2006年5月 4日 (木)

「同和対策事業」の基本資料

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第1節 「同和対策事業」の基本資料

「同和対策事業」とは何なのか・・・。

1965年8月、同和対策審議会が、「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策についての答申」(『部落解放史 熱と光を 下巻』解放出版社)を出します。その基本方策に基づく具体的な「同和対策事業」は、「同和対策事業特別措置法案、成立」(1969年6月)によって具体化されます。

それ以後、「同和対策事業」が全国展開されていくのですが、「同和対策事業」とは何だったのか・・・、一般の国民は、それほど詳しい情報を提供されているわけではありません。学校同和教育や社会同和教育で提供される情報は、表面的・形式的なものが多く、それだけでは十分に把握することは不可能です。

『部落学序説』の筆者も、被差別部落出身者ではありませんので、「同和対策事業」とその成果を身を持って経験するということはありませんでした。それでも、「同和対策事業」について認識し、その認識に基づいて発言しようと思えば、当然、「間接的」にならざるを得ません。

『部落学序説』は、徳山市立図書館の郷土史料室の資料の複写分と、筆者が収集した市販の書籍を参考資料に執筆されていますが、もちろん、徳山市立図書館だけではありません。山口県立図書館はいうに及ばず、周南地区の公立図書館で資料を探索することの多々ありました。

たとえば、新南陽市に被差別部落の歴史を調べようとして、新南陽市立図書館の郷土史料室だけを調査してよしとするのは不十分です。なぜなら、新南陽市は、同市の被差別部落の住人のことを考慮して、彼らに関する史料を「公開しない」という方針を立てている場合があるからです。つまり、新南陽市の市民は、新南陽市の被差別部落に関する情報について、市の方針で、制限された状況に置かれているのです。

そのような制限を突破するひとつの方法として、新南陽市に周辺の市町村の公立図書館の郷土史料室の蔵書をあたる方法があります。たとえば、徳山市立図書館の郷土史料室では、新南陽市立図書館に閲覧できない史料も簡単に閲覧できます。徳山市は、新南陽市の被差別部落の住人に対して新南陽市ほどに配慮をすることはないということを示しています。

当然、逆の事態も起こります。徳山市立図書館で閲覧できない史料が、新南陽市立図書館で簡単に閲覧できる場合もあります。

「同和対策事業」の主体は、国と地方の行政機関ですから、公立図書館には、意外と、同和対策事業に関する資料が保存されています。

つい最近までそうだったのですが、これが、市町村の大合併によって、それまで独立していた市町村がひとつの市になりますと、当然、同じ施策が実行されることになります。図書館行政も、従来の枠を越えて、標準化されます。すると、徳山市立図書館で閲覧することができた新南陽市の被差別部落に関する文献、新南陽市立図書巻で閲覧できた徳山市の被差別部落に関する文献のいずれも、新しい市・周南市の被差別部落の人々に対する配慮から、閲覧できなくなる可能性があります。

その場合も、周南市の周辺の市町村(山口市・防府市・岩国市・下松市・光市)の図書館で調査すればいいのですが、市町村合併で、山口市・防府市・岩国市・下松市・光市は、周南市と境界を接することになりました。

旧徳山藩の領地は、周南市だけでなく、防府市・下松市・萩市にも及びます。

つまり、被差別部落の歴史研究においては、静かに、グローバル化が進行しているのです。筆者は、地方部落史研究のグローバル化は、関連史料が「閲覧禁止」にならない限り、歓迎すべきものであると思っています。従来の市町村という枠組みでは、被差別部落の歴史を知る上で多々障碍があるのです。

森浩一は、その著『地域学のすすめ 考古学からの提言』の中で、「地域学とは、それぞれの「まとまった空間」のなかの住人(住民ではない。民というと前提としてその対極に政権がちらつく)を主人公として歴史的な展開をみようとするものである。この「まとまった空間」とは・・・歴史的地域といってもよく、生産や政治など人々との日常の活動でおのずからまとまりやすい範囲を考えている。」といいます。

