夫氏の執念・怨念・・・。動機は、「歴史教科書で、唯一、近世身分差別への抵抗として記載されてきた渋染一揆の意義」を死守することにあるようです・・・。

久保井規夫氏は、「差別に抗う素晴らしい闘い」として、渋染一揆を極度に美化しているように思われます。一見、「被差別民衆」を解放するように見えながら、その本質においては、「被差別民衆」を裏切り、「被差別民衆」を「被差別」という鉄鎖につなぎ止める思想を吹聴しているように見えます。その破れに、久保井規夫氏自身が気づいていない・・・、というところに問題の深刻さがあります。久保井規夫氏の『江戸時代の被差別民衆』が、いまもなお、小中学校の教育現場で教材として使用されていたとしても、それは、久保井規夫の歴史理解が正しいという保証にはなりません。

部落解放・人権研究所歴史部会の方々・・・、久保井規夫氏の「渋染一揆再考への反論」をすんなり通すことはないと思うのですが・・・。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多・非人」が、その職務に誇りと責任をもって生き抜いていった事例は日本全国津々浦々に存在していると思います。久保井規夫氏が、見ても見ようとしない、聞こえても聞こうとしないから、問題の本質が把握できないのだと思います。

ココログのアクセスログを追跡していくと、いろいろなことが見え始めます。

部落解放・人権研究所歴史部会でどのような研究「報告」がなされるのか・・・、多くを期待しないで待つことにしましょう。元中学校教師・久保井規夫氏の「渋染一揆の渋染・藍染の色は人をはずかしめる色」という文章は、最初から、論理的に破綻しているからです。

しかし、アクセス解析はほどほどにして、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に力を注ぐことにしましょう。


(7)訪問頻度と訪問周期

ココログの「アクセス解析」には、「訪問頻度」と「訪問周期」があります。

「訪問頻度」というのは、「1人の訪問者が一日の間で何回ブログに訪れているか」を示したものです。

「集計対象訪問者数 41,418」のうち、「訪問頻度」が「1」は、34,648人、「2」~「11」は、16,037人、「12」~「23」は、662人、「24」~「47」は、85人、「48」以上、32人・・・。1日100回以上訪問される方は3人おられます。

「訪問周期」は、「1人の訪問者が何日に一回の割合で訪れているか」を示した数字ですが、「毎日」訪問してくださる方は、12人、「2日」~「7日」は、212人、「8日」~「2週間」は、390人、「3週間」~「1ヶ月」は、696人・・・。

『部落学序説』の閲覧、こころから感謝申し上げます。

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2007.11.10

朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その5)

《読書案内》《総合目次》

【第5章】水平社宣言批判
【第2節】「水平社宣言」の背景
【第1項】朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その5)

「私の揺れ動きは、水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動きと重なり合い、また組織としての水平社の揺れ動きとも相通じるものがあると感じている」。

前回紹介した、『水平社の原像』の著者・朝治武氏の言葉です。

朝治武氏は、彼の「揺れ動き」は、「水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動き」と、重なりあっているといいます。また、「組織としての水平社の揺れ動き」とも相通じるものがあるといいます。

その「揺れ動き」は、朝治武氏がその著・『水平社の原像』で、多くの史料・論文を駆使して証明しているように、「権力」と「反権力」の間の「揺れ動き」を意味しています。

「権力」(国家権力)の施策に追従していくか、それとも、共産主義の思想と運動に加担して「反権力」としてその運動を展開していくかどうか・・・。

水平社運動は、その創立時点から、「権力」の側に身をおくか、「反権力」の側に身を置くか・・・、葛藤状態に置かれていたのであり、その葛藤状態は、戦前の国家総動員の流れに身を棹させ、それまでの、「権力」・「反権力」の立場が融合され、国策としての戦争遂行に主体的に協力させられていく中で、1942年2月「消滅」させられていきます。

戦前の水平社運動、そして、その継承としての戦後の部落解放運動・・・。

常に、「権力」と「反権力」の間の「揺れ動き」が存在してきたように思われます。

朝治武氏は、元来正直なお方なのでしょう。

自らの、「歴史的存在としての部落民」としての主体形成の中で、「水平運動を指導したり参加した人びとが辿ってきた揺れ動き」、「組織としての水平社の揺れ動き」と同じ「揺れ動き」・・・、「権力」と「反権力」のいずれの側に自分の身を置くか、その葛藤状態にあったことをあからさまに文章化されているのですから・・・。

朝治武氏は、「水平運動」という概念の見直しと再定義という作業を通して、朝治武氏自ら、「反権力」側ではなく、「権力」側に身を置いて、「水平運動史研究」を行う、と宣言されているのですから・・・。

朝治武氏は、1955年生まれ。そして、同和対策審議会答申が出されたのは、1955年・・・。朝治武氏、10歳のときです。その中で、同和教育を受け、部落解放運動にかかわって来られた・・・、ということは、朝治武氏は、「同対審答申」世代に属しているということになります。

「同対審答申」がいわば、同和教育や部落解放運動の前提となり、その論調が、空気のように、被差別部落の人々に浸透していった時代の申し子として成長し、やがて、「水平運動史研究」の論客、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の列に加わるようになっていったと思われます。

