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2006年6月 1日 (木)

「ごんごちの里」の闘い・・・

第2章 同和対策事業とは何か
第3節 「ごんごちの里」の闘い・・・

1988年7月11日と18日発行、『解放新聞』(1379号・1380号)に、「ごんごちの里」で実施されたある同和対策事業に関する特集が掲載されました。

その記事はこのようなことばではじまります。

「同和」向け住宅に建設にともなう、条例改訂の入居規定に、部落民を「特殊な条件下にあるもの」とする差別条例が、山口・新南陽市議会で制定された。事実を知った新南陽支部では、差別条例の改正をもとめるとともに、これまで県、市がおこなってきた、「同和」行政がいかに、いいかげんな中身かを追究する闘いを展開している。今号と次号にわけて、闘いの経過、現状を掲載する」。

そして、最後のことばは、部落解放同盟新南陽支部の書記長・福岡秀章氏の「事業未実地部落の神林村、桐生市の闘いと連動したい」という抱負を紹介して終わっています。その後、西日本の山口県新南陽支部が、東日本の新潟県神林村や群馬県桐生市の未指定地区のひとびとと、どのように「闘い」「連動」させたのかについては、筆者は、非常に関心を持っているのですが、残念ながら何も知りません。「同和問題は解決した・・・」という世の中の声に、被差別部落の側から、「同和問題はまだ解決していない。同和対策事業の継続が必要である。」という訴えが、西日本の被差別部落と東日本の被差別部落を結びつけているように思われます。

新南陽市の「市営住宅差別条例事件」が、『解放新聞』にとりあげられて、全国的に紹介されたのは、1988年5月20日に、「被差別部落」内の隣保館で行われた「第1回糾弾交渉」に端を発します。

その糾弾会は、「市行政から市長、教育長ら15人が出席。解放同盟からは、地元新南陽支部員、中央本部の小森龍邦書記長、中島中執、松浦県連委員長をはじめ、県内各支部、宗教者、教育関係者、マスコミ関係者ら100人が参加した」といわれます。

その当時、筆者は、日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員をしていました。筆者は、新南陽支部の福岡書記長から、その糾弾会に「陪席していい」と許可をもらったので、山口県の諸教会の牧師に、「糾弾会参加」をよびかけました。4~5名に人が牧師が参加してくれました。糾弾会当日は、「市行政」側に座ってもいいし、「部落解放同盟」側に座ってもいい、どちらにすわってもいい・・・いうことなので、筆者は、他の牧師たちにそのように伝えました。筆者を含めて、『解放新聞』が伝えている「宗教者」は、全員、「市行政」側ではなく、「部落解放同盟」側の席に座りました。

「部落解放同盟」側に座ったといっても、「陪席」であることに変わりはないわけですから、「市行政」側と「部落解放同盟」側のやりとりを、「第三者的」に黙って聞いていました。ときどき、会場で手渡された『市営住宅差別条例事件・糾弾要綱(案)』をひもときながら、両者のやりとりに耳を傾けていましたが、「聞くと見るでは大違い」・・・、というわけではありませんが、最初から最後まで、ていねいなことばのやりとりに終始しました。

日本共産党系の運動団体が、糾弾といえば、「水をかけたり暴力をふるい、あげくの果てに・・・土下座させて謝罪させるなど、常軌を逸した」「怒号と暴力」の飛び交う「糾弾会」のイメージをふりまく山口県内で、その片鱗すら感じさせない糾弾会でした。そして、筆者は「あること」に釘付けになってしまいました。

糾弾会は、その後も続けられましたが、当時の新南陽支部の支部長さんは、「差別者は1回は糾弾会に参加するが、2回目以降は参加することない。差別者は、はじめて参加した糾弾会で、糾弾会について、あらかじめ抱いていたイメージを確認することにとどまり、そこから1歩踏み出すことは容易なことではないから・・・」と話しておられましたが、4~5名の牧師は、2度と筆者のさそいにのることはありませんでした。筆者のさそいで、その糾弾会に参加した4~5名の牧師は、そのあと、筆者を「疎外・排除」するようになりましたので、同じ「糾弾会」に、同じ「陪席」で出ていても、その受け止めかたは多種多様であったように思われます。

