2006年4月27日 (木)

まえがき

ごんごちの里

20年以上前の話ですが、長州藩の支藩である徳山藩の「北穢多村」の系譜をひく被差別部落の隣保館の中で開かれていた、部落解放同盟新南陽支部主催の「解放学級」に参加したことがあります。

そのころは、その部落解放同盟新南陽支部の支部活動の最盛期だったようです。「解放学級」に参加している人々は、その被差別部落の住人だけでなく、小学校・中学校・高校・大学の教師、新聞記者、宗教家と多種多彩な人々が参加していました。

部落解放同盟新南陽支部は、その「解放学級」にあらたに参加される方々のために、『解放学級 参加者のための資料(第1集)』を発行していました。筆者が持っているのは、それ1冊のみで、第2集以下については読んだことはありません。風のうわさでは、部落解放同盟新南陽支部によって、被差別部落の聞き取り調査が継続されていたとお聞きしてきますが、もしかしたら、第2集、第3集、・・・が存在しているかもしれません。

『解放学級 参加者のための資料(第1集)』は、その被差別部落に身を置いて、明治・大正・昭和を生き抜いてきた「祖母」・「母」・「娘」の女3代に渡る、被差別部落民としての思い出を綴ったものです。「解放学級」での、集団聞き取りでの話ですので、話の内容は多方面に及びますが、筆者にとっては、山口県の被差別部落の生活と闘いを知る上で、貴重な伝承資料です。その被差別部落の歴史は、女性によって担われてきたのかもしれません。

唯一の男性の語り手は、部落解放同盟新南陽支部の支部長をされていた方で、部落差別について、淡々とした口調で、にこやかに語られる姿は、多くの参加者の好感を集めていました。その存在の大きさは、その支部長さんが病気でなくなられたあと、部落解放同盟新南陽支部が急速に失速し、「解放学級」の参加者が激減したことでも知られます。

その『解放学級 参加者のための資料(第1集)』の中に、被差別部落の中に伝わる幽霊の話がでてきます。

被差別部落に伝わる幽霊のひとつに、「ごんごち」というのがあります。支部長さんは、「ごんごち」についてこのように話しています。

「まだ廃れていない言葉。ごんごちは、この辺では、いまだに健在なのよ。徳山では、ごんごちというものを知らない人が最近は多いがね。・・・今日の子は、ごんごちというても何もわからん。「ごんごちって何・・・?」というから、「幽霊のことよ」というと、「わあ、こわい!」って。うちの会社の女の子に、「ごんごち知っているか」、いうたら、「それ何?」って・・・。だめだね・・・」(『解放学級 参加者のための資料(第1集)』は録音テープからの書き下ろし)。

支部長さんの話を聞いていると、「ごんごち」は、「こわい幽霊」というよりは、「おもしろい幽霊」のイメージが漂ってきます。「解放学級」の参加者の中にも、徳山市在住のひともいたのですが、「ごんごち」について知っているひとはだれもいませんでした。「ごんごち」とは、どんな幽霊なのか・・・、みんな知りたいと思ったのですが、「ごんごち」が、どんな幽霊か、見たひとはだれもいませんでした。

あるとき、支部長さんから、その被差別部落のことを、「調べれるだけ調べてほしい・・・」と頼まれたことがあります。筆者は、被差別部落のことを調べることは「差別行為」であるというイメージを持っていたので、最初、お断りしたのですが、「どうしても・・・」と、頼まれて引き受けることにしました。そのとき、支部長さんから、筆者に対して、そのような依頼がなかったら、筆者がブログ上で書き下ろしをしている『部落学序説』が生まれることは決してなかったことでしょう。

『解放学級 参加者のための資料(第1集)』は、筆者が、山口県の被差別部落の歴史や伝承、日常の暮らしを調べるうえで、多くのてがかりを与えてくれました。その調査は、いまも継続しています。筆者は、『部落学序説』でも言及しましたが、柳田国男は、「事実を基にして考えてみる学問、どんなに小さな事実でも粗末にせぬ態度、少し意外な事実に出逢うと、すぐに人民は無知だからだの、誤っているのだと言ってしまわずに、はたしてたしかにそのようなことがあるか。あるならどういう原因からであろうかと、覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法」の大切さを説いていますが、筆者は、被差別部落を尋ねる以前から、「覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法」を身につけるよう努力していました。

筆者は、『解放学級 参加者のための資料(第1集)』のすべてのことを理解しているというわけではありません。理解できた部分もありますし、いまだに理解できない部分もあります。理解できない場合、早急に無理な解釈をほどこすことなく、そのことがらが自らを開示しれくれまで、いつまでもまち続けるという方法で被差別部落の歴史や伝承、日常の暮らしを調べていきました。

「ごんごち」というのも、いまだに解明されていないことがらのひとつです。

「幽霊」を『広辞苑』でひもときますと、「①死んだ人の魂。②死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの」。筆者は、「ごんごち」が、昔生きてはいたけれども、今は死んでしまっている人の「魂」・・・であるとは思えないのです。

支部長さんも、他の幽霊にふれて、このように話しています。「どういうかの、今でいう怪獣じゃないの。みんな、見たことはないわけ。みたことはないけで、みんなこわかった。こどもの頃は・・・」。「ごんごち」も、死者のたましいと何の関係もない「怪獣」・・・、より的確な言葉でいえば、「妖怪」の可能性があります。

「妖怪」を『広辞苑』でひくと、「人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体。化け物。」とあります。「幽霊」は、昔は生きていたひとのことですから、調べていけばそのひとに到達することが可能なようですが、「妖怪」は、「人知では解明できない」ところにところに特徴があります。人知で解明できるようになると、それは、もう「妖怪」ではなくなります。これでは、「妖怪」は、永遠に人間には解明できない存在になってしまいます。

「ごんごち」は、「幽霊」ではなく、「妖怪」ではないか・・・、筆者は想像をたくましくします。インターネットを検索しますと、「老人が子供をおどかした時の、「○○がくるよ」・・・教訓妖怪全国一覧」(http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/zatugakuchou/14/)に、山口県・島根県の「妖怪」として「ごんごち」が出てきますから、まんざら間違いではなさそうです。鳥取県うまれの水木しげるの「妖怪リスト」(http://www.japro.com/mizuki/set.html)にはごんごちの名前は出てきません。水木しげるが知らなかったか、「ごんごち」が妖怪の中の妖怪であって、水木しげるでさへ、「ごんごち」がどんな妖怪なのかイメージすることができなかったのではないかと推測されます。

インターネットで、「ごんごち」に関する伝承をあつめて比較検証していて思うのですが、「ごんごち」は、遅くまで起きている幼児を、早く寝かせるために、おとなが、「早くねないと、ごんごちがくるよ・・・」とか、「ごんごちに食べられちゃうよ・・・」とか、おどかすために利用された「妖怪」のようです。

この「ごんごち」、「岡山の方言」(http://www.head-clinic.ne.jp/FA_doc/hohgen.html)によれば、津山地方では、「かっぱ」を意味したそうです。

筆者は、「そうか、ごんごちとは、かっぱのことだったのか・・・」と妙に納得がいきました。「人知では解明できない」はずの「妖怪」が、筆者の目に、少しくその姿をあらわした瞬間でした。

筆者は、岡山県倉敷市児島琴浦の出身です。父は、四国の讃岐、母は、四国の阿波出身です。当然、こどもの頃、「はやくねないと、ごんごちがくるよ・・・」というおどしを耳にしたことは一度もありません。筆者の記憶では、「はやくねないと、海坊主がくるよ・・・」という言葉は繰り返し耳にしたように思います。

「海坊主」とは何なのか・・・。「幻想動物の事典」(http://f61.aaa.livedoor.jp/~toroia/data/monster.html)によると、「海坊主」は、「身体はスッポンで人面、毛髪はない。体長は5、6尺ほど。」だそうだ。筆者には、「海坊主」とは、歳をとった巨大なかっぱのようにイメージされます。

「ごんごち」も「海坊主」も、もしかしたら、先祖は「かっぱ」なのかもしれません。

「ごんごち」が語り伝えられる被差別部落は、大きな川のそばにあります。かっぱが出ても不思議ではありません。「ごんごち」は「かっぱ」の別名であった可能性もあります。「かっぱ」がいつのまにか「ごんごち」になってしまった・・・。概念が、「かっぱ」から「ごんごち」に変わることによって、「ごんごち」はさらに、「人知では解明できない」ものになってしまったのではないか・・・、筆者はそのように考えます。