そしてまた、「よくありがちな日本の歴史では、さまざまな地域が果たした役割とか特色が中央にたいしての地方として薄れてしまい、力量感の乏しい歴史になりがちである。地方史では勇気がわかず、その意味では地方史を総合したときに本当の日本歴史が語られるとおもう。」といいます。

一般史だけでなく、部落史についても、皇国史観や唯物史観によるイデオロギー的解釈を、地方史に強引に適用し、その価値基準にあうものだけをとりあげ、その価値基準にそぐわない史料や伝承を「例外」として葬りさるという「演繹的手法」ではなく、「例外」を含めて、地方史の史料・伝承が伝えているものを総合して「帰納的手法」で解明していくことが大切な時代に入っているのではないかとおもわれます。

「地方史」・「地域学」に深い関心を持つ筆者は、「同和対策事業」について言及するときも、部落解放同盟をはじめとする運動団体の事業観に依拠し、それを普遍化するのではなく、地方・地域の具体的な「同和対策事業」の把握からはじめるのをよしとします。

徳山市立図書館をはじめ、各市立図書館で保管されている、また、閲覧できる史料は少なくありません。しかも、市町村議会の議事録や委員会記録まで含めると膨大なものになります。

「同和対策事業」とは何なのか・・・。

その問いを前に、自問自答するときに、筆者が使用する資料は、山口県・山口県教育委員会が発行した『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』です。

その内容は以下の通りです。

はじめに
1.同和地区の概況
2.同和対策事業
3.同和教育
4.同和事業及び同和教育の取扱組織
5.同和事業実績調
6.山口県における同和教育の歩み
附表

この資料は、山口県の公立図書館で閲覧できるもののひとつですが、『部落学序説』の筆者にとっては、「同和対策事業」について、「PLAN・DO・SEE」(計画・実行・評価)を考察する上での基本的な資料になります。

一般市民が、「同和対策事業」について、まじめに批判・検証をくわえることができる資料は、その中に、被差別部落の地名・人名が実名記載されていることで、「差別文書」扱いされるようになると、公立図書館は「閲覧禁止」扱いにして、図書カードで検索できるのに閲覧はできない・・・という事態も起ます。『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』が閲覧できるかどうかは、時の運によります。あるいは、その図書館の部落史あるいは部落問題に関する認識の質の如何によります。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、「同和対策事業」の主体(同和事業及び同和教育の取扱組織)、「同和対策事業」の客体(同和地区の概況)、「同和対策事業」の計画と実行(同和対策事業・同和教育)、「同和対策事業」の評価(同和事業実績調・山口県における同和教育の歩み)、「同和対策事業」(附表、関連の法・手続き・申請書類等)の、「PLAN・DO・SEE」(計画・実行・評価)に耐えるすべての資料を網羅しています。

しかも、『昭和39年8月・・・』というのは、昭和40年8月の同和対策審議会答申が出された、ちょうど1年前になりますから、『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、同対策審議会答申前夜の「同和対策事業」に関する資料ということになります。

『蛙独言』の著者・田所蛙治氏(部落解放同盟・神戸)は、このように綴っています。

「水平社宣言」には「吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。」と書かれています。同盟の、どっから見ても「これぞホンモノの活動家」といった人でも、大概は、その出発時点では「部落と部落民は不幸で惨めで暗いものなのだ」みたいな認識からそう遠くないレベルにあったと思います。奈良の山下さんもその著書の中で、そんな風に言ってたんじゃないかな。 「物心付く頃」から私らは周囲からそのような「思い込み」を持つことを強いられて育ってきたのです。同盟の活動を通して「卑屈なる言葉と怯懦なる行爲」をようやっと克服することができてきた、それが「活動家」なんだろうと思う。で、吉田向学さんがその「部落学序説」で言われる「脱・賤民史観」の主張は実にしっくり入ってくる。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、田所蛙治氏が、「その出発時点では「部落と部落民は不幸で惨めで暗いものなのだ」みたいな認識からそう遠くないレベルにあった・・・」と述懐されている時代の「同和対策事業」を認識するのに最適な資料であるとおもわれます。