しかし、筆者と他の牧師との違いというのは、そんなに違いがあるわけではありません。筆者の場合も、もしかしたら、他の牧師と同じように、1回だけ糾弾会に出て、あとは2度とでない可能性も多分にあったわけです。それが、筆者は、2回目以降もかかわり、他の牧師は、2度とかかわることはなかった分岐点は、「あること」に注目したかしなかったかにあると思っています。

もう19年も前の話ですから、「あること」を正確に思い出すことは、非常に難しいと思われますが、記憶と資料を手がかりに考え直してみたいと思います。

部落解放同盟新南陽支部が発行した冊子に『解放学級参加者のための資料(第1集)』というのがありますが、この冊子は、被差別部落出身者ではなく一般のひとが、被差別部落の中で行われる「解放学級」に参加するための資料として作成されたものです。

以前にも紹介したことがありますが、その冒頭の文章は、部落解放同盟新南陽支部員・福岡五月さんの『部落に生きて』という文章です。新南陽市の社会同和教育の集会において講演の原稿を収録したものですが、福岡五月さんはこのように語っています。

「新南陽市には、いくつかの被差別部落があります。ひとつは、22年前、新南陽市の前身である南陽町が作った「北部落」。ひとつは、私が住んでいる、1600年代からある「南部落」。また、あるひとつは、「南部落」から一部を移転させて、作った「東部落」です。そして最後のひとつは、江戸時代からある部落ですけれども、今現在は公共事業によって消されてしまった「西部落」です。現在、地区指定を受けているのは、その消された「西部落」を除く3地区です。

その中で、最初に言った「北部落」は、まったくの一般地区で、歴史的にみても被差別部落ではありません。たかだか、道路1本直したいために市行政が作った部落です。そこに住む人々は、自分達が新南陽市の被差別部落に住んでいるとは夢にも思っていません。

(中略)

全国的に実施された同和対策事業は、部落差別をなくすために、その原点である部落の生活実態を改善することを目的としており、それは緊急かつ焦眉のこととして行政がやらねばならない事業です。ですから、国も同和対策事業と言えば、補助金を一般事業に2倍も出すのです。借金も簡単にできるように配慮しています。

市で行われた事業の中には、この補助金に誘惑されて、本来の目的を忘れてしまった事業がたくさんあります。

地区指定ひとつをとっても、補助金がほしいために新たな部落(「北部落」)をひとつつくりましたし、私の住んでいる「南部落」ももともとの地区面積より、ひとまわり大きい地区指定がされています。ですから、指定された地区の中には、隣の一般地区の自治会長も住んでいるのです。

地区指定をあまくみてはいけません。『地名総鑑』という本をみなさんは知っているでしょうか。日本全国の被差別部落名が網羅されていて、興信所や企業がそれを購入して問題となった本です。新南陽市にもこの本を購入した企業がありました。この本はどうも、行政機関から流された資料をもとに作られたようなんです。ということはですね、もともとは部落ではない、新南陽市がかってに指定した部落名も載っている可能性があるんですね。この本はかなり回収されましたけれども、まだまだコピーがでまわっております。根絶やしにできておりません。

差別されても誇りある部落民であるという自覚を持てば、それに負けることはないと思うんです。でも、住民は部落ではない、まして部落として差別されてきた歴史を持たない地域が、ある日、突然、その人たちの知らないところで、部落にされてしまっているんです。

そのような無茶なことを平気でする新南陽市とはいったいどういう町なのでしょうか・・・」。

そして、福岡五月さんはこのように訴えます。

「部落差別というのは、私たち市民が、すべて引き裂かれているという現実です。自らが差別によって引き裂かれていることに、怒り、悲しみ、真心を込めて、差別は解決したいとは思わないでしょうか。差別が起こる・・・、差別をなくそうとしてもそれが起こってしまうのは、仕方がないのも事実です。しかし、差別が起こってしまったとき、行政も市民も、その事件を解決する能力がないという、それがくやしいんです」。

これだけ長い引用をすると、「著作権」侵害につながりますが、筆者は、この『部落学序説』執筆に際して、部落解放同盟新南陽支部の方から、包括的に、引用することの承諾を得ています(ただ、新南陽市の4箇所の被差別部落については、実名記載をさけ、「東部落」・「西部落」・「南部落」・「北部落」と相対座標で表示しています。もう一度、実名記載を要求された場合は、この文章についてのみ実名記載に踏み切ります)。