日本の司法・警察であった「非常・民」としての「衛手」(まもりて・エタ)が、「穢多」、「旧穢多」、「新平民」、「特殊部落民」、「未解放部落民」、「被差別部落民」、「同和地区住民」、「被差別市民」・・・と、次から次へ概念を変えられることによって、「衛手」(まもりて・エタ)は、「人知では解明できない」、永遠に解決不能な存在へと追いやられてしまったのではないか・・・。

部落解放同盟の田所蛙治氏のブログ『蛙独言』(http://aogaeru.txt-nifty.com/kobe/2004/12/index.html)の中に、このような文章がありました。

「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。
芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
高校生の時に読んだのだ。
当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。
 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。
うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。

被差別を突き抜けて生きようとする田所蛙治氏の姿勢がひとことひとことに織り込まれています。田所蛙治氏は、「お前は蛙だッ!」といわれて、絶望して死ぬのではなく、「そうだ、俺は蛙だ!」と宣言して生き続けるたくましさのようなものを感じます。「俺は、蛙になったのだから、河童に関することは、そんなに大した問題ではない・・・」とも言い切ります。

『部落学序説』の筆者は、そのような田所蛙治氏の部落解放運動家としての姿勢に共鳴しつつ、しかし、こうも考えるのです。「あんたは、本当は蛙やない。河童や、河童なんや。蛙を捨てて、河童としていきなはれ!」

部落差別は、「妖怪」の世界の問題ではありません。「人知では解明できない」世界の話ではありません。部落差別は、人間が、政治が、権力者が作り出したものです。人間が、自分の手で作り出したものは、人間の手で解決することができます。政治が作り出した闇は、政治によって闇の世界に光を注ぐことができます。部落差別は、人知によって解決可能な問題なのです。政治が、部落差別を完全に解消する日まで、被差別部落の人々は、政治と妥協したり、政治を過大評価してはいけません。部落差別完全解消の日まで、その部落解放の闘いを続けるべきです。しかし、「同和対策事業」だけが、部落差別完全解消の道ではありません。「蛙」が「河童」に回帰し、「ごんごち」が「河童」に回帰するときにこそ、部落差別完全解消のほんとうの日はやってくるのです。

筆者は、「釈迦に説法」をしている愚をおかしていることを認識しつつ、「ごんごちの里」で展開された、ある同和対策事業の「PLAN・DOS・EE」(計画・実行・評価)を紹介することで、筆者の「同和対策事業」観を明らかにするとともに、日本全国各地で展開された、同和対策事業の評価方法のモデルを提示したいと思います。

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2006年5月 4日 (木)

「同和対策事業」の基本資料

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第1節 「同和対策事業」の基本資料

「同和対策事業」とは何なのか・・・。

1965年8月、同和対策審議会が、「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策についての答申」(『部落解放史 熱と光を 下巻』解放出版社)を出します。その基本方策に基づく具体的な「同和対策事業」は、「同和対策事業特別措置法案、成立」(1969年6月)によって具体化されます。

それ以後、「同和対策事業」が全国展開されていくのですが、「同和対策事業」とは何だったのか・・・、一般の国民は、それほど詳しい情報を提供されているわけではありません。学校同和教育や社会同和教育で提供される情報は、表面的・形式的なものが多く、それだけでは十分に把握することは不可能です。

『部落学序説』の筆者も、被差別部落出身者ではありませんので、「同和対策事業」とその成果を身を持って経験するということはありませんでした。それでも、「同和対策事業」について認識し、その認識に基づいて発言しようと思えば、当然、「間接的」にならざるを得ません。

『部落学序説』は、徳山市立図書館の郷土史料室の資料の複写分と、筆者が収集した市販の書籍を参考資料に執筆されていますが、もちろん、徳山市立図書館だけではありません。山口県立図書館はいうに及ばず、周南地区の公立図書館で資料を探索することの多々ありました。

たとえば、新南陽市に被差別部落の歴史を調べようとして、新南陽市立図書館の郷土史料室だけを調査してよしとするのは不十分です。なぜなら、新南陽市は、同市の被差別部落の住人のことを考慮して、彼らに関する史料を「公開しない」という方針を立てている場合があるからです。つまり、新南陽市の市民は、新南陽市の被差別部落に関する情報について、市の方針で、制限された状況に置かれているのです。

そのような制限を突破するひとつの方法として、新南陽市に周辺の市町村の公立図書館の郷土史料室の蔵書をあたる方法があります。たとえば、徳山市立図書館の郷土史料室では、新南陽市立図書館に閲覧できない史料も簡単に閲覧できます。徳山市は、新南陽市の被差別部落の住人に対して新南陽市ほどに配慮をすることはないということを示しています。

当然、逆の事態も起こります。徳山市立図書館で閲覧できない史料が、新南陽市立図書館で簡単に閲覧できる場合もあります。

「同和対策事業」の主体は、国と地方の行政機関ですから、公立図書館には、意外と、同和対策事業に関する資料が保存されています。

つい最近までそうだったのですが、これが、市町村の大合併によって、それまで独立していた市町村がひとつの市になりますと、当然、同じ施策が実行されることになります。図書館行政も、従来の枠を越えて、標準化されます。すると、徳山市立図書館で閲覧することができた新南陽市の被差別部落に関する文献、新南陽市立図書巻で閲覧できた徳山市の被差別部落に関する文献のいずれも、新しい市・周南市の被差別部落の人々に対する配慮から、閲覧できなくなる可能性があります。

その場合も、周南市の周辺の市町村(山口市・防府市・岩国市・下松市・光市)の図書館で調査すればいいのですが、市町村合併で、山口市・防府市・岩国市・下松市・光市は、周南市と境界を接することになりました。

旧徳山藩の領地は、周南市だけでなく、防府市・下松市・萩市にも及びます。

つまり、被差別部落の歴史研究においては、静かに、グローバル化が進行しているのです。筆者は、地方部落史研究のグローバル化は、関連史料が「閲覧禁止」にならない限り、歓迎すべきものであると思っています。従来の市町村という枠組みでは、被差別部落の歴史を知る上で多々障碍があるのです。

森浩一は、その著『地域学のすすめ 考古学からの提言』の中で、「地域学とは、それぞれの「まとまった空間」のなかの住人(住民ではない。民というと前提としてその対極に政権がちらつく)を主人公として歴史的な展開をみようとするものである。この「まとまった空間」とは・・・歴史的地域といってもよく、生産や政治など人々との日常の活動でおのずからまとまりやすい範囲を考えている。」といいます。

そしてまた、「よくありがちな日本の歴史では、さまざまな地域が果たした役割とか特色が中央にたいしての地方として薄れてしまい、力量感の乏しい歴史になりがちである。地方史では勇気がわかず、その意味では地方史を総合したときに本当の日本歴史が語られるとおもう。」といいます。

一般史だけでなく、部落史についても、皇国史観や唯物史観によるイデオロギー的解釈を、地方史に強引に適用し、その価値基準にあうものだけをとりあげ、その価値基準にそぐわない史料や伝承を「例外」として葬りさるという「演繹的手法」ではなく、「例外」を含めて、地方史の史料・伝承が伝えているものを総合して「帰納的手法」で解明していくことが大切な時代に入っているのではないかとおもわれます。

「地方史」・「地域学」に深い関心を持つ筆者は、「同和対策事業」について言及するときも、部落解放同盟をはじめとする運動団体の事業観に依拠し、それを普遍化するのではなく、地方・地域の具体的な「同和対策事業」の把握からはじめるのをよしとします。

徳山市立図書館をはじめ、各市立図書館で保管されている、また、閲覧できる史料は少なくありません。しかも、市町村議会の議事録や委員会記録まで含めると膨大なものになります。

「同和対策事業」とは何なのか・・・。

その問いを前に、自問自答するときに、筆者が使用する資料は、山口県・山口県教育委員会が発行した『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』です。

その内容は以下の通りです。

はじめに
1.同和地区の概況
2.同和対策事業
3.同和教育
4.同和事業及び同和教育の取扱組織
5.同和事業実績調
6.山口県における同和教育の歩み
附表

この資料は、山口県の公立図書館で閲覧できるもののひとつですが、『部落学序説』の筆者にとっては、「同和対策事業」について、「PLAN・DO・SEE」(計画・実行・評価)を考察する上での基本的な資料になります。