地方の資料をもとにして、「同和対策事業」の原点を展望してみましょう。

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2006年5月 5日 (金)

同対審答申前夜の被差別部落の状況

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第2節 同対審答申前夜の被差別部落の状況

同対審答申前夜の被差別部落の状況を、『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』から「懐古」してみましょう。

政府は、その前の年、昭和38年1月1日に、「同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施」します。そして、2年後の昭和40年8月11日に、「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申」(『部落解放史下巻』)します。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、ちょうど、その間の年に発行されたことになります。『山口県同和対策の概要』は、その「全国基礎調査」に触れて、山口県の「被差別部落」について次の数字をあげています。

「県下13市44町村のうち、13市39町に分布し、地区数は158地区で、10360世帯、地区内人口約46000人となっている」。

さらに『概要』は、山口県下の「被差別部落」を「瀬戸内海沿岸の市」と「山間部及び日本海側」に分けて次のように記しています。

「瀬戸内海沿岸の市においては、全般的に混住率は高く集団的な地区形成をし、1市あたりの平均地区人口は2200人となっており、町村においては、1町村あたり702人となっている。又、山間部及び日本海側では、1市あたりの平均地区人口が371人から395人で瀬戸内海沿岸に比べ約半数となっており、小規模の地区のようにうかがえる」。

『概要』の「同和関係地区一覧表」によりますと、「ごんごちの里」のある「南陽町」の「同和地区」の「地区数」3、「世帯数」285、「人口」1161人になります。「ごんごちの里」の「南陽町」を分母とした人口比率は、1161/28386=0.04、つまり、「南陽町」民100人のうち4人が「同和地区住民」ということになります。

また『概要』は、「地区の混住率」に触れ、「市部において高く22%(100人のうち地区外人口22人)を示し、町村においては地区の把握にも関係するが、これを相当下回っているものと考える。」としています。

『概要』は、「同和地区における住宅事情」について、「不良住宅が重なりあい、ひしめきあって建っていることが特徴」であるとし、「その古さと粗末さのために、壁は落ち、瓦は崩れて傾いた家々が密集し、その間には道というよりは狭い路地が迷路のように通っているような地区もなかには見受けられる。いくたびの台風、水害の度に高台に難をのがれ、家は浸かり、瓦ははがれ、軒は傾き、道路も排水路もない、この密集地区に若し火災が発生した場合は一体どうなるのか、考えただけでも暗然とならざるを得ない状態である。」といいます。当時の「ごんごちの里」も、同じ状況にあったようです。

また、「世帯主の就業状況」は「不安定」で、「生活の基盤は非常に脆弱なため、「収入状況もきわめて悪く、それだけに生活程度も低い。・・・エンゲル係数61以上の世帯が65.1%、51~60までが23.3%・・・という状態で、これは現行の生活保護基準の飲食費の割合52%に比べ非常に高い数字を示している。」状況下で、「高校進学率は40%程度であった、山口県平均74%を相当下回っている」と記されています。

『概要』は、「技術指導、経済力の培養、教育の向上こそ急務」であると訴えています。

『概要』当時の「同和地区における住宅事情」を彷彿とさせる「被差別部落」を、今日においても、まのあたりにすることができる場合もあります。いわゆる「未指定地区」の場合、「33年間15兆円」の「同和対策事業」が展開されてきたにもかかわらず、行政が同和地区指定しなかったために、何ら「同和対策事業」がなされないまま今日にいたっている「被差別部落」も存在します。