『部落学序説』の筆者としては、既に論述したことのある事柄ですが、「同対審答申」は、基本的には、政治起源説を否定しています。政治起源説というのは、広義の場合、「国家権力によって部落差別がつくられた・・・」という意味を含みます。

「同対審答申」にかかわった委員の中に、磯村英一氏がいますが、磯村英一氏は、部落差別が封建遺制の問題ではなく、近代中央集権国家・明治天皇制下において創設されたものであることを示唆しています。

「同対審答申」が出されるとき、<統一見解>だけでなく、その審議過程の中で明らかになった少数意見も参考として併記されるべきであったと思っていますが、「同対審答申」以降は、部落差別の権力起源に関する論述はかげひそめ、部落差別を、<政治的結果>としてではなく、<社会的事象>として認識されていきます。

「同対審答申」以降の部落解放運動は、朝治武氏が指摘する「揺れ動き」の中で、「反権力」から「権力」の側へ身をすり寄せていくことになります。

33年間・15兆円の同和対策事業・同和教育事業を展開した「国」・「権力」に対して、近代部落差別を政治的につくってきたその責任を明らかにすることを避け、あるいは放棄・断念して、「国」・「権力」と歩調をあわせて最大限の「利権」を追究していくことになるのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者は、それに加担し、被差別大衆、一般国民の目を、部落差別の本当の原因・起源から逸らしていくのです。

朝治武著『水平社の原像』は、そのような流れの中に身を置いた、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる多くの学者・研究者・教育者の影響下での著作といえます。『水平社の原像』は、朝治武氏の<個人的労作>に終わらず、この論文を成立させた、学者・研究者・教育者の研究や思想が反映されたものであるといえるでしょう。

それにしても、朝治武氏は、『水平社の原像』発刊にいたるまでに、「出会い」・「仕事」・「語らい」・「人格からの刺激や影響」・「協力」・「励まし」を受けたとして、250名にのぼる人々の名前を列挙されています。

「わずかの出会いであるのに名前が挙がっていることを不思議に思われる方々もおられるかと思われる・・・」と記していますが、250名以上の個人名だけでなく、「著作や論文で学ばせていただいた方々」、「お世話になっていながら名前を記すのを忘れた方々」が多数いることを記しています。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者には、まったく縁のない人々ばかりですが、朝治武氏が列挙している名前をひとつひとつたどっていて思うのですが、それらの人々は、いわゆる、日本の<中産階級>・<知識階級>に属している方々です。組織として部落解放運動に参加しておられる方々も、ほとんどの人は、一般の同盟員ではなく、指導的役割を果たしている方々です。

筆者は、朝治武氏が、『水平社の原像』の執筆・発刊のため影響を受けた人々の名前を列挙すればするほど、その人名録の意味があらわになってくると思われます。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者は、朝治武氏の『水平社の原像』を前に思うのです。

『水平社の原像』の執筆・発刊に際して、<中産階級>・<知識階級>の影響を受けたという朝治武氏の言葉はわかりますが、朝治武氏にとって、名も無き民である<部落大衆>、<被差別民衆>はどのような意味があったのか・・・、と。

朝治武氏は、名も無き<部落大衆>、<被差別民衆>については、ひとことも言及されていないのです。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、朝治武氏の「水平運動史研究」、『水平社の原像』は、民衆史的視点が著しく欠如しているように思われます。民衆史的視点より、権力史的視点に立脚して論述を展開しているように思われます。

さらに言葉を加えれば、朝治武氏は、<部落大衆>、<被差別民衆>を軽視しておられるのではないかと・・・。

多くの<部落大衆>、<被差別民衆>は、朝治武氏がいうところの、「生まれつき部落民」であり、「部落に生まれ育った者」です。

しかし、朝治武氏は、「部落に生まれ育ったというだけでは歴史的存在としての部落民ではない」と言い切られます。「部落に生まれ育った者が誰しも、また必ずしも部落民なのではない」と。

『部落学序説』の筆者が、20数年前、山口の小さな教会に赴任してきて、はじめて接するようになった、山口県の被差別部落の人々、多くは、「部落に生まれ育ったというだけで・・・」差別されている人々であったし、「部落に生まれ育った者」が、被差別部落に住むようになった歴史と経緯に一切触れられることなく差別されている人々でした。

戦後の部落解放運動に直面した被差別部落は、山口県の全部落の何分の一にも満たないでしょう。

『部落学序説』の筆者は、まったくの門外漢ですが、日本の社会から、部落差別をなくすために、部落差別完全解消を実現するために、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究が無視するか、看過してきた<部落大衆>・<被差別民衆>にもっと耳を傾けなければならなかった、のではないでしょうか・・・。

被差別部落出身の学者・研究者・教育者が、<民衆史的視点>を失う・・・。悲しむべき「部落解放運動」の現実であると思われます。

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2007.10.22

歴史的概念としての「特殊部落」と「差別」

《読書案内》《総合目次》

「特殊部落」・「差別」概念の定義法について
8 歴史的概念としての「特殊部落」と「差別」

この節において、ひとつの命題を設定しました。

「特殊部落」・「特殊部落民」は差別語である。

近藤洋逸著『論理学概論』によりますと、この命題は、「特殊部落」と「差別」の両概念の定義、そのあと、「特殊部落」を主語とし、「差別」を述語として、両者を「ある」という語で連結することによって成立します。