一般市民が、「同和対策事業」について、まじめに批判・検証をくわえることができる資料は、その中に、被差別部落の地名・人名が実名記載されていることで、「差別文書」扱いされるようになると、公立図書館は「閲覧禁止」扱いにして、図書カードで検索できるのに閲覧はできない・・・という事態も起ます。『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』が閲覧できるかどうかは、時の運によります。あるいは、その図書館の部落史あるいは部落問題に関する認識の質の如何によります。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、「同和対策事業」の主体(同和事業及び同和教育の取扱組織)、「同和対策事業」の客体(同和地区の概況)、「同和対策事業」の計画と実行(同和対策事業・同和教育)、「同和対策事業」の評価(同和事業実績調・山口県における同和教育の歩み)、「同和対策事業」(附表、関連の法・手続き・申請書類等)の、「PLAN・DO・SEE」(計画・実行・評価)に耐えるすべての資料を網羅しています。

しかも、『昭和39年8月・・・』というのは、昭和40年8月の同和対策審議会答申が出された、ちょうど1年前になりますから、『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、同対策審議会答申前夜の「同和対策事業」に関する資料ということになります。

『蛙独言』の著者・田所蛙治氏(部落解放同盟・神戸)は、このように綴っています。

「水平社宣言」には「吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。」と書かれています。同盟の、どっから見ても「これぞホンモノの活動家」といった人でも、大概は、その出発時点では「部落と部落民は不幸で惨めで暗いものなのだ」みたいな認識からそう遠くないレベルにあったと思います。奈良の山下さんもその著書の中で、そんな風に言ってたんじゃないかな。 「物心付く頃」から私らは周囲からそのような「思い込み」を持つことを強いられて育ってきたのです。同盟の活動を通して「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲」をようやっと克服することができてきた、それが「活動家」なんだろうと思う。で、吉田向学さんがその「部落学序説」で言われる「脱・賤民史観」の主張は実にしっくり入ってくる。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、田所蛙治氏が、「その出発時点では「部落と部落民は不幸で惨めで暗いものなのだ」みたいな認識からそう遠くないレベルにあった・・・」と述懐されている時代の「同和対策事業」を認識するのに最適な資料であるとおもわれます。

地方の資料をもとにして、「同和対策事業」の原点を展望してみましょう。

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2006年5月 5日 (金)

同対審答申前夜の被差別部落の状況

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第2節 同対審答申前夜の被差別部落の状況

同対審答申前夜の被差別部落の状況を、『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』から「懐古」してみましょう。

政府は、その前の年、昭和38年1月1日に、「同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施」します。そして、2年後の昭和40年8月11日に、「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申」(『部落解放史下巻』)します。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、ちょうど、その間の年に発行されたことになります。『山口県同和対策の概要』は、その「全国基礎調査」に触れて、山口県の「被差別部落」について次の数字をあげています。

「県下13市44町村のうち、13市39町に分布し、地区数は158地区で、10360世帯、地区内人口約46000人となっている」。

さらに『概要』は、山口県下の「被差別部落」を「瀬戸内海沿岸の市」と「山間部及び日本海側」に分けて次のように記しています。

「瀬戸内海沿岸の市においては、全般的に混住率は高く集団的な地区形成をし、1市あたりの平均地区人口は2200人となっており、町村においては、1町村あたり702人となっている。又、山間部及び日本海側では、1市あたりの平均地区人口が371人から395人で瀬戸内海沿岸に比べ約半数となっており、小規模の地区のようにうかがえる」。

『概要』の「同和関係地区一覧表」によりますと、「ごんごちの里」のある「南陽町」の「同和地区」の「地区数」3、「世帯数」285、「人口」1161人になります。「ごんごちの里」の「南陽町」を分母とした人口比率は、1161/28386=0.04、つまり、「南陽町」民100人のうち4人が「同和地区住民」ということになります。

また『概要』は、「地区の混住率」に触れ、「市部において高く22%(100人のうち地区外人口22人)を示し、町村においては地区の把握にも関係するが、これを相当下回っているものと考える。」としています。

『概要』は、「同和地区における住宅事情」について、「不良住宅が重なりあい、ひしめきあって建っていることが特徴」であるとし、「その古さと粗末さのために、壁は落ち、瓦は崩れて傾いた家々が密集し、その間には道というよりは狭い路地が迷路のように通っているような地区もなかには見受けられる。いくたびの台風、水害の度に高台に難をのがれ、家は浸かり、瓦ははがれ、軒は傾き、道路も排水路もない、この密集地区に若し火災が発生した場合は一体どうなるのか、考えただけでも暗然とならざるを得ない状態である。」といいます。当時の「ごんごちの里」も、同じ状況にあったようです。

また、「世帯主の就業状況」は「不安定」で、「生活の基盤は非常に脆弱なため、「収入状況もきわめて悪く、それだけに生活程度も低い。・・・エンゲル係数61以上の世帯が65.1%、51~60までが23.3%・・・という状態で、これは現行の生活保護基準の飲食費の割合52%に比べ非常に高い数字を示している。」状況下で、「高校進学率は40%程度であった、山口県平均74%を相当下回っている」と記されています。

『概要』は、「技術指導、経済力の培養、教育の向上こそ急務」であると訴えています。

『概要』当時の「同和地区における住宅事情」を彷彿とさせる「被差別部落」を、今日においても、まのあたりにすることができる場合もあります。いわゆる「未指定地区」の場合、「33年間15兆円」の「同和対策事業」が展開されてきたにもかかわらず、行政が同和地区指定しなかったために、何ら「同和対策事業」がなされないまま今日にいたっている「被差別部落」も存在します。

たとえば、岩国の米軍基地周辺の「被差別部落」がそうです。戦前は日本の軍隊の基地強化によって、戦後はアメリカ軍の基地強化によって、「被差別部落」は、周辺へ周辺へと追いやられ、岩国市が、「同和対策事業」を放棄し、「基地対策事業」を選択したため、岩国基地周辺の「被差別部落」は、「同和対策事業」・「基地対策事業」のいずれの事業の恩恵も受けることなく今日にいたっている例も存在します。個人給付も、日本共産党系の運動団体が、その傘下にある「被差別部落住民」にのみを対象にしたため、その傘下にいなかった他の「被差別部落住民」は、個人給付にすらあずかることができなかったと、当時の岩国市長が歎いていました。

山間部や島部の「被差別部落」を尋ねると、『概要』当時の「被差別部落」の状況を容易に想定させられる「被差別部落」も少なくありません。

『概要』によりますと、山口県は、「本県では部落問題の解決は・・・なし得られる」と確信して、「恵まれない経済条件の向上」・「劣悪な環境を改善」し、「物的な面から生ずる差別思想の原因を除くとともに、同和教育を推進する」ために「同和対策事業」を推進するとしています。

山口県は、「部落問題の解決」の緊急性に鑑み、「戦後10年近くは国においても十分な施策が行われないので、県として独自の施策として昭和29年度において、山口県部落問題対策審議会を設け、この問題について調査研究を進めた。」といいます。

「即ち、昭和27年度以降本年度までの間に環境改善事業を中心に、経済対策、同和教育の推進、同和地区の調査、同和事業の事務委託等を行い、この間3億6千8百万円の同和対策事業を進めてきた・・・。」といいます。

つまり、山口県にあっては、「同和対策事業」は、国の施策に依存することなく、県独自に「同和対策事業」を展開していたのです。山口県は、それと同時に、「同和事業に対する国策樹立と同和関係予算の大幅計画を絶えず国に対して要望してきた・・・」といいます。

それは、やがて、他府県の要望とあいまって、昭和38年の「同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施」、昭和40年の「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申」、昭和44年の「同和対策事業特別措置法」に結実していきます。

『蛙独言』で、部落解放同盟・神戸の田所蛙治氏は、「「事業法」は「差別をなくす」ことを直接の目的にするものではありませんでした。「環境改善」や「同和地区住民の主体的力量の涵養を目指した個人給付」など、「差別をなくす」るために有効ではないかと考えられた「条件整備」の施策に過ぎなかった。」といわれますが、山口県の「同和対策事業」の流れをみてきますと、「同和対策事業」は、部落差別解消のための「条件整備」などではなく、「部落問題の解決は・・・なし得られる」と確信のもとに実施されたものです。田所蛙治氏は、「事業法」の立法趣旨を「縮小解釈」する傾向があるようですが、「同和対策事業」の戦後の歴史を考慮するとき、それらの事業は、「部落問題の解決」、つまり、部落差別の完全解消に結果しなければならなかったはずです。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、「物的な面から生ずる差別思想の原因を除く」ことを宣言していますが、ここでいわれている「差別思想」とは何なのでしょうか・・・。『概要』は、「物的な面から生ずる差別思想(同対審答申の「心理的差別」)の原因(「実態的差別」)を除く」ことを主張しています。『山口県同和対策の概要』の強烈な認識「差別思想」に対する主張は、「心理的差別」を結婚差別や就職差別の除去だけでなく、「差別思想」の除去をも含むものであるとおもいます。