たとえば、岩国の米軍基地周辺の「被差別部落」がそうです。戦前は日本の軍隊の基地強化によって、戦後はアメリカ軍の基地強化によって、「被差別部落」は、周辺へ周辺へと追いやられ、岩国市が、「同和対策事業」を放棄し、「基地対策事業」を選択したため、岩国基地周辺の「被差別部落」は、「同和対策事業」・「基地対策事業」のいずれの事業の恩恵も受けることなく今日にいたっている例も存在します。個人給付も、日本共産党系の運動団体が、その傘下にある「被差別部落住民」にのみを対象にしたため、その傘下にいなかった他の「被差別部落住民」は、個人給付にすらあずかることができなかったと、当時の岩国市長が歎いていました。

山間部や島部の「被差別部落」を尋ねると、『概要』当時の「被差別部落」の状況を容易に想定させられる「被差別部落」も少なくありません。

『概要』によりますと、山口県は、「本県では部落問題の解決は・・・なし得られる」と確信して、「恵まれない経済条件の向上」・「劣悪な環境を改善」し、「物的な面から生ずる差別思想の原因を除くとともに、同和教育を推進する」ために「同和対策事業」を推進するとしています。

山口県は、「部落問題の解決」の緊急性に鑑み、「戦後10年近くは国においても十分な施策が行われないので、県として独自の施策として昭和29年度において、山口県部落問題対策審議会を設け、この問題について調査研究を進めた。」といいます。

「即ち、昭和27年度以降本年度までの間に環境改善事業を中心に、経済対策、同和教育の推進、同和地区の調査、同和事業の事務委託等を行い、この間3億6千8百万円の同和対策事業を進めてきた・・・。」といいます。

つまり、山口県にあっては、「同和対策事業」は、国の施策に依存することなく、県独自に「同和対策事業」を展開していたのです。山口県は、それと同時に、「同和事業に対する国策樹立と同和関係予算の大幅計画を絶えず国に対して要望してきた・・・」といいます。

それは、やがて、他府県の要望とあいまって、昭和38年の「同和対策審議会が同和地区全国基礎調査を実施」、昭和40年の「同和地区に関する社会的、経済的諸問題を解決するための基本方策について答申」、昭和44年の「同和対策事業特別措置法」に結実していきます。

『蛙独言』で、部落解放同盟・神戸の田所蛙治氏は、「「事業法」は「差別をなくす」ことを直接の目的にするものではありませんでした。「環境改善」や「同和地区住民の主体的力量の涵養を目指した個人給付」など、「差別をなくす」るために有効ではないかと考えられた「条件整備」の施策に過ぎなかった。」といわれますが、山口県の「同和対策事業」の流れをみてきますと、「同和対策事業」は、部落差別解消のための「条件整備」などではなく、「部落問題の解決は・・・なし得られる」と確信のもとに実施されたものです。田所蛙治氏は、「事業法」の立法趣旨を「縮小解釈」する傾向があるようですが、「同和対策事業」の戦後の歴史を考慮するとき、それらの事業は、「部落問題の解決」、つまり、部落差別の完全解消に結果しなければならなかったはずです。

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』は、「物的な面から生ずる差別思想の原因を除く」ことを宣言していますが、ここでいわれている「差別思想」とは何なのでしょうか・・・。『概要』は、「物的な面から生ずる差別思想(同対審答申の「心理的差別」)の原因(「実態的差別」)を除く」ことを主張しています。『山口県同和対策の概要』の強烈な認識「差別思想」に対する主張は、「心理的差別」を結婚差別や就職差別の除去だけでなく、「差別思想」の除去をも含むものであるとおもいます。

「同和対策事業」を、同対審答申前夜を含む戦後の「同和対策事業史」を「大域的」に把握していくときには、戦後の各府県の政府に対する「訴え」によって成立した「同和対策事業」に対して、「33年間15兆円」を費やして実施された「同和対策事業」が、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という悲願を達成できたのかできなかったのかを問うことは、的はずれでも間違いでもありません。

「33年間15兆円という膨大な歳月と費用を注ぎ込みながら、なぜ、部落差別を解決することができなかったのか」という設問は、その事業にあずかることができなかった「未指定地区」の新たな事業のためにも、批判検証を避けて通ることはできないはずです。