1988年5月20日の「第1回糾弾交渉」の際、新南陽支部書記長の福岡秀章氏は、このように、市行政に訴えていました。

「「北部落」の同和地区指定を即刻解いて、その住民にことの次第を説明して謝罪するとともに、被差別部落ではない一般地区を同和地区指定して、国から騙しとった同和対策事業費を即刻返還すべきである」。

筆者は、糾弾会に陪席して、はじめて、部落差別問題の「深い淵」を見る思いをしました。また、「同和対策事業」の「深い闇」をも見る思いがしました。「同和行政」が音を立てて崩れはじめている・・・。それを崩しているのは、「同和対策事業」「主体」である「同和行政」そのものだと・・・。

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「被差別部落」概念と「同和地区」概念の亀裂

第2章 同和対策事業とは何か
第4節 「被差別部落」概念と「同和地区」概念の亀裂

前説で、山口県新南陽市の「被差別部落」の人々が、市内の「被差別部落」をどのように受けとめていたのか、その住人のことばを引用しながら紹介しました。

「被差別部落」という概念は、「同和地区」の指定がされた地域と、未だ「同和地区」の指定がされていない地域の包括概念・上位概念として使用されていました。

具体的に言えば、「被差別部落」とは、「同和地区」指定がなされている「北部落」・「南部落」・「東部落」と、「同和地区」指定がなされていない「西部落」を含んでいました。

その4ヶ所の「被差別部落」のうち、近世幕藩体制下の「徳山藩」の山陽道沿の「穢多村」の流れをくむのは、筆者が「ごんごちの里」といっている、部落解放同盟新南陽支部のある「被差別部落」・「南部落」と、国鉄・新南陽駅の操車場建設によって、解体されて、「被差別部落」住民が離散していった「西部落」の2ヶ所です。

あとの2ヶ所、「北部落」と「東部落」は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出された以降に、その当時の「行政」によって作られた「被差別部落」です。

新南陽市においては、「被差別部落」は、近世幕藩体制下の「封建遺制」として「残存」している「被差別部落」だけでなく、「昭和」という現代の一時期に、新しく創設された「被差別部落」を含んでいたのです。

筆者は、この話を、新南陽市の「被差別部落」の中にある隣保館で開かれていた「解放学級」で耳にしたとき、大きな衝撃を受けました。ひとつは、「被差別部落」は、過去の固定された地域にとどまらず、今もなお、新たに作り出されている地域であるということに対して・・・。もうひとつは、新たに作り出される「被差別部落」は、住民・市民に対して秘密裏に行われているということに対して・・・。

近世幕藩体制下の「穢多」の在所から切り離されて、その歴史と無関係に作りだされた2ヶ所の「被差別部落」は、時間的には、「東部落」は、戦前に作られ、「北部落」は、戦後において新たにつくられているといわれます。

「東部落」は、戦前の「融和事業」によって、「部落差別」を解消するための行政的施策によって新しくつくられたもので、「北部落」は、戦後の「同和事業」によって、「部落差別」を解消するための行政的施策によって新しくつくられたものです。戦前の「融和事業」も戦後の「同和事業」も、「部落差別」の解消を唱えつつ、「部落差別完全解消」ではなく、「部落差別拡大再生産」に帰結している・・・のです。

筆者は、1988年5月20日に、被差別部落」内の隣保館で行われた「第1回糾弾交渉」に陪席させてもらって耳にしたこの話に、驚きの思いを持たざるを得ませんでした。新南陽市の「市営住宅差別条例事件」に対する「糾弾会」の席上、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、このことについても、鋭く、新南陽市「同和行政」を厳しく批判していたのです。

そして、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、このような意味のことを抗議していたのです。

「新南陽市「同和行政」によって、行政の都合で同和地区指定された「北部落」の住民は、自分たちの、昔から「被差別部落」ではない「在所」が、いつのまにか「被差別部落」扱いされていることについて何も知らない。

最近、その住人の子弟は、就職に際しても、結婚に際しても、うまくいかない。就職試験は決まらず、結婚話はなぜかうまくいかない・・・。なぜなのだろう・・・、彼らは考えても、その理由が分からない。「同和地区」指定されたが故の「被差別」のなせるわざであるとは夢にも考えていない。