「同和対策事業」を、同対審答申前夜を含む戦後の「同和対策事業史」を「大域的」に把握していくときには、戦後の各府県の政府に対する「訴え」によって成立した「同和対策事業」に対して、「33年間15兆円」を費やして実施された「同和対策事業」が、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という悲願を達成できたのかできなかったのかを問うことは、的はずれでも間違いでもありません。

「33年間15兆円という膨大な歳月と費用を注ぎ込みながら、なぜ、部落差別を解決することができなかったのか」という設問は、その事業にあずかることができなかった「未指定地区」の新たな事業のためにも、批判検証を避けて通ることはできないはずです。

この論文は、山口県の被差別部落のひとつ「ごんごちの里」に焦点をあてて、「同和対策事業」に対する批判を展開していきます。

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2006年5月 6日 (土)

同和対策事業の目的、それは差別が昔話になること・・・

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第3節 「同和対策事業の目的、それは差別が昔話になること・・・」

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』には、山口県における「同和地区の現況(一部)」と、「同和事業、同和教育のあらまし」が添付されています。

昭和44年(1969)の「同和対策事業特別措置法」以前と以後において、「同和対策事業」はどのように変化したのかといいますと、「同和対策事業特別措置法」以前は、「関係各省において・・・それぞれの所管行政を通じて」個別に実施されていましたが、以後は、「各省の施策」を集大成して、総合的・包括的に、いわゆる「同和対策事業」として実施されることになります。

『概要』によりますと、「同和対策審議会答申」以前の事業は、2種類あったといいます。「特別事業」と「一般事業」(筆者の用語)です。「特別事業」というのは、「直接的に同和対策事業として、特別の施策を講ずるもの」で、その事業の受益者として、「被差別部落」の人々のみが対象になります。「一般事業」というのは、「間接的同和対策事業として、一般行政のうちで行うもの」で、いわゆる「市民的権利」の保障として行われるものです。

『概要』は、「これらの事業の実施方法としては、モデル地区を設定して各省の施策を総合的に集中して行うものと緊要な事業を個々に実施する方法とがある」といいます。

山口県では、国の「同和対策事業特別措置法」成立を想定しながら、昭和35年(1960)から、「同和対策モデル地区」を設定し、山口県の「被差別部落」の「一部」の地域で、その事業が推進されているのです。

昭和35年 山口市
昭和36年 下松市
昭和37年 宇部市・周東町・田布施町・下松市(継続)
昭和38年 久賀町・宇部市(継続)・周東町(継続)・下松市(継続)
昭和39年 防府市・光市・宇部市(継続)・周東町(継続)・下松市(継続)

また『概要』は、各省毎の個別事業の実施「地区名」をあげています。丸付き数字は、地区名の実名記載をさけるため、筆者がつけた、各市町村の被差別部落の連番です。たとえば、下松市で同和対策事業が実施された地域は、①②③の3箇所という意味です。

【厚生省関係】(昭和31年~昭和38年)

都濃町 ①
徳山市 ①
宇部市 ①・②・③・④・⑤
下松市 ①・②
大和村 ①
防府市 ①
山口市 ①・②・③・④
山陽町 ①
秋芳町 ①
周東町 ①・②・③・④・⑤・⑥・⑦・⑧
田布施町 ①
光市 ①

【農林省関係】(昭和35年~昭和38年)

山口市 ①・②・③
周東町 ⑯・①・⑨・⑩・⑪
宇部市 ①・⑥・③・⑤・②・⑦・⑧
田布施町 ①

【建設省】(昭和34年~昭和38年)

山口市 ①
周東町 ⑫
下松市 ①・③
田布施 ②
宇部市 ③
久賀町 ②
田布施町 ①

【社会福祉関係】(昭和29年~38年)

田布施町 ①
周東町 ⑬・⑭・⑮
宇部市 ①・⑤・③・②・⑤・⑦・④
防府市 ④・⑤・⑥・⑦・⑧・⑨
山口市 ①・②・③
熊毛町 ①
日置村 ①・②
美祢市 ①
下松市 ①・③
徳地町 ①・②
楠木町 ①
徳山市 ①・②
秋芳町 ②・③
久賀町 ①・②
下関市 ①
光市 ①
阿東町 ①・②
豊田町 ①・②
萩市 ①区
豊浦町 ①
大和村 ②
都濃村 ②・③・④
柳井市 ①

【公衆衛生関係】(昭和28年から昭和37年)

美祢市 ①
宇部市 ③・④・⑥・①・⑦・⑤・②
防府市 ⑩・⑥・⑤・④
萩市 ①・②
山陽町 ①
秋芳町 ③・②・①
周東町 ①・⑯・⑩・⑬・⑤・⑭
むつみ村 ①
久賀町 ① ②
南陽町 ①
山口市 ①・③・④
田布施町 ①
徳地町 ③・①・②・④
柳井市 ②・①・③・④
大和村 ①・②
美祢市 ①
下松市 ①・③
熊毛町 ①
福江村 ①
光市 ①・②
豊田町 ③
徳山市 ②

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』によると、山口県は、「昭和27年度以降本年度までの間に環境改善事業を中心に、経済対策、同和教育の推進、同和地区の調査、同和事業の事務委託等を行い、この間3億6千8百万円の同和対策事業を進めてきた・・・。」といいます。

山口県は、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という悲願を掲げて、12年間で、3億6千8百万円の「同和対策事業」をすすめてきたといいますが、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏(部落解放同盟・兵庫)は、「「事業」出発時点で「地区指定」されたのは2000を超えていたと思いますが、平均して一つのムラに年額2億5000万・・・」の同和対策事業がなされたといいます。田所蛙治氏の計算では、ひとつの「被差別部落」のために投与された事業費は、田所蛙治氏がいう「30年間」で、75億円にのぼります。

12年間3億6千8百万円のときに山口県行政が抱いていた、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という高邁な目標が、「33年間15兆円」の一連の「同和対策事業」の中で、なぜか見失われていまい、田所蛙治氏がいう、「「事業法」は「差別をなくす」ことを直接の目的にするものではありませんでした。「環境改善」や「同和地区住民の主体的力量の涵養を目指した個人給付」など、「差別をなくす」るために有効ではないかと考えられた「条件整備」の施策に過ぎなかった・・・。」という事態にどうしておちいったのか・・・、筆者は、疑問に思います。

「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という高邁な目標は、「33年間15兆円」という「同和対策事業」の全期間に渡って保持され続けなければならなかったのではないでしょうか・・・。

『概要』は、「同和対策事業」を推進しなければならない理由として、戦後の高度経済成長によって、発生した「格差」(経済と消費の成長についてゆけない層はかえって生活が圧迫せられる)の「是正」(環境改善対策・経済政策・同和教育)の必要性を訴えています。

この時代の政治家は、現代の政治家と違って、社会的「格差」を容認することができず、常に「是正」を指向していたと思われます。小泉首相は、格差社会を是認するような発言をしていますが、日本の首相みずから、政治家であることを自己否定しているような発言です。

『概要』の中で、山口県は、「同和対策事業」の目的は、「同和問題をなくすること」であるといいます。「同和問題をなくする」というのは、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消を意味します。筆者はこの表現は、非常に大切であると思っています。無くさなければならないのは「同和問題」であって、「同和地区」(被差別部落)ではないということです。『概要』に記された、「同和対策事業」の初心を忘れてしまったとき、山口県の学校同和教育・社会同和教育の中で、「同和地区」があるから差別がある、「同和地区」がなければ差別はなくなるという主張がなされるようになっていったと思われます。

『概要』は、「同和対策事業」によって作り出される「差別なき社会」を、このように綴っています。

「同和地区が
明るい住みよい環境の中で、
安定した職業をもち、
子供たちは毎日元気に学校に通い、
笑顔がいっぱいの町の中で、
差別が昔話になる・・・」

『部落学序説』の筆者である私は、「被差別部落」の人々が「被差別部落」の中に住みながら、「差別が昔話になる」、そのために、「非常民の学としての部落学」を執筆しているのです。