この論文は、山口県の被差別部落のひとつ「ごんごちの里」に焦点をあてて、「同和対策事業」に対する批判を展開していきます。

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2006年5月 6日 (土)

同和対策事業の目的、それは差別が昔話になること・・・

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第3節 「同和対策事業の目的、それは差別が昔話になること・・・」

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』には、山口県における「同和地区の現況(一部)」と、「同和事業、同和教育のあらまし」が添付されています。

昭和44年(1969)の「同和対策事業特別措置法」以前と以後において、「同和対策事業」はどのように変化したのかといいますと、「同和対策事業特別措置法」以前は、「関係各省において・・・それぞれの所管行政を通じて」個別に実施されていましたが、以後は、「各省の施策」を集大成して、総合的・包括的に、いわゆる「同和対策事業」として実施されることになります。

『概要』によりますと、「同和対策審議会答申」以前の事業は、2種類あったといいます。「特別事業」と「一般事業」(筆者の用語)です。「特別事業」というのは、「直接的に同和対策事業として、特別の施策を講ずるもの」で、その事業の受益者として、「被差別部落」の人々のみが対象になります。「一般事業」というのは、「間接的同和対策事業として、一般行政のうちで行うもの」で、いわゆる「市民的権利」の保障として行われるものです。

『概要』は、「これらの事業の実施方法としては、モデル地区を設定して各省の施策を総合的に集中して行うものと緊要な事業を個々に実施する方法とがある」といいます。

山口県では、国の「同和対策事業特別措置法」成立を想定しながら、昭和35年(1960)から、「同和対策モデル地区」を設定し、山口県の「被差別部落」の「一部」の地域で、その事業が推進されているのです。

昭和35年 山口市
昭和36年 下松市
昭和37年 宇部市・周東町・田布施町・下松市(継続)
昭和38年 久賀町・宇部市(継続)・周東町(継続)・下松市(継続)
昭和39年 防府市・光市・宇部市(継続)・周東町(継続)・下松市(継続)

また『概要』は、各省毎の個別事業の実施「地区名」をあげています。丸付き数字は、地区名の実名記載をさけるため、筆者がつけた、各市町村の被差別部落の連番です。たとえば、下松市で同和対策事業が実施された地域は、①②③の3箇所という意味です。

【厚生省関係】(昭和31年~昭和38年)

都濃町 ①
徳山市 ①
宇部市 ①・②・③・④・⑤
下松市 ①・②
大和村 ①
防府市 ①
山口市 ①・②・③・④
山陽町 ①
秋芳町 ①
周東町 ①・②・③・④・⑤・⑥・⑦・⑧
田布施町 ①
光市 ①

【農林省関係】(昭和35年~昭和38年)

山口市 ①・②・③
周東町 ⑯・①・⑨・⑩・⑪
宇部市 ①・⑥・③・⑤・②・⑦・⑧
田布施町 ①

【建設省】(昭和34年~昭和38年)

山口市 ①
周東町 ⑫
下松市 ①・③
田布施 ②
宇部市 ③
久賀町 ②
田布施町 ①

【社会福祉関係】(昭和29年~38年)

田布施町 ①
周東町 ⑬・⑭・⑮
宇部市 ①・⑤・③・②・⑤・⑦・④
防府市 ④・⑤・⑥・⑦・⑧・⑨
山口市 ①・②・③
熊毛町 ①
日置村 ①・②
美祢市 ①
下松市 ①・③
徳地町 ①・②
楠木町 ①
徳山市 ①・②
秋芳町 ②・③
久賀町 ①・②
下関市 ①
光市 ①
阿東町 ①・②
豊田町 ①・②
萩市 ①区
豊浦町 ①
大和村 ②
都濃村 ②・③・④
柳井市 ①

【公衆衛生関係】(昭和28年から昭和37年)

