2005.09.01

ある聞き取り調査

【序文】ある聞き取り調査


昔、ある被差別部落の聞き取り調査に同行したことがあります。

その被差別部落は、山口県北部の寒村にありました。その村の南に位置していて、その被差別部落に立つと、門前町として栄えた街並みと、それを貫く川や街道を眼下に一望することができました。その被差別部落は、どこか、その村全体をその高台から見守っているような感がありました。

yama09 被差別部落の聞き取り調査に同行を求められた私は、訪ねる先が、かって、山口県の郷土史研究の論文の中に「穢多屋敷」のあった場所として古地図を添えて紹介されている被差別部落であると知って、その依頼を快諾しました。

その聞き取り調査は無事終了しましたが、そのとき被差別部落の古老からある話をお聞きしました。その話は、聞き取り調査のあと、時が経過するに連れて、記憶から薄れていくのではなく、筆者の脳裏に深く刻み込まれて行きました。その被差別部落の古老の話は、学校同和教育や社会同和教育で教えられている内容とはまったく異なる、どちらかいうと相反する内容を含んでいたからです。

私は、その古老の話を歴史的に検証してみたくなって、10年間、隣市にある徳山市立図書館の郷土史料室に通い続けました。しかし、学歴を持ち合わせていない私にとって、その作業は簡単ではありませんでした。歴史学、社会学、民俗学・・・、作業に必要な知識や技術は、その都度、時間をかけて自分のものにしなければなりませんでした。

幸いなことに、大学教授の中には、研究の成果だけでなく、その研究方法に関する知識や技術についても執筆される方がおられます。私は、しろうとにも、その研究方法をやさしく解説している『歴史学研究法』・『地方史研究法』・『民俗学の方法』・『民俗探訪事典』などから多くのことを学びました。

徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書から学んだことは、時々、調べた内容を他の人に話したのですが、筆者の話を聞いたひとの反応はほとんど同じでした。「それは通説に反している・・・」、「たとへ歴史の事実であったとしても、それは長州藩だけの例外事項に過ぎない・・・」、「それは、何々教授がすでに否定している・・・」という、ほとんど否定的なものばかりでした。

しかし、私は、徳山市立図書館の郷土資料室の史料や論文を調査するにつれて、いつのまにか、「被差別部落の古老の話は、歴史的に真実である」と確信するようになりました。

そして、最近五年間は、約10年の歳月をかけて収集してきた、徳山市立図書館の郷土史料室にある史料・資料と、国道2号線沿いにある宮脇書店等で入手した若干の雑誌・書籍を整理・分析して、それを、筆者固有の視点・視角・視座から体系化することを試みてきました。

既存の学問で検証することができない事柄に対応するには、それに相応しい、新しい学問が必要であると思うようになり、「部落学」構築を意識するようになりました。

もう少し若ければ、更に研究を積み重ねて、完成した「部落学」を提示することができるのですが、私に残された時間はそんなに多くはありません。団塊の世代のまっただなかに生まれた私は、あと数年で定年です。といっても、今既に定職もなく、時間講師などで糊口をすする身ですが、与えられた条件下での最善の試みは、「部落学」構築の前に、「部落学」構築に必要な序説、『部落学序説』を書くことであると確信するに至りました。筆者が執筆を予定している「部落学」は、『部落学序説』で、部落学固有の研究課題と部落学固有の研究方法をあきらかにした上で、執筆にとりかかってもいいのではないかと思うようになりました。

予定している『部落学序説』の論文構成は以下の通りです。

まえがき
第一章 部落学固有の研究対象
第二章 部落学固有の研究方法
第三章 「部落」の定義
第四章 「太政官布告」批判
第五章 「水平社宣言」批判
第六章 「同対審答申」批判
第七章 部落差別完全解消への提言


-----------------------------------------------

※実際に執筆された『部落学序説』は、「序説」の枠を越えて、「部落学」本論でとりあげるべき内容を数多く含んでいます。部落研究・部落問題研究・部落史研究の「一般説」や「通説」に抵触する場合が多く、読者からの批判をいたずらにひき起こさせないための処置として、詳細に論述する場合が多々ありました。この『部落学序説』を書き始めてから、そうでなくても少ない知人・友人を失いました。現在文字通り、「単独」で『部落学序説』の執筆にあたっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

被差別部落のある古老の話

【序文】被差別部落のある古老の話


ある被差別部落の古老の家を訪ねたのは冬でした。

私たちは居間に通され、古老から話を聞くことになりましたが、話をしてくれたのは、実は、おばあさんだけで、おじいさんは廊下を隔てた隣の部屋で私たちに背を向けて座っていました。私たちの話を聞いているようでもあり、聞いていないようでもありました。

私は、ある部落史の研究家の実施した聞き取り調査に同行しただけなので、彼と被差別部落のおばあさんの話を横で黙って耳を傾けながらメモをとっていました。おばあさんは、彼と話をしながら、私たちのためにお餅を焼いてくれました。何個たべたでしょうか、満腹感が漂ってきたころ、私は、私たちが話をしている居間を見回しました。そして、壁にかけられた一枚の写真を見つけたのです。

その写真の人物は、坂本竜馬などの幕末の志士のような姿をしていました。

「誰なのだろう・・・」と思いながら、記憶を何度もたどってみるのですが、思いあたる人物がいません。

あたまには髷と月代があり、腰には刀を差しています。その顔の表情は、とても厳めしくて、警察官か検察官のようなするどい眼光をしていました。

私は、彼とおばあさんの話を遮って尋ねました。
「あの写真の人は誰ですか」。
すると、おばあさんは間髪を入れず返事を返してきました。
「あの写真は、私たちの先祖です」。
私は思わず、「ええ! おばあさんの先祖って、武士だったのですか?」と大きな声を出してしまいました。おばあさんは更に続けました。
「ええ、そうです。私たちの先祖は、江戸時代三百年間に渡って武士でした。しかし、明治の御代になって差別されるようになりました。差別されるようになって、たかだか百年に過ぎません」。

すると廊下を隔てた隣の部屋で、私たちに背を向けて黙って座っていたおじいさんが、突然、「見ず知らずの人にそのようなことを話すべきではない」と一喝されました。一瞬、寒村の雑木林の中を吹き抜けていく木枯らしのような風が私たちの間をすり抜けて行きました。

聞いてはならないことを聞いたのかもしれないと思った瞬間、おばあさんが、おじいさんにすぐ言葉を返しました。「差別する人は、黙って私たちを差別します。しかし、この人たちは、私たちの話を聞きたいと遠路私たちを尋ねてくださった。そういう人に悪い人はいないと思いますよ。私は話を続けますよ」。おばあさんは、そういいながら、すぐに研究家との話に戻って行きました。

その後、居間に掲げられてあった写真が話題にのぼることはありませんでした。

聞き取り調査がまあまあ無事に終わって、時が経って行きましたが、私は、そのときの被差別部落の古老の家の居間に掲げられていた一枚の写真と、おじいさんとおばあんさんの両者の姿を忘れることができませんでした。というより日ごとにその日の出来事が鮮明に私の脳裏に深く刻み込まれていったのです。

被差別部落のおばあさんは、私たちと向かい合って話をし、そのおじいさんは、最初から最後まで私たちに背を向けて座っていました。おじいさんとおばあさんの対照的な姿は、今でも鮮明に思い浮かべることができます。