「33年間15兆円」の「同和対策事業」がもたらした現実と、「同和対策事業」が予期していた結果との齟齬、亀裂、破綻は、「同和対策事業」がその途上で大きく変質してしまったからであると推測されます。「33年間15兆円」の「同和対策事業」は、なぜ、「差別が昔話になる・・・」事態を招来させることができなかったのか・・・。

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2006年5月 8日 (月)

同対審答申前夜の「同和教育」の方針

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第4節 同対審答申前夜の「同和教育」の方針

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』の中に、昭和39年当時の山口県教育委員会の「同和教育の方針」という文章が掲載されています。

『部落学序説』の筆者は、「同和教育事業」も「同和対策事業」のひとつであると考えています。「同和対策事業」を批判的に検証するためには、「同和教育事業」についても言及せざるを得ません。「同和対策事業」が何を目指して実施されたかは、同対審答申前夜の「同和教育」の方針を検証することで確認することができるのではないかと思います。

筆者は、すべての法解釈に際して、その法を成立せしめた歴史と状況の分析と把握を必要不可欠な作業として認識しています。それらを抜きにして、成立した法(同対審答申や同和対策事業法)を、金科玉条のごとく絶対視することはありません。

国に働きかけて、同対審答申や同和対策事業特別措置法を成立させていった地方行政のひとつである山口県の「同和教育の方針」をてがかりに、「同和教育」の原初の姿をもう一度確認してみましょう。

山口県教委は、「日本国憲法」の「すべての国民は法の下に平等であって・・・政治的、経済的または社会的関係において差別されない」という規定を取り上げることから、「同和教育の方針」(以下『方針』と呼ぶ)を展開していきます。

『方針』は、すべての国民が「差別」されない民主社会を構築するためには、「民主教育」の推進を欠かすことができないといいます。

『方針』が、視野にいれている「差別」は、「部落差別」だけではありません。日本国憲法の条文にあるとおり、「人種、信条、性別、社会的身分、門地、貧富」などによるすべての「差別」を包含します。これらの「差別」は、「現在の社会において最も民主主義と相反し、民主化をはばんでいる」との認識が示されています。『方針』は、これらの差別は「封建遺制の問題」として、「国民生活の中に深くくいこみ、複雑多様な形で差別にしわよせして、ひびに苦しさ、貧しさなどのあらゆる不幸を生み出している・・・」というのですが、そのような「差別」は、「同和地区」住民だけでなく、「全国民の上にのしかかっている」というのです。「人種差別」、「宗教的差別」、「性差別」、「社会的差別」(身分、出身、学歴等による差別)、「貧富による差別」からの「解放」は、「根を一つにする国民共通の課題」であるというのです。

つまり、『方針』は、「部落差別」からの「解放」を、「全国民」が直面している「共通の課題」のひとつとして位置づけ、「われわれはみんな(差別・被差別)で手をにぎりあって、すべての国民が差別から解放されることを目標に、人間として、社会人として、そして国民として、この問題を自分自身の問題として把握することから出発しなくてはならない。」というのです。

筆者は、この言葉は、山口県教育行政の担当者の「巧言令色」ではなく、教育者としての責任感から生まれてきた言葉であると確信しています。

『方針』は、「真の民主的な教育」は、「すべての人びとが差別観念から解放せられるような人間を育成すること」にあると強調しています。『方針』は、「部落差別」だけでなく、他の「人種差別」・「宗教的差別」・「性差別」・「社会的差別」(身分・出身・学歴等による差別)・「貧富による差別」等のすべての「差別を焦点づけた教育」を「同和教育」と呼ぶというのです。

山口県の、同対審答申前夜の「同和教育」は、「同和教育」という「特殊教育」ではなく、本質的にすべてのひとびとを対象にしてなされる「人権教育」であったのです。筆者は、昭和39年の山口県教育委員会の「同和教育の方針」のもっている意味合いは、今日においても、決して色あせてはいないと思うのです。

しかし、同対審答申にもとづいて実施された同和対策事業・同和教育事業で、同対審答申がだされる前夜の山口県の「同和教育」に関する理解は、なしくずしにくずされていったと思われます。山口県の「同和教育」は「同和<教育>」に重点が置かれていたにもかかわらず、「33年間15兆円」の同和対策事業が展開される中で、「同和教育」は「<同和>教育」に重点が置かれるようになっていってしまったからです。

「同和教育」を推進する上で、「同和」に重点を置くか、「教育」に重点を置くかによって、「同和教育」の方向性と内容とは大きく異なってきます。

山口県にあっても、「同和教育」が、「同和」の方に重点が置かれるようになることによって、「同和地区」のこどもと、同じような「差別」的現実(「人種差別」・「宗教的差別」・「性差別」・「社会的差別」(身分・出身・学歴等による差別)・「貧富による差別」等)に身を置いていたこどもとの間に「格差」が生じることを許してしまいます。

もちろん、「同和地区」のひとびとの側からみると、「同和教育」が、「同和」に重点を置くことは当然のことであったと認識されたことはある意味当然であると思われます。

『蛙独言』の著者・田所蛙治氏は、このように語っています。

「明治」から考えても、既に百数十年が経っています。この間にこの国のインフラ整備から取り残されてきたことを「埋め合わせ」したと単純に考えれば「15兆円」などたかが知れた額に過ぎません。15兆を30で割れば、たかだか年間5000億、「明治」以降の百年に均して考えれば年間50億円に過ぎません。 「事業」出発時点で「地区指定」されたのは2000を超えていたと思いますが、平均して一つのムラに年額2億5000万、百年に均せば250万円ということになるでしょう。実際にはそんな単純な計算は意味がないですが、ただ、大した額ではなかったということを言いたいのですね。

「同和教育」が、同対審答申前の山口県の「同和教育」の『方針』とは違って、「同和<教育>」から「<同和>教育」に変質していったとき、教育現場の中に、「逆差別」がもちこまれることになり、そのことが、「公平」をモットーとすべき公教育の現場で著しい「不公平」を演出し、教育現場の荒廃をもたらしていったのではないかと筆者は想定しています。

長年、部落解放運動に携わってこられた田所蛙治氏が、「15兆円」など「たかが知れた額に過ぎません。」「大した額ではなかった」・・・と言い切られるとき、筆者は、田所蛙治氏は、「逆差別」という犠牲すらはらってなされた「同和対策事業」・「同和教育事業」を正当に評価していないのではないか・・・という疑念を持たざるを得ないのです。

「同和教育」が「<同和>教育」に重点を置かれたことで、公教育における「不公平」と「格差」は、解消されるのではなく、かえって、温存されるようになったのではないかと思います。

小泉首相は、歴代の首相とは異なって、「不公平」と「格差」を是認するような政策をとってきました。筆者の目からみると、小泉首相の行政改革は、「改革」でなく、政治的頽廃・跛行行為のような気がします。

『方針』は、「過去の同和教育」を反省し、「同和教育」の刷新をはかろうとします。『方針』は、過去の歴史「理解が浅薄」であり、「差別の認識が皮相」であったため、「同和教育」の現場で、貴重な多くの経験と情報を収集し、そこから「同和教育」のあるべき姿、「正しい目標をつかみながら、それを正しく発展させること」ができなかったといいます。「部落問題の表面ばかりなでまあわし特殊教育として孤立させていた」というのです。『方針』は、「このことを深く反省し学校教育に携わる者も、社会教育に当たる者も、等しく現代社会の実態を的確に把握して、民主主義の立場から同和教育を強力に推進しなければならない」といいます。

『方針』は、「目的を正しくとらえ、具体的、継続的な指導計画によって実践するならば、この国民的課題は必ず教育の力で解決できる」といいます。

「33年間15兆円」という時間と経費を注いで実施された同和対策事業・同和教育事業は、「部落差別」をはじめさまざまな差別の「解決」をみないまま、打ち切られてしまったということについて、どのような理由があたのでしょうか・・・。国に、「同対審答申」・「同和対策事業特別措置法」を成立させた地方行政の「初志」が、いつ、どのように、変質させられてしまたのでしょうか・・・。

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2006年5月28日 (日)