最初の基本的な作業は、「特殊部落」概念と「差別」概念の定義ですが、筆者が、定義を遂行する前に持っている「前理解」は、井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』等の、その気になれば誰でも入手して読むことができる部落史の一般書です。

戦後の部落史研究の代表的な学者・研究者・教育者の言説をそのまま転用することも可能性としてはあり得るのでしょうが、少なくとも、既存の部落史研究を批判・検証するときには、彼らが使用している基本的な概念については、その定義ないし定義法について考察を試みる必要があるでしょう。

彼らが、「特殊部落」概念や「差別」概念をどのように使用しているのか・・・、それは、彼らの論文全体の質を大きく決めることになるからです。

「定義」に際して、遵守しなければならない五つの規則がありますが、その「規則Ⅰ」は、「定義は被定義項の公共的内包を与えるべきである。」というものです。「公共的内包」とは何なのか、近藤洋逸著『論理学概論』を読んでいただくとして、近藤洋逸氏は、「この規則を厳守するのは時には実際には困難である。」といいます。「その場合には、公共的内包としては、名辞の適用される対象そのものの特性ではなくても、その対象の用途や起源でもかまわない・・・」と付け加えます。

しかし、学者・研究者・教育者は、「学問」で飯を食っているわけですから、できる限り、定義の「規則Ⅰ」を遵守する必要があります。

今、上記に掲げた命題に対する考察をさらに深めていくために、井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』等に対して、客観的に論じることができる世代の論文、渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』(解放出版社)から、「特殊部落」についての定義を抽出してみましょう。

命題2:「特殊部落」は、歴史的な概念である。

これは、渡辺俊雄氏の次の文章に依拠します。

「「特殊部落」という語は、たんなる「旧穢多」「新平民」の言い換えではありません。明らかに近代的な価値観、評価をともなった歴史的な用語なのです」。

「歴史的な用語」というのは、「特殊部落」という用語(概念)が、歴史の中で、「生まれて死ぬ」用語であることを示しています。用語のライフサイクルを考えますと、「歴史的な用語」は、はじめに、歴史のある時点で「造語」され、それが「普及」、やがて、「衰退」し、「死語」になっていく、ことばであると認識されます。

「特殊部落」がいつ「造語」されたのか・・・。

井上清著『部落の歴史と解放理論』・原田伴彦著『被差別部落の歴史』・渡辺俊雄著『いま、部落史がおもしろい』各書を読んでもほとんど違いはなさそうです。

この「特殊部落」という用語、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏が指摘されている通り、「被差別部落」の人々にとっては、「自称語」ではなく、「他称語」です。

この「他称語」は、原田伴彦氏のことばを借りますと、「明治40年ごろ」に、「内務省によってつくられた」「一種の官製的な差別用語」で、「この言葉の裏」には、「部落とは「特殊」なもので、どこか一般とちがった特別な、えたいの知れぬものである、一般社会とはまともにつきあえぬものであるという印象を強めようという政府がわの意図」がこめられたもので、近代中央集権国家においても採用された「民衆分割政策、あるいは民衆分断統治の手段」として採用されたものです。その影響力は深刻なものがあって、「一般」の人々だけでなく、「部落解放をめざす意識的な人びと(当時の中産階級・知識階級)さえ、ともするとこの用語の差別性に気がつかず、このことばの魔術におどらされ、この言葉を用いる」事例があったということです(佐野学著『特殊部落民解放論』・高橋貞樹著『特殊部落一千年史』・『水平社宣言』等)。

原田伴彦氏のことばは、後日批判検証するとして、「特殊部落」という「歴史的な用語」も、その用語のライフサイクルから見た「造語」の段階があった、ということは否定しがたい事実のようです。

この「特殊部落」という概念は、政治用語・行政用語として登場してきたのですが、そのため、全国的に「普及」してしまいます。

しかし、水平社の糾弾闘争によって、この「特殊部落」という「差別用語」は、使用が自粛され、あるいは抑圧され、「衰退」していきます。

しかし、用語のライフサイクルの最終段階である「死語」になったのか・・・、といいますと、いまだに「死語」にはなっていないと考えられます。なぜなら、「特殊部落」ということばは、戦後、「未解放部落」あるいは「被差別部落」という別のことばに置き換えられ、また、「特殊」・「未解放」・「被差別」ということばを省略した「部落」という短縮形が用いられているからです。

この「部落」という概念、「被差別部落」の人々にとって、「他称語」としてその世界に入ってきたにもかかわらず、水平社宣言で「特殊部落」という概念が取り入れられたこともあって、戦前・戦後を通じて、「被差別部落」の「自称語」としても使用されてきました。

筆者は、「被差別部落」のひとびとが、いまだに「部落」概念を「自称語」として使用し続けている・・・、それ自体が被差別のメルクマールであると思っています。

「特殊部落」という概念が、歴史的概念であるとして、それでは、「差別」という概念は、どのような概念として認識することができるのでしょうか・・・?