1枚の写真をめぐる被差別部落の古老の話は、部落史や部落問題の常識・通説とされている事柄とはまったく逆のことを物語っていました。部落問題の入門書や啓発書に書かれている内容、学校同和教育や社会同和教育で教えられている内容とはまったく正反対でした。一般的には、「私たちの先祖は、江戸時代三百年間に渡って差別されてきました。しかし、明治の御代になって解放令が出され、被差別身分から解放されました。しかし、多くの国民はそのことを理解できず、私たちを差別し続けたので・・・」と言われるが、私たちが聞き取り調査をした被差別部落のおばあさんは、まったく逆のことを証言していたのです。明治の御代になって差別から解放されたのではなく、明治になってから差別されるようになったと。

その村の被差別部落と言われている場所は、長州藩の牢屋があった場所です。

被差別部落の古老の家は、代々、その牢屋の役人を勤めた家系です。被差別部落の古老は、長州藩の武士として藩主に仕えてきた歴史をずっと忘れずに記憶し続けていたのです。おばあさんは、聞き取り調査の終わりをこのような言葉で結びました。

「あなたたちがもう一度尋ねてくださるとき、私たちは生きているかどうかわかりません。もし、いなかったら、私の娘を尋ねてください。私たちの先祖の歴史は、残らず、娘に伝えてありますから」。そう言って、娘さんの名前と住所、電話番号を教えてくださいました。

私は、被差別部落の古老が話してくれたことがらを歴史の資料を用いて検証しようと思うようになりました。

被差別部落には、「言葉化されている」ことがらと、「言葉化されていない」ことがらがあると認識しました。そして、どうしたら、被差別部落の古老が語ったことを歴史の真実として認識することができるのか、どうしたら、被差別部落の古老のこころに、おばあさんだけでなく、おじいさんのこころにも寄り添うことができるのか、考えるようになりました。そして、そこに至る道を探しはじめた。探しても見つからないことが分かったとき、その道を造り出すことを決めました。

通うようになった地方の小都市の市立図書館といっても、その史料の数は膨大です。郷土史料だけでなく、一般の歴史資料を含めると、全部読み尽くすことはできるはずもありません。学歴も資格も持ち合わせていない私には、途方もない時間と労力を要すると思いました。

しかし、あるとき思うようになったのです。山口県北の被差別部落の古老との出会いも偶然なら、それを証明する史料や文献との出会いも偶然でいいではないか。入手できる資料、手にとって目にすることができる資料、それだけを用いて、被差別部落の古老のこころに通じる道を切り開いて見よう・・・、と。

被差別部落の古老との出会いから15年・・・。
無学な故に、多くの時間を費やさざるを得ませんでいたが、このブログ上で公開する『部落学序説』」が完成した日、私は、それを本にして、再度、あの被差別部落の古老を尋ね、お話をお聞きしたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

浄土真宗の寺を尋ねて

【序文】浄土真宗の寺を尋ねて


「研究者」と私は、被差別部落の古老の家を訪ねる前、その村の浄土真宗の住職を尋ねました。その住職に、その寺の門徒の中に、被差別部落の門徒がいれば紹介してもらうためでした。

その浄土真宗の寺は、南北に伸びた門前町の南の側に位置していました。時代をしのばせる門をくぐると、浄土真宗の部落差別問題との取り組みを示す「同胞運動」に関する文字が目に飛び込んできました。殺風景な冬枯れの境内にあって、その文字はひときわ大きく目立っていました。

居間に通された私たちは、住職から質問されます。
「何のご用でしょうか・・・」。

そのとき、聞き取り調査の同行を求めてきた研究者が、あらかじめ会見の約束をとっていなかったことを知りました。へたをすると、何の話も聞けず、聞き取り調査も失敗に終わる可能性がある・・・と思って、焦りににた思いを持たざるを得ませんでした。

聞き取り調査をするときには、それなりの「礼儀」が必要です(私には、突然、浄土真宗の寺を尋ねて、その門徒の中にいるかもしれない被差別部落のひとを紹介してもらうという発想はありませんでした・・・)。

会見の予約をとることもそうですが、調査に先立って、あらかじめ、歴史資料や文献を漁って、既に公表されている情報は、あらかじめ予備知識として持っておく必要があります。そうしないと、尋ねられる方も、思いつきで聞き取りをされたのでは、何をどう話していいかわからず、結果、通り一遍の話を聞くに終わってしまう可能性が大きいのです(後日、筆者は、研究者と周防国東穢多寺を尋ねましたが、そのときの聞き取り調査は、住職が業者に頼んで作ってもらったという系図と歴史に関する資料をみせられました。近世の「穢多寺」であることを一切触れることのないその系図と歴史は、差別的な聞き取りを回避するための住職の苦肉の策だったのでしょう。そのときの聞き取り調査に、研究者は満足しておられましたが、筆者は、きわめて不満足でした・・・)。

聞き取り調査に際して私がいつも目を通す書物に、井之口章次著『民俗学の方法』(講談社学術文庫)であります。文庫本なので、誰でも手軽に入手できます。

山口県北部の寒村にある被差別部落を尋ねたときにも、私は、あらかじめ、徳山市立図書館の郷土史料室を尋ねました。そこには、山口県の寺院に関するいろいろな資料が保存されていますが、その中に寺院に関する総合的な調査書があります。表紙はボロボロで、何度も補修をしたあとがみられます。おそらく、多くの人がこの資料を手にしたのでしょう。

その資料には、私たちが尋ねる寺に関する記載もありました。

しかし、その内容は、他の寺の内容と違って、いたって簡素なものでした。文書量も少なく、「記録等一切なし・・・」という記述が目立ちます。調査員の質問に対して、当時の浄土真宗の寺の住職はそのように答えたのでしょうか・・・。調査員は、「資料がなければ、口頭でもいいから話を聞かせてほしい・・・」と申し出たと推測されますが、それに対しても、「一切知らざるか不語・・・。」と書きとどめています。

寺の住職が、その寺の歴史や由来を知らないはずはありません。たとえ火事で消失するようなことがあったとしても、寺の重要な書類は、他の寺院に別途複写を保管するのが一般的な習わしですから、「記録等一切なし」というのは、調査員が、住職から、必要な事項を聞き出すことができなかったということを意味しているのでないかと思いました。

私は、慎重に言葉を選びながら、被差別部落の人々に聞き取り調査をする意味を伝えました。住職は、私たちの気持ちを少しく察してくださったのか、いろいろと話をしてくれるようになりました。少し、雰囲気が和らいだころ、「研究者」は、「この寺の過去帳を見せてください」と住職に求めました。返ってきた答えは、「この寺には過去帳はありません。火事で喪失しました」というものでした。

私は、その寺の調査記録に記されていた「記録等一切なし・・・」という言葉を思い出していました。

住職は、過去帳の話に触れないように話題を変えて、山口県の被差別部落が直面している現実について話をはじめられました。住職は、「山口県では、他の県に先駆けて、高齢化と過疎化が進んでいる、社会同和教育で、よく、「被差別部落があるから差別がある。被差別部落がなくなれば差別はなくなる」ということが言われるが、そんなに簡単なものではない」といいます。