同和地区

第2章 同和対策事業とは何か
第1節 同和地区

昭和35年(1960) 同和対策審議会設置法、公布・施行
昭和38年(1963) 同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施
昭和40年(1965) 同和対策審議会、内閣総理大臣に、同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申
昭和41年(1966) 総理府設置法改正で総理府付属機関として同和対策審議会を設置
昭和42年(1967) 総理府、全国同和地区実態調査を実施
昭和43年(1968) 同和対策審議会、首相に、同和対策の促進に関する特別措置法法案要綱を提出
昭和44年(1969) 同和対策事業特別措置法案、成立
昭和46年(1971) 総理府、全国同和地区実態調査を実施
昭和49年(1974) 内閣総理大臣官房同対室、同和地区精密調査を実施
昭和50年(1975) 総理府、全国同和地区実態調査を実施
昭和57年(1982) 地域改善対策特別措置法案、参院で可決成立
昭和59年(1984) 地域改善対策協議会、今後における啓発活動のあり方について意見具申
昭和60年(1985) 総務庁長官官房地域改善対策室が、全国同和地区に生活実態把握調査
昭和61年(1986) 地対協意見具申出される
昭和62年(1987) 総務庁地対室より、啓発指針出される。地対財特法、成立

『部落解放史下巻』(解放出版社)に資料として添付されている「部落問題関係略年表」から、同和対策事業に関する立法・行政側の項目を抽出したのが上記の年表です。

昭和44年(1969)に同和対策事業特別措置法案が成立する前に、すでに、「同和地区」が指定され、「同和対策事業」が実施されていました。昭和44年の同和対策事業特別措置法によって、一部地域で試験的に行われていた同和対策事業は、全国的に展開されるようになります。

「同和立法」の下、「同和行政」によって、「同和事業」が展開されるのですが、その「同和対策事業」は、国・地方公共団体によって、「多方面に渡って」展開されていきます。

同和対策審議会の委員を最初から担当し、のちに、地域改善対策協議会の会長をされた磯村英一は、その著『同和問題ハンドブック』(公務職員研修協会発行、1987年)の中で、同和対策事業の「実態が、必ずしも明らかでない」ことを指摘、「このこと自体が、同和対策事業の実施が、国民の監視の目からはずされており、密室の中の行政と取沙汰される原因」となっているといいます。

磯村英一は、「同和行政」は、一方では、国民に対して、同和問題の解決は、「国民的課題」であると主張しつつ、一方では、そのために実施される「同和対策事業」については、国民を寄せつけず、批判すら許さない「密室の中の行政」に終始している以上、「同和対策事業」は国民の了解を得るにいたらない旨発言しておられます。

磯村英一著『同和問題ハンドブック』が出版された1987年当時の話ですが、磯村は、「いまだかって、国及び地方公共団体を含めた”事業総覧”は、つくられていない。」といいます。一説にいわれる「33年間15兆円」といわれる同和対策事業が、具体的にはどのような事業として実施されたのか、その「事業総覧」が作成され、同和対策事業終了とともに、「PLAN・DO・SEE」(計画・実行・評価)の「SEE」(評価)という総括が実施されたのか・・・、筆者は寡聞にして何も知りません。

昭和44年の同和対策事業特別措置法に端を発する全国的規模の「同和対策事業」は、何ら、批判検証という「総括」が実施されることなく幕引きが実施されたように思われます。

今から約20年前、磯村英一は、「同和対策事業」「主体」である「同和行政」の問題点を指摘していました。同和対策は「事業」としてのみ展開されたのですが、その「対象地域」は、「同和行政」によって、「同和地区」として指定された地域にのみ限定されていました。全国に散在する「被差別部落」は、「同和対策事業」「対象地域」になるためには、「同和行政」から「同和地区」の指定を受けなければなりませんでした。近世・近代を通じて「被差別部落」であると「被差別部落」内外から認知されていても、「同和行政」によって「同和地区」の指定がなされない限り、その「被差別部落」に対して同和対策事業が実施されることはありませんでした。

どこからどこまでが「同和地区」なのか・・・。

それを決めたのは、全国の地方公共団体(県・市町村)の「同和行政」でした。「同和地区」の指定の方法は、全国的に多種多様であったそうですが、山口県の部落問題関連資料の中に、山口県光市の被差別部落「浅江」の地図があります。通常、被差別部落の在所を、現在の地図の上で具体的に表示してそれを不特定多数の閲覧に供するというのは、「差別」行為であるとの指摘を免れ得ません。

しかし、山口県の公立図書館の郷土史料室に行けば、光市の被差別部落「浅江」の在所を地図上で目で見て確認することができます。もちろん、「浅江」というのは、「大字」であって、広範な地域をさします。被差別部落は、その広範な地域の一角でしかありませんが、被差別部落の名称に「浅江」が一般的に使用されます。

筆者は、はじめてこの地図を見たときから、「山口県は不思議なところだな・・・。光市の被差別部落の住人もそれが差別文書だとは指摘しない・・・。なぜなのだろう・・・。」と思っていました。

あるとき、被差別部落のひとから、光市浅江で行われた同和対策事業の話を聞いて、納得する・・・、ということがありました。そのひとがいうには、光市は、同和対策事業を実施する上で、光市は、「同和地区」として、浅江の「被差別部落」を含も広範な地域を指定したというのです。そして、同和対策事業を、「被差別部落」の周辺から「被差別部落」の中心へと「同和対策事業」を展開していき、事業完了とともに、その地域を「同和地区」から外していったというのです。そして、最後に、本来の「被差別部落」だけが「同和地区」として残った・・・というのです。

ということは、光市の同和対策事業を追跡していくと、「同和地区」の指定がなされた地域が特定できるということです。その資料の年代によっては、同和地区であったり、なかったりするわけです。

「同和地区」は、従来の「被差別部落」だけだと思っていたら、その周辺にあって「一般地区」とされている箇所もかっては「同和地区」として「同和対策事業」が実施されていた・・・ということにもなりかねないのです。住民の知らないとことで、その住民の住んでいる地域が「同和地区」に指定され、住民の知らないところで、その住民が「同和地区住民」にされてしまっている・・・という事態にもなりかねないわけです。

「同和対策事業」の主体は、「同和行政」にあります。この「同和行政」が、自由に、「同和地区」を指定し、その地区で「同和対策事業」を実施していたのです。

一般住民にほとんど何も知らせることなく、「同和行政」を恣意的に実施していた可能性があります。しかし、このことは、多くの問題を含むことになります。そこで、「同和行政」は、行政の都合で指定された「同和地区」を排除する必要があります。そうしないと、いつかそのことが一般住民に露顕して大問題に発展しないとも限りません。

そこで、光市浅江の「同和地区」はどこなのか・・・、住民が調べにきたとき、光市浅江の「同和地区」は、「被差別部落」(歴史的な旧穢多村)ですよ・・・、と確認させ、不安を払拭させるために、山口県下の公立図書館の郷土史料室において、光市浅江の「被差別部落」の所在を公開し続けているのではないか・・・、筆者はそのように考えたのです。

磯村英一は、「同和行政に実践を難しくしている最大の原因」は「似非同和行為」(『部落学序説』の筆者の表現)にあるといいますが、その「似非同和行為」は、磯村英一が指摘している「民間運動団体」だけとは限りません。「同和行政」も著しく逸脱して、「同和対策事業」を実施してきた可能性があります。

不正が不正をよぶというか、悪が悪を呼ぶというか、そういうことで、「官」による「似非同和事業」は、「官」にとどまらず、「民」による「似非同和事業」へと発展してしまったのではないかと思います。広範に指定された「同和地区」の住民(しかし、実際は被差別部落住民ではなく一般住民)から、それをたてにとって「同和対策事業」にともなう利権を要求された場合、「同和行政」は拒否できなかったのではないかと思います。

マスコミの多くも、「同和行政」の不正を認識しつつ、「”触れたくない”という姿勢をつづけてきた」(磯村)といいます。「同和行政」が、自らの姿勢を正し、「同和行政」の不正と頽廃を自ら「断固として排除」すれば、同和対策事業に対して国民の信頼を損なうことはなかったことでしょう。

地方行政が、国の同和対策事業費の「利権漁り」をし、また、その地方行政の同和対策事業について、被差別部落内外が暗黙の同和対策事業費の「利権漁り」を繰り返す・・・、そんな構造が見え隠れします。

同和対策審議会答申の理念から著しく逸脱した「同和行政」・「同和対策事業」は、「同和対策事業」「主体」である「同和行政」「主体性」の欠如に由来します。今日、問題・事件としてとりあげられる「同和対策事業」は、すべからく、「同和行政」「主体性」の欠如に由来します。「同和地区」指定を厳密に指定していれば招来することがなかった不正ですから。それを許した「同和行政」の責任は非常に重いものがあります。