「差別」という概念は、時代を超えて、歴史を超えて存在する普遍的概念なのでしょうか。それとも、「特殊部落」概念と同じく、歴史的概念なのでしょうか。

これは、ことばの遊びではありません。部落研究・部落問題研究・部落史研究にとって、とても大切な問題です。

「特殊部落」・「特殊部落民」は差別語である。

この命題の主語である「特殊部落」・「特殊部落民」の述語となる「差別」ないし「差別語」が、普遍的な概念であると理解するか、歴史的な概念であると理解するかによって、「差別」そのものの認識が大きく異なってきます。そして、それは、「特殊部落」・「特殊部落民」概念の定義にも大きく影響してきます。

『部落学序説』の執筆後、まもないとき、部落解放同盟新南陽支部の要請で、『部落学序説』の執筆に際して使用する資料・論文を公開してきましたが、筆者の手持ちの資料・論文をひもとくだけでも、こころある学者・研究者・教育者によってなされてきた、「差別」概念の定義、「差別とは何か」、「部落差別とその他の差別の違いは何か」・・・、という議論・研究のあとをたどることができます。

「差別」概念を、普遍的概念とするか、歴史的概念とするかによって、「差別」概念は、「部落差別」を、他の差別と異なる「特殊」な差別であるという認識と、「部落差別」は、普遍的な差別を最も具現したものであるという認識が併存するようになったのです。

戦前戦後を通じて、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の多くは、「差別」概念をあいまいにしたまま、「差別」概念を恣意的に使用してきたのです。「差別とは何か」、十人十色、百人百様の理解と主張が混在するようになったのです。

岩波日本近代思想大系『差別の諸相』の解説である《日本近代社会の差別構造》の著者・ひろたまさき氏は、阿部謹也著『世界史における身分と差別』から引用してこのように記しています。

「阿部謹也は、「差別という言葉は学問上の分析概念として確実性がないといわれる」と指摘し、その理由の一つに「何が賤視の根源にあったか」があいまいなことを挙げている。「賤視の根源」が普遍的に存在するのか、地域や時代によってことなるものであるかは大問題であり、その解明が充分だといえないのはたしかであるが、また「差別」とされる現象がきわめて多様であるということも、あいまいさをつねに生みだす理由の一つであるように思われる」。

「差別」概念が、普遍的概念であるか、歴史的概念であるか・・・、その問いに対して、妥当な答えを用意するのは、無学歴・無資格の筆者ではなく、部落差別の完全解消を願い、部落差別で禄を食んできた学者・研究者・教育者の責務ではないかと思われます。ひろたまさき氏が指摘する、「その解明が充分だとはいえない」状況そのままに、国の同和対策事業・同和教育事業の終了宣言とともに、学者・研究者・教育者は、反差別の前線から逃亡・離脱することは、部落研究・部落問題研究・部落史研究で禄を食んできた学者・研究者・教育者の本分に反することではないでしょうか・・・。

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2007.06.20

参考文献(下松市教育長の収集した資料一覧)


【まえがき】参考文献(下松市教育長の収集した資料一覧)

日本文化史研究者の方から提供のあった山口県下松市の教育長をされたことのある方が収集した『同和教育関係資料集』と『同和行政関係資料集』に収録された資料を参考文献としてその一覧表を掲載します。

『部落学序説』の筆者は、その執筆に使用する文献・資料については、すべて一覧表の形で公開した上で執筆してきました。現在執筆を中断しています第5章・水平社宣言批判、第6章同対審会答申批判に関してもその姿勢はいささかも変わるものではありません。筆者の論文の実証主義的側面を強調するためにも、日本文化史研究者の方から提供のあった、元下松市教育長の収集された、同対審答申前後の資料の一覧表を提示することにしました。