美祢市 ①
宇部市 ③・④・⑥・①・⑦・⑤・②
防府市 ⑩・⑥・⑤・④
萩市 ①・②
山陽町 ①
秋芳町 ③・②・①
周東町 ①・⑯・⑩・⑬・⑤・⑭
むつみ村 ①
久賀町 ① ②
南陽町 ①
山口市 ①・③・④
田布施町 ①
徳地町 ③・①・②・④
柳井市 ②・①・③・④
大和村 ①・②
美祢市 ①
下松市 ①・③
熊毛町 ①
福江村 ①
光市 ①・②
豊田町 ③
徳山市 ②

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』によると、山口県は、「昭和27年度以降本年度までの間に環境改善事業を中心に、経済対策、同和教育の推進、同和地区の調査、同和事業の事務委託等を行い、この間3億6千8百万円の同和対策事業を進めてきた・・・。」といいます。

山口県は、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という悲願を掲げて、12年間で、3億6千8百万円の「同和対策事業」をすすめてきたといいますが、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏(部落解放同盟・兵庫)は、「「事業」出発時点で「地区指定」されたのは2000を超えていたと思いますが、平均して一つのムラに年額2億5000万・・・」の同和対策事業がなされたといいます。田所蛙治氏の計算では、ひとつの「被差別部落」のために投与された事業費は、田所蛙治氏がいう「30年間」で、75億円にのぼります。

12年間3億6千8百万円のときに山口県行政が抱いていた、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という高邁な目標が、「33年間15兆円」の一連の「同和対策事業」の中で、なぜか見失われていまい、田所蛙治氏がいう、「「事業法」は「差別をなくす」ことを直接の目的にするものではありませんでした。「環境改善」や「同和地区住民の主体的力量の涵養を目指した個人給付」など、「差別をなくす」るために有効ではないかと考えられた「条件整備」の施策に過ぎなかった・・・。」という事態にどうしておちいったのか・・・、筆者は、疑問に思います。

「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消という高邁な目標は、「33年間15兆円」という「同和対策事業」の全期間に渡って保持され続けなければならなかったのではないでしょうか・・・。

『概要』は、「同和対策事業」を推進しなければならない理由として、戦後の高度経済成長によって、発生した「格差」(経済と消費の成長についてゆけない層はかえって生活が圧迫せられる)の「是正」(環境改善対策・経済政策・同和教育)の必要性を訴えています。

この時代の政治家は、現代の政治家と違って、社会的「格差」を容認することができず、常に「是正」を指向していたと思われます。小泉首相は、格差社会を是認するような発言をしていますが、日本の首相みずから、政治家であることを自己否定しているような発言です。

『概要』の中で、山口県は、「同和対策事業」の目的は、「同和問題をなくすること」であるといいます。「同和問題をなくする」というのは、「差別思想」の除去と、「部落差別」の完全解消を意味します。筆者はこの表現は、非常に大切であると思っています。無くさなければならないのは「同和問題」であって、「同和地区」(被差別部落)ではないということです。『概要』に記された、「同和対策事業」の初心を忘れてしまったとき、山口県の学校同和教育・社会同和教育の中で、「同和地区」があるから差別がある、「同和地区」がなければ差別はなくなるという主張がなされるようになっていったと思われます。

『概要』は、「同和対策事業」によって作り出される「差別なき社会」を、このように綴っています。

「同和地区が
明るい住みよい環境の中で、
安定した職業をもち、
子供たちは毎日元気に学校に通い、
笑顔がいっぱいの町の中で、
差別が昔話になる・・・」

『部落学序説』の筆者である私は、「被差別部落」の人々が「被差別部落」の中に住みながら、「差別が昔話になる」、そのために、「非常民の学としての部落学」を執筆しているのです。

「33年間15兆円」の「同和対策事業」がもたらした現実と、「同和対策事業」が予期していた結果との齟齬、亀裂、破綻は、「同和対策事業」がその途上で大きく変質してしまったからであると推測されます。「33年間15兆円」の「同和対策事業」は、なぜ、「差別が昔話になる・・・」事態を招来させることができなかったのか・・・。