かっての同和行政の担当者の方に質問します。

「同和対策事業」とは何だったのですか。国民に、分かりやすく説明し、具体的に列挙してください。

 

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2006年5月29日 (月)

同和対策事業総覧

第2章 同和対策事業とは何か
第2節 同和対策事業総覧

同和対策審議会の委員を歴任し、地域改善対策協議会の会長をされた磯村英一にしても、「国及び地方公共団体を含めた」同和対策事業の全体像を把握することは難しいといわれます。

「同和対策事業」は、どのように展開されたのか・・・。被差別部落出身でもなければ、同和対策事業との一切の接点もなく、ただ、所属している宗教団体の同和担当部門の委員をさせられたという理由だけで、「同和問題」に関与するようになった筆者が、磯村英一ですら困難を覚える「同和対策事業」の全貌を把握して批判的に論ずるなど、本来、可能な世界ではありません。

磯村が指摘しているように、「同和対策事業の実施が、国民の監視の目からはずされ・・・密室の中の行政」として実施されてきた経緯は、門外漢による批判検証をはねつけるに十分な状況にあります。

門外漢が、「同和対策事業」の全貌を知るためには、どれだけの「同和対策事業」を批判検証しなければならないのでしょうか。

磯村英一は、その著『同和問題ハンドブック』の中で、「自民党系の同和対策国会議員団が「地域改善対策研究所」を設置し、そこで全国の地方自治体に要請して事業の実態に報告を求め・・・そのときに同和問題に関連する法律・条例・規則等を分類して」体系的に作成した「表」を取り上げています。

ここにその「表」に掲載されているすべての同和対策事業を再掲載します。

【1.啓発・教育】

(総務庁〔総理府〕関係)
・同和対策協議会の運営経費
・地域改善問題啓発活動経費
  講演会委託
  資料作成
  放送委託
  新聞広告委託
  地域行政関係者研修委託

(法務省関係)
・人権問題処理経費
・啓発活動、人権侵犯事件調査処理費

(文部省関係)
・同和教育研究指定校経費
・同和対策調査指導、研究協議会、団体育成、諸集会開催経費
・研究協議会(学校教育)開催経費
・同和対策集会所施設・設備費
・社会同和教育指導者研修事業
・教育集会所示指導事業
・高等学校等進学奨励費補助
・同和教育推進地域の指定
・通学用品等助成金(高校・高専及び大学)
・大学進学奨励費補助
・同和対策集会所の用地取得費

(その他①)
・高校大学通学用品等助成
・小中学校修学旅行費
・同和教育推進連絡協議会
・同和教育推進員設置事業
・社会同和教育指導者養成講座
・部落史編さん補助事業
・健康休力づくり教室
・青少年会館整備費
・スポーツ振興費(体育大会)
・教育関係団体助成費
・同和教育担当教員給与補助
・民生委員同和研修
・図書館事業費
・学習機器整備補助事業
・教員加配費
・校舎等の整備事業
・学力補充教室事業
・差別戒名等調査補助事業
・学校保健活動
・人権結婚相談事業
・差別事象対策費
・県民センター運営費
・新生活運動補助
・全同対負担金
・政府政党陳情経費
・同和団体等助成金

(その他②)
・人権普及運動費(広報、人権週間等行事、研修会、図書・教材資料の整備提供、協議会)
・高等学校等奨学資金給付・貸与事業
・小中学校等給食費助成事業
・同和教育推進員配置事業
・識字学級
・地域体育振興事業
・教育集会所の建設,管理
・指導者養成
・私立幼稚園教育援助金
・同和奨学資金給付(高等学校・各種学校・大学)
・同和地区生徒進路対策
・進路対策協議会
・関係小中学校助成
・グループ活動
・校外生活指導
・教育用図書整備事業
・婦人学級

【2.民生・福祉】

(厚生省関係)
・隣保館の設置事業
・隣保館運営事業
・トラホーム予防事業
・巡回保健相談指導員事業
・保育所、児童館、母子健康センターの整備事業
・小規模保育所、同和対策特別保育事業
・隣保館用地取得事業
・妊婦健康診査事業
・生活相談員設置事業

(その他①)
・隣保館事業補助
・保育所運営事業等補助金
・児童館整備補助事業
・医寮施設整備補助事業
・栄養改善指導事業
・保健器具整備補助事業
・薬事指導費
・飲食店営業等巡回指導員
・医学生・看護婦等修学助成費
・住民健康実態調査費
・被保護世帯援護費
・社会保険推進費
・母子・寡婦福祉資金
・小遊園地事業
・児童福祉事業
・青少年福祉事業
・婦人対策事業
・老人福祉対策事業
・消費生活協同組合強化育成事業
・消費者啓発事業
・民生関連施設先行取得促進融資事業
・民生関連団体助成費
・地区公共事業

(その他②)
・敬老会事業
・老人(福祉)センター管理事業
・障害療育事業
・保育所等通園支度品支給事業
・集会所の建設管理事業
・生活改善等資金貸付事業
・生活援助資金貸付事業
・出産助成金支給事業
・がん・成人病検診促進事業
・母子栄養、救急薬品支給事業
・集会所の用地取得事業
・集会所指導事業
・児童遊園地建設、改修事業
・同和更正資金貸付事業
・冠婚葬祭用具購入費補助事業
・固定資産税、都市計画税、不動産取得税の減免特別措置

【3.生活・環境】

(厚生省関係)
・共同浴場、下水排水路、共同作業場の設置事業
・共同便所、共同炊事場、共同井戸、ごみ焼却炉、火葬場、基地移転、と畜場移転、し尿貯留槽の整備事業
・地区道路、納骨堂、街灯の整備事業
・大型共同作業場、橋梁の整備事業
・地域し尿処理施設の整備事業
・と畜場汚水処理施設、簡易水道施設の整備事業
・飲料水配管施設の整備事業
・と畜場解体等施設整備費
・共同作業場、大型共同作業場の用地取得事業
・基地移転、納骨堂の用地取得事業
・共同便所、共同炊事洗濯場の削除事業
・火葬場、と畜場の用地取得事業

(建設省関係)
・住宅地区改良事業
・公営住宅建設事業
・住宅改修資金貸付事業
・下水道事業
・街路事業
・小集落地区改良事業
・公園事業
・宅地取得資金貸付事業
・道路事業
・住宅新薬資金貸付事業
・がけ地近接危険住宅移転事業
・既設改良住宅改善事業
・住宅地区改良事業等計画基礎調査事業
・既設公営住宅改善事業
・分譲改良住宅共同施設整備事業
・老朽住宅除却促進事業
・水害危険集落地区改良事業

(自治省関係)
・消防施設等整備事業

(その他①)
・産業廃棄物処理施設整備、運営事業
・粗大ゴミ収集事業

(その他②)
・環境自然保護事業
・共同住宅購入資金
・中古住宅購入資金
・建設業者研修会費
・橋梁架換事業
・河川改修事業
・急便斜地崩壊対策事業
・砂防対策事業
・水洗便所改造工事費
・し尿浄化槽設置費
・駐車場整備費
・住宅敷地整備費
・土地区画整備費
・市町村道路整備費
・交通安全施設整備費
・浸水防除費
・地元協議会の運営費
・消防施設整備補助事業
・危険物取扱者特別講習事業

【4.産業・経済】

(農林水産省関係)
・農林漁業生産基盤整備事業
・農林漁業近代化施設整備事業
・農業基盤整備事業
・漁港改修事業
・農山漁村経営改善資金
・農林業田地特別整備事業
・漁業団地特別整備事業
・民有林林道事業
・造林事業
・食肉流通施設整備事業
・営農等相談事業

(通商産業省関係)
・指導事業
・同和地区産業振興委託事業
・巡回相談事業
・研修事業
・金融指導事業
・海外調査事業
・商品開発事業
・中小企業事業団高度化事業
・見本収集事業
・市場開拓事業
・競合産業事情調査事業
・同和高度化事業調査指導事業
・同和高度化事業対策に係る貸付事業
(中小企業体質強化資金助成制度)
・海外調査事業、商品開発事業、見本収集事業、市場開拓事業を廃止統合した需要開拓事業