A.『同和行政関係資料集』

01 奈良市『同和対策行政必携集』
02 「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策」に関する答申
03 「同和対策事業特別措置法」
04 「同和対策事業特別措置法施行令」
05 「同和対策審議会の答申(要約)」
06 「部落問題・解放運動の基本認識にかかわる問題」
07 「差別に関する三つの命題理解について」
08 山口県・山口教育委員会「同和対策事業の紹介」(昭和49年)
09 下松市同和対策室「昭和49年行政的補助金」
10 同「同和対策-教育・福祉・保健予防 制度上の経費一覧表」
11 同「同和対策事業給付制度一覧表」
12 同「同和対策事業貸付制度一覧表」
13 同「福祉事業(施設・施策)中期計画(50年~54年)」
14 同「地区概況」
15 同「地区概要」
16 同「下松市同和地区外散在実態数」(昭和43年)
17 下松市教育委員会「地区生徒の最近の進路状況」(昭和46年度分)
18 同「下松市同和地区進学・就職状況」(昭和42~45年)
19 「同和対策の経過」(昭和50年)
20 「同和問題を視点においての一つの課題」
21 「同和対策事業実施および計画状況」(昭和44~昭和53年)
22 「学校における同和教育」
23 「社会における同和教育」
24 「同和対策審議会教育部会報告」(昭和40年)
25 「同和対策長期計画」(昭和44年)
26 「第1回教職員市教委同和教育研修会あいさつ」(昭和44年)
27 「山口県同和地区高校等進学奨励費給付要綱」
28 「同和地区子弟奨学資金」
29 「第1回部落問題懇談会」(昭和48年)
30 「徳沢木材における同和問題について」
31 「解同提出課題検討会」(昭和49年)
32 「解放同盟下松支部交渉」(昭和46年)
33 「第1回解放同盟交渉」(昭和46年)
34 「第2回解放同盟交渉」(昭和46年)
35 「第3回解放同盟交渉」(昭和46年)
36 「高校進学調査書問題」(昭和48年)
37 「部落解放同盟懇談」(昭和48年)
38 「解放同盟正常化派に対する答弁要旨」(昭和49年)
39 下松市教育委員会「同和教育の基本方針」(昭和49年)
40 下松市立図書館「同和問題図書目録」
41 「要約・身分制の歴史」
42 「部落の歴史」
43 「単位PTA同和研修について」
44 山口県教育委員会「同和教育の基本方針」(昭和45年)
45 同「山口県同和教育重点施策」
46 「”同和対策と職業について”事業主のみなさんにお願い」
47 下松市教育委員会社会教育課「社会同和教育の推進概要」(昭和47年)
48 「地区概要」
49 「同和教育のすすめ方打合わせ」(昭和48年)
50 「下松市立中村小学校・同和教育関係の説明要項」(昭和50年)
51 「末武中学校同和教育の実情と問題点」
52 「学校同和教育推進の現況」(昭和50年)
53 「社会同和教育の推進」
54 「小学校の同和教育について」(昭和50年)
55 「中学校PTA研修会について」
56 「下松市同和教育推進委員会設置規則(案)」
57 「下松市同和教育推進委員設置要項」
58 「同和対策事業給付制度一覧表」(昭和49年)
59 「同和対策事業貸付制度一覧表」
60 「同和各種教育奨学金資金」(昭和50年)
61 「新公論 第287号」(昭和46年)
62 「社会新報」(’73/3/12)
63 「解放新聞」(’73/8/13)
64 「解放新聞大阪版」(’72/2/5)
65 「全同和」(昭和49年1月)
66 部落解放同盟正常化全国連絡会議「同和教育読本を廃止」
67 「解放への道」(’76/3/25)
68 部落解放同盟山口県連合会編「部落解放運動活動者資料」
69 山口県「同和対策研修資料」
70 下松市教育委員会「同和教育資料」(昭和42年)
71 山口県教育委員会「中学校同和教育当面の指導資料・試案」(1973年9月)
72 「下松市3地区協議会規則」
73 「下松市同和対策事業としての教育、福祉施設設置の経緯」(昭和49年)
74 「下松市小中学校同和教育研究会」(昭和51年)
75 下松市議会同和問題特別委員会「同和教育方針説明」
76 下松市教育委員会社会教育課「第1回下松市同和教育推進委員会議」(昭和51年)
77 「下松市同和教育推進委員名簿」
78 下松市教育委員会「推進委員会の効果的活動のあり方について」
79 「下松市同和教育指針委員会設置要項」
80 「山口県部落問題対策審議会要員現地調査」(昭和50年)
81 「人間尊重とPTAの役割」(昭和49年)
82 「企業同和研修」(昭和49年)
83 「入学時の経費調(昭和51年度見込)
84 「中村小学校に関する記録」(昭和50年)
85 「同和対策小・中学校入学支度金県費補助要項(案)」
86 「高校・大学進学奨励費受給者見込」(昭和48~49年)
87 「高校・大学進学奨励等所要領」
88 「入学時の経費調(昭和49年度見込)
89 同和教育課「山口県同和対策進学奨励費給付要綱の主要な改正点(案)」
90 「下松市同和教育計画」(昭和41年度)
91 下松市立中村小学校「資料・同和教育をすすめるために」
92 鳥取市教育委員会「鳥取市における社会同和教育について」(昭和49年)
93 鳥取県中部地区市町村教育委員会協議会編「小学校社会科歴史学習における同和教育上の参考指導令」