新南陽市の「同和行政」は、市民のひとりでも部落差別を受けることがないように、施策をとらなければならないはず・・・。しかし、その「同和行政」が、ある市民を「被差別」の奈落の陥れるような施策をして許されるのだろうか・・・。

私たちは、「部落」に住む住人がひとりも差別されない社会をつくるために部落解放運動に参加している。「部落差別」を受けることの厳しさとつらさを知っているが故に、歴史的にも地域的にも、「部落」でない人々が「部落」として新たに差別されるようになることを黙って見過ごすことはできない。即刻、「北部落」の「同和地区」の指定を解除し、その住民に、ことの子細を説明して謝罪すべきである・・・。

「同和対策事業」の「主体」である新南陽市「同和行政」が、不正行為によって、国の同和対策資金を窃取することは、真正な「同和対策事業」に対する誤解をも引き起こしかねない。新南陽市「同和行政」は、国から窃取した同和対策資金を国に返還し、「同和対策事業」の原点に立ち戻り、「被差別部落」出身であろうとなかろうと、誰一人、「部落」ということばをもって、差別されることのない社会を作るべきだ・・・」。

筆者は、はじめて、門外漢として陪席を許された、その「糾弾会」において、部落解放同盟新南陽支部のひとびとが、新南陽市「同和行政」に対して、「同和対策事業」のあるべき姿を、冷静かつ理論的に説得している姿を見て、彼らが展開している「部落解放運動」は、「「被差別部落」出身であろうとなかろうと、誰一人、「部落」ということばをもって、差別されることのない社会を作る」営みであると認識するにいたったのです。

一般的には、「部落差別問題・同和問題については触れない方がいい・・・」、「寝た子を起こすな・・・」といわれますが、「部落差別問題・同和問題」を避けて通るということは、山口県の「同和行政」によって、歴史的にも地理的にも「被差別部落」ではない地域が「同和地区」指定され、その住民は「同和地区住民」にされる・・・、そのような「不正行為」・「不法行為」があっても、それに目を塞いで生きろ・・・、ということを意味します。一般の側からも、「「被差別部落」出身であろうとなかろうと、誰一人、「部落」ということばをもって、差別されること」を許さないと訴えることが必要なのではないか・・・。そう思ったことが、筆者をして、部落解放同盟新南陽支部との交流を「継続」させることになりました。

筆者が、部落解放同盟新南陽支部のひとびとを、「尊敬」の思いをもって接するようになったのは、部落解放同盟新南陽支部の人々の運動の姿勢によります。筆者の、部落差別問題との取り組みは、「「主体なき同一化」を特徴とする随伴者」(藤田敬一著『同和こわい考』)のそれではなく、田所蛙治氏がいう「「同盟の運動に寄り添う」ようなことを発想の原点に持っている」日本基督教団の牧師・信徒とは異なるスタンスで「部落問題」と取り組んでいるのです。

筆者のさそいで、その糾弾会に一緒に陪席した、日本基督教団西中国教区の牧師たちは、「部落解放同盟新南陽支部の話はにわかには信じ難い。国や地方行政が、新たに被差別部落を作っていってるなんて、何かの誤解ではないか・・・」との感想をもっておられました。彼らは、再び、糾弾会に陪席することはありませんでした。

藤田敬一氏がいう、「部落問題の真の解決と人間解放を求める人びとの「共感と連帯」に支えられた共同の営みとしての部落解放運動・・・」(前掲書)、「両側から越える・・・」営みの行き着いた先が、筆者の『部落学序説』の長文です。

「新南陽市・市営住宅差別条例事件」糾弾会・・・。その3年後、藤田敬一氏も「差別-被差別の現在を凝視する」という論文を掲載されている『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社)の中で、神戸生まれの「部落民」、「血統的にはサラブレッドのような「賤民の後裔」」を自称する灘本昌久は、「新南陽市・市営住宅差別条例事件」糾弾・・・を、硬直化した、表面的・形式的で貧困な発想のもと、「運動史上の汚点のひとつ」と断罪して切って捨てています。灘本は、その書に収録された対談の中で、「なんでぼくは運動をしてるのかなぁ・・・」とつぶやいていますが、その論文の中では、こうも語ります。「あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。したがって、部落を部落として取り出されること自体を不快に感じる。どんな部落の呼称を生み出しても不快であることには変わりはない・・・」

灘本昌久は、筆者にとって、最も遠い「部落民」でしかないように思わされます・・・。

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