(労働省関係)
・同和対策就職促進事業
・職業安定協力員制度
・聴業訓練校
・職業訓練受講奨励事業
・就職資金貸付制度、職業安定協力員制度を解消した職業相談員制度
・雇用奨励金支給制度
・雇用主啓発指導事業
・職業訓練受講支度金事業
・自動車運転訓練補講事業
・同和問題研修推進員事業
・大型・大型特殊等自動車運転訓練助成事業
・職業安定促進講習制度
・同和対兼対象地域雇用促進給付金制度
・雇用奨励金支給制度の廃止による特定求職者雇用開発助成金制度

(その他①)
・営農相談事業
・畜産経営資金
・畜産団地経営指導事業
・造園技術指導事業
・野菜価格安定対策費
・土地改良区管理指導事業
・ほ場整備負担金軽減事業
・農家負債整理資金融通対策費
・農協職員同和研修事業
・林道事業
・治山事業
・営林指導事業
・森林組合等同和研修事業
・漁村振興特別対策費
・内水面養殖事業
・経営(指導)診断事業
・製品販路拡張事業
・商店施設改良促進指導事業
・産地振興対策費
・大型共同作業場・共同作業場の経営指導費
・国際経済変動対策事業
・企業誘致促進対策事業
・商工団体育成事業
・産業労働会館運営整備事業
・新規開業者金融対策事業
・技能・資格等習得補助金(運転免許・整備士・理美容師・各種技能士等資格)
・職業訓訓練費
・労働教育費
・労働衛生環境(排気装置等)改善助成事業
・労働福祉推進員設置費補助
・職場レクリエーション事業
・使用者健康診断補助金
・勤労者自立資金
・雇用保険加入推進事業
.就労実態調査費
・職業訓練調査費
・公害防止施設整備事業

(その他②)
・中小企業資金利子等補給事業
・小規模資金利子補給事業
・小規模資金保証料補填事業
・農器具整備事業

これが、同和対策審議会の委員を歴任し、地域改善対策協議会の会長をされた磯村英一が、「たまたま」入手することができた同和対策「事業総覧」です。磯村でさえ、「たまたま」入手する機会にめぐまれなければ、「同和対策事業」の全貌を把握することは不可能であったということです。国と地方公共団体(県、市町村)によって実施された、一説にいう「33年間15兆円」を費やして実施された「同和対策事業」の全容と、PLAN・DO・SEE(計画・実行・評価)のSEE(評価)という総括を批判検証することは筆者のような門外漢にとっては容易なことではありません。筆者だけでなく、長年、部落解放同盟の運動家として「同和対策事業」に関与してこられた田所蛙治氏のような当事者ですら、「同和対策事業」の全貌を把握し、公正に、その評価を実施することは不可能ではないかと思われます。

磯村英一が指摘するように、一般的に、「同和対策事業の実施が、国民監視の目からはずされ・・・密室の中の行政」として実施されていると認識されている状況を鑑みると、「同和行政」は、「同和対策」「国民的課題」として、「国民」を動員させた責任上、「同和対策事業」「主体」として、「同和対策事業とは何であったのか、その事業はどのような成果をおさめ、どのような問題をあとに残したのか」その総括を、国民が納得できる形で提示する責任と義務があるように思われます。

運動団体による「対県交渉」・「対市交渉」という「大衆団交」(磯村)に屈し、「同和行政」「主体」であるという自覚を放棄し、「無定見に団体の交渉に対応」していった責任は重大なものがあります。磯村英一は、「中央・地方を問わず、行政当事者が、同和問題に対して正しい理解を欠き、対策に熱意を持たなかったことが背景にある」ことを認めざるを得ないといいます。「しかし、国は法律を定め、地方自治体とともに、国民の負担において同和行政を推進」してきた以上、「同和行政」の実態は、やがて「国民に知れわたる」・・・。磯村英一は、「行政の主体性の必要」が認識されない限り、国民に「”逆差別”という意識を生み出す」ことに結果する・・・と、1986年4月15日、今から約20年前にそのように警告していました。

磯村の提言は、「同和行政」「運動団体」に受け入れられることなく、「同和対策事業」は、日本社会に「部落差別」という重い現実を残したまま終焉を迎えてしまったと思われます。

門外漢の筆者には、上記の理由で、「同和対策事業」の全体像を把握、批判検証することはもとより不可能なことです。それでも、『部落学序説』の筆者として、あえて、「同和対策事業」について言及しようと思えば、より具体的な「同和対策事業」を批判検証する以外に方法はありません。そこで、筆者は、山口県新南陽市(最近の市町村合併によって消滅)の「被差別部落」(ごんごちの里)の「ある同和対策事業」を批判(Kritik)することで、「同和対策事業」批判を実践してみたいと思います。

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2006年6月 1日 (木)

「ごんごちの里」の闘い・・・

第2章 同和対策事業とは何か
第3節 「ごんごちの里」の闘い・・・

1988年7月11日と18日発行、『解放新聞』(1379号・1380号)に、「ごんごちの里」で実施されたある同和対策事業に関する特集が掲載されました。

その記事はこのようなことばではじまります。

「同和」向け住宅に建設にともなう、条例改訂の入居規定に、部落民を「特殊な条件下にあるもの」とする差別条例が、山口・新南陽市議会で制定された。事実を知った新南陽支部では、差別条例の改正をもとめるとともに、これまで県、市がおこなってきた、「同和」行政がいかに、いいかげんな中身かを追究する闘いを展開している。今号と次号にわけて、闘いの経過、現状を掲載する」。

そして、最後のことばは、部落解放同盟新南陽支部の書記長・福岡秀章氏の「事業未実地部落の神林村、桐生市の闘いと連動したい」という抱負を紹介して終わっています。その後、西日本の山口県新南陽支部が、東日本の新潟県神林村や群馬県桐生市の未指定地区のひとびとと、どのように「闘い」「連動」させたのかについては、筆者は、非常に関心を持っているのですが、残念ながら何も知りません。「同和問題は解決した・・・」という世の中の声に、被差別部落の側から、「同和問題はまだ解決していない。同和対策事業の継続が必要である。」という訴えが、西日本の被差別部落と東日本の被差別部落を結びつけているように思われます。

新南陽市の「市営住宅差別条例事件」が、『解放新聞』にとりあげられて、全国的に紹介されたのは、1988年5月20日に、「被差別部落」内の隣保館で行われた「第1回糾弾交渉」に端を発します。

その糾弾会は、「市行政から市長、教育長ら15人が出席。解放同盟からは、地元新南陽支部員、中央本部の小森龍邦書記長、中島中執、松浦県連委員長をはじめ、県内各支部、宗教者、教育関係者、マスコミ関係者ら100人が参加した」といわれます。

その当時、筆者は、日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員をしていました。筆者は、新南陽支部の福岡書記長から、その糾弾会に「陪席していい」と許可をもらったので、山口県の諸教会の牧師に、「糾弾会参加」をよびかけました。4~5名に人が牧師が参加してくれました。糾弾会当日は、「市行政」側に座ってもいいし、「部落解放同盟」側に座ってもいい、どちらにすわってもいい・・・いうことなので、筆者は、他の牧師たちにそのように伝えました。筆者を含めて、『解放新聞』が伝えている「宗教者」は、全員、「市行政」側ではなく、「部落解放同盟」側の席に座りました。

「部落解放同盟」側に座ったといっても、「陪席」であることに変わりはないわけですから、「市行政」側と「部落解放同盟」側のやりとりを、「第三者的」に黙って聞いていました。ときどき、会場で手渡された『市営住宅差別条例事件・糾弾要綱(案)』をひもときながら、両者のやりとりに耳を傾けていましたが、「聞くと見るでは大違い」・・・、というわけではありませんが、最初から最後まで、ていねいなことばのやりとりに終始しました。

日本共産党系の運動団体が、糾弾といえば、「水をかけたり暴力をふるい、あげくの果てに・・・土下座させて謝罪させるなど、常軌を逸した」「怒号と暴力」の飛び交う「糾弾会」のイメージをふりまく山口県内で、その片鱗すら感じさせない糾弾会でした。そして、筆者は「あること」に釘付けになってしまいました。

糾弾会は、その後も続けられましたが、当時の新南陽支部の支部長さんは、「差別者は1回は糾弾会に参加するが、2回目以降は参加することない。差別者は、はじめて参加した糾弾会で、糾弾会について、あらかじめ抱いていたイメージを確認することにとどまり、そこから1歩踏み出すことは容易なことではないから・・・」と話しておられましたが、4~5名の牧師は、2度と筆者のさそいにのることはありませんでした。筆