B.『同和教育関係資料集』

01 「昭和44年第1回解放同盟懇談会」
02 末武隣保館主事「学習会開催について」
03 「四管区・同和教育研修会記録」
04 「同和対策事業特別措置法施行令」
05 下松市同和教育研究会「映画・橋のない川観覧のしおり」
06 「住宅改修資金貸付制度」
07 地区自治会「同和対策長期計画審議について」
08 山口県同和対策室「昭和45年度同和対策事業費調」(昭和45年)
09 「昭和45年度同和対策事業関係予算」
10 「同和教育対策・現状と問題点」
11 社会教育課「同和教育の推進について」
12 「同和教育研修会」
13 「同和教育研修会開催要項」(昭和41年)
14 「同和教育推進研修会」
15 「要約・差別の歴史」
16 「43年度社会同和教育の方向づけ」
17 「43年度同和教育推進うちあわせ」
18 「同和教育の推進について」
19 下松市教育委員会「同和教育推進概況」
20 「社会同和教育研修会等の具体例」
21 「同和教育対策計画について」
22 「同和対策長期計画」
23 社会教育課「同和教育対策長期計画(案)」(昭和44年)
24 「全同和」(昭和44年10月)
25 部落解放同盟下松支部「統一と団結を守り、部落解放運動を前進さす為に」(1969年)
26 部落解放同盟山口県連合会「部落解放運動破壊と私物化を企らむ、松浦、松橋などのニセ「県連」デッチあげを粉砕しよう。」
27 同「ニセ下松支部暴力分子の殺人(未遂)行為を糾弾し、部落民主化の戦いを訴える」
28 「同和事業計画案」(昭和45年)
29 「下松市の教育体制と内容をより深化するために」(昭和44年)
30 「同和教育対策計画」(昭和46年)
31 社会教育課「同和教育長期計画」
32 同和教育推進研修会「同和教育研修予定」
33 「市町村教育委員会の指導体制」
34 「中学校同和教育読本の教材の系統(案)」
35 下松市教育委員会「同和地区実態調査票」
36 「昭和45年度同和教育青年指導者研修会名簿」
37 「昭和44年度和会役員会名簿」
38 「和会会員名簿」
39 「和会会則」
40 「映画・橋のない川第二部参考資料」
41 「映画・橋のない川問題研究のすすめ方」(1970年)
42 「映画・橋のない川第2部について」(昭和45年)
43 「映画・橋のない川の歴史的背景」
44 「差別映画だなんてとんでもない」
45 福岡県教育委員会「映画『橋のない川』の意味するもの」
46 山口県解放同盟連合会「県知事宛要求書」(昭和47年)
47  「同和会の基本的考え方」
48  刀禰館正也「講演要旨」
49  中村小学校「本校の同和教育」
50  「同和教育対策計画について」
51 下松市教育委員会「学校同和教育推進計画」
52  「高等学校経費調」
53  「高等学校必要経費調」
54  「職業訓練学校必要経費調」
55  「同和地区高等学校進学奨励費給付状況」
56  「同和地区高校進学奨励費に関する生徒一覧」(昭和47年度)
57  「同和地区高校進学奨励費申請者一覧表」(昭和46年度)
58  部落解放同盟下松支部「市長に対する要求書」(昭和47年)
59  「部落解放同盟交渉覚」(昭和47年)
60  「部落解放全国青年集会」
61  「部落解放同盟対話概要」
62  「部落解放同盟(中央本部派)との話し合い概要」
63  「同和教育対策計画案(前期5カ年)」
64  「第1回同和教育研究会」(昭和44年)
65  和会会長「要望書」(昭和45年)
66  「同和対策」
67  山口県同和会「声明書」

C.『橋のない画上映関係資料集』

01 「橋のない川」(映画のチラシ)
02  部落解放同盟下松支部「確認書」
03  下松市教育長「映画「橋のない川」の推せんについて」(昭和44年)
04  下松市同和教育研究会「映画「橋のない川」観覧のしおり」
05  地区町内会「お願い」
06  地区町内会「請願書」
07  「要望項目」
08  「部内会議」
09  「市長・開放(ママ)同盟会合取りまとめ」
10  「市教委と解放同盟事務的取り決め」
11  「橋のない川上映問題」
12  「同和教育関係諸経費明細」
13  「同和会のうごき」
14  「解放同盟争議にかかわる現時点における問題点の分析」
15  「映画「橋のない川」をめぐる同和教育のとりくみ」
16  「教育長回答」
17  「6/21交渉経過と直後の計画」
18  「予算措置に関すること」
19  「別紙・映画「橋のない川」を見る上での留意点」
20  「映画「橋のない川」上映について」
21  部落解放同盟山口県連合会「みのった部落解放運動の偉大な要求行動」
22  「同和対策事業特別措置法案」
23  部落解放同盟下松支部「市川の横暴をふたたびゆるさず部落をあげて橋のない川上映を成功させよう」
24  「「橋のない川」上映についての教育長との交渉状況」
25  母親大会下松地区実行委員会「要求事項」
26  部落解放同盟山口県連合会光支部「光市隣保館活動の問題点」
27  「問題点・諸連絡」
28  「児童生徒観覧時期尚早論について」
29  「映画「橋のない川」の感想」
30  「本市における同和教育の推進」
31  「映画「橋のない川」と小学校での同和教育の実践について先生方への訴え」
32  部落解放同盟下松支部「下松市教育委員会の部落差別糾弾声明」
33  「映画「橋のない川」観覧についての交渉経過」
34  「事態対処」
35  部落解放同盟下松支部「部落問題(映画「橋のない川」に関連して)
36  部落解放同盟下松支部「「橋のない川」上映成功をかちとる迄」

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2007.03.15

『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ

《読書案内》《総合目次》


【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第4項】
『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ(見落とされた史料3)

『京都府下人民告諭大意』(第1編)は、「皇国の外国に勝れし風儀を守り、広く皇威を世界に輝かさん」と、「下民」・「民間」を説諭します。

それに引き換え、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、「往昔」と異なり、「世界万国」が互いに和親を結ぶ時代であるから、「下民」・「民間」もこのごとを十分に理解して、「天地間の大道理」である「世界万国公法」に準拠して、日本にやってきた諸外国・「礼儀正しき国」とその人民に対して、「不法粗暴を仕掛る」ことは決してあってはならないというのです。

もし、「下民」・「民間」が、明治新政府の開国政策に反対して、諸外国とその人民に危害を及ぼすことで、明治新政府の支配が徹底していないということが諸外国に知られるようなことになれば、「神州の耻辱となる」というのです。その結果、「東国辺鄙」に見られるように、朝廷に逆らった結果、「人民」は、「塗炭の苦しみに陥し」入れられることになるとういのです。

「東国辺鄙」と違って、「京都は千有余年来の帝城」であり「御宗廟の御地」であるから、天皇は、京都を「別して御大切に」思っておられるというのです。「京都府下人民」は、これまで、天皇に「間近く住居して深き恩露に浴し、尊き叡慮も仰ぎ知る」ことを許されてきたのであるから、近代天皇制国家が、「外国のために見透され、其侮りを受る基」となるような「振廻」を慎み、「諸事の御沙汰違背なく謹て相守り・・・神州の御為に相成べき心掛肝要たるべき」というのです。