住職の話では、その寺にも、門徒の中に、被差別部落の人がいるし、いくつかある、その寺の下寺(末寺)にも少なからぬ被差別部落の門徒がいるというのです。ある被差別部落は、高齢化と過疎化が進み、最後の家がその被差別部落を後にして出ていったそうです。ひとつの被差別部落が消えてしう。それは、いいことかというと、決してそうではない。なぜなら、この地方にあっては、被差別部落の人々は、そうでない人々と、いつの時代にも共に生きてきたという現実があるというのです。江戸時代も明治になってからも、差別したりされたりという関係ではなく、共に生きてきたという現実がある、だから、被差別部落がなくなるときは、被差別部落だけでなく、村全体がなくなるときだ・・・というのです。

浄土真宗の住職は、被差別部落がなくなり、その村がなくなり、最後の門徒が出ていくのを見届けない限り、その寺を離れることはできないといいます。

私の過去の経験では、浄土真宗の住職は、誠実な人が多いと思います。
真摯に問いかければ、真摯に答えてくださるのです。

住職は、奥から帳面を出してきて、「この村には、誰々が被差別部落の人で、この村には、誰々が被差別部落の人である・・・」と、具体的な村名と姓名をあげて話を進められました。研究者の「過去帳を見せてください」という要望に、別な形で応えてくださったのでしょう。

しかし、途中、住職がお茶を入れるために席を立ったとき、「研究者」が、私の耳元でそっとささやきました。「今の住職の発言は差別発言ではないか。彼は、被差別部落の人の名前を列挙している。これは、差別になるのではないか。住職は差別していると指摘して、この話を止めさせようか・・・」というのです。

私は、研究者に耳打ちしました。「住職は差別していない。被差別部落出身の門徒の通婚圏について話をはじめている。貴重な話をしてくださっているのだから、黙って聞いていよう・・・」。

話が一段落したとき、住職は、その寺の由緒を示す仏像や古文書を片づけ、「この寺が被差別部落の人々と共に生きてきた証を見せてあげましょう」といって、私たちを、その寺の後ろにある境内へ連れ出しました。

そして、住職は、墓地の真ん中にある古めかしい墓石を指さしながら、「あの墓が、被差別部落の人々の先祖を祀っている墓です。被差別部落の人々の墓の周りを取り囲むように、村の主な住人の墓が配置されています。」と言われます。墓地の、一段と小高い丘の上に被差別部落の墓石が並び、その周辺に村の住人の墓が並んでいました。それは、不思議な光景でした。そう


---------------------------------------------------

※『部落学序説』の執筆をはじめて最初におとずれた「障碍」は、この文書でした。『部落学序説』の執筆をはじめたとき、あらかじめ「研究者」にもその旨連絡をとっていましたが、彼が最初、筆者の文書に目を通してきたときには何の問題も感じておられなかったようですが、ある時から態度が一変してしまいます。そして、彼は、筆者のところに電話をかけてきて、「あれは、正式の聞き取り調査ではない。聞き取り調査をでないものを聞き取り調査として認識するのは事実誤認で重大な瑕疵があるから、文書の削除を求める・・・」という内容の話をされたのです。筆者は、研究者の態度の豹変を不思議に思ってその理由を尋ねると、「部落解放同盟から連絡があった」というのです。筆者は、部落解放同盟に連絡をいれました。すると、部落解放同盟の方は、「あなたの論文をめぐって議論を呼び起こそうと思って彼に連絡した・・・」というのです。部落解放同盟の方は「善意」を主張されますが、そのとき、それまでの文書を削除して、あらたに書き始めました。二度目の「障碍」は、部落解放同盟の方からの直接の文書による抗議でした。そのときも、新しく執筆を始めていた第4章削除しました(部落解放同盟からの文書による抗議の内容は、全文、この『部落学序説』の執筆が完了したときに公表します)。部落解放同盟の方は、「善意」に基づく指導は間違っていない・・・といわれますが、筆者には、部落解放同盟の指導は必要ありません。「テキスト」批判ではじめた『部落学序説』は「テキスト」批判で終わるのみです。結局、筆者には、未指定地区のひとびとの気持ちは理解できても、指定地区のひとびとの気持ちは理解できなかったということでしょうか・・・。筆者は今後も、『部落学序説』を、「賤民史観」や運動理論から自由な立場で、科学的(学問的)な批判・検証を指導原理として執筆を続けていきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

非差別の彼岸への旅立ち

【序文】非差別の彼岸への旅立ち


山口県北部の寒村にある、ある「被差別部落」・・・。
それは、「未指定地区」のひとつです。

その「被差別部落」は、江戸時代の史料や、それに関する論文の中には、「穢多屋敷」のあった場所として登場してきますが、明治以降の文献の中には、ほとんど見当たりません。水平社運動にも参加した記録はないし、戦前戦後を通じて、その被差別部落をめぐって、融和事業や同和事業が展開されたという記録もありません。

山口県教育委員会が作成した『山口県同和対策の概要』(昭和39年8月)というガリ版刷りの冊子の中に、「同和関係地区一覧表」や「同和関係地区一覧図」というのがありますが、その「被差別部落」はその中にもカウントされていません。その「被差別部落」は、「特殊部落」・「細民部落」・「未解放部落」という言葉が相応しくない「被差別部落」でした。近世幕藩体制下の「穢多村」がそのまま、時間を飛び越えて現在に息づいているような「被差別部落」でした。

筆者たちが聞き取りをしている間、浄土真宗の住職も、被差別部落の古老も、歴史や部落解放運動の専門用語を一度も口にされることはありませんでした。また、歴史学の学説や部落解放運動のテーゼに触れられるということもありませんでした。彼らは、一般的なごく普通の言葉、自分たちの生活の言葉で、それぞれの思いを話してくれたのです。彼らとの出会いが、筆者のこころの中に深く残っているのは、彼らの語る言葉が、一言一言、江戸時代を三百年間生き抜いてきた、そして明治になってからも、その歴史を捨てず、所与の人生を引き受けて生きてきた・・・、という歴史の重みを持っていたからです。

私は被差別部落出身ではありません。私も妻も、実家の宗教は、真言宗です。「真言百姓」と言われますが、どこにでもいる、正真正銘の百姓の末裔です。

筆者は、部落差別問題にかかわるようになって、はじめて、部落問題や部落解放運動の用語、部落史の専門用語を覚えました。時々、「そんなに熱心に部落差別問題と関わっていると、被差別部落の人に間違われるよ」と忠告を受けたことがあります。宗教教団の中で、部落解放運動をしている上司から、「君、うそでもいいから部落民宣言をして私たちの仲間にならないか・・・」と誘いを受けたこともあります。部落解放運動の世界では、「差別」と「被差別」の敷居はそんなに高くないらしい・・・、とそのとき、はじめて知りました。
 
しかし、あの浄土真宗の住職や被差別部落の古老の語る歴史の重みを考えるとき、「差別」と「被差別」の間は、被差別部落出身の部落解放運動家が安易に考えているように、その境界を簡単に飛び越えることができるたぐいのものでないことに気づいていましたから、筆者が所属している宗教教団の「上司」の誘いにのることはありませんでした。。

部落差別問題に関わるようになって、何の懸念も持たなかったわけではありません。部落差別問題に関わるようになって、同じ宗教教団に属する教師や信者の間の人間関係がぎくしゃくしてきたし、筆者が所属している「分区」の上司からは、様々な場面で、露骨に、疎外・排除されるようになっていったからえす。度々の嫌がらせに、上司に「殺意」さえ抱いたことがあります。それほど、徹底的な疎外と排除にさらされていたのです。そのとき、筆者は、「ああ、被差別部落の人々は、こんな形で差別を受けているのか・・・」と、被差別部落の人が経験するであろう疎外と排除を「想像」上で追体験して行きました。その上司は、「部落出身者を部落民として差別するのはいけないが、部落出身者でないものを部落民として差別しても差別したことにはならない」と言い放っていました。筆者は、所属する宗教教団の教師を辞めることはしませんでしたが、その「分区」の教師会からは離脱しました。離脱したまま、今日に至っています。