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2006年5月 8日 (月)

同対審答申前夜の「同和教育」の方針

第1章 同和対策審議会答申前夜の同和対策事業
第4節 同対審答申前夜の「同和教育」の方針

『昭和39年8月 山口県同和対策の概要』の中に、昭和39年当時の山口県教育委員会の「同和教育の方針」という文章が掲載されています。

『部落学序説』の筆者は、「同和教育事業」も「同和対策事業」のひとつであると考えています。「同和対策事業」を批判的に検証するためには、「同和教育事業」についても言及せざるを得ません。「同和対策事業」が何を目指して実施されたかは、同対審答申前夜の「同和教育」の方針を検証することで確認することができるのではないかと思います。

筆者は、すべての法解釈に際して、その法を成立せしめた歴史と状況の分析と把握を必要不可欠な作業として認識しています。それらを抜きにして、成立した法(同対審答申や同和対策事業法)を、金科玉条のごとく絶対視することはありません。

国に働きかけて、同対審答申や同和対策事業特別措置法を成立させていった地方行政のひとつである山口県の「同和教育の方針」をてがかりに、「同和教育」の原初の姿をもう一度確認してみましょう。

山口県教委は、「日本国憲法」の「すべての国民は法の下に平等であって・・・政治的、経済的または社会的関係において差別されない」という規定を取り上げることから、「同和教育の方針」(以下『方針』と呼ぶ)を展開していきます。

『方針』は、すべての国民が「差別」されない民主社会を構築するためには、「民主教育」の推進を欠かすことができないといいます。

『方針』が、視野にいれている「差別」は、「部落差別」だけではありません。日本国憲法の条文にあるとおり、「人種、信条、性別、社会的身分、門地、貧富」などによるすべての「差別」を包含します。これらの「差別」は、「現在の社会において最も民主主義と相反し、民主化をはばんでいる」との認識が示されています。『方針』は、これらの差別は「封建遺制の問題」として、「国民生活の中に深くくいこみ、複雑多様な形で差別にしわよせして、ひびに苦しさ、貧しさなどのあらゆる不幸を生み出している・・・」というのですが、そのような「差別」は、「同和地区」住民だけでなく、「全国民の上にのしかかっている」というのです。「人種差別」、「宗教的差別」、「性差別」、「社会的差別」(身分、出身、学歴等による差別)、「貧富による差別」からの「解放」は、「根を一つにする国民共通の課題」であるというのです。

つまり、『方針』は、「部落差別」からの「解放」を、「全国民」が直面している「共通の課題」のひとつとして位置づけ、「われわれはみんな(差別・被差別)で手をにぎりあって、すべての国民が差別から解放されることを目標に、人間として、社会人として、そして国民として、この問題を自分自身の問題として把握することから出発しなくてはならない。」というのです。

筆者は、この言葉は、山口県教育行政の担当者の「巧言令色」ではなく、教育者としての責任感から生まれてきた言葉であると確信しています。

『方針』は、「真の民主的な教育」は、「すべての人びとが差別観念から解放せられるような人間を育成すること」にあると強調しています。『方針』は、「部落差別」だけでなく、他の「人種差別」・「宗教的差別」・「性差別」・「社会的差別」(身分・出身・学歴等による差別)・「貧富による差別」等のすべての「差別を焦点づけた教育」を「同和教育」と呼ぶというのです。

山口県の、同対審答申前夜の「同和教育」は、「同和教育」という「特殊教育」ではなく、本質的にすべてのひとびとを対象にしてなされる「人権教育」であったのです。筆者は、昭和39年の山口県教育委員会の「同和教育の方針」のもっている意味合いは、今日においても、決して色あせてはいないと思うのです。

しかし、同対審答申にもとづいて実施された同和対策事業・同和教育事業で、同対審答申がだされる前夜の山口県の「同和教育」に関する理解は、なしくずしにくずされていったと思われます。山口県の「同和教育」は「同和<教育>」に重点が置かれていたにもかかわらず、「33年間15兆円」の同和対策事業が展開される中で、「同和教育」は「<同和>教育」に重点が置かれるようになっていってしまったからです。