『京都府下人民告諭大意』(第1編)が「王政復古」を主眼に置いた説諭であるとすると、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、明治新政府の「欧化政策」を主眼に置いた説諭であるといえます。筆者は、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、『京都府下人民告諭大意』(第1編)の「否定」として打ち出されたものであると考えざるを得ないのです。

『戊辰戦争から西南戦争へ』の著者・小島慶三は、明治維新は、一挙に行われたのではなく、三段階で行われたといいます。王政復古・廃藩置県・明治6年政変による岩倉・大久保による「建国」。明治新政府は、平和裡に近代天皇制国家を樹立したのではなく、むしろ、逆に、血で血を洗うような政争を経て、近代天皇制国家を建設していったのです。

王政復古・廃藩置県・明治6年政変の都度、日本の国民は、時代の流れに翻弄され続けたのではないかと思います。皇族・華族・士族・平民・・・そのすべての階層が、王政復古・廃藩置県・明治6年政変によって、大きくその人生の転換を余儀なくされていったと思うのです。

この『京都府下人民告諭大意』は、京都府下だけでなく、日本全国に配布されていきます。『京都府下人民告諭大意』を読んだ国民は、その真意をどの程度把握することができていたのか・・・、こころもとないものがあります。「王政復古」・「王政復古」・・・と叫んでいたら、突然と、「王政復古」の古代律令的諸制度は解体され、明治新政府は、あれよあれよというまに、日本を西洋的な近代国家に変貌させていくのですから・・・。その急激な政策変更を十分理解して、明治新政府の国家建設の方向性を把握することができたひとは、極めて、少ないのではないかと思うのです。明治新政府の「政治的意図」を把握することに失敗した人々は、やがて、明治新政府の中枢から弾き出されてしまいます。

明治新政府に対して、諸外国がまず要求したのは、「草莽」による外国人襲撃を抑えるということでした。「草莽」とはどのような人のことを指すのか・・・。イギリスの外交官、アーネスト・サトウは、「草莽」「乱暴な両刀階級」と呼んでいます。彼の目からみると、「両刀階級」は、元藩士であって、イギリスの「紳士」に相当する社会層であるというのです。それにひきかえ、「一刀階級」(筆者の表現)は、イギリスの単なる「兵士」に過ぎないといいます。

諸外国の外交官が恐れをなした「草莽」というのは、「一刀階級」ではなく「両刀階級」のことなのです。アーネスト・サトウは、「草莽」というのは、「日本人の一種不可思議な階級」で、イギリスの「紳士」の範疇に入るけれども「紳士」として理解しがたい存在であるというのです。「草莽」は、「大名へ仕官をせずに、当時の政治的な攪乱運動へ飛び込んできた」人物であるというのです。この「草莽」「二重の目的を有していた」といいます。ひとつは、「天皇を往古の地位に復帰させること」、もうひとつは、「神聖な日本の国土から夷狄を追い払うこと」でした。「草莽」は、これらの使命を達成するため、手段と方法を選ばす、外国人を襲撃・暗殺してくるというのです。諸外国の外交官は、明治新政府に、なによりもまず、この「草莽」を鎮圧することを要求してくるのです。

明治新政府の「外国人殺傷や草莽層の動きへの対応」(山川出版社『詳説日本史史料集』)として、「五榜の掲示 第四札」があげられます。『詳説日本史史料集』は、高校生用の参考資料ですが、第4札と第5札については、全文掲載せずに一部が省略されています。高校の歴史教育においては、触れて欲しくない個所なのでしょうか。高校生用の参考資料において割愛されている言葉は、「一旦御交際仰せ出され候各国に対し、皇国の御威信も相立たざる次第、甚だ以て不届き至極につき、その罪の軽重に随い、士列のものといえども、士籍を削り、至当の典刑に処せられ候条、銘々朝命を奉じ、みだりに暴行の所業これなき様、仰せ出され候事」という文章です。

問題は、「士列のものといえども、士籍を削り、至当の典刑に処せられ候」という一文です。明治新政府は、「草莽」の暴挙を抑えるために、この告示を出したというのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、この布告を次のように受けとめています。「この布告が大きな反響を巻き起こしたことは当然なことであった。士分を剥奪することは切腹する権利をも奪うことになる。普通の罪人と同じく、首斬り人に首をはねられ、晒し台にその首を晒しものにされて、財産は没収となる。人間の屑同様の扱いを受けて一家断絶を命ぜられ、抹殺される。何世紀もの間、子孫代々勇気と礼節を重んじて、家柄を誇りにしてきた武士にとって、これが何を意味するか、いうまでもないことである」。「五榜の掲示 第四札」は、日本全国の「武士(藩士)」に対して出されていたのです。