山口県北部の寒村を尋ね、浄土真宗の僧侶や被差別部落の古老から話を聞いたとき、筆者は、「差別」と「被差別」は、厳しく峻別されていて、両者の関係は決してあいまいにすることができないものだ・・・、と思うようになりました。浄土真宗の僧侶や被差別部落の古老から話は、「差別」・「被差別」の關係の厳しさを物語っていました。彼らの語る歴史を前提に考察するとき、ある意味で、「差別(真)」は「被差別(真)」になることはできないし、「被差別(真)」は「差別(真)」になることはできないと考えるようになっていったのです。筆者は、どう考えても、被差別部落の古老の生き抜いている歴史、近世幕藩体制下の藩の牢屋に仕える長吏として、300年間という長期に渡って生き抜いてきた歴史、そして、明治新政府のもとで、「身分・職業」を奪われ、差別されるようになって百数十年・・・、先祖の歴史を否定することなく、世の差別の流れの中で砕け散ることなく、差別の風雪の中で自ら崩壊することなく、村の高台に身を置いて、ずっとその村を見守り続けている・・・、そんな彼らの歴史を、私物化して、自分のものとすることなど絶対にあり得ないと思われたからです。「差別(真)」は、「被差別(偽)」になることはできないのです。

その歴史を引き受けて生き抜いている、浄土真宗の住職や被差別部落の古老に対して、筆者は、尊敬の念すら持たざるを得ませんでした。

差別とは何なのでしょうか。それは、被差別に置かれた人々から、彼らの本当の歴史を奪い、その歴史に代えて、「賤民史観」という、なんともおぞましい、希望のない歴史や歴史観を押しつけることではないでしょうか。被差別に置かれた人から、彼らの本当の言葉、歴史や人生の物語を奪い、そのあとで、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた「賤民史観」という幻想を、さも歴史の事実であるかのように押しつけ、強要すること、それこそが差別というものではないかと思われたのです。

それは、近代日本が、被差別部落の人々に対してだけでなく、近代日本の国策の中で、朝鮮半島や台湾、樺太、太平洋戦争の最中のフィリピン等東南アジアの人々に対してとった「ふるまい」と同じ類のものではないでしょうか。近代中央集権国家によって作られた近代的「部落差別」は、朝鮮半島や台湾、樺太、太平洋戦争の最中のフィリピン等東南アジアの人々から、彼らの生まれながらの言葉・国語を奪い、歴史を奪い、日本語と日本の歴史・皇国史観を押しつけ、臣民化、皇民化政策をとった、日本の近代化の中の悪夢と同じ構造の中にあります。

山口県北部の寒村に生きる、浄土真宗の住職や被差別部落の古老との出会いが、私にもたらしたもの・・・、それは、差別されてきた歴史をになう彼等に対するあわれみや同情の思いではなく、彼らに対する「尊敬」の思いでした。所与に歴史を引き受けていきている彼等に対する「尊敬」の念が、筆者の『部落学序説』全編に渡って、地下水脈のごとく流れているのです。筆者をして、権力者の民衆・人民に向けられた「愚民論」に満ちた「賤民史観」を廃棄させ、その「賎民史観」から自由になっていると思われる学者・研究者・教育者の「学説」や「理論」、「史料」や「文献」の中から、被差別部落の本当の歴史を読み解く鍵を抽出せしめることになったのです。

被差別部落の古老の精神世界に通じる道・・・。

それは、権力者や政治家、学者や教育者が、極めて巧妙な方法で作り上げた「賤民史観」という幻想の向こう側に存在していたのです。差別なき社会を願うものは、自分の足で歩いて、差別の海を、差別の此岸から、「賤民史観」という、人間の作り出した最悪の、悪臭の漂う海の底を超えて、非差別の彼岸へと旅立ちをしなければならないのです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『部落学序説』の視点・視角・視座

【序文】『部落学序説』の視点・視角・視座


「研究者」の削除要求もあって、まえがきがずいぶん長くなってしまいました。

『部落学序説』の執筆を継続するにあたって、「部落学」の対象である「被差別部落」を、筆者がどのような、視点・視角・視座から追求しているか、それを明らかにすることはあながち無意味なことではないでしょう。

私は、意図的に、江戸時代の「百姓」身分から「穢多」身分を見直す作業を遂行することになります。

従来の部落研究、部落問題研究、部落史研究は、「武士」身分から「穢多」を見たものが多いと思われます。「百姓」身分から見た「穢多」身分の姿は、史料や文献はそんなに多くはありません。「百姓」文書の中には、「穢多」に関する差別的なものを見いだすことはかなり難しいと思われます。最近、「庄屋文書」に関する史料の発掘や、それに関する研究が数多く発表されていますので、「百姓」の目から見た「穢多」の姿(歴史の実像)は、ますます明らかになってくることでしょう。

従来の、「武士」身分から「穢多」身分を見たときの、「穢多」の姿は、限りなく賤しい(身分の低い)民に見えるようです。近世幕藩体制下の身分制度の上部を構成している「藩士」階級の、その下部を構成している「士雇」(さむらいやとい)・「穢多・非人」階級にむけた蔑視・差別を示す史料や文献は決してすくなくありません。「藩士」階級の所属する「武士」の中にある階級的奢りは、「士雇」(中間・足軽)・「穢多・非人」身分を「穢多」視する傾向が強いのです。

『部落学序説』は、それを批判検証し、「穢多・非人」身分を見る新しい、本源的な視座を追求します。

『部落学序説』の執筆を継続するに際して、避けて通ることができないのが、「被差別部落」に関する資料(史料や伝承)等の取り扱い方です。

部落学が、単なる観念の遊びではなく、学問の新しい領域として成立するためには、歴史学・社会学・民俗学等と同じように、研究対象を具体的に取り上げなければなりません。具体的に取り上げて論証するためには、「被差別部落」の地名・人名を取り上げ、場合によっては、それらが記載された史料や論文を引用することになります。

しかし、33年間・15兆円という途方もない年数と費用を用いて、同和対策事業が展開されてきたにもかかわらず、部落差別はまだ解消してはいません。同対審答申でいう「実態的差別」は相当の成果をあげたにしろ、「心理的差別」はいまだに根強く存在しているという現実があります。不完全なまま終わった、同和対策や同和教育の現状を踏まえると、被差別部落の地名・人名を軽々しくあげつらうことはできません。また、たとえ、歴史的な史料や文献を引用する場合でも、不用意に実名を引用することはできないと考えられます。

筆者は、幾多の試行錯誤の上、江戸時代の「穢多村」や明治以降の「被差別部落」の地名を表現するときには、「絶対座標」ではなく「相対座標」を用いることにしました。

絶対座標というのは、江戸時代の「穢多村」の名前をそのまま用いることです。明治以降の相次ぐ地方行政改革で、統廃合が繰り返されている関係でかなりな地名が失われている現実がありますが、それでも、残された地名の中に何らかの関連性を持っている場合が多々見られます。