「同和教育」を推進する上で、「同和」に重点を置くか、「教育」に重点を置くかによって、「同和教育」の方向性と内容とは大きく異なってきます。

山口県にあっても、「同和教育」が、「同和」の方に重点が置かれるようになることによって、「同和地区」のこどもと、同じような「差別」的現実(「人種差別」・「宗教的差別」・「性差別」・「社会的差別」(身分・出身・学歴等による差別)・「貧富による差別」等)に身を置いていたこどもとの間に「格差」が生じることを許してしまいます。

もちろん、「同和地区」のひとびとの側からみると、「同和教育」が、「同和」に重点を置くことは当然のことであったと認識されたことはある意味当然であると思われます。

『蛙独言』の著者・田所蛙治氏は、このように語っています。

「明治」から考えても、既に百数十年が経っています。この間にこの国のインフラ整備から取り残されてきたことを「埋め合わせ」したと単純に考えれば「15兆円」などたかが知れた額に過ぎません。15兆を30で割れば、たかだか年間5000億、「明治」以降の百年に均して考えれば年間50億円に過ぎません。 「事業」出発時点で「地区指定」されたのは2000を超えていたと思いますが、平均して一つのムラに年額2億5000万、百年に均せば250万円ということになるでしょう。実際にはそんな単純な計算は意味がないですが、ただ、大した額ではなかったということを言いたいのですね。

「同和教育」が、同対審答申前の山口県の「同和教育」の『方針』とは違って、「同和<教育>」から「<同和>教育」に変質していったとき、教育現場の中に、「逆差別」がもちこまれることになり、そのことが、「公平」をモットーとすべき公教育の現場で著しい「不公平」を演出し、教育現場の荒廃をもたらしていったのではないかと筆者は想定しています。

長年、部落解放運動に携わってこられた田所蛙治氏が、「15兆円」など「たかが知れた額に過ぎません。」「大した額ではなかった」・・・と言い切られるとき、筆者は、田所蛙治氏は、「逆差別」という犠牲すらはらってなされた「同和対策事業」・「同和教育事業」を正当に評価していないのではないか・・・という疑念を持たざるを得ないのです。

「同和教育」が「<同和>教育」に重点を置かれたことで、公教育における「不公平」と「格差」は、解消されるのではなく、かえって、温存されるようになったのではないかと思います。

小泉首相は、歴代の首相とは異なって、「不公平」と「格差」を是認するような政策をとってきました。筆者の目からみると、小泉首相の行政改革は、「改革」でなく、政治的頽廃・跛行行為のような気がします。

『方針』は、「過去の同和教育」を反省し、「同和教育」の刷新をはかろうとします。『方針』は、過去の歴史「理解が浅薄」であり、「差別の認識が皮相」であったため、「同和教育」の現場で、貴重な多くの経験と情報を収集し、そこから「同和教育」のあるべき姿、「正しい目標をつかみながら、それを正しく発展させること」ができなかったといいます。「部落問題の表面ばかりなでまあわし特殊教育として孤立させていた」というのです。『方針』は、「このことを深く反省し学校教育に携わる者も、社会教育に当たる者も、等しく現代社会の実態を的確に把握して、民主主義の立場から同和教育を強力に推進しなければならない」といいます。

『方針』は、「目的を正しくとらえ、具体的、継続的な指導計画によって実践するならば、この国民的課題は必ず教育の力で解決できる」といいます。

「33年間15兆円」という時間と経費を注いで実施された同和対策事業・同和教育事業は、「部落差別」をはじめさまざまな差別の「解決」をみないまま、打ち切られてしまったということについて、どのような理由があたのでしょうか・・・。国に、「同対審答申」・「同和対策事業特別措置法」を成立させた地方行政の「初志」が、いつ、どのように、変質させられてしまたのでしょうか・・・。

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