ところが、高校生用の参考資料である山川出版社『詳説日本史史料集』は、武士(藩士)に対して出されたことをうたった部分を割愛しているのです。『詳説日本史史料集』の「五榜の掲示 第四札」では、「草莽」は、一般化される傾向にあります。「五榜の掲示 第四札」は、武士だけを対象にしたものではなく、「士族」・「平民」、すべての「下民」・「民間」を対象にしていることになります。より正確にいえば、山川出版社『詳説日本史史料集』の史料の扱い方は、「草莽」である武士の免罪を図っている・・・と言えなくもありません。山川出版社『詳説日本史史料集』は、「両刀階級」「草莽」が幕末・明治初頭においてなした外国人や日本の政府要人に対する襲撃・暗殺を故意に隠す営みであるといえるでしょう。「百姓の末裔」である筆者は、山川出版社『詳説日本史史料集』は、著しく偏向しているように思われるのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、この「五榜の掲示 第四札」について、明治新政府との間の交渉内容をこのように記しています。「彼らは、近く書き上げられる新しい法律に、それを載せるまでは、告示の公布を延期することについて、私を一生懸命に説得しようとした。これに対して私は、断固として同意を断った・・・ついに政府に国中の町や村や集落に有名な布告を掲示させることに成功したのである」。日本の全国津々浦々に「五榜の掲示 第四札」が掲示された背景に、諸外国の「外圧」が存在していたのです。

最近、文庫本で出版される史料の中には、この種の史料が相当数含まれています(岩波文庫・講談社学術文庫等)。明治新政府の要職は、国内の「人民」(下民・民間)に対しては、徹底して、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針を貫きます。

外交官が「普通の罪人と同じく、首斬り人に首をはねられ、晒し台にその首を晒しものにされて、財産は没収となる。人間の屑同様の扱いを受けて一家断絶を命ぜられ、抹殺される。・・・」と言い切る背景には、明治新政府が近世幕藩体制下の「刑法」を集大成して暫定的に出した『仮刑律』の「藩臣処分」「士道を失ひ或は廉恥を欠に係るは、奪刀・奪録・・・」という条文に依拠します。この暫定的な明治新政府の「仮刑法」は、「人民」(下民・民間)には公開されませんでした。しかし、諸外国の外交官には、親しく閲覧させていたのです。

国内の「人民」(下民・民間)には、明治新政府の政策に服従させるのみで、その政治的意図を明らかにしませんでした。それに反し、明治新政府は、諸外国に対しては、日本の国政・外交に関する様々な情報を積極的に提供していたのです。

明治4年来日したオーストリアの外交官は、「岩倉具視」「日本の運命に非常に大きな影響力を行使する」「政府部内で最も重要な人物と目される」といいます。彼は、「岩倉とその仲間たち」から、明治新政府が直面している「大改革の紀元・性格・重要性に関するきわめて興味深い情報」を直接入手することができるといいます。「岩倉が私との3、4回の階段において語ったことは、後になって政府の公認計画となった」といいます(『オーストリア外交官の明治維新』)。

「岩倉とその仲間たち」は、「3年後には完了する」(明治6年の政変を含む期間)、明治新政府の長期的な展望さへ外交官に情報を提供するのです。岩倉はこのようにいうのです。「私の目標は、外国と友好関係を保ち、国内の大改革を完遂することです」。

明治新政府の「政治的意図」を正確に知るためには、明治期の「外交文書」及び外交官の残した文書の解析が必須です。国内の「人民」(下民・民間)に対しては、徹底して、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針を貫き、その真意をあからさまに伝えることはあり得なかった現実を考慮するとき、筆者は、近代史は、最初から検証し直す必要があると思うのです。明治新政府の施策の結果だけを追究するのではなく、そのような施策を選択した明治新政府の「政治的意図」が重要だと思うのです。

山川出版の、高校生向け資料・『詳説日本史史料集』は、この明治新政府の「政治的意図」を覆い隠す役目を果たしているのです。武士身分を限りなく救済して、逆に、「穢多・非人」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の枠組みの中に限定しようとします。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人・村役人・・・」は、「一刀階級」です。「両刀階級」の正規の武士・藩士ではありませんが、「同心・目明し・穢多・非人」は、すべて武士身分であるといえます。「同心」は一刀差しの武士ですし、「目明し」は、藩によっては帯刀を許されていました。また、穢多・非人もその職務の内容に応じては帯刀を義務づけられました。「同心・目明し・穢多・非人」は、「一刀階級」に属する武士であると言っても、あながち間違いではないのです。

明治新政府は、本来の「草莽」「両刀階級」の武士を寛大に処遇し、その体制の中に取り込んでいきます。しかし、明治政府は、それとは逆に、近世幕藩体制下にあって司法・警察に従事していた「同心・目明し・穢多・非人」、そして、「村役人」に対して、スケープゴート(身代わりの犠牲)として、「草莽」の名を押しつけていくのです。明治4年の太政官布告第61号は、明治新政府の「国辱」を取り除くため、「穢多・非人」に「草莽」の名を押しつけ排除していく、明治新政府の「政治的意図」によって作り出されたものです。王政復古をとく『京都府下人民告諭大意』(第1編)から、王政復古の廃棄、西欧化された明治近代国家の創設へのつながる『京都府下人民告諭大意』(第2編)への政治的飛躍の中で、天皇によって創設された司法・警察である「穢多・非人」は、「国辱」として排除されていくのです。明治新政府、近代天皇制国家による、短期間における、「穢多・非人」の「高挙」(高く挙げる)と「卑下」(卑しみ下げる)・・・、それが、「被差別部落」の歴史を分かりにくいものにしているのです。

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