筆者の論文では、「絶対座標」は一度も使用しません。

山口県で長い間、本格的に同和問題に取り組んできた方々なら、このまえがきで触れた「被差別部落」や浄土真宗寺院がどこにあるのか、推定することは容易かもしれませんが、それだけの知識を持っているひとが、差別的暴挙にでるとは考えにくいと思われます(学者・研究者・教育者に対する筆者の淡い期待なのかもしれませんが・・・)。

かと言って、多くの研究者がするように、□□とか、○○、△△・・・の伏せ字を用いたり、ABC・・・という記号を用いて表現する場合は、論文を読むときに目障りになるし、記号の使い分けをいつも念頭にいれなければならなくなり読者の思考を乱すことになります。

そこで、考えついたのが、「相対座標」ですが、相対座標の例をあげるとこのようになります。

たとえば、長州藩には、いくつかの支藩・枝藩があります。長門の国という半島の奥深いところに追いやられた毛利は、山陽道にその出口を見いだそうといくつかの支藩・枝藩を作りました。周防の国には、徳山藩と岩国藩が置かれました。徳山藩を例にとると、城下に、四カ所、「穢多村」を配置しました。その「穢多村」の名前は、それぞれ、現在の地名に引き継がれています。

そこで、徳山藩の「穢多村」を名前をあげて言及するときには、四カ所の名前を、「徳山藩東穢多村」・「徳山藩西穢多村」・「徳山藩南穢多村」・「徳山藩北穢多村」と、東西南北の相対的位置で表現することにしました。そのことは、すでに、「表記規則」で述べた通りですが、「被差別部落」の当事者や部落史の研究家は、私の論文を見て、それが歴史的な正しい記述であるかどうか、持ち前の知識で確認することができるでしょうし、私の論文を読んでくださる一般の方は、必要以上の知識を提供されることで、煩わされずに、論文の内容に入っていただけるのではないかと思っています。

私が読者の方に伝えたいのは、被差別に置かれた方々の「事実」ではなく「真実」だからです。

ただ、被差別部落の人が、社会同和教育で一般の人を対象に公表した講演や文章、被差別部落出身の著述家が出版した小説や論文などの地名・人名については、部落差別の助長につながらないように、それ相応の対策がなされているものとして引用する場合があります。山口県光市の「被差別部落」出身の丸岡忠雄や村崎義正がいのちをかけて語りつたえたものを「匿名」でとりあげることは、行き過ぎであり、彼らの対して失礼になると思います。

しかし、その場合も、「被差別部落」出身者が、必ずしも「被差別部落」出身者の、「時間」と「空間」を越えてよき理解者であるという保証は何もないわけですから、筆者の立場から、著者の承諾なくして、「絶対座標」を「相対座標」に置き換えて引用する場合もあります。

最後に、筆者が提示する「相対座標」をてがかりに、「絶対座標」にたどり着く可能性ですが、多くの場合は不可能であると考えられます。

筆者が、調査のために通った徳山市立図書館の館長と司書の方々は、「仁王門の金剛像」のように、恐ろしい形相で、図書館の史料や蔵書が差別のために悪用されないように立ちはだかっているからです。場合によっては、山口県立文書館の研究員から、何のために調査しているのか、厳しい追求を受けることになります(筆者も一度経験があります)。仁王門をくぐり抜けるには、部落差別を本当に解消したいという熱い思いと誠実な姿勢、彼らを納得させるだけの知識と技量が必要となります。

この仁王門、学者や教育者、被差別部落の当事者ですら、簡単には通り過ぎることはできません。たとえ通りすぎたとしても、今度は、郷土史料室の膨大な史料や論文を読み取る時間と力がなければ、「仁王門の金剛像」の前でただ挫折と敗北を経験することになるでしょう。郷土史料室の史料・資料は、ときどき、倉庫の史料・資料と置き換えられているようなので、あるときは閲覧できても、あるときは閲覧できない・・・という場合もあります。

見つけた資料を複写してもらう段階なると、さらにチェックがかかりますので、部落差別に直結するような資料の複写請求はほとんどできない・・・、という壁に直面します。

「相対座標」を用いるよりもっといい方法があれば、この部落学序説を読んでくださる皆様からのご教示とご指導をお願いしたいと思います。

---------------------------------------------
※山口県の部落解放同盟の関係者の方から、「被差別部落の人々が触れてほしくないと思っていることがらに臆面もなく触れておきながら、地名・人名を実名表記しないのは、『部落学序説』が抱えている論理的矛盾であるという指摘がありましたが、筆者は、矛盾しているとは考えていません。この『部落学序説』は、部落差別完全解消という目的を持っていますが、その目的の実現のために、現在の社会を生きておられる「被差別部落」のひとびとを「手段」とみなしたり、「犠牲」に供したりする発想はありません。筆者は、『部落学序説』を、「テキスト」批判として遂行しており、部落解放同盟の方々のように「運動」・「運動論」から遂行しているわけではありません。山口県の部落解放同盟の関係者の方々の要望をみたしても、「被差別部落」の実名をさらしたことで、他の被差別部落の方々、運動団体、また他県の部落解放同盟からの批判を避けて通ることはできないでしょう。山口県の被差別部落の人名・地名の実名記載の論文は、筆者ではなく、部落解放同盟の方々が執筆すべきです。筆者は、いかなる意味でも、その代筆に関与することはありません。「差別(真)」の立場を自覚して、「被差別(偽)」(被差別者ではないのに、被差別者を擬態して、被差別者として発言する・・・、筆者は、それを、精神的似非同和行為と呼びます)の立場に転落することを極力排除します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

部落学序説の課題

【序文】部落学序説の課題


山口県北の寒村にある、ある被差別部落を尋ねてからというもの、歴史の真実を見極めたいとさまざまな史料や文献を漁ってきましたが、長い間、作業仮説を立てては、それを検証、その作業仮説が破綻すれば、新たに別な作業仮説を立てて検証、さらにその作業仮説が破綻すれば、次の作業仮説を立てて検証・・・、そんな作業を繰り返してきました。

私は、子どもの頃、海が好きでした。

よく、波打ち際に行っては、砂遊びをしていました。時々、大きな波が襲ってきて、せっかく作った砂の城を崩されても、一向に気にはなりませんでした。波が崩した砂山の上にもう一度砂の城をつくりました。今、考えても、よく、飽きもしないで砂遊びをしたものだと思います。

作ったものが崩される・・・、私は、そういうことに慣れています。

他の人によってくずされる場合もあるし、よりいいものを作るために自ら崩す場合だってあります。無意味な営みをしているようですが、私は、そうすることで、目に見える、形ある砂の上ではなく、自分のこころの中に、目に見えない、こころの中の砂の城、簡単には崩れることのない城を構築することができるようになったのです。

そんな子どもの頃の体験は、大人になり、定年の季節に入り、実社会から身を引く年代になっても、私のどこかで大きな影響を持ち続けています。私が所属している宗教団体の部落差別問題の担当者を命じられたときも、一端引き受けたあとは、繰り返し、失敗やつまずきを経験しながらも、その営みを途中でやめることはありませんでした。部落差別問題の担当者をおりてからも、部落差別問題との取り組みを続けたのは、わたしの子ども時代の体験、海の波が教えてくれた、否、形作ってくれた、「途中であきらめない」という、私の性質によります。部落差別問題以外の担当になっていれば、やはり、その方面で同じ営みを続けたであろうと思います。

今回、WEB上で、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』を書き下ろすことになった直接のきっかけは、ある出来事によります。

昨年の夏のある日、その日は、朝顔が百数十個も咲いた美しい日でした。私は、ある山口県立高校に仕事にでかけていましたが、その留守の間にひとつの事件がありました。そのとき、妻は、退院して自宅療養をしていたのですが、突然、見知らぬ男の人がやってきて玄関のガラス戸を割ろうとしたというのです。妻は、病後のため、体力に自信がなく、すぐに警察に通報しました。警察に電話されたと気づいた男は、すぐ離れてどこかへ行ってしまったそうですが、5~6分後に警察のパトカーが駆けつけてくれて、7~8人の警察官があたりを捜索、近くにある山口県立某高校に押し入って、同校校長から説得されているときに、駆けつけてきた警察官に逮捕されたといいます。その後、逮捕された男が、意味不明なことをしゃべっているというので、逮捕から保護に切り換えたとの連絡が警察から入りました。

その夕方、その男の両親がやってきて、ことの次第を話されました。両親の話だと、息子さんは、「出てきた人を、誰でもいいから危害を加えるつもり」で、玄関のガラスを、ゴルフのドライバーで割ったのだといいます。「はやく警察に連絡してくださったので、息子は、人身事故を起こさないで済みました・・・」と、深々と頭を下げられました。玄関の窓ガラスには、防犯フィルムを貼ってあったので、ゴルフのドライバーで叩かれても打ち破られるということはなかったのですが、息子さんを精神病院に強制入院させたという両親が気の毒でした。しかし、私たち夫婦は、それ以上、何も聞きませんでした。

次の日、その青年の母親がガラス屋と一緒にやってきました。ガラス屋は店に持ってかえって修理すると言って玄関のドアをはずして帰って行きました。青年の母親が、「修理がすむまで、ここで、またせてください・・・」というので、礼拝堂に通しました。すると、礼拝堂のうしろの書棚に、この『部落学序説』を書くための資料や書籍がたくさん並べてあったのを見て、それに気がついた母親は、一瞬不安そうな表情をされました。

私は、それとなく察して、「宗教教団の同和問題を担当してきただけです。私は、被差別部落出身ではありませんから、ご心配なく・・・」と心配を取り除こうとしました。すると、その母親から思いがけない返事がかえってきたのです。母親は、「息子は、実は、そのことで悩んでいたんです・・・」といいます。

青年の母親は、自分の方から、一方的に話をはじめました。

その母親は、結婚するとき、相手が「被差別部落出身かどうか・・・」確かめたといいます。そのとき、今の夫は、彼女に「部落出身ではない」とはっきり答えたというのです。「それならば・・・」と親類縁者もその結婚を祝ってくれたそうですが、やがて、子どもが与えられ、保育園に通うようになり、幸せな生活をしていたある日、市から「牛乳」が配布されるようになったといいます。近所の人に尋ねても、誰もそのような「牛乳」をもらっているものはいません。「なぜ、自分の子どもだけに・・・」、そう思った母親は、市の担当者を問い詰めたといいます。市の担当者は、「この牛乳は同和牛乳です・・・」と答えたそうです。

その日、その青年の母親は父親と言い合いになったそうです。

「あなたは被差別部落出身なのに、それを隠して、私と結婚したのですか!」

父親は、「自分は部落出身ではない。自分の生まれた家の道一本隔てたところから部落だ・・・」と言ったまま、何も話をしなくなったといいます。

母親は、「同和」とは何か、学校同和教育や社会同和教育に機会あるごとに参加して、理解に努めたそうですが、ある日、小学生の息子さんが学校から帰ってくるなり、「おかあさん、同和って何?」と質問したといいます。母親は、息子さんの質問になんとか答えようとしたそうですが、PTA対象の同和教育や社会同和教育で話を聞かされた、「人の嫌がる仕事を押しつけられた気の毒な人・・・」という話を、息子さんにすることはできなかったといいます。

中学生のとき、息子さんは、母親に、「なぜ、おかあさんは、同和地区の人と結婚したのか?」と母親を非難するようになったといいます。また、息子さんは、母親だけでなく、父親にも、同じような質問をしたそうですが、父親は、「うちは部落ではない・・・」とひとこと言ったまま、それ以上なにも言わなかったといいます。

高校、大学と進むに連れて、息子さんの悩みは深くなっていったといいます。そして、大学を卒業したあと、深刻な不況の中、就職先が見つからず、実家に帰って、アルバイトの仕事をしていたといいます。

仕事について数カ月、息子さんは、インターネットを見るようになったといいます。あるとき、「お母さん、インターネットの世界では、みんなぼくの悪口を言っている」と悲しそうに話したといいます。「あなたのこと、知っている人はいないと思うわよ。そのインターネットのホームページおかあさんにも見せて・・・」というと、「お母さんは見ない方がいい。お母さんも傷つくから・・・」と言って見せてくれなかったといいます。

息子さんはやがてノイローゼ状態になり、その日、父親の部屋をゴルフのドライバーで目茶苦茶に壊し家を飛び出したそうです。行くあてもなく彷徨っているうちに、当方の礼拝堂を見つけ、危害に及んだというのです。

その母親の話を聞いて、私も妻も、大きなショックを受けました。母親から、その話を聞くまでは、最近新聞やテレビで報道されている、「若者の理解できない事件のひとつ・・・」で終わっていたかもしれなませんが、母親の話を聞いて、「若者の理解できない事件のひとつ・・・」の背後にある問題の深刻さに驚きの思いを持ちました。

「なぜ、当方の建物を襲ったのか・・・」とお尋ねしますと、「おたくとは何の関係もないから・・・」ということでした。

私は、その母親にも、執筆中の『部落学序説』の話をしました。

そのとき、母親は、「もし、むすこが、インターネットであなたの話を見ていたら、ノイローゼにならないで済んだかもしれません・・・。退院してきたら、息子と一緒に、話をお聞きしたいと思います・・・」といって、帰って行かれました。

山口市で、第12回部落解放西日本夏期講座(1987年)が開かれたとき、部落解放同盟中央執行委員長の上杉佐一郎が、「地対財特法」下の高校奨学金の貸与化に触れて、このように話をしていました。

「高校奨学金貸付制度になり3年後から20年間返済することになるんですが、考え方によっては20年間は非常に長くていいなと思われるかもしれませんが、私はこれは差別の再生産の大きな危険性をもつ要因であると思います。金を借りて高校に行き卒業する、就職をする、通婚をする、そして子どもができる、10年先に給料をもらってくる、今は銀行振り込みですから奥さんに入るのが通常です。ですから奥さんの手に入ったうちから奨学金を払わないといけないのです。そうすると何も知らずに結婚した部落外の奥さんが「何の奨学資金ですか」と質問する。「そら同和の奨学資金だ」と言わないといけない。10年15年後に奨学資金をはらわなきゃならないということの中から新しい差別の再生産をつくりあげることになるひとつの危険な要素をもっていると私は思うのです」。

それから何年かして、山口県の被差別部落を、部落解放同盟中央本部がキャラバンをしたとき、どういうことが話されているのか、私も参加させてもらいました。そのとき、キャラバンに参加した中央本部の人にきいてみました。「一般の人と部落の人が結婚した場合、その間に生まれた子どもはどうなるのか」。中央本部の人は、「部落差別は血の問題であるから、両者の間に生まれたこどもは、部落民になる・・・」といいます。「それでは、もし、そのこどもがまた部落外の人と結婚したら?」と尋ねると、「部落の血が2分の1になり、4分の1になり、8分の1になっても、部落の血がながれている限り部落民である・・・」といいます。

私は、そのとき、部落解放運動は欠陥運動だと思いました。

部落差別からの解放と言われるさまざまな営みが、本当は、部落差別の拡大につながることに結果するのだとしたら、その運動は解放運動の名に値しない似非運動以外の何ものでもないと思われたのです。

ある被差別部落の人は、このように言い放ちました。「その息子さんは、差別者の血が流れているのだから、差別に苦しむような目にあっても仕方がない・・・」。私は、その言葉には、背筋が凍りつくような冷たさを感じました。

部落学序説を、WEB上で公表することにしたのは、思いがけないできごとの背景を知ったからです。前に、まえがきで、「被差別部落の古老の精神世界に通じる道・・・、それは、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた賤民史観」という幻想の向こうに存在するのである。差別なき社会を願うものは、自分の足であるいて、差別の此岸から、「賤民史観」という悪臭の漂う海の底を超えて、非差別の彼岸へと旅立ちをしなければならない・・・」と書きましたが、この部落学序説は、新しい学問のありようを、学者や研究者、教育者に対して提案するだけでなく、「差別」・「被差別」の立場をとわず、部落差別に悩み苦しむ「あなた」を、「賤民史観」という悪臭の漂う海の底を、自分の足で歩ききって、「非差別の彼岸へ」たどり着く、本当の部落差別からの解放への道があることを提示し、「あなた」をその旅にいざなうものでもあるのです。その気になれば、たったひとりでもはじめることができる旅に・・・。

部落の血など信じてはいけないのです。

「江戸時代、三百年間差別され続け、人の嫌がる仕事を押しつけられた惨めで、哀れで、気の毒な人・・・」、こころない学者・研究者・教育者によってつくり出された幻想を信じてはいけないのです。彼らのしかけた罠に陥ると、かけがえのない人生を彼らの慰み物にしてしまいます。

「部落の血」など、あろうはずがありません。

差別を経験した世代は、次の世代に差別が及ぶことを阻止する努力をするでしょう。さらに次の世代に差別が及ぶようなことがあれば、それは世の変革と改革に向かい、場合によっては、「世直し一揆」や革命に発展させることになるでしょう。人間とはそういうものです。江戸時代三百年間、黙って差別に耐えてきた・・・、そんなことあろうはずがないのです。それは、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた「幻想」にすぎません。

被差別部落の女性たちは、一番そのことを知っていました。だから、自分たちのこどもを産み続けたのです。母親は、「あなた」を差別の中に突き落とすために産んだのではありません。試練を乗り越えて、希望を掴むために、「あなた」をこの世に送り出したのです。

人間の本当の価値は、自分の意志を超えた、自分の力ではどうしようもない「所与」の人生をいさぎよく引き受けて生きることができるかどうかによって決まると私は思っています。

この『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に破壊しつくすことを課題としています。差別・被差別の立場を問わず、部落差別の完全解消を願っている読者のみなさん、筆者と一緒に「賤民史観」を取り除くたたかいをはじめてみませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

部落学とは何か

【序文】部落学とは何か


歴史が歴史に関する学であり、社会学が社会に関する学であり、民俗学が民俗に関する学であるのと同様に、部落学は部落に関する学であるといえます。

部落学が学として成立するためには、部落学は、歴史学や社会学、民俗学に対して、独立した学としての存在理由を明らかにしなければなりません。

従来、部落研究・部落問題研究・部落史研究という名目のもとで、部落に関するさまざまな個別研究がなされてきました。その研究によって、膨大な史料の集積が行われ、それとともに、数多くの論文や研究書が執筆されてきました。累積された資料の豊富さは、ひとりの学者・研究者・教育者が一生をかけても、それらの資料をひとりで読破し、分析と総合という研究作業を完成させるということを困難にしています。まして、筆者のように、無学歴・無資格の「ただのひと」にとっては、基本的な資料を読破することですら至難の技になってしまいます。部落研究・部落問題研究・部落史研究のどの研究主題についても、網羅的な文献を精査することは絶望的な営みであると言えます。

最近、十数年の個別科学研究の成果を見ても、部落に関する個別科学の研究の場合、ほとんど、何の進展もしていない・・・感があります。個別科学研究に限界を感じた学者・研究者から、学際的な研究の必要が叫ばれ、また、学際的な研究方法を身につけた新しい世代の学者・研究者によって、「部落学」と称して、新たな研究が展開されてきてはいるのですが、いまだ試行錯誤の領域を出ていません。それぞれの「部落学」は、研究主体を「被差別」の置いている点など考慮すると、それらの「部落学」は、部落差別の完全解消に向けた、新しい研究的視野を提供しているとは思われない情況にあります。

今日の、部落・部落問題・部落史に関する学会の現状(限界)を認識する方法は簡単です。

その気になれば、誰でも、簡単に、その現状を確認することができます。部落研究・部落問題研究・部落史研究に関する、図書館の郷土史料室の蔵書や、書店で販売されている関連書籍のなかから、複数の著名な学者・研究者・教育者の執筆した書籍20冊程度を任意に選択して、それらを学者別・テーマ別に比較・検証してみればすぐにわかります。

筆者同様、すぐに、現在の部落研究・部落問題研究・部落史研究が、ここ十数年、とりとめのない混沌とした状態にあり、現在にいたるも、いまだに、そのような状況から抜け出すことができないでいる情況を確認することができるでしょう。

「部落とは何か」・「部落民とは誰か」、「部落」・「部落民」に関する定義ひとつをとっても、学者・研究者・教育者によって異なる定義がなされています。「部落」・「部落民」を定義付することに熱心なひともいれば、これまでの研究結果から、「部落」・「部落民」を定義付することを断念したひともいます。なかには、「部落の定義を繰り返すことは、いたずらに事態を悪化させるだけなので、そのような不毛な議論はもうやめよう・・・」と、自分だけでなく他者の取り組みをも断念に導くことを提案するひともいます。

しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わるものが、部落を定義することは不可能であるというのは、何を意味しているのでしょうか。学者や研究者が、「部落」・「部落民」を定義することに絶望し断念している姿をみると、無学歴・無資格の「しろうと学」の筆者ですら首をかしげてしまいます。学者・研究者の中に、「この世の中には、定義することができないような不思議・謎が存在している」と考えているひとがいるのでしょうか。学者・研究者が、「部落」・「部落民」の定義を断念するというのは、学者・研究者が、学者・研究者としての良心と責務を放棄し、困難な問題を前に敵前逃亡していることにならないのでしょうか・・・

部落・部落問題・部落史研究を遂行する個別科学は、歴史学、地理学、社会学、民俗学、文化学、人類学、法学、政治学、宗教学等多岐に及びます。どの個別科学研究も、33年間15兆円という膨大な時間と費用を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業のなんらかの恩典(研究費)にあずかってきたのではないでしょうか。それにもかかわらず、「部落」・「部落民」という、基本的な定義すら確定できないでいるということは何を意味しているのでしょうか・・・。その研究費すら支出されなくなった今、部落研究・部落問題研究・部落史研究のあらたな展開を望むことはできなくなっているのでしょうか・・・。

異なる個別科学の研究者間の共同研究という点では、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談があります(『沖浦和光・宮田登対談-ケガレ-差別思想の深層』解放出版社)。しかし、『ケガレ』を通読してみればわかるのですが、歴史学と民俗学のケガレ観の違いについて、それぞれの立場からの見解が披露されているのみで、両者の研究成果を総合するような試みはほとんどなされていません。歴史学と民俗学の学際的研究によって、歴史学と民俗学の違いがより鮮明になったに過ぎません。歴史学と民俗学の研究成果を、批判・検証のうえ、総合するという、文字通りの学際的研究には達していないのです。しかし、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談は、希有なこころみとして一読に値する書であります。

種々雑多な論文の集積という点では、『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)があります。部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる28人の学者・研究者の論文が収録されています。しかし、この論文集は、28の学者や研究者の、それぞれの研究成果をアトランダムに収録しているに過ぎません。「部落」・「部落民」に焦点をあてて、多角的な視点からその解明に挑んだ・・・という類のものではありません。ただ、多様な学者の多様な研究成果が列挙されているに過ぎません。『脱常識の部落問題』の読者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の「常識」の破綻のみをしらされ、そこから、部落研究・部落問題研究・部落史研究の新しい展望を見つけることは容易ではありません。

また、一方で、異なる個別科学の研究者間の共同研究ではなく、ひとりの研究者による複数の個別科学研究の有機的関連をもった学際的研究というものもあります。

たとえば、川本祥一の『部落差別を克服する思想-どうしてそこに部落があると思いますか?』(解放出版社)がそうです。著者の川本は、立教大学で、学生に、「日本文化の周縁」という科目名で「部落学」を教えていますが、歴史学・社会学・民俗学等を、「ひとつの分野」とするとしています。川本は、「部落学」という、新しい学問の提唱者であるといっても過言ではありませんが、川本は、その『部落差別を克服する思想』を「部落学」の教科書として採用しています。川本の「部落学」が何であるかを確認するためには、その著『部落差別を克服する思想』をよめばいいということになります。筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学際的研究に触れたいひとは、川本の『部落差別を克服する思想』の一読をおすすめします(筆者の『部落学序説』が提唱する「部落学」との違いもあきらかになります)。

また、同様に部落学を提唱している人に、辻本正教というひとがいます。彼は、『東北学別冊5』において、「あらゆる学問を結集して、それこそ学際学的手法に基づく部落学として、それぞれの疑問を取り除いていく・・・」ことを提案していますが、彼の「部落学」に関する言及は、彼の主要な研究論文『ケガレ意識と部落差別を考える』と比較・検証してみる限りでは、「部落学」を指向する彼の理念と、実際の彼の個別科学研究との間には、おおきな隔たりがあるように思われます。

一時、インターネット上で、大阪市立大学においても「部落学」構築が試みられているとニュースがながされていたと記憶していますが、大阪市立大学の野口通彦は、「歴史学」・「社会学」の学歴・資格を背景に、新たな提案をしています。野口通彦の代表的な著作に、『部落問題のパラダイム転換』がありますが、その内容は、無学歴・無資格の「しろうと」目からみてもかなり荒っぽいもので、学者・研究者としては非常に粗雑な議論を展開しています。野口のいう部落問題のパラダイム《転換》は、決して《転換》ではなく、従来のパラダイムの本質をそのままに単に装いを替えただけに過ぎません。差別解消というより、部落差別の拡大再生産に直結するような論法を展開しています。

上記の例をみてもわかるように、部落研究・部落問題研究・部落史研究の個別科学研究から学際的研究へのこころみは、まだ、はじまったばかりの初期的段階に過ぎません。今後、本格的な研究成果が、学者や研究者から明らかにされるのでしょうが、そういう学会の流れとはまったく別に、『部落学序説』の筆者である私は、ただ、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査で知り得た証言を歴史的に裏付けるべく、必要に迫られて、歴史学・社会学・民俗学等を総合化して、部落学構築を指向しはじめたのです。

筆者は、日本の社会から部落差別を完全に解消していくためには、「部落学」の構築が急務であると確信しています。部落差別は、政治・文化の両面に根強く浸透しているので、その根っこを掘り起こして、その差別の原因を明らかにするには、従来の個別科学研究の単なる累積だけでなく、部落差別を、ひとつの社会システム、法システムとして、その全体構造の中に位置づけなければならないと思っています。政治・文化の世界から、「被差別部落」に関する史料を抽出して、社会システム・法システムから切り離された特殊な環境下での研究には限界が存在すると思われます。

更に、「部落学」を標榜する先行する研究を読んで思うのですが、「部落学」構築の前に、「部落学」の主体と「部落学」の客体について何らかの検証が必要ではないかと思います。そうしないと、個別科学研究がもたらしたのと同じ状況、諸説の恣意的な陳列に終わってしまいます。先行している「部落学」は、その研究主体を、「被差別部落出身者」であると宣言しています。これまでの、非被差別部落の学者によってなされた研究が必ずしも、部落差別解消に役立っていないという点では、部落差別を受ける側から、そのような試みがあってもいいとは思いますが、しかし、「部落学」として「学」を標榜する以上は、「部落学」は、特定のひとに限定されるものであってはならず、万人が行うことができる「万人の学」として開かれたものでなければならないと思います。その立場が、「差別」であろうと「被差別」であろうと、「部落学」固有の研究方法と研究成果は、「差別」・「被差別」の両者で共有されなければならないと思われるのです。部落学の研究主体を「被差別」に限定するのは、部落学が「学」であることを自ら放棄し、「学」として自己否定するに等しいのです。

部落学構築の前に、「序説」(プロレゴメナ)として、①部落学の主体(差別・被差別の関係)、②部落学の客体(研究対象と研究方法)、③部落学研究で使用される、「賤」・「穢」・「屠」等の基本用語の定義、④民俗学の「気枯れ」、歴史学の「穢れ」の解釈の統合の可能性等、⑤研究者の前理解について、あらかじめ批判・検証する必要があるではないかと思います。「序説」(プロレゴメナ)を経ずして行われる、個別科学研究の単なる集積・糾合としての部落研究・部落問題研究・部落史研究や「部落学」は、多くの場合、研究者の恣意と思いつきに終わるのではないかと思います。

部落学に携わるものは、「部落学」の前提となっているさまざまな要素を、徹底的に批判と検証にさらさなければならないと思います。『部落学序説』は、「部落学」を学たらしめるところにその存在理由があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

部落学の研究主体

【序文】部落学の研究主体


部落学構築に際して、なによりもまず解決しておかなければならないことがあります。

それは、部落学を「万人の学」として遂行するために必要な、部落学の研究主体の検証です。部落学が学であるためには、その研究主体として、すべての人が関与できるものでなくてはなりません。先行する部落学の提唱者が主張しているように、その研究主体を「被差別部落民」に限定することは許されないと思います。

部落学は、被差別部落民の自己理解の学ではなく、日本社会に存在する部落差別問題の解消を目的とする学ですから、差別・被差別の枠を超えて、それを願うすべての人に開放されなければなりません。

「被差別部落の人々の痛みや苦しみは、当事者でなければわからない・・・」ということが、さも、まことしやかに言われますが、本当にそうなのでしょうか。確かに、心情的にみると、その主張もあながち間違いではないのですが、同じ痛みや苦しみを経験するかしないかで、他者の痛みや苦しみを理解することが容易になることは否定すべくもありません。

ある病気を経験した人は、その病気を経験したことのない人よりも、今、その病気で苦しみ悩んでいる人の気持ちをよりよく察することができるというのはあり得ることです。しかし、経験や体験の共有が、人の痛みや苦しみを共有する唯一の道だとすると、病気を患っている人の治療にあたる医者や看護